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第十七章 友達だった夜

 夜が近づくほど、小春市は見慣れた町ではなくなっていった。


 駅の電光掲示板は、相変わらず遅延の文字を出し続けている。来るはずの電車はホームの手前で止まったまま、乗客たちはそれを見ているのに、誰も本当に見てはいない。旧駅前商店街では、何年も閉まっていたはずの写真館に灯りがつき、シャッターの下りた駄菓子屋の奥から、子どもの笑い声のようなものが漏れていた。


 楓川緑道では、同じ橋へ戻ってくる人が増えていた。


 けれど、誰もそれを怪異とは呼ばない。


 疲れている。


 道を間違えた。


 地図アプリの不具合。


 白狐火災の噂で、町が少し変に見えているだけ。


 小春市の人々は、そうやって異変を日常の中へ押し込めていく。


 押し込めきれないものだけが、夜に滲んでいた。


 輝たちのマンションのリビングも、いつもより静かだった。


 テーブルの上には、葉月神社で写した弓矢の記録、楓祭りの資料、武が集めた町の異変メモ、悠樹が整理した町の地図が広げられている。小春神社、楓川緑道、旧駅前商店街、新小春モール、小春西高校、葉月神社。それぞれを結ぶように、赤いペンで線が引かれていた。


 椛はソファーの端に座り、楓と手をつないでいる。


 椛の顔色はまだよくない。町が神隠しの器へ変わり始めたことで、土地神だった彼女にはその痛みが届いている。時折、胸を押さえ、窓の外を見る。外から聞こえるはずのない祭囃子に、肩を震わせることもあった。


 楓は椛の隣で、怒った顔をしていた。


 誰に怒っているのかは、たぶん本人にも整理できていない。


 琥珀に。


 玲に。


 人間に。


 町を忘れたすべてに。


 そして、椛がまた自分を差し出しそうになることに。


 悠樹は資料を見つめながら、静かに言った。


「今夜、楓川緑道には近づかない方がいい」


 輝が顔を上げる。


「玲の夜か」


「可能性が高い。川沿いの道が巡回路化している。未空さんが道を見つけてくれたから戻れたが、次も同じように抜けられるとは限らない」


 武がノートを閉じた。


「掲示板でも増えてる。『同じ橋に戻った』って投稿。あと、夜に川沿い歩いてたら月がついてくるって話も」


「月がついてくる?」


 綾乃が眉をひそめる。


「うん。普通の意味じゃなくて、どこを歩いても川面に同じ月が映ってるって。曲がっても、橋を渡っても、ずっと同じ角度で」


 未空は黙っていた。


 彼女は窓の外を見ている。


 楓川の方角。


 大きすぎる月が、薄い雲の向こうに浮かんでいた。


 その月を見るたび、未空の胸は痛む。


 玲。


 月代玲。


 月夜霊尊。


 友達だった人。


 自分を傷つけた人。


 夜の神。


 琥珀の側へ行った存在。


 でも、完全に冷たくはなれなかった存在。


「未空」


 綾乃が声をかけた。


 未空は振り向く。


「何」


「何か考えてるでしょ」


「うん」


「嫌な予感しかしないから、先に言って」


 未空は少しだけ黙った。


 綾乃は腕を組む。


「黙るってことは、だいたい危ないこと考えてる時よ」


「玲と話してくる」


 その一言で、部屋の空気が止まった。


 輝が立ち上がる。


「今から?」


「うん」


「楓川緑道に?」


「うん」


「一人で?」


「うん」


「駄目だろ」


 輝の声は即座だった。


 悠樹も厳しい顔になる。


「危険すぎる。昨夜も君は夜の神域に閉じ込められた。今は町全体が異界化している。玲さんは琥珀さんの計画に協力している。普通に考えれば、行かせられない」


「普通に考えたら、そう」


 未空は頷いた。


「でも、これは、あたしが行かないといけない」


 綾乃が未空の手を掴んだ。


「じゃあ、アタシも行く」


「だめ」


「何でよ」


「綾乃がいると、あたしは綾乃の方を見る」


 未空の声は静かだった。


 だが、その中に強いものがあった。


「玲を見なきゃいけない。玲が何を隠してるのか。何を壊そうとしてるのか。何をまだ残してるのか。あたしが見ないといけない」


「未空は、もう十分傷ついたでしょ」


 綾乃の声が少し震えた。


「また行って、またひどいこと言われたらどうするの」


「痛いと思う」


「だったら」


「でも、聞かないままの方が痛い」


 綾乃は言葉を詰まらせた。


 未空は、綾乃の手をそっと握り返す。


「あの時、玲は嘘だったって言い切らなかった」


「でも、そう思えばいいって言った」


「うん」


「あれ、ひどい言い方だった」


「うん」


「だから、アタシはまだ怒ってる」


「うん」


 未空は頷いた。


「怒ってくれて、嬉しかった」


 綾乃の目が少し潤んだ。


「未空」


「でも、あたしも怒りたい。泣きたいかもしれないし、もう一回傷つくかもしれない。でも、玲に聞きたい」


 未空は窓の外の月を見た。


「本当に全部嘘だったのか」


 誰もすぐには言葉を返せなかった。


 椛が、うさぎのぬいぐるみを抱きしめながら言う。


「未空お姉ちゃん、行くの?」


「うん」


「こわい?」


「こわい」


 未空は正直に答えた。


「でも、行く」


 楓が未空を見た。


「見える人、無理してる」


「してる」


「それでも行くの?」


「うん」


「何で」


 未空は少し考えた。


 それから、短く答える。


「友達だったから」


 その言葉に、椛が目を伏せた。


 楓も黙った。


 輝は、胸の奥が強く鳴るのを感じた。


 友達だった。


 その時間を、なかったことにしたくない。


 それは、椛の名前を呼び続けることと似ているのかもしれない。


 町が忘れたからといって、椛がいなかったことにはならない。


 玲が裏切ったからといって、一緒に帰った夜がなかったことにはならない。


 輝は、ようやくそのつながりに触れかけていた。


「星川さん」


 輝は言った。


「オレたちは?」


「近くまで来ないで」


「近くまで、か」


「緑道に入ったら、たぶん道がずれる。みんなが迷うと困る」


「じゃあ、入り口までは?」


 未空は少しだけ考えた。


「いい」


 綾乃がすぐに言う。


「入口まで行く。そこから先は、未空が戻るまで待つ」


「綾乃」


「一人で行かせるのは認める。でも、帰ってくる場所くらい用意させて」


 未空は、少しだけ目を伏せた。


「うん」


 悠樹が立ち上がる。


「連絡は常に開いておく。もし通話が切れたら、僕たちは緑道へ入る」


「入らないで」


「状況次第だ」


「悠樹くん」


「君が一人で行くことを認める代わりに、こちらにも判断する権利は残す」


 未空はしばらく悠樹を見ていた。


 そして、小さく頷く。


「わかった」


 武は鞄を掴んだ。


「ボクも行く。走れるから、何かあったら連絡役になる」


 綾乃が武を見る。


「今日は、面白がってないわね」


「面白いって言ったら、たぶん自分で自分を嫌いになる」


 武は苦笑した。


「月代さんは怖い。でも、未空さんがまた一人で傷つくのを見る方が嫌だ」


 未空は武を見た。


「ありがとう」


 武は少しだけ照れたように笑った。


「どういたしまして。たぶん、ボクにできるのは走ることくらいだけど」


「それ、けっこう大事」


「未空さんに褒められた」


「褒めた」


「本当に褒めた!」


 こんな状況なのに、武は少し嬉しそうだった。


 綾乃が呆れたように言う。


「喜ぶのは後にしなさい」


「はい」


 そのやり取りで、ほんの少しだけ空気が緩んだ。


 けれど、長くは続かない。


 窓の外の月が、さらに大きく見えた。


 楓川緑道へ向かう道は、いつもより暗かった。


 街灯は点いている。


 住宅の窓にも明かりはある。


 それなのに、道の隙間に夜が溜まっているようだった。


 輝たちは、未空を中心に歩いた。


 輝、悠樹、綾乃、武。


 そして少し離れて、椛と楓は部屋で待っている。


 椛は最後まで未空の手を握っていた。


「帰ってきてね」


 椛はそう言った。


 未空は頷いた。


「帰る」


 楓は腕を組んで言った。


「玲に言いたいこと言って、帰ってきて」


「うん」


「負けたらだめ」


「戦わない」


「でも、負けたらだめ」


 未空は少しだけ目元を緩めた。


「わかった」


 その言葉を胸に、未空は歩いていた。


 楓川緑道の入口に着くと、空気が変わった。


 昼間は散歩や自転車の人が通る普通の道だ。


 けれど、今は違う。


 川沿いに並ぶ街灯は白く光っているのに、その光が地面まで届いていない。道はまっすぐ伸びているはずなのに、少し先で闇に曲がっているように見える。川面には、大きすぎる月が映っていた。


 未空は立ち止まった。


「ここから先、一人で行く」


 綾乃が唇を噛む。


「本当に?」


「うん」


「戻ってこなかったら、怒るから」


「うん」


「玲にも怒るから」


「うん」


「帰ってきたら、あんたにも怒るから」


 未空は少しだけ首を傾げる。


「あたしにも?」


「心配かけた分」


「わかった」


 綾乃は未空を抱きしめた。


 強く。


 未空は一瞬だけ固まったが、すぐにその背中へ手を回した。


「行ってくる」


「行ってらっしゃい。絶対帰ってきなさい」


「うん」


 輝は未空に向かって言った。


「星川さん」


「何」


「玲に会ったら、言ってくれ」


「何を」


「オレたちは、未空を傷つけたことを許したわけじゃないって」


 未空は少しだけ瞬きをした。


「うん」


「でも、玲がまだ戻れるなら、戻ってこいって」


「それは、あたしが決める」


「そっか」


 輝は少しだけ笑った。


「だよな」


 未空は頷く。


 そして、楓川緑道へ一歩踏み出した。


 その瞬間、背後の音が遠ざかった。


 綾乃の息遣い。


 輝の足音。


 武が落ち着かなく動く気配。


 悠樹がスマートフォンを握る音。


 全部が、水の向こうに沈んだように遠くなる。


 未空は振り返らなかった。


 振り返ると、戻りたくなる。


 だから、前を向いた。


 夜の楓川は、すでに普通の道ではなかった。


 街灯は並んでいる。


 ベンチもある。


 植え込みも、橋も、川の柵もある。


 けれど、それらは何度も繰り返されていた。


 同じ街灯。


 同じベンチ。


 同じ橋。


 歩いているはずなのに、景色が進まない。


 月だけが、ずっと川面に映っている。


 大きな月。


 白すぎる月。


 未空が歩くたび、水面の月も同じ歩幅でついてくる。


 玲の夜だ。


 未空にはわかる。


 月夜霊尊の夜。


 人間が眠る前に戸を閉め、外を恐れ、月を見上げて名前をつけようとした夜。


 その夜が、楓川緑道に重なっている。


 普通の人間なら、同じ場所を回り続けるだけだろう。


 けれど未空には、夜の継ぎ目が見えた。


 街灯の下に薄い黒い糸がある。


 橋の影が少しずれている。


 川面の月に、髪の長い少女の影が映る。


 未空は、その影を追った。


 何度か道が戻った。


 同じベンチの前を通った。


 それでも、未空は立ち止まらなかった。


 やがて、川沿いの開けた場所に出た。


 以前、玲と二人で座ったベンチがある場所だった。


 そこに、玲が立っていた。


 月代玲。


 制服姿。


 長い黒髪。


 月明かりを受けて、髪の縁が銀色に光っている。


 でも、もう完全に人間の少女には見えなかった。


 足元の影は深く、川面まで広がっている。影の中には、星のない夜が沈んでいた。玲の背後には月がある。空の月と川面の月、その両方を背負って立っているようだった。


「来ると思った」


 玲が言った。


 声は冷たい。


 でも、未空には、その奥にわずかな揺れが見えた。


「来た」


 未空は答える。


「戻れ」


「嫌」


「ここはもう、人間が歩く道ではない」


「知ってる」


「なら、なぜ来た」


 未空は、玲を見た。


「聞きたいことがあるから」


「前に答えたはずだ」


「答えてない」


 玲の目が少しだけ細くなる。


 未空は一歩進む。


「本当に、全部嘘だったの?」


 風が止まった。


 川の音が遠くなる。


 月だけが、ひどく明るい。


 玲は未空を見た。


 その問いが来ることを知っていたはずなのに、答えはすぐには出なかった。


 冷たく言えばいい。


 嘘だった。


 都合がよかっただけだ。


 そう言えば、未空はきっと傷つく。


 傷つけば、もう近づいてこない。


 玲は人間の側へ戻らなくて済む。


 そうするべきだ。


 そう決めたはずだった。


 けれど、言葉が喉で止まる。


 並んで帰った道が、頭をよぎった。


 放課後の廊下。


 図書室の窓際。


 楓川の水面。


 未空が「見えるだけで、わかるわけじゃない」とこぼした夜。


 玲が「見えるだけでも、見えない者よりは近い」と言ったこと。


 ベンチに並んで座り、何も話さなかった時間。


 沈黙が、苦ではなかった。


 あれは都合だったのか。


 ただの監視だったのか。


 玲は答えを知っている。


 知っているからこそ、言えなかった。


「答える必要はない」


 玲は言った。


 未空は首を横に振る。


「それは答えじゃない」


「君は、傷つきたいのか」


「違う」


「なら、戻れ」


「戻らない」


 玲の影が揺れる。


「未空」


 名前を呼ばれた。


 未空の胸が痛む。


 玲の声で名前を呼ばれることが、まだこんなに痛い。


 それが悔しかった。


「玲」


 未空も呼び返した。


 玲の表情がわずかに動く。


「その名で呼ぶな」


「どうして」


「それは人間の名だ」


「でも、あたしが知ってるのは玲」


「月代玲は、仮の名だ」


「それでも、玲は玲」


 未空の声は震えていなかった。


「椛は椛。楓は楓。玲も、玲」


「同じにするな」


「同じじゃない。でも、名前を呼ばれた時間は、消えない」


 玲は黙った。


 未空はさらに一歩近づく。


 夜の影が足元に絡む。


 冷たい。


 それでも、未空は進んだ。


「忘れるかどうかなんて、今のあたしにはわからない」


 玲の瞳が揺れる。


「十年後も覚えてるとか、百年後も忘れないとか、そんなこと言えない。人間は変わるって言われたら、たぶん否定できない。あたしだって変わるかもしれない。忘れるかもしれない」


 未空は、胸元で手を握った。


 正直に言う。


 きれいな約束ではなく、今ある言葉だけを。


「でも、玲と一緒に帰ったことまで、なかったことにはしたくない」


 玲の息が止まったように見えた。


 未空は続ける。


「図書室で隣に座ったこと。川沿いを黙って歩いたこと。月を見たこと。玲があたしの話を急かさなかったこと。あたしが見えるって言っても、変な顔をしなかったこと」


 言葉が少しずつ震え始める。


「それまで嘘だったって言われたら、あたしは悲しい」


「悲しいだけか」


 玲の声は低い。


「怒らないのか」


「怒ってる」


 未空は即答した。


 玲は少しだけ目を見開いた。


「すごく怒ってる。都合がよかっただけって言われたことも、夜に閉じ込められたことも、綾乃を泣かせたことも。全部、怒ってる」


 未空は玲を見た。


「でも、怒ってるからって、友達だった時間まで捨てたくない」


 夜の神域が揺れた。


 川面の月が細かく波立つ。


 玲の影が少しだけ縮む。


 遠くで、赤い狐火が揺れた。


 琥珀の火だった。


 直接姿は見えない。


 けれど、その火は見張るように、楓川緑道の奥に浮かんでいた。


 玲はその火を一瞬だけ見た。


 すぐに表情を消す。


「琥珀の計画は止めない」


 玲は言った。


 未空は黙って聞く。


「人間は夜を忘れた。恐れなくなったものを、どうして覚えていられる。月を見上げることも、夜を畏れることも、戸を閉めて声を潜めることも、今の人間にはほとんど必要ない」


 玲の声は、夜そのもののようだった。


「必要がなくなれば忘れる。それは椛だけではない。白狐も、私も、忘れられた。名前を変えられ、意味を失い、物語の端へ追いやられた」


「うん」


「人間は変わる」


「うん」


「君も変わる」


「うん」


「いつか、私を忘れる」


 未空はすぐには答えなかった。


 否定したかった。


 忘れない。


 そう言いたかった。


 けれど、言えなかった。


 ずっとという言葉は重い。


 人間である自分には、未来の全部を約束できない。


 玲はそれを知っている。


 だから恐れている。


 だから先に壊そうとした。


「そうかもしれない」


 未空は言った。


 玲の表情が冷える。


「なら」


「でも、今は忘れてない」


 未空は続けた。


「今、玲の名前を呼んでる。怒ってるし、悲しいし、怖いけど、忘れてない」


「今だけだ」


「うん。今だけかもしれない」


「そんなものに意味はない」


「ある」


 未空は初めて、玲の言葉をはっきり否定した。


 自分でも驚くほど、声が強く出た。


「今だけでも、ある。今、一緒に帰ったことをなかったことにしないって決めることはできる。今、玲に会いに来ることはできる。今、玲が嘘だって言い切れないことを見ることはできる」


 玲の瞳が揺れる。


「見えるだけの君が、何をする」


 その言葉は、また未空の痛いところを刺した。


 だが、未空は下を向かなかった。


「見る」


 短く答えた。


「見て、言う。玲は嘘だって言い切れてない。あたしのこと、完全には切り捨てられてない。だから、言う」


 未空は玲の前に立った。


 夜の影が足元を飲み込もうとする。


 それでも、未空は立っていた。


「玲は、まだ全部向こうに行ってない」


 玲の周囲の夜が、鋭く震えた。


 怒り。


 痛み。


 恐れ。


 その全部が、月光の中で混ざる。


「わかったようなことを言うな」


 玲の声が低くなる。


「私は琥珀の側だ。夜の道を閉じる。小春市を外から切り離す。人間が忘れたものを、もう忘れられない場所へ沈める」


「それが、玲の願い?」


「そうだ」


「本当に?」


 玲は答えない。


 未空は見ていた。


 玲の背後で、いくつもの夜が重なっている。


 人々が月を見上げた夜。


 子どもが暗い道を怖がった夜。


 誰かが家の戸を閉めた夜。


 でも、その中に、最近の夜もあった。


 制服姿の玲と未空が、楓川沿いを歩く夜。


 くだらない会話もなく、ただ並んで帰った夜。


 沈黙が、二人を隔てるものではなく、つなぐものだった夜。


 その夜を、玲は消せていない。


「未空」


 玲は静かに言った。


「これ以上来るな」


「嫌」


「君を守るために言っている」


 未空は少しだけ目を見開いた。


 玲はすぐに顔を背ける。


「違う。言葉のあやだ」


「玲」


「私は戻らない」


 玲の声は固い。


「琥珀を止める気もない。椛がこちらへ来れば、町は完成する。忘れられたものたちは消えずに済む。人間たちは、それを最初は恐れるだろう。だが、やがて慣れる。神隠しの町として生きればいい」


「それは守ることじゃない」


 未空が言う。


「輝くんも、悠樹くんも、そう言ってた」


「人間の理屈だ」


「玲は、人間の理屈が全部嫌い?」


「嫌いだ」


「じゃあ、あたしと帰った夜も嫌い?」


 玲は、また答えられなかった。


 未空はその沈黙を見た。


 痛かった。


 でも、少しだけ救いでもあった。


 玲は、嘘だったと言い切らない。


 嫌いだと言い切らない。


 それだけで、未空はここへ来た意味があったと思った。


 遠くの狐火が、少し強く揺れた。


 琥珀の気配が近づく。


 未空の背筋に冷たいものが走った。


 玲も気づいた。


 月明かりの中で、玲の表情が変わる。


「帰れ」


「まだ」


「帰れ」


 今度の声には、冷たさより焦りがあった。


 玲が手を振る。


 夜の道が開いた。


 未空の背後に、現実の楓川緑道へ続く細い道ができる。街灯の光。綾乃たちが待っている入口の気配。遠くから、輝が自分の名前を呼んでいる声がかすかに聞こえた。


 未空は驚いて玲を見る。


「玲」


「ここから出ろ」


「どうして」


「邪魔だから」


「嘘」


「君がいると、面倒だから」


「それも嘘」


 玲の唇がわずかに震える。


 遠くの狐火が、さらに近づく。


 玲は未空を見た。


 その目は、冷たくあろうとして失敗していた。


「未空」


 玲は言った。


 その声は、月代玲の声だった。


「次は逃がせないかもしれない」


 未空は息を呑む。


「玲は」


 言葉を選ぶ。


「まだ、あたしを逃がしてくれるんだ」


 玲は答えない。


 未空は、もっと言いたいことがあった。


 怒っている。


 悲しい。


 また一緒に帰りたい。


 戻ってきてほしい。


 でも、今それを言っても届かない。


 玲はまだ戻らない。


 琥珀の側へ行く。


 それでも、完全には切り捨てない。


 その矛盾を抱えたまま、夜の中に立っている。


「玲」


 未空は最後に呼んだ。


「一緒に帰ったこと、あたしは消さない」


 玲の瞳が揺れた。


「忘れる日が来るかどうかはわからない。でも、今は消さない。玲が嘘だったって言い切れなくても、言い切ろうとしても、あたしは消さない」


 玲は目を閉じた。


 一瞬だけ。


 本当に一瞬だけ。


 次に目を開けた時、そこには月夜霊尊がいた。


 夜の神。


 琥珀の計画に協力するもの。


 人間を信じないもの。


 それでも、玲の名前を完全には捨てられないもの。


「行け」


 玲が言った。


 夜の道が、未空の足元まで伸びる。


 未空はその道へ一歩下がった。


 振り返らない。


 振り返ったら、また戻りたくなる。


 だから、前を向いたまま言った。


「また来る」


「来るな」


「それは、聞かない」


 未空は夜の道を走った。


 水面の月が遠ざかる。


 街灯の光が近づく。


 楓川緑道の入口で、誰かが叫んでいる。


「未空!」


 綾乃の声だった。


 未空は夜の膜を抜けた。


 現実の空気が身体に戻る。


 足元が少しふらつく。


 次の瞬間、綾乃に抱きしめられた。


「未空!」


「綾乃」


「遅い! 遅すぎる! 心配した! 怒るって言ったでしょ!」


「うん」


「何でちょっと笑ってるのよ!」


「怒ってくれるから」


 綾乃は一瞬言葉を詰まらせ、それからさらに強く抱きしめた。


「当たり前でしょ!」


 輝も駆け寄る。


「星川さん、大丈夫か?」


「大丈夫じゃない」


 未空は言った。


 輝は一瞬止まる。


 綾乃が頷く。


「よし。ちゃんと言えた」


 未空は綾乃の腕の中で息を整えた。


 悠樹が周囲を確認している。


 武は川沿いの夜を見つめ、少し青ざめていた。


「月代さんは?」


 輝が聞く。


 未空は、川面の月を見た。


 もう普通の月に戻っている。


 いや、普通に見えるだけかもしれない。


「戻らない」


 未空は言った。


 輝たちは黙る。


「琥珀を止める気もないって。小春市を閉じることも、やめないって」


「そっか」


 輝は唇を噛んだ。


 未空は続ける。


「でも、玲は、まだ完全には向こうに行ってない」


 その言葉に、輝は顔を上げた。


 悠樹も未空を見る。


 綾乃は未空を抱きしめたまま、少しだけ眉を寄せた。


「どういうこと」


「逃がしてくれた」


 未空は言った。


「琥珀の狐火が近づいてきた。玲は、あたしを夜から出した。邪魔だからって言ったけど、たぶん違う」


「守ったのね」


 綾乃が呟く。


 未空はすぐには頷かなかった。


 守った、と言ってしまうのは簡単だ。


 でも、玲はまだ琥珀の側にいる。


 町を閉じる計画を止める気はない。


 未空を傷つけたことも消えない。


 それでも。


「たぶん」


 未空は言った。


「完全には、切れなかった」


 輝は川面を見る。


 大きな月が揺れている。


 名前を呼び続けること。


 友達だった時間を消さないこと。


 それは、同じなのかもしれない。


 椛が町にいたことをなかったことにしない。


 楓が御神木に残っていたことをなかったことにしない。


 玲と未空が友達だった夜をなかったことにしない。


 たとえ今、裏切られていても。


 たとえ未来に忘れるかもしれなくても。


 今、なかったことにしないと決めることはできる。


 輝は小さく息を吐いた。


「星川さん」


「何」


「すごいな」


「何が」


「オレなら、たぶん行けなかった」


 未空は少しだけ首を横に振った。


「あたしも、綾乃が待ってなかったら行けなかった」


 綾乃が未空を抱きしめたまま言う。


「じゃあ、アタシも偉い」


「うん」


「そこは素直なのね」


 未空は少しだけ笑った。


 本当に少しだけだった。


 でも、その笑顔を見て、輝は胸の奥が少し軽くなるのを感じた。


 武が言った。


「帰ろう。椛ちゃんと楓ちゃんも心配してる」


「そうだな」


 悠樹が頷く。


「戻って、情報を整理する」


「悠樹、こういう時も整理なんだな」


 輝が言う。


「整理しないと次に動けない」


「正論」


「正論だ」


 少しだけ、いつものやり取りが戻った。


 五人はマンションへ向かって歩き出した。


 楓川緑道の道は、未空が戻ってきた後もまだ少し歪んでいた。


 けれど、入口へ向かう道だけははっきり見えた。


 玲が開いた道。


 未空を逃がすために作った道。


 それが消える前に、五人は夜を抜けた。


 遠く、川面に映る月の中で、玲は一人立っていた。


 未空が去った道を見つめている。


 赤い狐火が、彼女の背後に灯る。


 琥珀の声が、夜の奥から響いた。


「逃がしたんだね」


 玲は振り返らない。


「必要だった」


「何のために?」


「未空がいると、術式が乱れる」


「そう」


 琥珀は静かに笑った。


「そういうことにしておこうか」


 玲の手が、わずかに震えた。


 夜の神である彼女の影が、川面に長く伸びる。


 その影の中に、制服姿の少女二人が並んで歩く記憶が浮かんだ。


 何も話さなくてもよかった帰り道。


 月の水面を見たベンチ。


 呼ばれた名前。


 玲。


 その名は人間の名だ。


 仮の名だ。


 捨てるべき名だ。


 それなのに、胸の奥でまだ消えない。


「迷っているのか」


 琥珀が問う。


 玲は月を見た。


 空の月。


 川面の月。


 そのどちらにも、未空の姿はもうない。


「迷っていない」


 玲は答えた。


 けれど、その声は以前より少しだけ弱かった。


 琥珀はそれ以上何も言わなかった。


 狐火が揺れる。


 夜が深くなる。


 神隠しの町は、静かに完成へ近づいている。


 それでも、その夜の楓川には、ひとつだけ琥珀の計画に書かれていない道が残っていた。


 未空が帰った道。


 玲が開いた道。


 友達だった夜を、まだ完全には消せなかった道だった。

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