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第十八章 楓祭りの記録

 小春市は、ゆっくりと沈んでいた。


 水の中ではない。


 夜の中へ。


 記録の中へ。


 噂の中へ。


 人々が気づかないまま、町全体が見えない膜に包まれていく。小春駅では遅延表示が消えない。楓川緑道を歩いた人は、同じ橋へ戻ってくる。旧駅前商店街の閉じた店には、夜になると薄い灯りがともる。小春西高校の放送には、誰も流していないはずの祭囃子が混じる。


 それでも、町は大きく騒がない。


 おかしいね。


 疲れてるのかな。


 最近、白狐の噂で変な感じがするよね。


 そうやって、小春市の人々は、自分たちの町が少しずつ神隠しの器へ変わっていることを、日常の中へ押し込めていた。


 押し込めきれないものだけが、輝たちのリビングに集まっていた。


 テーブルの上には、資料が広げられている。


 葉月神社で写させてもらった古い記録。


 楓祭り保存会の冊子。


 旧商店街の和菓子屋で見せてもらった写真のコピー。


 小春神社縁起抄。


 白狐異聞。


 悠樹が作った町の地図。


 武がまとめた異変メモ。


 未空が書いた、見えたものだけを短く記したノート。


 その中央に、悠樹が赤いペンで一本ずつ線を引いていく。


 小春神社。


 御神木。


 楓川。


 旧駅前商店街。


 小春西高校の図書室。


 新小春モール。


 葉月神社。


 線はやがて、町の中心で複雑に絡み合った。


「整理する」


 悠樹は言った。


 声は落ち着いていた。


 だが、目元には明らかに疲れがあった。ここ数日、まともに休めていない。もともと生活管理を一手に引き受ける癖があるところへ、神様と御神木の記憶と白狐と夜の神と町全体の異変が乗っているのだから、疲れない方がおかしい。


 それでも悠樹は、誰よりも冷静であろうとしていた。


「琥珀さんの術式は、小春神社だけで完結していない。図書室の記録、小春神社の御神木、楓川、玲さんの夜の力、白狐火災の噂、商店街に残った祭りの名。それらを結んで、小春市全体を結界の器に変えている」


 輝は腕を組んで聞いていた。


 真剣な顔をしている。


 ただし、眉間にしわが寄りすぎていて、少し苦しそうにも見えた。


「つまり、琥珀さんは町を丸ごと本に書き込んでるみたいなもんか」


「完全に同じではないが、比喩としては近い」


 悠樹は地図の上に、図書室から小春神社へ伸びる線を引いた。


「図書室は記録の拠点。小春神社は椛ちゃんの土地神としての中心。御神木は依り代であり、楓ちゃんの根でもある。楓川は祭りと土地の流れ。玲さんの夜は外への道を閉じる力。白狐火災の噂は、琥珀さんの存在を現代の人間に刻み直す燃料になっている」


「燃料」


 武が小さく繰り返した。


 その声は重かった。


 白狐の噂を最初に輝たちへ持ち込んだのは武だ。


 スマートフォンの動画。


 不鮮明な白狐。


 火事。


 小春神社の御神木。


 あの時、武は興奮していた。


 面白いと思っていた。


 今、その噂が琥珀の力になっているかもしれないと知って、彼の表情はいつもよりずっと沈んでいる。


「武」


 輝が呼ぶ。


「何?」


「おまえ一人のせいじゃないぞ」


「うん。わかってる」


 武は頷いた。


 でも、その表情は晴れない。


「わかってるけど、ボクもその火に薪をくべた側なんだと思う」


 輝は何も言えなかった。


 それは輝自身にも刺さる言葉だった。


 白狐の動画を面白がった。


 椛を妖怪だ神様だと勝手に言って泣かせた。


 怪異を、誰かの痛みではなく、楽しい事件として見ていた。


 武だけではない。


 自分も同じだった。


 未空は窓の外を見ていた。


 大きすぎる月は、昼間になっても完全には消えなくなっている。青白い輪郭だけが、空の奥に薄く残っている。玲の夜が、町から完全に離れなくなっているのだ。


「町全体が、小春神社を中心に結界になってる」


 未空が言った。


 全員が未空を見る。


 未空は言葉を探すように、少しだけ目を細めた。


「図書室から文字が伸びて、小春神社へ行ってる。楓川は輪になって、町を回ってる。玲の夜が外側を閉じてる。白狐の火が、古い記憶と噂をつないでる」


「それ、止められる?」


 綾乃が聞く。


 未空はすぐには答えなかった。


「止める場所はあると思う」


「どこ?」


「小春神社」


 椛が、小さく震えた。


 楓がすぐにその手を握る。


「椛?」


「大丈夫」


 椛はそう言ったが、声は大丈夫ではなかった。


 町の痛みは、椛に届いている。


 駅が止まることも、川沿いの道が巡ることも、商店街の灯りが戻ることも、図書室の本が書き換わることも。すべてが、椛の身体のどこかを引っ張っているようだった。


 楓は怒った顔で地図を見ている。


「琥珀、勝手すぎる」


「楓」


 椛が呼ぶ。


「だってそうでしょ。椛の土地を勝手に縛って、椛が来れば救われるって言ってる。そんなの、椛に選ばせてるようで、選ばせてない」


「でも」


「でもじゃない」


 楓は椛の方を向く。


「忘れられたものが消えないようにしたいって気持ちは、楓にもわかる。人間に怒ってるのも、琥珀が言うことも、少しはわかる。でも、椛を泣かせていい理由にはならない」


 椛は俯いた。


「うん」


 その声は小さい。


 楓は少しだけ表情を緩めた。


「椛は、すぐ自分を差し出そうとするから心配」


「ごめん」


「謝るのも早い」


「ごめ……」


「ほら」


 椛は口を押さえた。


 綾乃が少しだけ笑った。


 この緊張した空気の中で、椛と楓のやり取りは細い息継ぎのようだった。


 その時、玄関のチャイムが鳴った。


 全員が一斉に振り向く。


 悠樹が立ち上がり、慎重にインターホンを確認した。


 画面には、藍澄武の祖父、葉月光伸が映っていた。


 武が目を丸くする。


「じいちゃん?」


 悠樹はすぐに玄関へ向かった。


 扉を開けると、葉月光伸が立っていた。


 白い作務衣に羽織。


 背筋の伸びた老人。


 手には細長い布包みと、古い木箱を持っている。


 その姿を見た瞬間、リビングの空気が変わった。


 神社の気配。


 山の上の葉月神社から、そのまま一部を運んできたような厳かさ。


 武は慌てて立ち上がった。


「じいちゃん、何で」


「武」


 光伸は低い声で言った。


「一度目は叱った。二度目は、話を聞く」


 武は姿勢を正した。


「はい」


 光伸はリビングへ上がる前に、玄関で一礼した。


 ただ部屋へ入るだけではない。


 そこに椛と楓がいることを、彼は知っているのだ。


 椛が立ち上がった。


 楓も一歩前へ出る。


 光伸は二人を見た。


 厳しい目ではあったが、そこに軽んじる色はなかった。


「あなたが、椛さまか」


 椛はびくっと肩を震わせた。


 その呼び方に、昔の声が重なる。


 椛さま。


 椛さま。


 雨の中で、御神木の前で、人々が呼んでいた声。


「椛は……椛です」


 小さく答えた。


 光伸は頷いた。


「ならば、椛さん」


 椛の表情が少しだけ和らぐ。


 光伸は次に楓を見た。


「あなたは、楓さんか」


 楓は胸を張った。


「楓は楓」


「よろしい」


 光伸は深く頭を下げた。


「葉月神社、葉月光伸。遅くなりました」


 椛は慌てる。


「頭、下げないで」


「下げるべき相手には下げる」


 光伸は静かに言った。


「小春神社の名も、あなたの名も、我々は長く失っていた。葉月神社にも責任がないとは言えない」


 部屋が静かになる。


 楓の表情が少し変わった。


 怒りだけではない。


 戸惑い。


 人間が頭を下げることへの、どう受け取ればいいかわからない感情。


 光伸は布包みをテーブルの上に置いた。


 誰もすぐには触れなかった。


 悠樹が静かに尋ねる。


「それは」


「葉月神社に奉納されていた弓と矢だ」


 輝の喉が鳴った。


 武が目を見開く。


「じいちゃん、本当に?」


「今夜、必要になる」


 光伸は答えた。


「ただし、忘れるな。これは琥珀を殺すための武器ではない。白狐を射るための道具でも、夜の神を退けるための武器でもない」


 彼は布包みに手を置いた。


「神の名を、町へ届けるための祭具だ」


 その言葉が、リビングに重く落ちた。


 輝は、息を飲む。


 名前を届ける。


 椛の名前を。


 楓の名前を。


 町へ。


 忘れてしまった場所へ。


 光伸は木箱を開けた。


 中には、古い記録の写しが入っていた。


「昨夜から、葉月神社の記録も変化している。読めなかった箇所が、少しだけ浮かび上がった」


 悠樹が身を乗り出す。


「祭神名ですか」


「完全には読めぬ」


 光伸は記録を広げた。


 そこには、楓祭りの儀式の手順が書かれていた。


 一、御神木の下に楓の葉を三枚奉る。


 一、灯籠を楓川へ流す。


 一、土地神の名を三度呼ぶ。


 一、葉月の弓に紙垂を結び、名と祈りを託す。


 一、矢を川と木と町を結ぶ流れへ放つ。


 文字は古いが、悠樹が読み上げると、全員が息を詰めた。


「儀式の形は残ってる」


 武が言った。


「名前は失われていても、届け方は残ってる」


 光伸は頷く。


「そうだ」


「じゃあ、椛ちゃんの名前と楓ちゃんの名前を、ここに戻せば」


 武は言いかけて、止まった。


 軽く言っていいことではない。


 彼は一度息を吸い、言い直した。


「……届けられるかもしれない、ってことだよね」


「可能性はある」


 光伸は言った。


「だが、形だけ真似ても届かぬ。弓を引く者が、その名を知らねばならない。その名を呼んできた者でなければならない」


 輝の心臓が、強く鳴った。


 なぜだかわかった。


 視線が集まる前に、自分でわかってしまった。


 弓を引くのは誰か。


 その問いの答えが、少しずつこちらへ近づいてくる。


 武が一歩前に出た。


「じいちゃん」


「何だ」


「ボクがやるべきじゃないかな」


 全員が武を見る。


 武は緊張した顔をしていた。


 いつもの明るさはない。


「ボク、剣道部だし、体力もあるし、葉月神社の場所も知ってる。弓はやったことないけど、輝よりはたぶん身体の使い方わかると思う。走るのも得意だし、祭具を運ぶ役もできる。だから」


 武は少しだけ拳を握った。


「ボクがやる方が、現実的なんじゃないかな」


 輝は何も言えなかった。


 確かに、その通りかもしれない。


 輝に弓の経験はない。


 体力も武ほどない。


 寝坊はするし、すぐ余計なことを言うし、椛を泣かせたこともある。


 武の方が向いている。


 そう言われれば、否定できない。


 だが、楓が首を横に振った。


「違う」


 武が振り向く。


「楓ちゃん?」


「武は、届ける人。調べたものとか、記録とか、葉月神社のこととか、そういうのを持ってくる人」


 楓は輝を見る。


「でも、弓を引くのは輝」


 輝は息を呑んだ。


「何でだよ」


 声が少し掠れた。


 楓はまっすぐ答えた。


「椛の名前を一番呼んだのは、輝だよ」


 部屋が静かになった。


 その言葉は、想像していたより重かった。


 輝は思わず視線を落とす。


「でも、オレは」


 言葉が詰まる。


 自分は椛を泣かせた。


 最初は面白がった。


 ほっぺをつまんだ。


 妖怪だ神様だと勝手に言った。


 何者かわからない椛を、珍しいものみたいに扱った。


 小春神社で琥珀に問われた時も、答えられなかった。


 いつまで覚えていられるか。


 その問いに、言葉を失った。


 そんな自分が、椛の名前を町へ届ける役でいいのか。


「オレは、椛を傷つけた」


 輝は言った。


 椛が顔を上げる。


「椛のこと、最初は面白がってた。何なのかの方ばっか気にして、椛が怖がってること、ちゃんと見てなかった。泣かせた。謝ったけど、なかったことにはならない」


 輝は拳を握る。


「そんなオレが、名前を届けるって言っていいのかよ」


 誰もすぐには答えなかった。


 綾乃も、武も、悠樹も、未空も、光伸も。


 椛が、ゆっくり立ち上がった。


 白い千早の袖が揺れる。


 楓が少しだけ手を離す。


 椛は輝の前まで来た。


 小さな手で、輝の袖をつかむ。


「輝お兄ちゃん」


「椛」


「椛、泣いた」


 輝の胸が痛む。


「うん」


「輝お兄ちゃんに、いやなこと言われたし、ほっぺもつままれたし、妖怪って言われたし、何って聞かれた」


「うん」


「まだ、ちょっと覚えてる」


「うん」


 輝は頷くしかなかった。


 椛は続ける。


「でも、輝お兄ちゃんは、ごめんって言った。椛の名前を呼んでくれた。夜に、椛が寝てる時も呼んでくれた。椛が消えてもいいって言ったら、怒ってくれた」


 椛の声が少し震える。


「輝が呼んでくれると、椛、ここにいていい気がする」


 輝は言葉を失った。


 椛は輝を見上げる。


「だから、輝お兄ちゃんがいい」


 その言葉で、輝の中にあった逃げ道が消えた。


 怖い。


 自信はない。


 弓なんて引いたことがない。


 ずっと覚えていられるかという問いにも、まだ完璧な答えはない。


 でも、椛がそう言うなら。


 椛が、自分の名前を輝に託すと言うなら。


 逃げるわけにはいかなかった。


 輝は小さく息を吸った。


「……わかった」


 声は大きくなかった。


 けれど、部屋の中ではっきり響いた。


「オレがやる」


 楓が頷く。


「うん」


 武は、少しだけ寂しそうな顔をした。


 だが、すぐにその顔を引き締めた。


「じゃあ、ボクは届ける役をやる」


 輝が武を見る。


「武」


「弓を引くのは輝。でも、記録を持ってくるのはボク。葉月神社との連絡も、じいちゃんへの説明も、必要な道具を運ぶのも、走るのもボクがやる。前に出るだけが役じゃないんだよね」


 武は自分で言いながら、少しだけ笑った。


「じいちゃんに叱られて、やっとわかった」


 光伸が静かに頷く。


「よく言った」


 武の顔がぱっと明るくなる。


「じいちゃんが褒めた」


「調子に乗るな」


「はい」


 綾乃が吹き出した。


「一瞬で叱られた」


「褒められ慣れてないから」


 武は苦笑する。


 そのやり取りで、少しだけ空気が柔らかくなった。


 悠樹は地図の上に、再び線を引き始める。


「役割を決めよう」


 その声には、はっきりした力があった。


「未空さんは、町の流れと玲さんの夜を見る。境界がどこで開くか、どこが閉じているかを判断する」


 未空は頷く。


「見る」


 その声は静かだったが、前より少し強かった。


「綾乃は、椛ちゃんと楓ちゃんのそばにいる。二人の名前を呼び続ける。二人が自分を差し出そうとしたら止める」


「任せて」


 綾乃は即答した。


「難しい術式とかはわかんないけど、名前を呼ぶのはできる。椛ちゃんも楓ちゃんも、絶対一人にしない」


 椛と楓が、同時に綾乃を見る。


 椛は嬉しそうに。


 楓は少し照れたように。


 悠樹は続ける。


「武は、葉月神社の記録と祭具の管理。必要なものを運ぶ。光伸さんとの連絡。もし道が歪んだ時は、一番足の速いおまえが伝令になる」


「了解」


 武は真剣に頷いた。


「輝は弓を引く。僕は状況を見て、町の流れが最も強まる瞬間を判断する。射るべき相手ではなく、届けるべき場所を見極める」


「おまえは?」


 輝が聞く。


「今言っただろ」


「いや、危ないところに出るのかって意味」


 悠樹は少しだけ目を伏せた。


「出る。おまえが無茶をするのはわかっているから、後ろで止める人間が必要だ」


「お母さん」


「その呼び方はやめろ」


 反射的なやり取りだった。


 椛が少し笑う。


 楓も、口元を押さえている。


 輝はそれを見て、少しだけ肩の力を抜いた。


 光伸は布包みを開いた。


 中から現れた弓は、思っていたよりも華美ではなかった。


 古い木の弓。


 磨かれてはいるが、長い時間の色が染み込んでいる。ところどころに細かな傷があり、握りの部分には布が巻かれていた。矢は三本。矢羽は淡い色で、一本一本に小さな紙垂を結ぶための細い紐がついている。


 輝は息を呑んだ。


 伝説の武器、という派手さはない。


 光る宝玉も、金の装飾も、いかにも敵を倒しそうな鋭さもない。


 それなのに、目を離せなかった。


 そこには、使われてきた時間があった。


 誰かが祈りを乗せた重さがあった。


 光伸は弓を持ち上げ、輝の前に差し出した。


「持ってみなさい」


 輝は両手で受け取った。


 重い。


 物理的な重さ以上に、手の中へ何かが沈んでくるようだった。


「うわ」


「落とすなよ」


 悠樹が即座に言う。


「落とさねえよ」


 輝は慌てて持ち直した。


 弓は、手に馴染むわけではなかった。


 むしろ、拒まれているような気さえする。


 おまえに扱えるのか。


 そう問われているようだった。


「オレ、本当にこれ引けるのか」


 輝は小さく言った。


 光伸は答える。


「今のままでは引けぬ」


「ですよね」


「だから、練習する」


「今から!?」


 輝が声を上げる。


 綾乃が呆れる。


「当たり前でしょ。ぶっつけ本番で引く気だったの?」


「いや、こういうのって気合いで何とかなるのかと」


「ならない」


 光伸、悠樹、綾乃が同時に言った。


 武まで頷いた。


「輝、弓はちゃんと構えないと無理だよ」


「おまえまで」


「剣道部だから、武器っぽいものへの雑な扱いにはちょっと厳しいよ」


「成長してる……」


 輝は妙なところで感心した。


 光伸は容赦なかった。


 その場で簡単な構えを教えられた輝は、弓を持つだけで腕が震えた。矢をつがえる段階で混乱し、弦に指を引っかけ、姿勢を直され、足の位置を直され、背筋を伸ばされ、視線を定めろと叱られた。


「肩に力を入れすぎだ」


「入れないと落としそうで」


「力任せに引くものではない」


「でも力いりますよね、これ」


「いる。だが力だけでは引けぬ」


「難しい!」


「当たり前だ」


 光伸の声は厳しい。


 悠樹は横でメモを取っている。


「悠樹、メモるな。プレッシャーが増える」


「あとで復習するためだ」


「部活みたいになってきた」


 武が真剣に見ている。


「輝、足幅もう少し広く」


「おまえ、何で急にコーチ側なんだ」


「見てるとわかるところもあるから」


「腹立つけど助かる」


 綾乃は椛と楓の横に座り、輝の奮闘を見ていた。


「輝、格好つかないわね」


「聞こえてるぞ」


「聞こえるように言ったもの」


「鬼」


「ちゃんとやりなさい。椛ちゃんと楓ちゃんの名前、届けるんでしょ」


 その言葉に、輝は黙った。


 弓を持つ手に力を込める。


 ただし、さっきより少しだけ無駄な力は抜けた。


 椛が見ている。


 楓が見ている。


 未空が町の流れを見ている。


 武が記録を抱えている。


 悠樹が作戦を組み立てている。


 綾乃が二人の名前を呼ぶ役を引き受けている。


 自分だけが逃げるわけにはいかなかった。


 数時間後、輝の腕は完全に震えていた。


「腕が死んだ」


「死んでいない」


 悠樹が冷静に言う。


「死んだ。これはもう別の生き物の腕」


「くだらないことを言えるなら大丈夫だ」


「悠樹は鬼」


「それはさっき綾乃に言っていたな」


「鬼が多い」


 光伸は弓を布に戻しながら言った。


「本番までに完全に扱えるようにはならん」


「ですよね」


「だが、祭具は技だけで動くものではない。むしろ、おまえが何を届けるかの方が重い」


 輝は弓を見つめる。


「椛と楓の名前」


「それだけか」


 光伸が問う。


 輝はすぐには答えられなかった。


 名前。


 それだけではない。


 椛がここにいていいということ。


 楓が椛を守るためだけではなく、楓としてここにいていいということ。


 忘れられたものたちが、恐怖で刻まれなくても残れる道。


 人間が忘れた罪を、なかったことにしないこと。


 自分が面白がって傷つけたことを、なかったことにしないこと。


 未空と玲が友達だった夜も、なかったことにしないこと。


 言葉にすればするほど、重くなる。


「まだ、ちゃんと言えないです」


 輝は正直に言った。


「でも、椛を消したくない。楓も消したくない。町を閉じ込めたくない。琥珀さんの言ってることが全部間違いじゃないってわかっても、それでも、怖がらせて刻むやり方じゃない方を探したい」


 光伸は頷いた。


「それを、言葉にしなさい」


「今?」


「本番までに」


「はい」


 輝は弓を見つめたまま頷いた。


 その夜が深まる頃、琥珀もまた準備を進めていた。


 小春神社。


 焼けた御神木の前。


 境内には、赤い狐火がいくつも浮かんでいる。


 黒く焦げた幹の裂け目に、狐火が入り込み、内部から赤い光を灯していた。まるで燃え尽きたはずの木が、もう一度内側から燃えようとしているようだった。


 その火は、ただの炎ではない。


 白狐火災の噂。


 スマートフォンで拡散された動画。


 雑誌の見出し。


 怖い話として語られた言葉。


 それらが火になっていた。


 琥珀は御神木に手を触れる。


 手のひらの下で、黒い幹が微かに震えた。


「もう少しだよ」


 琥珀は優しく言った。


 誰に向けた言葉なのか。


 椛にか。


 楓にか。


 御神木にか。


 それとも、自分自身にか。


 鳥居のそばには玲が立っている。


 月明かりをまとった少女。


 月夜霊尊。


 彼女の影が、境内から石段へ、さらに楓川緑道へ伸びている。夜の道が外界との接続を少しずつ塞いでいく。


 玲は黙っていた。


 しかし、その目は琥珀を見ていない。


 遠く、楓川の方を見ている。


 未空が戻った道。


 自分が開いてしまった道。


 琥珀はそれに気づいていた。


「まだ、迷っている?」


「迷っていない」


 玲は答えた。


 だが、その声は以前より少しだけ弱い。


 琥珀は責めなかった。


「迷ってもいいよ。ただ、最後には選ばなければならない」


「わかっている」


「人間か、こちら側か」


 玲の指先がわずかに動く。


 未空の声が、胸の奥に残っている。


 一緒に帰ったことまで、なかったことにはしたくない。


 玲は目を閉じた。


「わかっている」


 琥珀は白い本を開いた。


 図書室にあるはずの本。


 しかし今、その写しのようなものが琥珀の手元にも現れている。


 ページが勝手にめくれる。


『小春駅 外界接続低下』


『楓川緑道 夜道循環』


『旧駅前商店街 過去灯火復元』


『小春西高校 祭囃子混入』


『小春神社 神域化進行』


『葉月神社 祭具移動』


 最後の文字を見て、琥珀の目が細くなった。


「葉月神社が動いたか」


 玲が目を開ける。


「弓か」


「そうだろうね」


 琥珀は少しだけ笑う。


「敵を射る武器ではない。名を届ける祭具。人間は、たまに厄介なものを残す」


「止めるのか」


「止めるよ」


 琥珀は御神木を見上げた。


「でも、殺す必要はない。彼らにも見せればいい。忘れられたものの声を。消えかけているものたちの痛みを。椛が優しいなら、必ずこちらへ来る」


 狐火が御神木の根元で強くなる。


 その火に照らされて、境内にいくつもの影が浮かんだ。


 誰にも呼ばれなくなった小さな祠。


 閉じた商店の看板。


 祭りで使われた古い灯籠。


 白狐を恐れて石を投げた子どもの影。


 夜を忘れた町の窓明かり。


 それらが一つずつ、赤い火の中で揺れている。


 琥珀は、静かに言った。


「小春市を、忘れられたものたちの町にする」


 その言葉と同時に、図書室の白い本が開いた。


 誰もいない放課後の図書室。


 郷土資料棚の前。


 白い本のページがめくれ、文字が増えていく。


『楓祭り 再構成準備』


『土地神名 未確定』


『椛 接続待機』


『楓 根系接続不安定』


『葉月弓 介入可能性』


『最終儀式 小春神社』


 ページの端に、赤い狐火が灯る。


 その炎は紙を燃やさず、文字だけを黒く濃くしていった。


 同じ頃、輝たちのリビングでは、作戦会議が続いていた。


 悠樹が地図の上に、最後の線を引く。


「琥珀さんが最終的に術式を完成させるなら、小春神社だ。御神木の焼け跡が中心になる。図書室の本は記録の制御点だが、町の神域化そのものは小春神社で行われる可能性が高い」


「そこへ、葉月神社の弓を持っていく」


 武が言う。


「楓祭りの手順に従って、楓の葉、灯籠、名前、紙垂、弓矢」


 綾乃が数えるように指を折る。


「灯籠って、今から用意できるの?」


「簡易のものなら」


 悠樹が答える。


「紙と小型の灯りで代用する。火を使うのは危険だ。電池式の小さな灯りを入れる」


「現代版灯籠」


 輝が言う。


「雰囲気ないな」


「火事を起こしたいのか」


「ごめんなさい」


 楓が真顔で言った。


「火はだめ」


「はい」


 輝は即答した。


 武が記録を見ながら言う。


「楓の葉は?」


 楓は自分の袖から光の葉を一枚出した。


 しかし、未空がすぐに首を横に振る。


「それは楓が消耗する」


「じゃあ、どうするの」


 綾乃が聞く。


 椛がそっと手を上げた。


「小春神社の近くに、まだ落ちてる葉があると思う。御神木の本物の葉じゃないけど、昔の根っこが覚えてる葉」


「それを拾う」


 悠樹がメモする。


「椛ちゃんと楓ちゃんが案内する必要があるな」


「うん」


 楓は椛の手を握る。


「でも、椛は一人で行かない」


「行かない」


「絶対」


「うん」


 そのやり取りを見て、輝は少しだけ安心した。


 椛はまだ揺れている。


 町が痛むたびに、琥珀の言葉が届くたびに、きっと自分を差し出したくなる。


 でも、楓がいる。


 綾乃がいる。


 名前を呼ぶ人がいる。


 椛は一人ではない。


「輝」


 悠樹が呼ぶ。


「何だ」


「おまえは、今夜寝ろ」


「え、こんな時に?」


「こんな時だからだ。弓を引く人間が寝不足で手元を狂わせたら終わる」


「正論すぎて腹立つ」


「腹を立ててもいいから寝ろ」


 綾乃も頷く。


「そうよ。寝不足の輝なんて、普段の三倍頼りないし」


「普段も頼りないみたいに言うな」


「言ってるのよ」


「ひどい」


 椛が小さく笑う。


 楓も少しだけ笑った。


 その笑い声が、リビングの中に温かく落ちる。


 輝は、二人の名前を心の中で呼んだ。


 椛。


 楓。


 何度も呼んできた名前。


 これから町へ届ける名前。


 それは、証拠でも、分類でも、神名でもない。


 目の前にいる二人の名前だった。


 夜が更ける。


 作戦は完全ではない。


 わからないことの方が多い。


 琥珀がどう出るかも、玲がどこまで協力するかも、町の結界がどの段階まで進んでいるかも、すべて不確かだった。


 それでも、役割は決まった。


 未空は見る。


 悠樹は判断する。


 綾乃は名前を呼ぶ。


 武は記録と祭具を届ける。


 椛は、自分が消えたくないと思えるように踏みとどまる。


 楓は、椛を支えながら、自分自身も残ることを選び始める。


 そして輝は、弓を引く。


 敵を射るためではなく。


 名前を届けるために。


 輝は布に包まれた弓を見た。


 怖い。


 失敗したらどうなるのか考えると、息が詰まりそうになる。


 でも、椛が言った。


 輝が呼んでくれると、ここにいていい気がする。


 その言葉だけで、逃げられなくなった。


 逃げたくないと思った。


「椛」


 輝は小さく呼んだ。


 椛が顔を上げる。


「なあに」


「いや、呼んだだけ」


 椛は少しだけ笑った。


「うん」


 輝は次に、楓を見た。


「楓」


「何」


「呼んだだけ」


「真似しないで」


「怒るなよ」


「怒ってない」


「怒ってる顔だぞ」


「これは普通の顔」


 楓はぷいっと横を向いた。


 でも、少しだけ耳が赤い。


 綾乃がにやにやしている。


「楓ちゃん、呼ばれるの慣れてないのね」


「慣れてる」


「嘘ね」


「嘘じゃない」


「かわいい」


「かわいくない」


 椛が小さく笑った。


 楓も、今度は完全には怒らなかった。


 その夜、町の外れで、駅の電車はまだ止まっていた。


 楓川には、誰も流していない灯籠の幻が一つ浮かんだ。


 旧商店街の閉じた店には、昔の祭りの提灯が揺れた。


 小春西高校の図書室では、白い本が静かにページをめくり続けていた。


 小春神社の焼けた御神木には、狐火が灯っている。


 そして、葉月神社の弓は、輝たちの部屋で静かに夜を待っていた。


 敵を倒すためではなく。


 忘れられた名前を、もう一度町へ届けるために。

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