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第十九章 玉藻

 小春神社へ向かう道は、もう小春市の中にはなかった。


 少なくとも、真堂輝にはそう見えた。


 夕方のはずだった。


 学校が終わり、葉月神社の弓を布に包み、楓祭りの記録を鞄に入れ、椛と楓の名前を書いた紙垂を何枚も用意して、輝たちはマンションを出た。空はまだ茜色で、駅前には人の声があって、コンビニの自動ドアも、新小春モールの明るい看板も、いつも通りだった。


 けれど、旧駅前商店街を抜け、楓川緑道へ近づくにつれて、町は少しずつ見慣れない顔へ変わっていった。


 閉店したはずの写真館の窓に灯りがついている。


 誰もいない駄菓子屋の店先に、古い赤い提灯が揺れている。


 道路のアスファルトの上に、いつの時代のものかわからない土の道が薄く重なって見える。


 遠くから、祭囃子が聞こえた。


 笛。


 太鼓。


 鈴。


 その音は、楽しい祭りの音のはずなのに、今は町の奥から誰かが呼んでいるように聞こえた。


 輝は、背中に背負った布包みを握り直した。


 中には葉月神社の弓がある。


 敵を倒すための武器ではない。


 名前を届けるための祭具。


 そう何度も聞かされた。


 けれど、肩にかかる重さは、どうしても武器のように感じられた。戦いに行くのだという実感が、じわじわと身体に染み込んでくる。


「輝」


 隣を歩く葵城悠樹が声をかけた。


「何だ」


「足が速くなっている」


「そうか?」


「無意識に先走っている。落ち着け」


 輝は足を止めかけた。


 後ろを振り返る。


 綾乃が椛と楓の手を握って歩いている。星川未空は少し離れ、楓川の方角をじっと見ている。藍澄武は葉月神社の記録を入れた鞄を胸に抱え、周囲を何度も見回していた。


 誰も遅れてはいない。


 それでも、自分だけが前へ行こうとしていたことに気づき、輝は息を吐いた。


「悪い」


「謝るより、止まる方が早い」


「はいはい」


「返事は一回」


「お母さんか」


「その呼び方はやめろ」


 いつものやり取りだった。


 けれど、声は少し固かった。


 椛が小さく笑う。


「悠樹お兄ちゃん、お母さん」


「椛ちゃんまで」


「違うの?」


「違う」


 楓が綾乃の手を握ったまま、真面目な顔で言った。


「じゃあ、お父さん?」


「もっと違う」


 武が少しだけ吹き出した。


 綾乃も笑いかけた。


 その一瞬だけ、町の異変も、琥珀の狐火も、夜の神の気配も、少し遠くなった。


 だが、すぐに空気が冷える。


 楓川の方から、水音が大きく聞こえてきた。


 ここから川までは、まだ少し距離がある。


 それなのに、水が境内のすぐそばまで迫っているような音がした。


 椛が胸を押さえる。


「川が、近い」


 楓がすぐに椛の顔を覗き込んだ。


「痛い?」


「痛いより、ざわざわする」


「無理しないで」


「うん」


 輝は椛の方へ戻りかけた。


 その前に、椛が顔を上げる。


「大丈夫。行ける」


「本当に?」


「うん」


 椛は輝を見る。


 その目は揺れていた。


 でも、逃げようとはしていなかった。


「椛、行く。自分の神社だから」


 その言葉に、輝の胸が熱くなる。


 もう迷子として連れていかれるだけの椛ではない。


 消えてもいいと言ってしまうだけの椛でもない。


 怖くても、自分の足で小春神社へ向かっている。


 輝は頷いた。


「行こう」


 小春神社の表参道は使えなかった。


 地図アプリでは、相変わらず小春神社は表示されない。


 道そのものはある。


 だが、そこへ向かおうとすると、いつの間にか旧商店街の入口へ戻ってしまう。石段が見えたと思えば消え、鳥居の影に近づいたはずなのに、次の瞬間には楓川緑道の同じ橋の前に立っている。


 玲の夜が、道を閉じていた。


 未空は目を閉じた。


 川面には大きすぎる月が映っている。


 空の月も大きい。


 水面の月も大きい。


 その二つの月の間に、黒い糸が何本も張られているように見えた。


「表からは無理」


 未空が言った。


「玲の夜が、道を丸めてる」


「じゃあ、どうする」


 輝が聞く。


 未空は少しだけ顔をしかめた。


 玲の気配を読むたび、胸が痛む。


 友達だった時間。


 傷つけられた言葉。


 逃がしてくれた道。


 その全部が、夜の中に混ざっている。


 でも、未空は目を逸らさなかった。


「裏参道」


 彼女は言った。


「雑木林の方。昔の道が、まだ少し残ってる」


 武が鞄から葉月神社の記録の写しを取り出した。


「待って。たぶん、それある」


 武は急いでページをめくる。


 古い地図。


 小春神社と葉月神社、楓川、山の水源を結ぶ線が描かれている。


「これ。小春神社の裏参道。今はほとんど使われてないけど、昔、楓祭りの時に葉月神社からの使いが入った道って書いてある」


「そこから行ける?」


 綾乃が聞く。


「たぶん。道が残ってれば」


「たぶんが多いわね」


「古地図相手に断言はできないよ」


 武の声は少し震えていた。


 怖いのだ。


 でも、逃げてはいない。


 輝は武を見る。


「頼む」


 武は一瞬驚いたように輝を見た。


 それから、強く頷いた。


「任せて」


 裏参道は、想像以上に荒れていた。


 雑木林の奥へ入ると、すぐに町の灯りが遠くなった。足元には落ち葉が積もり、細い道は草に隠れている。かつては石が敷かれていたらしいが、今は土に埋もれ、ところどころで根に押し上げられていた。


 木々の間から、赤い狐火が見え隠れする。


 一つ。


 二つ。


 進むたび、狐火は少し遠くへ逃げる。


 誘っているようにも見える。


 迷わせているようにも見える。


「追わない」


 悠樹が言った。


「狐火を目印にするな。武、記録の道を確認しろ。未空さんは夜の糸を見る。輝は椛ちゃんと楓ちゃんから離れるな。綾乃は二人の手を離さない」


「指示が完全にリーダー」


 輝が言う。


「今さらだろ」


 綾乃が返す。


「まあな」


 悠樹はため息をついた。


「余計な会話をしながらでも動けるなら、それでいい」


 輝は少しだけ笑った。


 その時、道が消えた。


 前に進んでいたはずなのに、気づくと三叉路に出ていた。


 右にも道。


 左にも道。


 正面にも道。


 どれも同じように見える。


 武が青ざめる。


「地図には分かれ道、一つしかない」


「現地が変わったんだな」


 悠樹が言う。


「冷静に言わないでよ。普通に怖いんだけど」


「怖がってもいいが、手を止めるな」


「じいちゃんみたいなこと言う」


「光栄だ」


「褒めてないよ」


 未空が一歩前へ出た。


 分かれ道の上に、夜の糸が見える。


 右の道には、黒い糸がぐるりと輪を描いている。入れば、元の場所へ戻るだろう。


 左の道には、狐火の赤い糸が絡んでいる。琥珀の記録へ直接つながっているが、今は危険すぎる。


 正面の道は暗い。


 何も見えない。


 でも、その闇の奥に、かすかな鈴の音があった。


 未空は息を吸う。


「正面」


「根拠は?」


 悠樹が聞く。


「何もないから」


「何もない?」


「右は玲。左は琥珀。正面だけ、まだ誰のものでもない」


 綾乃が未空の肩に手を置いた。


「じゃあ、正面ね」


「綾乃は決断が早すぎる」


 輝が言う。


「未空が言ったからよ」


 綾乃は迷わなかった。


 未空は少しだけ目を伏せる。


「ありがとう」


「後でちゃんと怒るけどね」


「うん」


 そのやり取りを聞いて、玲の気配がほんの一瞬だけ揺れた気がした。


 未空は振り返らない。


 今は進む。


 雑木林を抜けると、石段が現れた。


 小春神社の表参道よりも細く、苔に覆われ、片側の石灯籠は崩れている。だが、確かに神社へ続く道だった。


 石段は、長かった。


 現実の距離ではありえないほど長い。


 一段上るたび、周囲の風景が変わる。


 古い田畑が見える。


 雨に濡れた道が見える。


 楓川の濁流が見える。


 浴衣姿の子どもたちが、楓の葉を持って走っていく影が見える。


 赤い提灯。


 灯籠の光。


 御神木に手を合わせる人々。


 そして、炎。


 白い狐が火の中で尾を揺らしている。


 椛が立ち止まりかけた。


 楓がその手を握る。


「見るなって言っても、見えるんだよね」


「うん」


「じゃあ、手を握ってる」


「うん」


 椛は涙をこらえながら頷いた。


 輝は椛の名前を呼んだ。


「椛」


 椛の肩が少しだけ落ち着く。


 続けて、楓の名前を呼ぶ。


「楓」


「呼んだだけ?」


「呼んだだけ」


「今は許す」


 楓は前を向いたまま言った。


 輝は小さく笑った。


 名前を呼ぶ。


 それだけで道が少しだけ現実へ戻る。


 そう感じた。


 長い石段の先に、鳥居が見えた。


 だが、それはいつもの小春神社の鳥居ではなかった。


 朱色は濃く、古びているのに鮮やかで、柱には何本もの注連縄が重なっている。鳥居の向こうには、今の境内と昔の小春市が重なっていた。


 田畑。


 川辺の土道。


 御神木の赤い葉。


 人々の祈り。


 閉じた社務所。


 焼けた幹。


 再開発計画の掲示。


 その全部が同時に見える。


 境内まで、楓川の水音が届いていた。


 空には赤い狐火が無数に浮かび、大きな月がそれらを見下ろしている。


 小春神社は、神域になっていた。


 その中心。


 焼けた御神木の前に、琥珀が立っていた。


 玉城琥珀ではなかった。


 学校の図書室で穏やかに本を整理していた、銀色がかった髪の管理人ではない。


 そこにいたのは、白銀の狐だった。


 人の形はしている。


 長い白銀の髪。


 琥珀色の瞳。


 白い衣の上に、狐火のような赤い文様が浮かぶ。背後には、何本もの尾の影が揺れていた。完全な狐でも、人でもない。人間に語られ、恐れられ、歪められ、それでも自分の形を保ち続けてきたもの。


 琥珀は、輝たちを見た。


「来たんだね」


 声は穏やかだった。


 けれど、図書室で聞いた声とは重さが違った。


 そこには、長い時間があった。


 憎しみも、悲しみも、疲れも、決意も。


「玉城さん」


 輝が呼ぶ。


 琥珀は首を横に振った。


「ここでその名は、もう要らない」


 狐火が一斉に揺れる。


 琥珀は、自分の胸に手を当てた。


「玉藻琥珀」


 真名が、境内に響いた。


 赤い狐火が、その名に応えるように高く燃える。


「白銀の狐。神の使いだったもの。妖狐と呼ばれ、火を呼ぶものと恐れられ、町の隅に追いやられ、それでも消えなかったもの」


 椛が震えた。


「玉藻……琥珀」


 その名を口にした瞬間、椛の中で何かが揺れた。


 昔の記憶。


 御神木の根元。


 傷ついた白い狐。


 小さく丸まって、雨に濡れていた狐。


 子どもたちが怖がる中で、椛だけが近づいた。


 その記憶が、椛の奥で薄く光った。


 琥珀は椛を見る。


 その目だけが、ほんの少し柔らかくなった。


「思い出した?」


 椛は答えられなかった。


 琥珀はゆっくりと語り始めた。


「僕は、最初から妖狐だったわけじゃない」


 境内の風が止まる。


 狐火の赤い光の中に、古い景色が浮かんだ。


 山道。


 夜の森。


 小さな白銀の狐。


「昔、僕はただの狐だった。少しだけ長く生きて、少しだけ人の声を聞ける狐。山の道に迷った子どもを里まで送ったこともある。川へ落ちかけた子を鳴いて知らせたこともある。人間はその時、僕を神の使いと呼んだ」


 景色が変わる。


 子どもが狐へ手を振る。


 大人が小さな供物を置く。


 白い狐は、遠くからそれを見る。


「でも、火事が起きた」


 赤い炎。


 燃える家。


 泣く人々。


 夜空へ上がる煙。


「僕が火をつけたわけじゃない。けれど、誰かが言った。白い狐を見た、と。狐火だ、と。神の使いではなく、火を呼ぶものだ、と」


 狐火が強くなる。


「それだけで、人間の目は変わった」


 石が飛んでくる。


 罠が仕掛けられる。


 白い狐が逃げる。


 山が赤く燃える。


 人々の声が重なる。


 化け狐。


 火つけ狐。


 不吉な白狐。


 災いを呼ぶもの。


「一度恐れられれば、それは形になる。噂は毛並みに染み込み、怒りは牙になり、恐怖は尾を増やす。人間が僕を妖怪にした」


 武は、息を呑んだ。


 自分が面白がってきた怪談。


 白狐火災の噂。


 小春市の呪い。


 その先に、これがある。


 誰かを怪物として語ること。


 恐れや面白さで塗り固めること。


 それが、本当に相手の形を変えてしまう世界。


 武は、何も言えなかった。


 琥珀は、そんな武を一瞬だけ見た。


「噂は便利だよ、藍澄くん」


 武の肩が震える。


「君のような子が面白がってくれる。誰かに話してくれる。写真を探し、動画を回し、古い怪談と結びつけてくれる。そうやって、僕は今の小春市にも形を持てる」


「……ごめん」


 武は小さく言った。


 琥珀は微笑む。


「謝ることはない。君は人間として自然なことをしただけだ」


 その言葉は、責めるよりも重かった。


 武は唇を噛む。


 琥珀は椛へ視線を戻した。


「でも、椛だけは違った」


 狐火の中に、御神木の根元が映る。


 雨に濡れた白銀の狐。


 怯えて近づかない子どもたち。


 その中で、小さな神様がそっと膝をついた。


 椛。


 まだ土地神として祈られていた頃の椛。


 白い千早。


 紅い袴。


 小さな手が、傷ついた狐へ伸びる。


「椛は、僕を恐れなかった。妖狐とも、火つけ狐とも呼ばなかった。ただ、傷ついた狐として見た」


 琥珀の声に、初めてはっきりと痛みが滲んだ。


「僕の名を、怯えずに呼んだ」


 椛の目に涙が浮かぶ。


 覚えているようで、覚えていない。


 でも、胸が痛い。


 その痛みだけは本物だった。


「椛だけは、僕を怪物にしなかった」


 琥珀は焼けた御神木を見上げた。


「その椛さえ、人間は忘れた」


 狐火が揺れる。


 境内に、今の小春市の景色が重なる。


 地図から消えた小春神社。


 再開発計画の紙。


 雑誌に載った白狐火災。


 モールの明るい書店。


 誰も来ない賽銭箱。


 焼けた御神木。


「御神木を焼いた。神社を壊そうとしている。祭りの名だけを商店街のイベントに使い、意味を忘れた。椛の名を、資料からも、口からも、土地からも消した」


 琥珀の目が、輝たちへ向く。


「人間は勝手だ。祈る時は神と呼び、恐れる時は怪物と呼び、飽きれば忘れる」


 誰もすぐには返せなかった。


 輝も。


 武も。


 綾乃も。


 悠樹でさえ、言葉を選んでいた。


 琥珀の言葉は、間違いではなかった。


 小春神社は忘れられていた。


 椛の名は失われていた。


 白狐は恐れで歪められた。


 人間は都合よく祈り、都合よく恐れ、都合よく忘れてきた。


 輝は、拳を握る。


 反論したい。


 でも、できない。


 人間は忘れないなんて言えない。


 自分たちは勝手じゃないなんて言えない。


 つい最近まで、自分も白狐の噂を面白がっていた。


 椛を珍しいもののように扱って泣かせた。


 綾乃も、苦しそうに唇を噛んでいた。


 普通に名前を呼ぶことならできる。


 でも、人間全体の忘却を否定する言葉はない。


 悠樹は静かに口を開きかけ、そして止めた。


 再開発は悪ではない。


 町を便利にすることも、古いものを修理することも、安全にすることも、単純な罪ではない。


 だが、その中で失われたものがある。


 忘れられた名前がある。


 それを知ってしまった以上、「仕方ない」だけでは済ませられなかった。


 椛が、涙をこぼした。


「琥珀さん」


 琥珀の表情がわずかに和らぐ。


「椛」


「ごめんね」


 その言葉に、琥珀の目が揺れた。


「なぜ君が謝る」


「椛、覚えてない。琥珀さんが傷ついてたことも、椛がそばにいたことも、ちゃんと覚えてない。だから、ごめんね」


「謝る必要はない」


 琥珀の声が少し強くなる。


「君が悪いんじゃない。君を忘れた人間が悪い。君の名を失わせた町が悪い。君を守れなかった御神木を焼き、なおも神社を過去のものにしようとする人間が悪い」


 椛は首を横に振った。


「でも、町を閉じ込めるのは違う」


 琥珀の表情が止まる。


 椛は泣きながら続けた。


「椛、まだ全部わからない。琥珀さんの痛いのも、玲お姉ちゃんの夜も、楓の怒ってるのも、ちゃんと全部はわからない。でも、町には今の人たちもいる。輝お兄ちゃんも、悠樹お兄ちゃんも、綾乃お姉ちゃんも、未空お姉ちゃんも、武お兄ちゃんもいる」


 声は震えていた。


 それでも、椛は言った。


「昔の小春市だけじゃない。今の小春市も、椛の町なんだと思う」


 楓が椛の手を握る。


 その手は震えている。


 でも、離さない。


 琥珀は椛へ手を差し出した。


「こちらへおいで、椛」


 声は優しかった。


 あまりにも優しかった。


「君は人間の隣にいてはいけない。人間はまた君を忘れる。今は君を呼ぶ。明日も呼ぶだろう。けれど、十年後は? 二十年後は? 彼らが大人になり、町を離れ、忙しくなり、君のことを思い出さなくなった時、君はまた一人になる」


 椛の肩が震える。


 それは、椛がずっと怖がっていることだった。


 輝が答えられなかった問い。


 いつまで覚えていられるか。


 琥珀はその問いを、何度でも突きつけてくる。


「僕と来れば、君は消えない。小春市を神隠しの町にすれば、忘れられたものたちはもう消えずに済む。白狐も、夜の神も、古い祭りも、御神木も、そして君も」


 狐火が椛の足元へ伸びる。


 熱くはない。


 むしろ、懐かしいほど温かい。


 椛は揺れた。


 琥珀の言葉の一部は正しい。


 忘れられたものたちは、本当に消えかけている。


 椛自身も、その怖さを知っている。


 名前を呼ばれない恐怖。


 自分が薄くなっていく感覚。


 それを誰にも味わわせたくない。


 だから、琥珀の手は怖いのに、優しく見えた。


「椛」


 楓が強く手を握る。


 椛が振り向く。


「消えてもいいって言わないで」


 楓の声は震えていた。


 怒っているのではない。


 怖がっているのだ。


「琥珀の言うことが全部間違いじゃなくても、椛が泣いて行くなら、それは違う」


「楓」


「椛は、自分で選んで。町が痛いからとか、みんなを助けたいからとか、琥珀が悲しいからとかじゃなくて、椛がどうしたいかで選んで」


 椛は涙をこぼした。


 輝は、二人を見ていた。


 今、言わなければいけない。


 完璧な反論はない。


 琥珀の怒りを論破できる理屈もない。


 人間は忘れない、と断言することもできない。


 それでも。


 輝は一歩前へ出た。


「琥珀さん」


 琥珀の目が輝へ向く。


「オレは、人間が忘れるって言われたら、たぶん否定できない」


 綾乃が輝を見る。


 武も、未空も、悠樹も。


 輝は続けた。


「小春神社が忘れられてたことも、椛の名前が資料から消えてたことも、白狐の噂を面白がってたことも、本当だ。オレだって最初、白狐火災をすげえって思った。椛のことも、妖怪とか神様とか、面白がって泣かせた」


 椛が小さく息を呑む。


「だから、オレは人間は忘れないとか、人間は勝手じゃないとか、そんなこと言えない」


 琥珀は黙って聞いている。


 輝は拳を握った。


「でも」


 声が少しだけ震える。


 怖い。


 それでも、言った。


「椛のことを忘れないって、今ここで決めることはできる」


 琥珀は静かに笑った。


「今だけなら、誰でも言える」


 その言葉は、予想していた。


 それでも胸に刺さる。


 輝は唇を噛む。


「そうだな」


 琥珀の笑みが少し薄れる。


「認めるんだ」


「認める。今だけなら、誰でも言える。オレも、ずっと先のことはまだ怖い。大人になって、町を離れて、何十年も経って、それでも絶対に忘れないって言い切れるかって聞かれたら、今でも怖い」


 輝は椛を見る。


 椛は、泣きながらこちらを見ている。


「でも、今だけだから意味がないとは思わない」


 琥珀の瞳が揺れる。


「今、呼ぶ。明日も呼ぶ。その次も呼ぶ。忘れそうになったら、記録に残す。誰かに話す。椛がここにいたことを、楓がここにいたことを、白狐がただの怪物じゃなかったことを、玲が未空の友達だったことを、なかったことにしない」


 未空が小さく息を呑んだ。


 玲の名前。


 その言葉に、空の月がわずかに揺れた。


 どこかで玲が聞いているのかもしれない。


「それでも足りないかもしれない。きれいごとかもしれない。でも、恐怖で町に刻むより、オレはそっちを選びたい」


 琥珀の狐火が、低く燃えた。


「人間らしい答えだね」


「たぶん、そうなんだろうな」


「弱い」


「弱いよ」


「すぐ折れる」


「折れたら、また立て直す」


「忘れたら?」


 輝は答えに詰まりかけた。


 しかし、今度は完全には黙らなかった。


「忘れたら、思い出せるものを残す」


 武が顔を上げる。


 輝は続けた。


「記録でも、祭りでも、名前でも、写真でも、誰かの話でも。完璧じゃなくても、残す。武が調べる。悠樹が整理する。綾乃が普通に呼ぶ。星川さんが見る。椛と楓が、自分でここにいるって言う。オレ一人じゃ無理でも、全部なくすよりはましだ」


 琥珀は、初めて少しだけ苦い顔をした。


「人間は、そうやって都合のいい時だけ仲間の数を増やす」


「そうかもな」


 輝は認めた。


「でも、椛は一人じゃない」


 楓が頷く。


 綾乃が椛の肩に手を置く。


 未空が、夜の月を見据える。


 武が、葉月神社の記録を強く抱える。


 悠樹が、輝の横に立つ。


 椛は琥珀の手を見た。


 その手は優しい。


 とても優しい。


 消えない場所へ連れていってくれると言っている。


 忘れられたものを救うと言っている。


 でも、その手を取れば、今の町にいる人たちも、何も知らない人たちも、すべて琥珀の結界に閉じ込められる。


 それは違う。


 椛は、そう思った。


 まだ怖い。


 人間にまた忘れられることは怖い。


 でも、怖いから全部を閉じるのは違う。


 椛は楓の手を握り返した。


 そして、琥珀へ向き直った。


「琥珀さん」


「椛」


「椛、消えたくない」


 その言葉に、琥珀の表情が少しだけ和らぐ。


 だが、椛は続けた。


「でも、町を閉じ込めて残りたいわけじゃない」


 狐火が揺れる。


「椛は、ここにいたい。昔の小春市だけじゃなくて、今の小春市にもいたい。輝お兄ちゃんたちの隣にもいたい。楓とも一緒にいたい」


 声は震えている。


 でも、もう逃げてはいない。


「だから、琥珀さんとは行かない」


 境内が静まり返った。


 琥珀は、椛を見ていた。


 その目には、怒りよりも先に深い悲しみが浮かんだ。


「そう」


 彼は静かに言った。


「君も、人間の隣を選ぶんだね」


「人間だけじゃないよ」


 椛は首を横に振る。


「楓もいる。琥珀さんも、本当はいてほしい。玲お姉ちゃんも」


 空の月が揺れた。


 玲の影が、鳥居の奥に一瞬だけ見えた気がした。


 琥珀は目を伏せる。


「優しいね、椛」


 声は穏やかだった。


 けれど、その穏やかさの奥で、何かが切れた。


「だから、君は人間に利用される」


 狐火が一斉に燃え上がった。


 境内の景色が歪む。


 昔の小春市。


 今の小春市。


 炎の屋根。


 灯籠の川。


 御神木の赤い葉。


 図書室の白い本。


 大きな月。


 すべてが渦を巻き、焼けた御神木へ集まり始める。


 悠樹が叫ぶ。


「来るぞ!」


 武が葉月神社の記録を抱え直す。


 綾乃が椛と楓の名前を呼ぶ。


「椛ちゃん! 楓ちゃん!」


 未空は目を開き、夜の糸を見る。


「玲がいる。鳥居の奥。夜の道を閉じてる」


 輝は布包みを解いた。


 葉月神社の弓が、狐火の赤い光を受けて鈍く光る。


 手が震える。


 でも、逃げない。


 琥珀は、白銀の尾を広げた。


 人の形の背後に、巨大な狐の影が立ち上がる。


 玉藻琥珀。


 人間に恐れられ、怪物にされ、それでも椛を消したくなかった白銀の狐。


 彼は輝たちを見下ろした。


「なら、見せてみなよ」


 狐火が、御神木を包む。


「君たち人間の名前の呼び方が、僕の恐怖より強いと言うなら」


 輝は弓を握った。


 椛の名前を胸の中で呼ぶ。


 楓の名前を、続けて呼ぶ。


 小春市の夜が、赤く燃え始める。


 最終の祭りが、始まろうとしていた。

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