第十九章 玉藻
小春神社へ向かう道は、もう小春市の中にはなかった。
少なくとも、真堂輝にはそう見えた。
夕方のはずだった。
学校が終わり、葉月神社の弓を布に包み、楓祭りの記録を鞄に入れ、椛と楓の名前を書いた紙垂を何枚も用意して、輝たちはマンションを出た。空はまだ茜色で、駅前には人の声があって、コンビニの自動ドアも、新小春モールの明るい看板も、いつも通りだった。
けれど、旧駅前商店街を抜け、楓川緑道へ近づくにつれて、町は少しずつ見慣れない顔へ変わっていった。
閉店したはずの写真館の窓に灯りがついている。
誰もいない駄菓子屋の店先に、古い赤い提灯が揺れている。
道路のアスファルトの上に、いつの時代のものかわからない土の道が薄く重なって見える。
遠くから、祭囃子が聞こえた。
笛。
太鼓。
鈴。
その音は、楽しい祭りの音のはずなのに、今は町の奥から誰かが呼んでいるように聞こえた。
輝は、背中に背負った布包みを握り直した。
中には葉月神社の弓がある。
敵を倒すための武器ではない。
名前を届けるための祭具。
そう何度も聞かされた。
けれど、肩にかかる重さは、どうしても武器のように感じられた。戦いに行くのだという実感が、じわじわと身体に染み込んでくる。
「輝」
隣を歩く葵城悠樹が声をかけた。
「何だ」
「足が速くなっている」
「そうか?」
「無意識に先走っている。落ち着け」
輝は足を止めかけた。
後ろを振り返る。
綾乃が椛と楓の手を握って歩いている。星川未空は少し離れ、楓川の方角をじっと見ている。藍澄武は葉月神社の記録を入れた鞄を胸に抱え、周囲を何度も見回していた。
誰も遅れてはいない。
それでも、自分だけが前へ行こうとしていたことに気づき、輝は息を吐いた。
「悪い」
「謝るより、止まる方が早い」
「はいはい」
「返事は一回」
「お母さんか」
「その呼び方はやめろ」
いつものやり取りだった。
けれど、声は少し固かった。
椛が小さく笑う。
「悠樹お兄ちゃん、お母さん」
「椛ちゃんまで」
「違うの?」
「違う」
楓が綾乃の手を握ったまま、真面目な顔で言った。
「じゃあ、お父さん?」
「もっと違う」
武が少しだけ吹き出した。
綾乃も笑いかけた。
その一瞬だけ、町の異変も、琥珀の狐火も、夜の神の気配も、少し遠くなった。
だが、すぐに空気が冷える。
楓川の方から、水音が大きく聞こえてきた。
ここから川までは、まだ少し距離がある。
それなのに、水が境内のすぐそばまで迫っているような音がした。
椛が胸を押さえる。
「川が、近い」
楓がすぐに椛の顔を覗き込んだ。
「痛い?」
「痛いより、ざわざわする」
「無理しないで」
「うん」
輝は椛の方へ戻りかけた。
その前に、椛が顔を上げる。
「大丈夫。行ける」
「本当に?」
「うん」
椛は輝を見る。
その目は揺れていた。
でも、逃げようとはしていなかった。
「椛、行く。自分の神社だから」
その言葉に、輝の胸が熱くなる。
もう迷子として連れていかれるだけの椛ではない。
消えてもいいと言ってしまうだけの椛でもない。
怖くても、自分の足で小春神社へ向かっている。
輝は頷いた。
「行こう」
小春神社の表参道は使えなかった。
地図アプリでは、相変わらず小春神社は表示されない。
道そのものはある。
だが、そこへ向かおうとすると、いつの間にか旧商店街の入口へ戻ってしまう。石段が見えたと思えば消え、鳥居の影に近づいたはずなのに、次の瞬間には楓川緑道の同じ橋の前に立っている。
玲の夜が、道を閉じていた。
未空は目を閉じた。
川面には大きすぎる月が映っている。
空の月も大きい。
水面の月も大きい。
その二つの月の間に、黒い糸が何本も張られているように見えた。
「表からは無理」
未空が言った。
「玲の夜が、道を丸めてる」
「じゃあ、どうする」
輝が聞く。
未空は少しだけ顔をしかめた。
玲の気配を読むたび、胸が痛む。
友達だった時間。
傷つけられた言葉。
逃がしてくれた道。
その全部が、夜の中に混ざっている。
でも、未空は目を逸らさなかった。
「裏参道」
彼女は言った。
「雑木林の方。昔の道が、まだ少し残ってる」
武が鞄から葉月神社の記録の写しを取り出した。
「待って。たぶん、それある」
武は急いでページをめくる。
古い地図。
小春神社と葉月神社、楓川、山の水源を結ぶ線が描かれている。
「これ。小春神社の裏参道。今はほとんど使われてないけど、昔、楓祭りの時に葉月神社からの使いが入った道って書いてある」
「そこから行ける?」
綾乃が聞く。
「たぶん。道が残ってれば」
「たぶんが多いわね」
「古地図相手に断言はできないよ」
武の声は少し震えていた。
怖いのだ。
でも、逃げてはいない。
輝は武を見る。
「頼む」
武は一瞬驚いたように輝を見た。
それから、強く頷いた。
「任せて」
裏参道は、想像以上に荒れていた。
雑木林の奥へ入ると、すぐに町の灯りが遠くなった。足元には落ち葉が積もり、細い道は草に隠れている。かつては石が敷かれていたらしいが、今は土に埋もれ、ところどころで根に押し上げられていた。
木々の間から、赤い狐火が見え隠れする。
一つ。
二つ。
進むたび、狐火は少し遠くへ逃げる。
誘っているようにも見える。
迷わせているようにも見える。
「追わない」
悠樹が言った。
「狐火を目印にするな。武、記録の道を確認しろ。未空さんは夜の糸を見る。輝は椛ちゃんと楓ちゃんから離れるな。綾乃は二人の手を離さない」
「指示が完全にリーダー」
輝が言う。
「今さらだろ」
綾乃が返す。
「まあな」
悠樹はため息をついた。
「余計な会話をしながらでも動けるなら、それでいい」
輝は少しだけ笑った。
その時、道が消えた。
前に進んでいたはずなのに、気づくと三叉路に出ていた。
右にも道。
左にも道。
正面にも道。
どれも同じように見える。
武が青ざめる。
「地図には分かれ道、一つしかない」
「現地が変わったんだな」
悠樹が言う。
「冷静に言わないでよ。普通に怖いんだけど」
「怖がってもいいが、手を止めるな」
「じいちゃんみたいなこと言う」
「光栄だ」
「褒めてないよ」
未空が一歩前へ出た。
分かれ道の上に、夜の糸が見える。
右の道には、黒い糸がぐるりと輪を描いている。入れば、元の場所へ戻るだろう。
左の道には、狐火の赤い糸が絡んでいる。琥珀の記録へ直接つながっているが、今は危険すぎる。
正面の道は暗い。
何も見えない。
でも、その闇の奥に、かすかな鈴の音があった。
未空は息を吸う。
「正面」
「根拠は?」
悠樹が聞く。
「何もないから」
「何もない?」
「右は玲。左は琥珀。正面だけ、まだ誰のものでもない」
綾乃が未空の肩に手を置いた。
「じゃあ、正面ね」
「綾乃は決断が早すぎる」
輝が言う。
「未空が言ったからよ」
綾乃は迷わなかった。
未空は少しだけ目を伏せる。
「ありがとう」
「後でちゃんと怒るけどね」
「うん」
そのやり取りを聞いて、玲の気配がほんの一瞬だけ揺れた気がした。
未空は振り返らない。
今は進む。
雑木林を抜けると、石段が現れた。
小春神社の表参道よりも細く、苔に覆われ、片側の石灯籠は崩れている。だが、確かに神社へ続く道だった。
石段は、長かった。
現実の距離ではありえないほど長い。
一段上るたび、周囲の風景が変わる。
古い田畑が見える。
雨に濡れた道が見える。
楓川の濁流が見える。
浴衣姿の子どもたちが、楓の葉を持って走っていく影が見える。
赤い提灯。
灯籠の光。
御神木に手を合わせる人々。
そして、炎。
白い狐が火の中で尾を揺らしている。
椛が立ち止まりかけた。
楓がその手を握る。
「見るなって言っても、見えるんだよね」
「うん」
「じゃあ、手を握ってる」
「うん」
椛は涙をこらえながら頷いた。
輝は椛の名前を呼んだ。
「椛」
椛の肩が少しだけ落ち着く。
続けて、楓の名前を呼ぶ。
「楓」
「呼んだだけ?」
「呼んだだけ」
「今は許す」
楓は前を向いたまま言った。
輝は小さく笑った。
名前を呼ぶ。
それだけで道が少しだけ現実へ戻る。
そう感じた。
長い石段の先に、鳥居が見えた。
だが、それはいつもの小春神社の鳥居ではなかった。
朱色は濃く、古びているのに鮮やかで、柱には何本もの注連縄が重なっている。鳥居の向こうには、今の境内と昔の小春市が重なっていた。
田畑。
川辺の土道。
御神木の赤い葉。
人々の祈り。
閉じた社務所。
焼けた幹。
再開発計画の掲示。
その全部が同時に見える。
境内まで、楓川の水音が届いていた。
空には赤い狐火が無数に浮かび、大きな月がそれらを見下ろしている。
小春神社は、神域になっていた。
その中心。
焼けた御神木の前に、琥珀が立っていた。
玉城琥珀ではなかった。
学校の図書室で穏やかに本を整理していた、銀色がかった髪の管理人ではない。
そこにいたのは、白銀の狐だった。
人の形はしている。
長い白銀の髪。
琥珀色の瞳。
白い衣の上に、狐火のような赤い文様が浮かぶ。背後には、何本もの尾の影が揺れていた。完全な狐でも、人でもない。人間に語られ、恐れられ、歪められ、それでも自分の形を保ち続けてきたもの。
琥珀は、輝たちを見た。
「来たんだね」
声は穏やかだった。
けれど、図書室で聞いた声とは重さが違った。
そこには、長い時間があった。
憎しみも、悲しみも、疲れも、決意も。
「玉城さん」
輝が呼ぶ。
琥珀は首を横に振った。
「ここでその名は、もう要らない」
狐火が一斉に揺れる。
琥珀は、自分の胸に手を当てた。
「玉藻琥珀」
真名が、境内に響いた。
赤い狐火が、その名に応えるように高く燃える。
「白銀の狐。神の使いだったもの。妖狐と呼ばれ、火を呼ぶものと恐れられ、町の隅に追いやられ、それでも消えなかったもの」
椛が震えた。
「玉藻……琥珀」
その名を口にした瞬間、椛の中で何かが揺れた。
昔の記憶。
御神木の根元。
傷ついた白い狐。
小さく丸まって、雨に濡れていた狐。
子どもたちが怖がる中で、椛だけが近づいた。
その記憶が、椛の奥で薄く光った。
琥珀は椛を見る。
その目だけが、ほんの少し柔らかくなった。
「思い出した?」
椛は答えられなかった。
琥珀はゆっくりと語り始めた。
「僕は、最初から妖狐だったわけじゃない」
境内の風が止まる。
狐火の赤い光の中に、古い景色が浮かんだ。
山道。
夜の森。
小さな白銀の狐。
「昔、僕はただの狐だった。少しだけ長く生きて、少しだけ人の声を聞ける狐。山の道に迷った子どもを里まで送ったこともある。川へ落ちかけた子を鳴いて知らせたこともある。人間はその時、僕を神の使いと呼んだ」
景色が変わる。
子どもが狐へ手を振る。
大人が小さな供物を置く。
白い狐は、遠くからそれを見る。
「でも、火事が起きた」
赤い炎。
燃える家。
泣く人々。
夜空へ上がる煙。
「僕が火をつけたわけじゃない。けれど、誰かが言った。白い狐を見た、と。狐火だ、と。神の使いではなく、火を呼ぶものだ、と」
狐火が強くなる。
「それだけで、人間の目は変わった」
石が飛んでくる。
罠が仕掛けられる。
白い狐が逃げる。
山が赤く燃える。
人々の声が重なる。
化け狐。
火つけ狐。
不吉な白狐。
災いを呼ぶもの。
「一度恐れられれば、それは形になる。噂は毛並みに染み込み、怒りは牙になり、恐怖は尾を増やす。人間が僕を妖怪にした」
武は、息を呑んだ。
自分が面白がってきた怪談。
白狐火災の噂。
小春市の呪い。
その先に、これがある。
誰かを怪物として語ること。
恐れや面白さで塗り固めること。
それが、本当に相手の形を変えてしまう世界。
武は、何も言えなかった。
琥珀は、そんな武を一瞬だけ見た。
「噂は便利だよ、藍澄くん」
武の肩が震える。
「君のような子が面白がってくれる。誰かに話してくれる。写真を探し、動画を回し、古い怪談と結びつけてくれる。そうやって、僕は今の小春市にも形を持てる」
「……ごめん」
武は小さく言った。
琥珀は微笑む。
「謝ることはない。君は人間として自然なことをしただけだ」
その言葉は、責めるよりも重かった。
武は唇を噛む。
琥珀は椛へ視線を戻した。
「でも、椛だけは違った」
狐火の中に、御神木の根元が映る。
雨に濡れた白銀の狐。
怯えて近づかない子どもたち。
その中で、小さな神様がそっと膝をついた。
椛。
まだ土地神として祈られていた頃の椛。
白い千早。
紅い袴。
小さな手が、傷ついた狐へ伸びる。
「椛は、僕を恐れなかった。妖狐とも、火つけ狐とも呼ばなかった。ただ、傷ついた狐として見た」
琥珀の声に、初めてはっきりと痛みが滲んだ。
「僕の名を、怯えずに呼んだ」
椛の目に涙が浮かぶ。
覚えているようで、覚えていない。
でも、胸が痛い。
その痛みだけは本物だった。
「椛だけは、僕を怪物にしなかった」
琥珀は焼けた御神木を見上げた。
「その椛さえ、人間は忘れた」
狐火が揺れる。
境内に、今の小春市の景色が重なる。
地図から消えた小春神社。
再開発計画の紙。
雑誌に載った白狐火災。
モールの明るい書店。
誰も来ない賽銭箱。
焼けた御神木。
「御神木を焼いた。神社を壊そうとしている。祭りの名だけを商店街のイベントに使い、意味を忘れた。椛の名を、資料からも、口からも、土地からも消した」
琥珀の目が、輝たちへ向く。
「人間は勝手だ。祈る時は神と呼び、恐れる時は怪物と呼び、飽きれば忘れる」
誰もすぐには返せなかった。
輝も。
武も。
綾乃も。
悠樹でさえ、言葉を選んでいた。
琥珀の言葉は、間違いではなかった。
小春神社は忘れられていた。
椛の名は失われていた。
白狐は恐れで歪められた。
人間は都合よく祈り、都合よく恐れ、都合よく忘れてきた。
輝は、拳を握る。
反論したい。
でも、できない。
人間は忘れないなんて言えない。
自分たちは勝手じゃないなんて言えない。
つい最近まで、自分も白狐の噂を面白がっていた。
椛を珍しいもののように扱って泣かせた。
綾乃も、苦しそうに唇を噛んでいた。
普通に名前を呼ぶことならできる。
でも、人間全体の忘却を否定する言葉はない。
悠樹は静かに口を開きかけ、そして止めた。
再開発は悪ではない。
町を便利にすることも、古いものを修理することも、安全にすることも、単純な罪ではない。
だが、その中で失われたものがある。
忘れられた名前がある。
それを知ってしまった以上、「仕方ない」だけでは済ませられなかった。
椛が、涙をこぼした。
「琥珀さん」
琥珀の表情がわずかに和らぐ。
「椛」
「ごめんね」
その言葉に、琥珀の目が揺れた。
「なぜ君が謝る」
「椛、覚えてない。琥珀さんが傷ついてたことも、椛がそばにいたことも、ちゃんと覚えてない。だから、ごめんね」
「謝る必要はない」
琥珀の声が少し強くなる。
「君が悪いんじゃない。君を忘れた人間が悪い。君の名を失わせた町が悪い。君を守れなかった御神木を焼き、なおも神社を過去のものにしようとする人間が悪い」
椛は首を横に振った。
「でも、町を閉じ込めるのは違う」
琥珀の表情が止まる。
椛は泣きながら続けた。
「椛、まだ全部わからない。琥珀さんの痛いのも、玲お姉ちゃんの夜も、楓の怒ってるのも、ちゃんと全部はわからない。でも、町には今の人たちもいる。輝お兄ちゃんも、悠樹お兄ちゃんも、綾乃お姉ちゃんも、未空お姉ちゃんも、武お兄ちゃんもいる」
声は震えていた。
それでも、椛は言った。
「昔の小春市だけじゃない。今の小春市も、椛の町なんだと思う」
楓が椛の手を握る。
その手は震えている。
でも、離さない。
琥珀は椛へ手を差し出した。
「こちらへおいで、椛」
声は優しかった。
あまりにも優しかった。
「君は人間の隣にいてはいけない。人間はまた君を忘れる。今は君を呼ぶ。明日も呼ぶだろう。けれど、十年後は? 二十年後は? 彼らが大人になり、町を離れ、忙しくなり、君のことを思い出さなくなった時、君はまた一人になる」
椛の肩が震える。
それは、椛がずっと怖がっていることだった。
輝が答えられなかった問い。
いつまで覚えていられるか。
琥珀はその問いを、何度でも突きつけてくる。
「僕と来れば、君は消えない。小春市を神隠しの町にすれば、忘れられたものたちはもう消えずに済む。白狐も、夜の神も、古い祭りも、御神木も、そして君も」
狐火が椛の足元へ伸びる。
熱くはない。
むしろ、懐かしいほど温かい。
椛は揺れた。
琥珀の言葉の一部は正しい。
忘れられたものたちは、本当に消えかけている。
椛自身も、その怖さを知っている。
名前を呼ばれない恐怖。
自分が薄くなっていく感覚。
それを誰にも味わわせたくない。
だから、琥珀の手は怖いのに、優しく見えた。
「椛」
楓が強く手を握る。
椛が振り向く。
「消えてもいいって言わないで」
楓の声は震えていた。
怒っているのではない。
怖がっているのだ。
「琥珀の言うことが全部間違いじゃなくても、椛が泣いて行くなら、それは違う」
「楓」
「椛は、自分で選んで。町が痛いからとか、みんなを助けたいからとか、琥珀が悲しいからとかじゃなくて、椛がどうしたいかで選んで」
椛は涙をこぼした。
輝は、二人を見ていた。
今、言わなければいけない。
完璧な反論はない。
琥珀の怒りを論破できる理屈もない。
人間は忘れない、と断言することもできない。
それでも。
輝は一歩前へ出た。
「琥珀さん」
琥珀の目が輝へ向く。
「オレは、人間が忘れるって言われたら、たぶん否定できない」
綾乃が輝を見る。
武も、未空も、悠樹も。
輝は続けた。
「小春神社が忘れられてたことも、椛の名前が資料から消えてたことも、白狐の噂を面白がってたことも、本当だ。オレだって最初、白狐火災をすげえって思った。椛のことも、妖怪とか神様とか、面白がって泣かせた」
椛が小さく息を呑む。
「だから、オレは人間は忘れないとか、人間は勝手じゃないとか、そんなこと言えない」
琥珀は黙って聞いている。
輝は拳を握った。
「でも」
声が少しだけ震える。
怖い。
それでも、言った。
「椛のことを忘れないって、今ここで決めることはできる」
琥珀は静かに笑った。
「今だけなら、誰でも言える」
その言葉は、予想していた。
それでも胸に刺さる。
輝は唇を噛む。
「そうだな」
琥珀の笑みが少し薄れる。
「認めるんだ」
「認める。今だけなら、誰でも言える。オレも、ずっと先のことはまだ怖い。大人になって、町を離れて、何十年も経って、それでも絶対に忘れないって言い切れるかって聞かれたら、今でも怖い」
輝は椛を見る。
椛は、泣きながらこちらを見ている。
「でも、今だけだから意味がないとは思わない」
琥珀の瞳が揺れる。
「今、呼ぶ。明日も呼ぶ。その次も呼ぶ。忘れそうになったら、記録に残す。誰かに話す。椛がここにいたことを、楓がここにいたことを、白狐がただの怪物じゃなかったことを、玲が未空の友達だったことを、なかったことにしない」
未空が小さく息を呑んだ。
玲の名前。
その言葉に、空の月がわずかに揺れた。
どこかで玲が聞いているのかもしれない。
「それでも足りないかもしれない。きれいごとかもしれない。でも、恐怖で町に刻むより、オレはそっちを選びたい」
琥珀の狐火が、低く燃えた。
「人間らしい答えだね」
「たぶん、そうなんだろうな」
「弱い」
「弱いよ」
「すぐ折れる」
「折れたら、また立て直す」
「忘れたら?」
輝は答えに詰まりかけた。
しかし、今度は完全には黙らなかった。
「忘れたら、思い出せるものを残す」
武が顔を上げる。
輝は続けた。
「記録でも、祭りでも、名前でも、写真でも、誰かの話でも。完璧じゃなくても、残す。武が調べる。悠樹が整理する。綾乃が普通に呼ぶ。星川さんが見る。椛と楓が、自分でここにいるって言う。オレ一人じゃ無理でも、全部なくすよりはましだ」
琥珀は、初めて少しだけ苦い顔をした。
「人間は、そうやって都合のいい時だけ仲間の数を増やす」
「そうかもな」
輝は認めた。
「でも、椛は一人じゃない」
楓が頷く。
綾乃が椛の肩に手を置く。
未空が、夜の月を見据える。
武が、葉月神社の記録を強く抱える。
悠樹が、輝の横に立つ。
椛は琥珀の手を見た。
その手は優しい。
とても優しい。
消えない場所へ連れていってくれると言っている。
忘れられたものを救うと言っている。
でも、その手を取れば、今の町にいる人たちも、何も知らない人たちも、すべて琥珀の結界に閉じ込められる。
それは違う。
椛は、そう思った。
まだ怖い。
人間にまた忘れられることは怖い。
でも、怖いから全部を閉じるのは違う。
椛は楓の手を握り返した。
そして、琥珀へ向き直った。
「琥珀さん」
「椛」
「椛、消えたくない」
その言葉に、琥珀の表情が少しだけ和らぐ。
だが、椛は続けた。
「でも、町を閉じ込めて残りたいわけじゃない」
狐火が揺れる。
「椛は、ここにいたい。昔の小春市だけじゃなくて、今の小春市にもいたい。輝お兄ちゃんたちの隣にもいたい。楓とも一緒にいたい」
声は震えている。
でも、もう逃げてはいない。
「だから、琥珀さんとは行かない」
境内が静まり返った。
琥珀は、椛を見ていた。
その目には、怒りよりも先に深い悲しみが浮かんだ。
「そう」
彼は静かに言った。
「君も、人間の隣を選ぶんだね」
「人間だけじゃないよ」
椛は首を横に振る。
「楓もいる。琥珀さんも、本当はいてほしい。玲お姉ちゃんも」
空の月が揺れた。
玲の影が、鳥居の奥に一瞬だけ見えた気がした。
琥珀は目を伏せる。
「優しいね、椛」
声は穏やかだった。
けれど、その穏やかさの奥で、何かが切れた。
「だから、君は人間に利用される」
狐火が一斉に燃え上がった。
境内の景色が歪む。
昔の小春市。
今の小春市。
炎の屋根。
灯籠の川。
御神木の赤い葉。
図書室の白い本。
大きな月。
すべてが渦を巻き、焼けた御神木へ集まり始める。
悠樹が叫ぶ。
「来るぞ!」
武が葉月神社の記録を抱え直す。
綾乃が椛と楓の名前を呼ぶ。
「椛ちゃん! 楓ちゃん!」
未空は目を開き、夜の糸を見る。
「玲がいる。鳥居の奥。夜の道を閉じてる」
輝は布包みを解いた。
葉月神社の弓が、狐火の赤い光を受けて鈍く光る。
手が震える。
でも、逃げない。
琥珀は、白銀の尾を広げた。
人の形の背後に、巨大な狐の影が立ち上がる。
玉藻琥珀。
人間に恐れられ、怪物にされ、それでも椛を消したくなかった白銀の狐。
彼は輝たちを見下ろした。
「なら、見せてみなよ」
狐火が、御神木を包む。
「君たち人間の名前の呼び方が、僕の恐怖より強いと言うなら」
輝は弓を握った。
椛の名前を胸の中で呼ぶ。
楓の名前を、続けて呼ぶ。
小春市の夜が、赤く燃え始める。
最終の祭りが、始まろうとしていた。




