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第七章 椛を泣かせた日

 小春神社から帰ったあと、椛はあまり喋らなかった。


 いつものように笑わないわけではない。


 綾乃が玄関で靴を脱ぎながら「やっぱり神社の階段は人類の敵よ」と言うと、椛は小さく笑った。輝が「綾乃は帰り道ずっと膝がどうとか言ってたな」と余計なことを言って怒られると、少しだけ目元を緩めた。悠樹が買い物袋の中身を冷蔵庫へしまいながら「今日は消化のいいものにする」と言うと、素直にうなずいた。


 けれど、その笑い方はどこか薄かった。


 椛の輪郭そのものが、夕方の部屋の中で少しだけ淡くなっているように見える。


 未空は、それに気づいていた。


 リビングのソファーに座った椛は、綾乃が貸したカーディガンの袖を両手で握っている。視線はときどき窓の外へ向かう。そこから小春神社が見えるわけではない。見えるのは、マンションの向かいの住宅と、電線と、夕方の空だけだ。


 それでも、椛は何かを見ているようだった。


 焼けた御神木。


 黒い幹。


 手のひらに落ちた赤い楓の葉。


 そして、名前を呼ぶ声。


 知らないのに、知っている。


 椛が神社でそう言った時の声が、未空の耳にもまだ残っていた。


「椛」


 未空が小さく呼ぶ。


 椛はゆっくり振り向いた。


「なあに、お姉ちゃん」


「気持ち悪くない?」


「うん」


「頭は?」


「もう痛くない」


「本当に?」


 椛は少しだけ迷った。


 それから、曖昧に首を傾げる。


「痛くないけど、ざわざわする」


「ざわざわ」


「胸の中と、耳の奥。知らない声が、遠くでいっぱいしてるみたい」


 未空は黙って椛を見た。


 その言葉をどう受け取ればいいのか、まだわからない。


 椛の中に戻りかけている記憶なのか。


 焼けた御神木に残っていた何かなのか。


 それとも、椛自身が薄くなりすぎて、町の古い記憶と混ざりかけているのか。


 わからない。


 見えるのに、わからない。


 未空はそのことに、また小さく息苦しさを覚えた。


「未空、椛ちゃんどう?」


 綾乃が台所の方から顔を出した。


 手には、昨日持ってきたパイナップルの残りが入った皿を持っている。どうやら夕食後のデザートにするつもりらしい。


「元気ない」


「そうよね」


 綾乃は椛の前にしゃがみ、できるだけ声を柔らかくした。


「椛ちゃん、今日は疲れたよね。無理に喋らなくていいから」


 椛はこくんとうなずく。


「ありがとう」


 その声が小さすぎて、綾乃は少しだけ唇を結んだ。


 隣のキッチンでは、悠樹が鍋をかき混ぜていた。


 今夜の夕食は、卵雑炊と野菜の煮物、それから綾乃の家から持ってきたパイナップル。昨日のにぎやかなパスタとは違い、かなり控えめな献立だった。


 小春神社で倒れかけた椛を気遣ったのだろう。


 輝はリビングの床に座り込み、スマートフォンを片手にしている。


 ただし、画面は見ていない。


 ちらちらと椛を見て、また目を逸らし、ソファーの脚を指先で叩いている。


 妙に落ち着かない。


 輝本人も、それを自覚していた。


 普段なら、こういう時は軽口を叩く。


 空気が重いなら、明るくすればいい。沈黙が嫌なら、喋ればいい。怖いなら、笑い話にすればいい。


 それが輝のやり方だった。


 だが、昨日、椛を泣かせた。


 小春神社でも、椛は泣きそうになった。


 だから、今はいつもの調子で喋っていいのか迷っていた。


 迷っている。


 それでも、沈黙は苦手だった。


「なあ、椛」


 輝はつい口を開いた。


 悠樹がキッチンから一瞬だけこちらを見る。


 綾乃も少し警戒した顔をする。


 輝は手を振った。


「大丈夫だって。今度は変なこと言わない」


「もうその前置きが不安なのよ」


 綾乃が言う。


「信用なさすぎだろ」


「実績」


「便利な言葉にするな」


 輝は椛へ向き直る。


「その、神社で見たやつ。昔の川とか、子どもとか、椛さまって呼ぶ声とか。あれさ」


 椛は袖を握ったまま、輝を見る。


「神社と関係あるってことだよな。たぶん」


「……うん」


「ならさ、やっぱ椛って神様っぽい妖怪なんじゃね?」


 言った瞬間、部屋の空気が止まった。


 悠樹の手が鍋の上で止まる。


 綾乃が目を細める。


 未空は椛を見る。


 椛は、怒らなかった。


 昨日のように「椛、妖怪じゃないもん」と頬を膨らませることもなかった。


 ただ、少しだけ視線を落とした。


 それが、かえって輝の胸を冷やした。


「あ、いや、違う。妖怪って言い方があれなら、神様寄りの何かっていうか。ほら、すごい存在っぽいって意味で」


 言えば言うほど、言葉が軽くなる。


 輝にもわかった。


 けれど、一度転がり始めた言葉を止めるのが、彼はあまり得意ではない。


「別に悪い意味じゃなくてさ。むしろ、すごいっていうか。椛が何なのか、だんだんわかってきた感じがして――」


「椛」


 小さな声が、輝の言葉を止めた。


 椛は膝の上で両手を握っていた。


「迷惑なら、出ていく」


 その言葉は、あまりにも静かだった。


 誰もすぐに反応できなかった。


 リビングの時計の針の音だけが聞こえた。


 鍋の中で、雑炊が小さく煮える音がした。


「椛、何言って……」


 輝がようやく声を出す。


 椛は顔を上げなかった。


「椛、何かわからないし。ここにいたら、みんな困るでしょ。神社に行ったら倒れそうになったし、変なこと思い出したし、お兄ちゃんも見つからないし」


 声は泣いていない。


 けれど、泣く前よりずっと危うかった。


「椛、妖怪じゃないって言ったけど、神様かどうかもわからない。人間じゃないなら、人間のおうちにいたら、だめかもしれない」


「そういう話じゃない」


 悠樹が言った。


 キッチンから出てきた悠樹は、エプロンをつけたままだった。手にはお玉を持っている。普段なら少し間の抜けた格好に見えるかもしれないが、今は誰も笑わなかった。


「迷惑だからここにいるわけじゃない。困っていたから連れてきた。今も、困っているなら置いておく。それだけだ」


 椛は小さく首を横に振る。


「でも、椛、迷惑かけてる」


「迷惑と世話は違う」


 悠樹の声は静かだった。


「子どもが困っていたら世話をする。体調が悪いなら休ませる。行く場所がないなら、ひとまず泊まる場所を用意する。そこに神様か妖怪かは関係ない」


「でも、椛……」


「椛ちゃん」


 綾乃の声が、少し強くなった。


「出ていくなんて言わないで」


 椛が肩を震わせる。


 綾乃は自分の声が強くなったことに気づき、息を吸ってから、もう一度言った。


「ごめん。怒ってるんじゃないの。怒ってるのは、どっちかっていうと輝に」


「え、オレ?」


「あんたよ」


 綾乃は輝を睨んだ。


「何でそこでまた妖怪とか言うの。椛ちゃん、今日は神社で怖い思いしたばっかりでしょ。自分が何なのかもわからなくて不安なのに、勝手に分類しようとしないでよ」


 輝は言い返せなかった。


 綾乃の言葉は、まっすぐ刺さる。


 勝手に分類する。


 妖怪。


 神様っぽい何か。


 面白い存在。


 すごいもの。


 輝は、そうやって椛を見ていた。


 椛自身よりも、椛が何なのかの方を見ていた。


 未空は、黙って椛を見ていた。


 椛の輪郭が、さっきより少し薄くなっている。


 ソファーの上に確かに座っているはずなのに、夕方の空気に溶けかけているように見える。膝の上の手も、カーディガンの袖も、目を離したら形を失いそうだった。


 未空は椛の名前を呼んだ。


「椛」


 椛が顔を上げる。


 その瞬間、ほんの少しだけ輪郭が戻る。


 未空はそれを見た。


 名前。


 椛は、名前を呼ばれることで、少し安定する。


 そう感じた。


 けれど、今それを説明しても、きっと椛はもっと怖がる。


 だから未空は、もう一度だけ呼んだ。


「椛は、ここにいていい」


 短い言葉だった。


 椛は、未空を見た。


「お姉ちゃん」


「迷惑じゃない」


「でも」


「迷惑なら、あたしが言う」


 未空は淡々と言った。


 その言い方に、綾乃が少しだけ苦笑した。


「未空、それは優しいのか何なのか微妙だけど」


「嘘は言ってない」


「まあ、そうね」


 椛はほんの少しだけ目元を緩めた。


 けれど、すぐにまた俯いてしまう。


「でも、椛が何なのか、わからない」


 その声は、部屋の真ん中に落ちた。


「お兄ちゃんもわからない。ここも知らない。神社は知ってる気がするのに、怖い。椛さまって呼ばれた声も、知ってるのに知らない。椛、どうしたらいいのかわからない」


 言葉が続くたびに、椛の小さな身体がさらに縮こまっていく。


「もし椛がいない方が、みんな困らないなら……」


「それは違う」


 輝が言った。


 自分でも驚くくらい、声が強く出た。


 椛が顔を上げる。


 輝は、正座した。


 昨日と同じように。


 ただし、今度は笑わせるためではなかった。


「悪かった」


 短い謝罪。


 椛は何も言わない。


 輝は続ける。


「オレ、面白がってた。椛が何なのかより、すげえもの見つけたって、そっちばっか考えてた」


 言葉を選びながら、ゆっくり言う。


 不器用だった。


 普段の輝なら、勢いでごまかす。笑って流す。軽口を混ぜて、謝罪の重さを薄める。


 でも、今それをしたら、また傷つける。


 だから、輝は言葉を一つずつ置くように言った。


「白狐の動画も、御神木も、椛のことも。最初は全部、面白い怪談みたいに見てた。オレ、そういうの好きだから。普通じゃないもの見たら、すぐテンション上がるし。怖いより先に、すげえって思うし」


 輝は視線を落とす。


「でも、椛は怪談じゃない。ネタじゃない。目の前で泣くし、怖がるし、自分が何かわからなくて困ってる。そういうの、ちゃんと見てなかった」


 部屋は静かだった。


 悠樹も、綾乃も、未空も、何も言わない。


 椛だけが、輝を見ている。


「だから、悪かった」


 輝は頭を下げた。


「おまえが何なのか、オレはまだわかんない。でも、椛がここにいるのを迷惑だとは思ってない。出ていけとも思ってない。むしろ……」


 輝は少し言葉に詰まった。


 こういう真面目なことを言うのは、かなり苦手だった。


 綾乃が余計な茶々を入れずに黙っているのが、かえって恥ずかしい。


 悠樹が見ているのも落ち着かない。


 未空の静かな視線も、少し痛い。


 それでも、言わなければいけない気がした。


「むしろ、いてほしい」


 椛の瞳が揺れた。


「椛に、ここにいてほしい。少なくとも、椛が自分でどこに行きたいか決められるまでは。お兄ちゃんを探すなら、一緒に探すし。小春神社のことも調べる。白狐のことも、ちゃんと調べる」


 輝は顔を上げた。


「でも、もう椛のことを面白いもの扱いしない。たぶん、また失敗するかもしれないけど、その時はちゃんと怒ってくれ。泣く前に言ってくれ。いや、泣いてもいいけど……その、何だ」


 言葉が少し崩れる。


「とにかく、オレが悪かった。ごめん、椛」


 名前を呼んだ。


 椛。


 その名前が部屋の中に落ちた瞬間、未空には、椛の輪郭が少しだけ強くなったように見えた。


 椛は黙っていた。


 すぐには笑わなかった。


 すぐには許すとも言わなかった。


 ただ、膝の上で握っていた手の力を少しだけ緩めた。


「……椛、怒ってる」


「うん」


「ほっぺつまんだのも、妖怪って言ったのも、何って聞いたのも、今日のも」


「うん」


「全部、まだちょっと嫌」


「うん」


 輝は頷くしかなかった。


 椛は、じっと輝を見る。


「でも」


 小さな声。


「輝お兄ちゃん、今はちゃんとごめんって言った」


 輝は、少しだけ目を丸くした。


「輝お兄ちゃん?」


「だめ?」


「いや、だめじゃない。全然だめじゃない」


「じゃあ、そう呼ぶ」


「あ、はい」


 輝はなぜか背筋を伸ばした。


 綾乃が横から小さく笑う。


「よかったじゃない、お兄ちゃん」


「茶化すなよ」


「茶化してないわよ」


 綾乃は少しだけ優しい顔をしていた。


 悠樹はキッチンへ戻りながら言う。


「話がまとまったなら、夕食にする。雑炊が煮えすぎる」


「そこは現実的だな」


 輝が言う。


「食べなければ元気にならない」


 悠樹は振り返らずに答えた。


「椛ちゃん、少しでいいから食べよう。食べられなかったら残していい」


 椛は小さくうなずいた。


「うん」


 食卓には、湯気の立つ卵雑炊が並んだ。


 椛の分は小さめの器に盛られている。悠樹が少し冷ましてから渡すと、椛は両手で器を包むように持った。


「あったかい」


 それだけで、ほんの少し表情が和らぐ。


 輝は椛の向かいに座った。


 いつもなら真っ先に食べ始めるが、今日は椛が最初の一口を食べるまで待っていた。


 椛はスプーンで雑炊をすくい、ゆっくり口に運ぶ。


 飲み込む。


 そして、小さく言った。


「おいしい」


 悠樹の表情が、少しだけ緩んだ。


「それならよかった」


「椛、全部は食べられないかも」


「残していい」


「怒らない?」


「怒らない」


 椛は安心したように、もう一口食べた。


 部屋の空気が、少しずつ戻っていく。


 完全に明るくなったわけではない。


 けれど、さっきのように張り詰めてはいなかった。


 綾乃は椛にパイナップルを小さく切って渡し、未空は横で椛の様子を見ている。輝はいつもより静かに食べ、悠樹は全員の器の残りを確認している。


 椛は、時々手を止める。


 小春神社で見た記憶が戻ってくるのか、窓の外へ視線を向けることもある。


 そのたびに、輝は声をかけた。


「椛、水いるか?」


「ううん」


「椛、熱くないか?」


「だいじょうぶ」


「椛、パイナップル酸っぱくないか?」


「ちょっと酸っぱい。でも、おいしい」


 名前を呼ぶたびに、椛が少しずつそこに戻ってくる。


 輝はその変化に気づいていなかった。


 未空だけが、黙って見ていた。


 椛は名前を呼ばれることで安定する。


 それは、たぶん大事なことだった。


 けれど今は、まだ言わない。


 未空はそう決めた。


 夕食が終わる頃には、外はすっかり夜になっていた。


 綾乃は皿を下げるのを手伝いながら、輝を横目で見た。


「今日はちゃんと謝ったから、少しだけ見直した」


「少しだけかよ」


「少しだけよ。調子に乗るとまたやらかすから」


「信用ないな」


「回復途中」


「ゲームのステータスみたいに言うな」


 綾乃は鼻で笑った。


 未空は帰る前に、椛のそばへ来た。


「椛」


「なあに、お姉ちゃん」


「眠れなかったら、悠樹くんか輝くんを呼んで」


「お姉ちゃんは?」


「あたしは帰る」


 椛は少し寂しそうな顔をした。


 未空は一瞬だけ迷ってから、椛の頭にそっと手を置いた。


「明日、また来る」


「ほんと?」


「たぶん」


「たぶん?」


「用事がなければ」


 綾乃が横から言う。


「未空、そこは『来る』って言い切ってあげなさいよ」


「来る」


 未空は言い直した。


 椛は嬉しそうに笑った。


「うん」


 その笑顔を見て、未空もほんの少しだけ目元を緩めた。


 綾乃と未空が帰ったあと、部屋は急に静かになった。


 悠樹は食器を洗い、輝は珍しくテーブルを拭いた。椛はソファーの端に座り、眠そうに目をこすっている。


 昨日はリビングに布団を敷いた。


 今日は、椛が不安がったため、輝の部屋の近くに布団を敷くことになった。


 輝の部屋は散らかっている。


 悠樹が「このままでは椛ちゃんの教育に悪い」と言って、半ば強制的に床の雑誌や服を片づけさせた。


「何でオレの部屋にまで検閲が入るんだ」


「人を寝かせる部屋の周辺だからだ」


「椛は神様かもしれないんだぞ。人間の散らかりくらい気にしないだろ」


「神様かもしれないなら、なおさら片づけろ」


「たしかに」


 輝は妙に納得した。


 椛はそのやり取りを眠そうに見て、少し笑った。


「椛、ここで寝ていいの?」


「ああ」


 輝は布団を指さした。


「オレの部屋の前だから、何かあったら呼べ。悠樹でもいいけど、あいつ寝起き悪いから」


「嘘をつくな。寝起きが悪いのはおまえだ」


「オレは起きないだけで、起きれば普通だ」


「それを寝起きが悪いと言う」


 椛はくすくす笑った。


 輝は少し安心する。


 椛は布団に入ると、すぐに目を閉じた。


 けれど、眠る前に小さく言った。


「輝お兄ちゃん」


「何だ?」


「椛、ここにいてもいい?」


 輝は一瞬、言葉に詰まった。


 その問いが、思っていたよりずっと重かったからだ。


 迷惑なら出ていく。


 さっきの言葉が胸に戻ってくる。


 輝は、今度は軽口を叩かなかった。


「いていい」


 まっすぐ答える。


「椛は、ここにいていい」


 椛は目を閉じたまま、小さくうなずいた。


「うん」


 しばらくして、寝息が聞こえ始めた。


 輝は廊下の壁にもたれ、しばらくその寝息を聞いていた。


 小さい。


 頼りない。


 でも、確かにそこにいる。


 悠樹がリビングから声をかける。


「輝、寝るなら電気を消せ」


「まだ寝ない」


「また夜更かしか」


「ちょっとだけ」


「明日、起きられなくても知らないぞ」


「土曜の夜に正論言うなよ」


 悠樹は呆れたように息を吐いた。


「椛ちゃんを起こすなよ」


「わかってる」


 リビングの灯りが少し暗くなる。


 悠樹は自分の部屋へ戻った。


 輝はソファーに座り、スマートフォンを取り出した。


 白狐火災。


 検索すると、まだ動画は出てきた。


 何度も再投稿され、切り抜かれ、明るさを変えられ、スロー再生され、拡大されている。


 炎の中の白い狐。


 燃える屋根。


 赤いサイレン。


 画面の端で揺れる銀色の影。


 コメント欄には、相変わらず好き勝手な言葉が並んでいる。


 怖すぎ。


 加工だろ。


 小春市やば。


 白狐の呪い。


 御神木燃やした狐が次は家燃やしたってこと?


 これ映画化できる。


 輝は、少し前までそれを面白いと思っていた。


 すげえ。


 本当に妖怪じゃん。


 そんなふうに声を上げた自分を思い出す。


 画面の中で燃えているのは、誰かの家だった。


 焼けた御神木は、椛の記憶につながっていた。


 白い狐の噂の向こうには、何かを失った誰かがいるのかもしれない。


 そして、その噂を面白がる自分も、たぶんその一部だった。


「……嫌な感じだな」


 輝は小さく呟いた。


 スマートフォンの画面を消す。


 暗くなった画面に、自分の顔が映る。


 いつもの寝癖混じりの顔。


 軽くて、騒がしくて、余計なことばかり言う顔。


 それが少しだけ嫌になった。


 廊下の方から、椛の寝息が聞こえる。


 輝は立ち上がり、静かに近づいた。


 椛は布団の中で丸くなって眠っている。綾乃が貸したカーディガンを胸に抱き、少し不安そうな顔をしていた。


 輝はしゃがみ込む。


 声を出すか迷った。


 起こすかもしれない。


 でも、呼ばないと消えてしまうような気がした。


 根拠はない。


 ただ、そう思った。


「椛」


 小さく呼ぶ。


 椛は起きなかった。


 けれど、その眉間のしわが少しだけ緩んだ。


 輝はもう一度だけ、声にならないくらい小さく呼んだ。


「椛」


 その名前は、夜の部屋の中で静かに落ちた。


 怪談でも、噂でも、妖怪でも、神様でもなく。


 ただ、眠っている小さな迷子の名前として。


 輝はしばらくそこに座っていた。


 白狐火災の動画を見て胸が高鳴ったことを、なかったことにはできない。


 今でも、心のどこかで未知のものに惹かれている。


 それはきっと、すぐには変わらない。


 けれど、面白いものの向こうに誰かがいるのなら。


 怖い話の向こうで誰かが泣いているのなら。


 そこを見ないまま笑うのは、たぶん違う。


 輝は、まだうまく言葉にできなかった。


 でも、その夜、初めてそう思った。


 窓の外では、小春市の夜が静かに広がっている。


 楓川の水面には月が映り、焼けた小春神社の御神木は暗い境内で黙って立っている。


 町は眠っているように見える。


 けれど、その底では、忘れられた名前が、まだかすかに息をしていた。


 輝はもう一度だけ、眠る椛を見て、小さく言った。


「おやすみ、椛」


 今度は、椛の口元が少しだけ笑ったように見えた。

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