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第六章 焼けた神社

 土曜日の朝は、平日より少しだけ町の音が遅い。


 駅前はそれなりに人が多い。買い物へ向かう家族連れ、部活へ向かう中学生、スマートフォンを片手に待ち合わせ場所を探す大学生らしき人たち。けれど、通勤通学で押し流される平日の朝とは違って、どこか歩幅がゆるい。


 小春駅から離れるにつれて、そのゆるさはさらに濃くなっていく。


 旧駅前商店街のシャッターは、まだ半分ほど閉まっていた。和菓子屋の店先では、白髪の店主が暖簾を出している。古い写真館のショーウィンドウには、色あせた七五三の写真が飾られたままだった。少し歩けば、道は楓川の方へ下り、住宅地と小さな畑が混ざった景色に変わる。


 その先に、小春神社へ続く石段がある。


「……ほんとに行くんだな」


 真堂輝は、石段の下で足を止めた。


 見上げると、苔のついた石段が木々の間をまっすぐ上へ伸びていた。段数はそこまで多くないはずなのに、下から見ると妙に長く見える。両側には古い石灯籠が並び、そのうちいくつかは傾いていた。


 石段の上には、くすんだ鳥居が見える。


 朱色だったはずの塗りはところどころ剥げ、木の肌が黒ずんでいる。鳥居の根元には落ち葉が溜まり、誰かが掃いた跡もない。


 小春神社。


 駅前の地図には一応載っている。


 けれど、わざわざ訪れる人は少ない。


 初詣も、地域の大きな催しも、今はもっと人の集まる葉月神社の方へ流れている。小春神社は、古い町の記憶の隅に残っているだけの場所だった。


 輝の隣で、涼宮綾乃が石段を見上げて顔をしかめる。


「思ったより階段あるわね」


「いや、まだ上ってもいないだろ」


「見ただけで疲れる階段ってあるのよ」


「どんだけ運動不足なんだ」


「うるさい。あんただってすぐ息切れするでしょ」


「オレは気合いで上る」


「気合いって便利ね」


 いつもの調子で言い合う二人の後ろで、葵城悠樹は小さくため息をついた。


「二人とも、神社の前で騒ぐな」


 悠樹は手に小さなトートバッグを持っている。中には水筒、タオル、簡単な救急セット、椛用に持ってきた薄手の上着が入っていた。


 昨日の夜から、悠樹は完全に保護者の動きになっている。


 本人は認めていないが、誰が見てもそうだった。


 その悠樹のすぐ横で、椛が石段の上を見つめていた。


 椛は昨日と同じ白い千早と紅い袴姿だった。ただし、上から綾乃が貸した薄手のカーディガンを羽織っている。巫女装束に現代のカーディガンという不思議な組み合わせだったが、本人は寒くないらしく、大事そうに袖を握っていた。


 椛は、鳥居を見上げたまま動かない。


「椛?」


 輝が声をかける。


 椛は返事をしなかった。


 大きな琥珀色の瞳が、石段の上に吸い寄せられている。


 怖がっているようにも見える。


 懐かしがっているようにも見える。


 どちらなのか、輝にはわからなかった。


「大丈夫か?」


 輝は昨日より少しだけ慎重な声で聞いた。


 昨日、椛を面白がって泣かせてしまった。


 そのことが、まだ胸の奥に残っている。


 椛はゆっくり瞬きをした。


「……わかんない」


「何が?」


「ここ、知ってる気がするの」


 椛は小さく言った。


「でも、知らないの。椛、来たことないのに、来たことあるみたいで……こわい」


 悠樹が静かに近づく。


「無理に上らなくてもいい」


「でも」


 椛は石段の上を見たまま、両手を胸の前で握った。


「行かなきゃいけない気がする」


 その声は震えていた。


 輝は綾乃と顔を見合わせる。


 綾乃は少しだけ表情を引き締めて、椛のそばに立った。


「じゃあ、ゆっくり行こ。怖くなったら止まればいいから」


 椛は綾乃を見る。


「止まっていいの?」


「いいに決まってるでしょ」


 綾乃は少し強めに言った。


「怖いのに無理して進む必要ないわよ」


 椛は、ほんの少しだけ安心した顔になった。


「うん」


 四人は石段を上り始めた。


 石段は古かった。


 ところどころ欠け、雨で削られ、苔が薄く張っている。足を置くたびに、石の冷たさが靴底越しに伝わるようだった。周囲の木々は春の若葉をつけているのに、境内へ続く道だけは少し暗い。


 鳥の声がする。


 遠くで車の音が聞こえる。


 けれど、石段を数段上るごとに、町の音が少しずつ遠くなっていった。


「何かさ」


 輝が小声で言う。


「空気、変わらないか?」


「神社だからだろ」


 悠樹が答える。


「神社ってそういうものなのか?」


「静かな場所へ来れば、そう感じることもある」


「現実的だな」


「現実だ」


 悠樹はそう言いながらも、いつもより周囲を見ていた。


 石灯籠。


 苔。


 古い木の根。


 半分埋もれた小さな石碑。


 そこに刻まれた文字は、風雨でほとんど読めない。


 ただ、「楓」という字だけがかすかに残っているように見えた。


 綾乃は途中で少し息を乱し始めた。


「……ちょっと待って。階段、長くない?」


「まだ半分くらいだぞ」


 輝が言う。


「言わないで」


「運動しろよ」


「あんたに言われたくない」


 椛はそんな二人のやり取りを見て、小さく笑った。


 その笑い声で、空気の重さが少しだけ緩む。


 輝はそれに気づき、わざと大げさに言った。


「綾乃、ここで倒れるなよ。オレは椛を背負う予定だから、おまえまでは無理だ」


「何でアタシが倒れる前提なのよ」


「顔」


「殴るわよ」


「神社の階段で暴力はよくない」


「都合よく神聖な空気を使うな」


 椛がまた笑う。


 悠樹は呆れながらも、少しだけ口元を緩めた。


 そうして上りきった先に、小春神社の境内があった。


 第一印象は、静かすぎる、だった。


 鳥居をくぐった先に、広いとは言えない境内がある。石畳はところどころ草に覆われ、古い灯籠には蜘蛛の巣がかかっていた。手水舎には水がなく、底に落ち葉と砂が溜まっている。社務所の引き戸は閉ざされ、窓には薄く埃が積もっていた。


 拝殿も古びていた。


 賽銭箱の木は黒ずみ、鈴の紐は色あせている。紐の下の方はすり切れかけ、誰かが最後に鳴らしたのがいつなのかわからない。


 人の気配がない。


 誰かが毎日掃除している神社とは違う。


 ここは、残っているだけの場所だった。


「……ほんとに誰もいないんだな」


 輝が呟く。


 綾乃も周囲を見回した。


「神社って、もう少し人がいるものだと思ってた」


「小春神社は普段から無人らしい」


 悠樹が言う。


「社務所にも常駐していないと聞いた」


「聞いたって、誰に?」


「昨日、少し調べた」


 綾乃が半眼になる。


「昨日の夜、夕飯作って、片づけして、椛ちゃんの寝る場所用意して、その後に調べたの?」


「必要だと思ったから」


「皇子様、過労で倒れるわよ」


「その呼び方はやめろ」


「じゃあ主婦」


「もっとやめろ」


 輝が横から口を挟む。


「いや、これはもう神社調査家政夫だろ」


「長い。黙れ」


「ひどい」


 いつものやり取り。


 けれど、椛だけは笑わなかった。


 拝殿の前で立ち尽くしている。


 賽銭箱。


 鈴の紐。


 くすんだ拝殿。


 そのすべてを、知っているような、知らないような顔で見つめている。


「椛?」


 綾乃が声をかける。


 椛はゆっくり、拝殿の方へ歩いた。


 小さな足音が石畳に響く。


 拝殿の前で止まり、鈴の紐を見上げる。


「ここ……」


 声がかすれた。


「ここで、音がしてた」


「鈴?」


 輝が聞く。


 椛は首を傾げる。


「わからない。でも、からん、からんって。いっぱい、人が来て……椛……」


 そこで言葉が止まった。


 思い出しそうで、思い出せない。


 椛は両手で頭を押さえた。


「椛?」


 輝が近づこうとした時、椛は奥を見た。


 拝殿のさらに奥。


 境内の端。


 そこに、黒いものが立っていた。


 焼けた御神木だった。


 大きな楓の木だったのだろう。


 幹は太く、根は地面の奥まで広がっている。だが、今は幹の半分以上が黒く焦げ、枝は折れ、葉はない。上の方は焼け落ちたように歪み、炭になった木肌が朝の光を鈍く吸い込んでいた。


 周囲には黄色い立入禁止のロープが張られている。


 簡単な看板も立っていた。


『危険 火災により倒木のおそれがあります。立ち入らないでください』


 焦げた匂いが、まだ微かに残っている。


 輝は息を呑んだ。


 動画や噂で聞くのとは違う。


 目の前にある焼け跡は、面白い怪談ではなかった。


 そこには、本当に燃えたものがあった。


 椛は、御神木を見つめていた。


 表情が消えている。


「……お兄ちゃん」


 小さな声だった。


 けれど、輝にははっきり聞こえた。


「椛、今……」


 椛は答えない。


 そのまま、ふらふらと御神木へ向かって歩き出す。


「待って、椛ちゃん」


 綾乃が止めようとしたが、椛は聞こえていないようだった。


 悠樹がすぐに動く。


「ロープの中には入らない」


 声は強かった。


 椛はロープの手前で止まった。


 けれど、視線は焼けた幹から離れない。


 黒く焦げた御神木。


 炭になった枝。


 地面に落ちた灰。


 そのすべてが、椛を呼んでいるようだった。


「椛、ここ、知ってる」


 椛の声が震えた。


「知らないのに、知ってる。ここに、いた。ここで、待ってた。ここで……」


 言葉が途切れる。


 椛はロープの隙間から、小さな手を伸ばした。


 直接触れるには少し遠い。


 それでも、指先が焦げた幹へ向かう。


 悠樹が止めようとした。


 だが、その前に、焦げた御神木の表面から何かが落ちた。


 赤いもの。


 一枚の楓の葉だった。


 いや、葉ではない。


 幻だった。


 焦げた黒い幹から、ありえないほど鮮やかな赤い楓の葉が一枚、音もなくこぼれ落ちる。


 葉は風もないのにゆっくり舞い、ロープのこちら側へ落ちてきた。


 椛の手のひらに、そっと乗る。


 その瞬間、椛の瞳が大きく見開かれた。


 世界が、揺れた。


 椛の中で、知らない景色がはじける。


 雨。


 激しい雨。


 黒く濁った楓川が、土手を越えてあふれている。


 水が田を飲み込み、家の軒先まで迫り、人々の叫び声が雨音に混ざる。


 子どもを抱えた母親が、泥だらけの足で石段を駆け上がる。


 老人が御神木にすがる。


 誰かが鈴を鳴らす。


 からん。


 からん。


 何度も。


 何度も。


 御神木の枝には、布切れが結ばれていた。


 願い。


 名前。


 子どもの無事。


 川の鎮まり。


 田畑の実り。


 病が治るように。


 帰ってこない人が帰るように。


 たくさんの声が重なっている。


『椛さま』


 誰かが呼んだ。


『椛さま、どうか川を鎮めてください』


 また別の声。


『椛さま、今年も実りがありますように』


 子どもたちの笑い声。


 石段を駆け上がる小さな足音。


 御神木の下でかくれんぼをする声。


『椛さま、見つけた!』


『椛さまにお願いしたら、熱が下がったって』


『椛さま、椛さま』


 その名前が、何度も、何度も呼ばれる。


 椛。


 椛。


 椛さま。


 木漏れ日の中で、誰かが笑っている。


 楓の葉が降っている。


 大きな木が、風に枝を揺らしている。


 あたたかい。


 懐かしい。


 ここにいた。


 ここに、いたのに。


 次の瞬間、景色が赤く染まった。


 火。


 黒い煙。


 焦げる匂い。


 枝が折れる音。


 誰かが泣いている。


 誰かが笑っている。


 白い影。


 炎の中で揺れる尾。


 そして――。


「いやっ!」


 椛が叫んだ。


 手の中の赤い葉が弾けるように消える。


 椛の身体がぐらりと傾いた。


「椛!」


 輝が叫ぶ。


 だが、先に動いたのは悠樹だった。


 ロープの手前で倒れかけた椛を、悠樹が支える。


 小さな身体は驚くほど軽かった。


 椛は息を荒くし、両手で頭を押さえている。


「椛ちゃん!」


 綾乃が駆け寄る。


 輝も慌てて膝をついた。


「大丈夫か!? おい、椛!」


 声が、昨日よりずっと真剣だった。


 椛は震える目で輝を見た。


 涙が浮かんでいる。


「知らないのに……知ってる」


「何を」


「川。雨。鈴。木。子どもたち。椛の名前を呼ぶ声」


 椛は自分の胸を押さえる。


「でも、椛、知らない。覚えてないのに、知ってるの。ここ、椛の場所みたいで……でも、こわい」


 悠樹は椛を支えたまま、落ち着いた声で言った。


「無理に思い出さなくていい」


「でも」


「今は座ろう」


 悠樹は境内の端にある石のベンチへ椛を連れていく。


 綾乃がすぐにバッグから水筒を取り出した。


「椛ちゃん、水飲める?」


「……うん」


「ゆっくりでいいから」


 綾乃の声はいつもの勢いを抑えていた。


 輝は焼けた御神木を見上げた。


 黒い幹。


 立入禁止のロープ。


 まだ残る焦げた匂い。


 さっきまで、ここは白狐火災と関係があるかもしれない面白い場所だった。


 けれど、椛の叫びを聞いたあとでは、そんなふうには見えなかった。


 この木は、ただの手がかりではない。


 椛にとって、もっと大事なものだった。


 そのことだけは、輝にもわかった。


「……なあ、悠樹」


「何だ」


「あれ、何だったんだ? 今、赤い葉っぱが」


「僕にも見えた」


 悠樹は珍しく、すぐに否定しなかった。


 綾乃も小さく頷く。


「アタシにも見えた。焦げた木から、赤い葉が落ちた」


「春なのに楓の葉って、変だよな」


「そこだけじゃないでしょ」


「まあ、そうだけど」


 輝はロープの向こうを見つめる。


 御神木は動かない。


 ただ、黒く焼けたままそこに立っている。


 だが、その根元には、まだ何かが残っている気がした。


 完全に死んでいない。


 そんな、根拠のない感覚。


 その時、石段の方から軽い足音が聞こえた。


「おーい、輝ー、悠樹ー!」


 振り返ると、藍澄武が手を振りながら境内へ入ってきた。


 休日だからか、私服姿だった。動きやすそうなパーカーにジーンズ、斜めがけのバッグ。小柄な体で石段を上ってきたにもかかわらず、息はほとんど乱れていない。


 綾乃が目を細める。


「元気ね、あんた」


「毎朝走ってるからね」


 武はにこにこしながら近づいてくる。


「いやー、やっぱり来てたんだね。ボクも白狐火災の調査で小春神社に来てみたんだけど――」


 そこで武の視線が御神木へ向いた。


 目が輝く。


「うわ……本当に焼けてる。すごい、これが噂の御神木火災の現場かあ。写真で見るより迫力あるね。ここに白い狐が出たって話が――」


 ぱしん。


 綾乃の手が、武の頭を軽く叩いた。


「痛っ。何するの綾乃」


「面白がってる場合じゃないでしょ」


 綾乃の声は低かった。


 武はきょとんとする。


 綾乃は御神木を指さした。


「あれ、燃えたのよ。神社の大事な木だったんでしょ。椛ちゃんも具合悪くなったばかりなのに、すごいとか迫力とか言う場面じゃない」


 武の表情が、少しずつ変わる。


 輝は何も言わなかった。


 自分も昨日、同じように椛を面白がったからだ。


 武は椛を見る。


 ベンチに座った椛は、水筒を両手で持ち、まだ少し顔色が悪い。


「……ごめん」


 武は小さく言った。


「ボク、ちょっと浮かれてた」


 椛は首を横に振った。


「大丈夫」


「大丈夫じゃない時は、大丈夫って言わなくていいのよ」


 綾乃がすかさず言う。


 椛は少しだけ困った顔をしてから、こくんとうなずいた。


「じゃあ……ちょっと、こわかった」


 武はさらにしゅんとした。


「ごめんね」


「うん」


 椛はそれだけ言って、また御神木の方を見た。


 武は輝の隣に立ち、声を落とした。


「何かあったの?」


「焦げた木から赤い楓の葉が落ちた」


「えっ、何それ見たかった」


 綾乃の視線が刺さる。


 武は慌てて両手を振った。


「違う違う、今のは失言。ごめん。えっと、何が起きたの?」


「椛が記憶みたいなのを見たらしい」


「記憶?」


「昔の川とか、鈴とか、子どもたちとか、自分の名前を呼ぶ声とか」


 武は真剣な顔になる。


 さっきまでの軽さは少し薄れていた。


「小春神社と関係あるってこと?」


「たぶん」


 輝はそう答えた。


 以前なら「絶対そうだ」と騒いでいたかもしれない。


 だが、今は簡単に断言できなかった。


 椛が怯えている。


 その事実があるだけで、軽い言葉が出しづらかった。


「星川さんは?」


 武が尋ねる。


「後から来るって」


 悠樹が答えた。


「連絡したの?」


「場所だけ送った。無理に来る必要はないとも言った」


「来ると思う?」


「来るだろうな」


 輝が言う。


「星川さん、こういうの見逃さなそうだし」


「見逃すとか、そういう話ではないと思うが」


 悠樹が言う。


 その時、石段の方に静かな足音がした。


 星川未空だった。


 私服ではなく、制服に近い落ち着いた服装。手には小さなバッグを持っている。長い黒髪が風に揺れ、階段を上りきっても息を乱していない。


 未空は境内へ入ると、まず椛を見た。


「椛」


「お姉ちゃん」


 椛の表情が少しだけほっとする。


 未空は椛の隣に立ち、軽く肩へ手を置いた。


「大丈夫?」


「ちょっと、こわかった」


「そう」


 未空は御神木を見る。


 その目が、わずかに細くなる。


 彼女には、黒い幹の奥にまだ残っているものが見えていた。


 赤い光。


 根元の奥で息をしている小さな火。


 燃やし尽くす炎ではなく、消えかけた生命のようなもの。


「まだ、いる」


 未空が呟いた。


 悠樹が聞き返す。


「何が?」


「木の中に、何か残ってる」


「御神木の生命力、という意味ですか」


「たぶん」


「たぶんが多いな」


「見えるけど、わからない」


 いつもの答え。


 だが、今回は誰も茶化さなかった。


 輝は御神木を見る。


 自分には何も見えない。


 黒く焦げた木があるだけだ。


 けれど、未空がそう言うなら、何かがあるのだろう。


 そう思い始めている自分に、輝は少しだけ驚いた。


 昨日までなら、面白がって聞いていた。


 今は、椛のために知りたいと思っている。


 その違いは小さいようで、たぶん大きい。


「ねえ」


 綾乃が境内の端を指さした。


「あれ、何?」


 そこには掲示板があった。


 古い木枠の掲示板で、町内会の知らせや防犯ポスター、地域清掃の案内が貼られている。その中に、新しい紙が一枚あった。


『小春神社周辺整備計画に関する説明会のお知らせ』


 白い紙に、きれいな文字でそう書かれている。


 悠樹が近づき、内容を読む。


「小春神社周辺の老朽化施設の安全対策、参道の整備、防災設備の更新、地域活性化を目的とした再整備計画……」


 輝も横から覗き込む。


「再開発ってことか?」


「大きく言えばそうだな。ただ、内容を見る限り、完全に壊して別のものにするというより、周辺の整備計画らしい」


「でもさ、こういうのって結局、古いものがなくなるやつじゃないの?」


 綾乃が言う。


 悠樹は紙面から目を離さない。


「そうとは限らない。老朽化した施設を安全にすること自体は悪いことではない。参道の整備も、防災設備の更新も、必要なことではある」


「皇子様、現実的」


「その呼び方はやめろ」


「じゃあ主婦」


「もっとやめろ」


 いつものやり取りだったが、悠樹の声は少し真面目だった。


「再開発や整備は、古いものを壊すだけとは限らない。放置された場所を安全に保つためには、人の手を入れる必要がある。ここも、今のままだと危険な場所が多い」


 輝は御神木を見る。


 立入禁止のロープ。


 焦げた幹。


 倒木のおそれ。


 確かに、このまま放置していい場所ではないのだろう。


「じゃあ、いいことなのか?」


「単純には言えない」


 悠樹は掲示板を見つめたまま言う。


「何を残して、何を変えるのか。その決め方による」


 椛が、ゆっくりと掲示板へ近づいた。


 未空がそばについている。


 椛は紙を見上げた。


 文字の意味がどこまでわかっているのかはわからない。


 けれど、その紙を見た瞬間、椛の顔がひどく不安そうになった。


「椛?」


 輝が声をかける。


 椛は胸元を握る。


「ここ、なくなるの?」


「いや、そういうわけじゃないと思うぞ」


 輝は慌てて言った。


 だが、椛の不安は消えない。


「この木も、なくなるの?」


 誰もすぐには答えられなかった。


 倒木のおそれがある。


 安全対策が必要。


 焼けた御神木をどうするのか。


 残すのか、切るのか、撤去するのか。


 掲示板の紙には、そこまでは書かれていない。


 悠樹は慎重に言った。


「まだ決まっていないと思う」


「決まったら?」


「それは……」


 悠樹は言葉を選ぶ。


「危険なら、切らなければならない場合もある」


 椛の顔がさらに青ざめた。


 輝が思わず口を挟む。


「でも、決まったわけじゃないんだろ?」


「そうだ」


「なら、まだわからない。な?」


 椛は輝を見る。


 輝の声は少し不器用だった。


 慰め方がわからない。


 軽く言えば傷つけるかもしれない。


 でも、何も言わないこともできない。


「オレたちで、ちゃんと調べようぜ」


 輝は言った。


「この神社のことも、御神木のことも、椛のことも。何もわからないまま怖がるより、知った方がいいだろ」


 椛は小さく頷いた。


「うん」


 その返事は弱かった。


 けれど、輝には少しだけ届いた気がした。


 武がバッグからスマートフォンを取り出しかけて、綾乃の視線に気づき、そっと戻した。


「写真は?」


 綾乃が聞く。


「撮らない」


「よろしい」


「でも、メモはする」


「それはいいんじゃない?」


 武は小さなメモ帳を取り出した。


「小春神社周辺整備計画。説明会。御神木の今後不明。椛ちゃん、掲示に不安反応……」


「書き方が観察記録みたい」


 輝が言う。


「情報は大事だよ」


「その言い方、ちょっと悠樹っぽいな」


「え、やだ」


「やだとは何だ」


 悠樹が抗議する。


 少しだけ場が軽くなる。


 だが、完全には戻らない。


 小春神社の境内は静かだった。


 無人の社務所。


 色あせた鈴の紐。


 古びた賽銭箱。


 焼けた御神木。


 再整備計画の白い紙。


 ここには、誰かが忘れてきたものと、これから変えようとしているものが同時に置かれていた。


 椛はその真ん中に立っている。


 自分が何者なのかもわからないまま。


 自分がこの場所とどうつながっているのかもわからないまま。


 それでも、ここを見て不安になる。


 それはきっと、理由のある不安だった。


「今日は、ここまでにしましょう」


 悠樹が言った。


「椛ちゃんの体調も心配です。これ以上無理をするべきではない」


「そうね」


 綾乃も頷く。


「帰って休も。あとで服とかも考えなきゃだし」


「服?」


 椛が首を傾げる。


「その格好もかわいいけど、ずっとそれだと目立つでしょ。普通の服、今度見に行こ」


「普通の服……」


 椛は自分の袖を見る。


「椛、普通になれる?」


 綾乃は一瞬、言葉に詰まった。


 それから、笑って言う。


「なれるっていうか、椛ちゃんは椛ちゃんでしょ。服はただの服」


 椛は少し考えた。


「そっか」


「そうよ」


 未空が椛の手を取る。


「帰ろう」


「うん」


 輝たちは境内を後にする。


 鳥居へ向かう途中、輝は一度だけ振り返った。


 焼けた御神木。


 立入禁止のロープ。


 その根元に、赤い楓の葉が落ちている気がした。


 だが、瞬きをすると何もない。


 ただ黒い灰が、風にかすかに揺れているだけだった。


 石段を下り始める。


 綾乃は早くも「下りの方が膝に来る」と文句を言い、武が「え、そうかな?」と悪気なく言って睨まれている。悠樹は椛が転ばないように少し後ろから見ている。未空は黙って椛の隣を歩いている。


 輝は、一番後ろで立ち止まった。


 何となく、見られている気がした。


 振り返る。


 境内には誰もいない。


 無人の神社。


 焼けた御神木。


 くすんだ鳥居。


 けれど、社の奥の木陰に、一瞬だけ白い影が見えた。


 狐の形をしていた。


 白銀の毛並み。


 細い耳。


 揺れる尾。


 輝が息を呑んだ瞬間、影は木漏れ日に溶けるように消えた。


「輝?」


 下から悠樹の声がした。


「何してる」


「……いや」


 輝は目をこする。


 もう一度見ても、何もいない。


「何でもない」


「早く来い」


「わかってる」


 輝は石段を下り始めた。


 胸の奥が、さっきからずっとざわついている。


 白狐。


 御神木。


 椛の記憶。


 再開発の告知。


 全部が、少しずつつながりかけている。


 けれど、まだ形にはならない。


 小春神社の上で、風が吹いた。


 焼けた御神木の黒い枝が、かすかに軋む。


 その音はまるで、長い間名前を呼ばれなかった誰かが、ようやく目を覚ましかけているようだった。

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