第六章 焼けた神社
土曜日の朝は、平日より少しだけ町の音が遅い。
駅前はそれなりに人が多い。買い物へ向かう家族連れ、部活へ向かう中学生、スマートフォンを片手に待ち合わせ場所を探す大学生らしき人たち。けれど、通勤通学で押し流される平日の朝とは違って、どこか歩幅がゆるい。
小春駅から離れるにつれて、そのゆるさはさらに濃くなっていく。
旧駅前商店街のシャッターは、まだ半分ほど閉まっていた。和菓子屋の店先では、白髪の店主が暖簾を出している。古い写真館のショーウィンドウには、色あせた七五三の写真が飾られたままだった。少し歩けば、道は楓川の方へ下り、住宅地と小さな畑が混ざった景色に変わる。
その先に、小春神社へ続く石段がある。
「……ほんとに行くんだな」
真堂輝は、石段の下で足を止めた。
見上げると、苔のついた石段が木々の間をまっすぐ上へ伸びていた。段数はそこまで多くないはずなのに、下から見ると妙に長く見える。両側には古い石灯籠が並び、そのうちいくつかは傾いていた。
石段の上には、くすんだ鳥居が見える。
朱色だったはずの塗りはところどころ剥げ、木の肌が黒ずんでいる。鳥居の根元には落ち葉が溜まり、誰かが掃いた跡もない。
小春神社。
駅前の地図には一応載っている。
けれど、わざわざ訪れる人は少ない。
初詣も、地域の大きな催しも、今はもっと人の集まる葉月神社の方へ流れている。小春神社は、古い町の記憶の隅に残っているだけの場所だった。
輝の隣で、涼宮綾乃が石段を見上げて顔をしかめる。
「思ったより階段あるわね」
「いや、まだ上ってもいないだろ」
「見ただけで疲れる階段ってあるのよ」
「どんだけ運動不足なんだ」
「うるさい。あんただってすぐ息切れするでしょ」
「オレは気合いで上る」
「気合いって便利ね」
いつもの調子で言い合う二人の後ろで、葵城悠樹は小さくため息をついた。
「二人とも、神社の前で騒ぐな」
悠樹は手に小さなトートバッグを持っている。中には水筒、タオル、簡単な救急セット、椛用に持ってきた薄手の上着が入っていた。
昨日の夜から、悠樹は完全に保護者の動きになっている。
本人は認めていないが、誰が見てもそうだった。
その悠樹のすぐ横で、椛が石段の上を見つめていた。
椛は昨日と同じ白い千早と紅い袴姿だった。ただし、上から綾乃が貸した薄手のカーディガンを羽織っている。巫女装束に現代のカーディガンという不思議な組み合わせだったが、本人は寒くないらしく、大事そうに袖を握っていた。
椛は、鳥居を見上げたまま動かない。
「椛?」
輝が声をかける。
椛は返事をしなかった。
大きな琥珀色の瞳が、石段の上に吸い寄せられている。
怖がっているようにも見える。
懐かしがっているようにも見える。
どちらなのか、輝にはわからなかった。
「大丈夫か?」
輝は昨日より少しだけ慎重な声で聞いた。
昨日、椛を面白がって泣かせてしまった。
そのことが、まだ胸の奥に残っている。
椛はゆっくり瞬きをした。
「……わかんない」
「何が?」
「ここ、知ってる気がするの」
椛は小さく言った。
「でも、知らないの。椛、来たことないのに、来たことあるみたいで……こわい」
悠樹が静かに近づく。
「無理に上らなくてもいい」
「でも」
椛は石段の上を見たまま、両手を胸の前で握った。
「行かなきゃいけない気がする」
その声は震えていた。
輝は綾乃と顔を見合わせる。
綾乃は少しだけ表情を引き締めて、椛のそばに立った。
「じゃあ、ゆっくり行こ。怖くなったら止まればいいから」
椛は綾乃を見る。
「止まっていいの?」
「いいに決まってるでしょ」
綾乃は少し強めに言った。
「怖いのに無理して進む必要ないわよ」
椛は、ほんの少しだけ安心した顔になった。
「うん」
四人は石段を上り始めた。
石段は古かった。
ところどころ欠け、雨で削られ、苔が薄く張っている。足を置くたびに、石の冷たさが靴底越しに伝わるようだった。周囲の木々は春の若葉をつけているのに、境内へ続く道だけは少し暗い。
鳥の声がする。
遠くで車の音が聞こえる。
けれど、石段を数段上るごとに、町の音が少しずつ遠くなっていった。
「何かさ」
輝が小声で言う。
「空気、変わらないか?」
「神社だからだろ」
悠樹が答える。
「神社ってそういうものなのか?」
「静かな場所へ来れば、そう感じることもある」
「現実的だな」
「現実だ」
悠樹はそう言いながらも、いつもより周囲を見ていた。
石灯籠。
苔。
古い木の根。
半分埋もれた小さな石碑。
そこに刻まれた文字は、風雨でほとんど読めない。
ただ、「楓」という字だけがかすかに残っているように見えた。
綾乃は途中で少し息を乱し始めた。
「……ちょっと待って。階段、長くない?」
「まだ半分くらいだぞ」
輝が言う。
「言わないで」
「運動しろよ」
「あんたに言われたくない」
椛はそんな二人のやり取りを見て、小さく笑った。
その笑い声で、空気の重さが少しだけ緩む。
輝はそれに気づき、わざと大げさに言った。
「綾乃、ここで倒れるなよ。オレは椛を背負う予定だから、おまえまでは無理だ」
「何でアタシが倒れる前提なのよ」
「顔」
「殴るわよ」
「神社の階段で暴力はよくない」
「都合よく神聖な空気を使うな」
椛がまた笑う。
悠樹は呆れながらも、少しだけ口元を緩めた。
そうして上りきった先に、小春神社の境内があった。
第一印象は、静かすぎる、だった。
鳥居をくぐった先に、広いとは言えない境内がある。石畳はところどころ草に覆われ、古い灯籠には蜘蛛の巣がかかっていた。手水舎には水がなく、底に落ち葉と砂が溜まっている。社務所の引き戸は閉ざされ、窓には薄く埃が積もっていた。
拝殿も古びていた。
賽銭箱の木は黒ずみ、鈴の紐は色あせている。紐の下の方はすり切れかけ、誰かが最後に鳴らしたのがいつなのかわからない。
人の気配がない。
誰かが毎日掃除している神社とは違う。
ここは、残っているだけの場所だった。
「……ほんとに誰もいないんだな」
輝が呟く。
綾乃も周囲を見回した。
「神社って、もう少し人がいるものだと思ってた」
「小春神社は普段から無人らしい」
悠樹が言う。
「社務所にも常駐していないと聞いた」
「聞いたって、誰に?」
「昨日、少し調べた」
綾乃が半眼になる。
「昨日の夜、夕飯作って、片づけして、椛ちゃんの寝る場所用意して、その後に調べたの?」
「必要だと思ったから」
「皇子様、過労で倒れるわよ」
「その呼び方はやめろ」
「じゃあ主婦」
「もっとやめろ」
輝が横から口を挟む。
「いや、これはもう神社調査家政夫だろ」
「長い。黙れ」
「ひどい」
いつものやり取り。
けれど、椛だけは笑わなかった。
拝殿の前で立ち尽くしている。
賽銭箱。
鈴の紐。
くすんだ拝殿。
そのすべてを、知っているような、知らないような顔で見つめている。
「椛?」
綾乃が声をかける。
椛はゆっくり、拝殿の方へ歩いた。
小さな足音が石畳に響く。
拝殿の前で止まり、鈴の紐を見上げる。
「ここ……」
声がかすれた。
「ここで、音がしてた」
「鈴?」
輝が聞く。
椛は首を傾げる。
「わからない。でも、からん、からんって。いっぱい、人が来て……椛……」
そこで言葉が止まった。
思い出しそうで、思い出せない。
椛は両手で頭を押さえた。
「椛?」
輝が近づこうとした時、椛は奥を見た。
拝殿のさらに奥。
境内の端。
そこに、黒いものが立っていた。
焼けた御神木だった。
大きな楓の木だったのだろう。
幹は太く、根は地面の奥まで広がっている。だが、今は幹の半分以上が黒く焦げ、枝は折れ、葉はない。上の方は焼け落ちたように歪み、炭になった木肌が朝の光を鈍く吸い込んでいた。
周囲には黄色い立入禁止のロープが張られている。
簡単な看板も立っていた。
『危険 火災により倒木のおそれがあります。立ち入らないでください』
焦げた匂いが、まだ微かに残っている。
輝は息を呑んだ。
動画や噂で聞くのとは違う。
目の前にある焼け跡は、面白い怪談ではなかった。
そこには、本当に燃えたものがあった。
椛は、御神木を見つめていた。
表情が消えている。
「……お兄ちゃん」
小さな声だった。
けれど、輝にははっきり聞こえた。
「椛、今……」
椛は答えない。
そのまま、ふらふらと御神木へ向かって歩き出す。
「待って、椛ちゃん」
綾乃が止めようとしたが、椛は聞こえていないようだった。
悠樹がすぐに動く。
「ロープの中には入らない」
声は強かった。
椛はロープの手前で止まった。
けれど、視線は焼けた幹から離れない。
黒く焦げた御神木。
炭になった枝。
地面に落ちた灰。
そのすべてが、椛を呼んでいるようだった。
「椛、ここ、知ってる」
椛の声が震えた。
「知らないのに、知ってる。ここに、いた。ここで、待ってた。ここで……」
言葉が途切れる。
椛はロープの隙間から、小さな手を伸ばした。
直接触れるには少し遠い。
それでも、指先が焦げた幹へ向かう。
悠樹が止めようとした。
だが、その前に、焦げた御神木の表面から何かが落ちた。
赤いもの。
一枚の楓の葉だった。
いや、葉ではない。
幻だった。
焦げた黒い幹から、ありえないほど鮮やかな赤い楓の葉が一枚、音もなくこぼれ落ちる。
葉は風もないのにゆっくり舞い、ロープのこちら側へ落ちてきた。
椛の手のひらに、そっと乗る。
その瞬間、椛の瞳が大きく見開かれた。
世界が、揺れた。
椛の中で、知らない景色がはじける。
雨。
激しい雨。
黒く濁った楓川が、土手を越えてあふれている。
水が田を飲み込み、家の軒先まで迫り、人々の叫び声が雨音に混ざる。
子どもを抱えた母親が、泥だらけの足で石段を駆け上がる。
老人が御神木にすがる。
誰かが鈴を鳴らす。
からん。
からん。
何度も。
何度も。
御神木の枝には、布切れが結ばれていた。
願い。
名前。
子どもの無事。
川の鎮まり。
田畑の実り。
病が治るように。
帰ってこない人が帰るように。
たくさんの声が重なっている。
『椛さま』
誰かが呼んだ。
『椛さま、どうか川を鎮めてください』
また別の声。
『椛さま、今年も実りがありますように』
子どもたちの笑い声。
石段を駆け上がる小さな足音。
御神木の下でかくれんぼをする声。
『椛さま、見つけた!』
『椛さまにお願いしたら、熱が下がったって』
『椛さま、椛さま』
その名前が、何度も、何度も呼ばれる。
椛。
椛。
椛さま。
木漏れ日の中で、誰かが笑っている。
楓の葉が降っている。
大きな木が、風に枝を揺らしている。
あたたかい。
懐かしい。
ここにいた。
ここに、いたのに。
次の瞬間、景色が赤く染まった。
火。
黒い煙。
焦げる匂い。
枝が折れる音。
誰かが泣いている。
誰かが笑っている。
白い影。
炎の中で揺れる尾。
そして――。
「いやっ!」
椛が叫んだ。
手の中の赤い葉が弾けるように消える。
椛の身体がぐらりと傾いた。
「椛!」
輝が叫ぶ。
だが、先に動いたのは悠樹だった。
ロープの手前で倒れかけた椛を、悠樹が支える。
小さな身体は驚くほど軽かった。
椛は息を荒くし、両手で頭を押さえている。
「椛ちゃん!」
綾乃が駆け寄る。
輝も慌てて膝をついた。
「大丈夫か!? おい、椛!」
声が、昨日よりずっと真剣だった。
椛は震える目で輝を見た。
涙が浮かんでいる。
「知らないのに……知ってる」
「何を」
「川。雨。鈴。木。子どもたち。椛の名前を呼ぶ声」
椛は自分の胸を押さえる。
「でも、椛、知らない。覚えてないのに、知ってるの。ここ、椛の場所みたいで……でも、こわい」
悠樹は椛を支えたまま、落ち着いた声で言った。
「無理に思い出さなくていい」
「でも」
「今は座ろう」
悠樹は境内の端にある石のベンチへ椛を連れていく。
綾乃がすぐにバッグから水筒を取り出した。
「椛ちゃん、水飲める?」
「……うん」
「ゆっくりでいいから」
綾乃の声はいつもの勢いを抑えていた。
輝は焼けた御神木を見上げた。
黒い幹。
立入禁止のロープ。
まだ残る焦げた匂い。
さっきまで、ここは白狐火災と関係があるかもしれない面白い場所だった。
けれど、椛の叫びを聞いたあとでは、そんなふうには見えなかった。
この木は、ただの手がかりではない。
椛にとって、もっと大事なものだった。
そのことだけは、輝にもわかった。
「……なあ、悠樹」
「何だ」
「あれ、何だったんだ? 今、赤い葉っぱが」
「僕にも見えた」
悠樹は珍しく、すぐに否定しなかった。
綾乃も小さく頷く。
「アタシにも見えた。焦げた木から、赤い葉が落ちた」
「春なのに楓の葉って、変だよな」
「そこだけじゃないでしょ」
「まあ、そうだけど」
輝はロープの向こうを見つめる。
御神木は動かない。
ただ、黒く焼けたままそこに立っている。
だが、その根元には、まだ何かが残っている気がした。
完全に死んでいない。
そんな、根拠のない感覚。
その時、石段の方から軽い足音が聞こえた。
「おーい、輝ー、悠樹ー!」
振り返ると、藍澄武が手を振りながら境内へ入ってきた。
休日だからか、私服姿だった。動きやすそうなパーカーにジーンズ、斜めがけのバッグ。小柄な体で石段を上ってきたにもかかわらず、息はほとんど乱れていない。
綾乃が目を細める。
「元気ね、あんた」
「毎朝走ってるからね」
武はにこにこしながら近づいてくる。
「いやー、やっぱり来てたんだね。ボクも白狐火災の調査で小春神社に来てみたんだけど――」
そこで武の視線が御神木へ向いた。
目が輝く。
「うわ……本当に焼けてる。すごい、これが噂の御神木火災の現場かあ。写真で見るより迫力あるね。ここに白い狐が出たって話が――」
ぱしん。
綾乃の手が、武の頭を軽く叩いた。
「痛っ。何するの綾乃」
「面白がってる場合じゃないでしょ」
綾乃の声は低かった。
武はきょとんとする。
綾乃は御神木を指さした。
「あれ、燃えたのよ。神社の大事な木だったんでしょ。椛ちゃんも具合悪くなったばかりなのに、すごいとか迫力とか言う場面じゃない」
武の表情が、少しずつ変わる。
輝は何も言わなかった。
自分も昨日、同じように椛を面白がったからだ。
武は椛を見る。
ベンチに座った椛は、水筒を両手で持ち、まだ少し顔色が悪い。
「……ごめん」
武は小さく言った。
「ボク、ちょっと浮かれてた」
椛は首を横に振った。
「大丈夫」
「大丈夫じゃない時は、大丈夫って言わなくていいのよ」
綾乃がすかさず言う。
椛は少しだけ困った顔をしてから、こくんとうなずいた。
「じゃあ……ちょっと、こわかった」
武はさらにしゅんとした。
「ごめんね」
「うん」
椛はそれだけ言って、また御神木の方を見た。
武は輝の隣に立ち、声を落とした。
「何かあったの?」
「焦げた木から赤い楓の葉が落ちた」
「えっ、何それ見たかった」
綾乃の視線が刺さる。
武は慌てて両手を振った。
「違う違う、今のは失言。ごめん。えっと、何が起きたの?」
「椛が記憶みたいなのを見たらしい」
「記憶?」
「昔の川とか、鈴とか、子どもたちとか、自分の名前を呼ぶ声とか」
武は真剣な顔になる。
さっきまでの軽さは少し薄れていた。
「小春神社と関係あるってこと?」
「たぶん」
輝はそう答えた。
以前なら「絶対そうだ」と騒いでいたかもしれない。
だが、今は簡単に断言できなかった。
椛が怯えている。
その事実があるだけで、軽い言葉が出しづらかった。
「星川さんは?」
武が尋ねる。
「後から来るって」
悠樹が答えた。
「連絡したの?」
「場所だけ送った。無理に来る必要はないとも言った」
「来ると思う?」
「来るだろうな」
輝が言う。
「星川さん、こういうの見逃さなそうだし」
「見逃すとか、そういう話ではないと思うが」
悠樹が言う。
その時、石段の方に静かな足音がした。
星川未空だった。
私服ではなく、制服に近い落ち着いた服装。手には小さなバッグを持っている。長い黒髪が風に揺れ、階段を上りきっても息を乱していない。
未空は境内へ入ると、まず椛を見た。
「椛」
「お姉ちゃん」
椛の表情が少しだけほっとする。
未空は椛の隣に立ち、軽く肩へ手を置いた。
「大丈夫?」
「ちょっと、こわかった」
「そう」
未空は御神木を見る。
その目が、わずかに細くなる。
彼女には、黒い幹の奥にまだ残っているものが見えていた。
赤い光。
根元の奥で息をしている小さな火。
燃やし尽くす炎ではなく、消えかけた生命のようなもの。
「まだ、いる」
未空が呟いた。
悠樹が聞き返す。
「何が?」
「木の中に、何か残ってる」
「御神木の生命力、という意味ですか」
「たぶん」
「たぶんが多いな」
「見えるけど、わからない」
いつもの答え。
だが、今回は誰も茶化さなかった。
輝は御神木を見る。
自分には何も見えない。
黒く焦げた木があるだけだ。
けれど、未空がそう言うなら、何かがあるのだろう。
そう思い始めている自分に、輝は少しだけ驚いた。
昨日までなら、面白がって聞いていた。
今は、椛のために知りたいと思っている。
その違いは小さいようで、たぶん大きい。
「ねえ」
綾乃が境内の端を指さした。
「あれ、何?」
そこには掲示板があった。
古い木枠の掲示板で、町内会の知らせや防犯ポスター、地域清掃の案内が貼られている。その中に、新しい紙が一枚あった。
『小春神社周辺整備計画に関する説明会のお知らせ』
白い紙に、きれいな文字でそう書かれている。
悠樹が近づき、内容を読む。
「小春神社周辺の老朽化施設の安全対策、参道の整備、防災設備の更新、地域活性化を目的とした再整備計画……」
輝も横から覗き込む。
「再開発ってことか?」
「大きく言えばそうだな。ただ、内容を見る限り、完全に壊して別のものにするというより、周辺の整備計画らしい」
「でもさ、こういうのって結局、古いものがなくなるやつじゃないの?」
綾乃が言う。
悠樹は紙面から目を離さない。
「そうとは限らない。老朽化した施設を安全にすること自体は悪いことではない。参道の整備も、防災設備の更新も、必要なことではある」
「皇子様、現実的」
「その呼び方はやめろ」
「じゃあ主婦」
「もっとやめろ」
いつものやり取りだったが、悠樹の声は少し真面目だった。
「再開発や整備は、古いものを壊すだけとは限らない。放置された場所を安全に保つためには、人の手を入れる必要がある。ここも、今のままだと危険な場所が多い」
輝は御神木を見る。
立入禁止のロープ。
焦げた幹。
倒木のおそれ。
確かに、このまま放置していい場所ではないのだろう。
「じゃあ、いいことなのか?」
「単純には言えない」
悠樹は掲示板を見つめたまま言う。
「何を残して、何を変えるのか。その決め方による」
椛が、ゆっくりと掲示板へ近づいた。
未空がそばについている。
椛は紙を見上げた。
文字の意味がどこまでわかっているのかはわからない。
けれど、その紙を見た瞬間、椛の顔がひどく不安そうになった。
「椛?」
輝が声をかける。
椛は胸元を握る。
「ここ、なくなるの?」
「いや、そういうわけじゃないと思うぞ」
輝は慌てて言った。
だが、椛の不安は消えない。
「この木も、なくなるの?」
誰もすぐには答えられなかった。
倒木のおそれがある。
安全対策が必要。
焼けた御神木をどうするのか。
残すのか、切るのか、撤去するのか。
掲示板の紙には、そこまでは書かれていない。
悠樹は慎重に言った。
「まだ決まっていないと思う」
「決まったら?」
「それは……」
悠樹は言葉を選ぶ。
「危険なら、切らなければならない場合もある」
椛の顔がさらに青ざめた。
輝が思わず口を挟む。
「でも、決まったわけじゃないんだろ?」
「そうだ」
「なら、まだわからない。な?」
椛は輝を見る。
輝の声は少し不器用だった。
慰め方がわからない。
軽く言えば傷つけるかもしれない。
でも、何も言わないこともできない。
「オレたちで、ちゃんと調べようぜ」
輝は言った。
「この神社のことも、御神木のことも、椛のことも。何もわからないまま怖がるより、知った方がいいだろ」
椛は小さく頷いた。
「うん」
その返事は弱かった。
けれど、輝には少しだけ届いた気がした。
武がバッグからスマートフォンを取り出しかけて、綾乃の視線に気づき、そっと戻した。
「写真は?」
綾乃が聞く。
「撮らない」
「よろしい」
「でも、メモはする」
「それはいいんじゃない?」
武は小さなメモ帳を取り出した。
「小春神社周辺整備計画。説明会。御神木の今後不明。椛ちゃん、掲示に不安反応……」
「書き方が観察記録みたい」
輝が言う。
「情報は大事だよ」
「その言い方、ちょっと悠樹っぽいな」
「え、やだ」
「やだとは何だ」
悠樹が抗議する。
少しだけ場が軽くなる。
だが、完全には戻らない。
小春神社の境内は静かだった。
無人の社務所。
色あせた鈴の紐。
古びた賽銭箱。
焼けた御神木。
再整備計画の白い紙。
ここには、誰かが忘れてきたものと、これから変えようとしているものが同時に置かれていた。
椛はその真ん中に立っている。
自分が何者なのかもわからないまま。
自分がこの場所とどうつながっているのかもわからないまま。
それでも、ここを見て不安になる。
それはきっと、理由のある不安だった。
「今日は、ここまでにしましょう」
悠樹が言った。
「椛ちゃんの体調も心配です。これ以上無理をするべきではない」
「そうね」
綾乃も頷く。
「帰って休も。あとで服とかも考えなきゃだし」
「服?」
椛が首を傾げる。
「その格好もかわいいけど、ずっとそれだと目立つでしょ。普通の服、今度見に行こ」
「普通の服……」
椛は自分の袖を見る。
「椛、普通になれる?」
綾乃は一瞬、言葉に詰まった。
それから、笑って言う。
「なれるっていうか、椛ちゃんは椛ちゃんでしょ。服はただの服」
椛は少し考えた。
「そっか」
「そうよ」
未空が椛の手を取る。
「帰ろう」
「うん」
輝たちは境内を後にする。
鳥居へ向かう途中、輝は一度だけ振り返った。
焼けた御神木。
立入禁止のロープ。
その根元に、赤い楓の葉が落ちている気がした。
だが、瞬きをすると何もない。
ただ黒い灰が、風にかすかに揺れているだけだった。
石段を下り始める。
綾乃は早くも「下りの方が膝に来る」と文句を言い、武が「え、そうかな?」と悪気なく言って睨まれている。悠樹は椛が転ばないように少し後ろから見ている。未空は黙って椛の隣を歩いている。
輝は、一番後ろで立ち止まった。
何となく、見られている気がした。
振り返る。
境内には誰もいない。
無人の神社。
焼けた御神木。
くすんだ鳥居。
けれど、社の奥の木陰に、一瞬だけ白い影が見えた。
狐の形をしていた。
白銀の毛並み。
細い耳。
揺れる尾。
輝が息を呑んだ瞬間、影は木漏れ日に溶けるように消えた。
「輝?」
下から悠樹の声がした。
「何してる」
「……いや」
輝は目をこする。
もう一度見ても、何もいない。
「何でもない」
「早く来い」
「わかってる」
輝は石段を下り始めた。
胸の奥が、さっきからずっとざわついている。
白狐。
御神木。
椛の記憶。
再開発の告知。
全部が、少しずつつながりかけている。
けれど、まだ形にはならない。
小春神社の上で、風が吹いた。
焼けた御神木の黒い枝が、かすかに軋む。
その音はまるで、長い間名前を呼ばれなかった誰かが、ようやく目を覚ましかけているようだった。




