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第五章 トゥプラスの食卓

 真堂輝には、家に帰ったら必ずやることがある。


 玄関を開ける。


 靴を脱ぐ。


 鞄を適当な場所に放る。


 リビングまで一直線に走る。


 そして、ソファーへ全力で飛び込む。


 それから天井に向かって、「疲れたー」と叫ぶ。


 これが、輝の平日帰宅ルーティンだった。


 家事をしている葵城悠樹からすれば、迷惑以外の何物でもない。鞄は所定の場所に置け。靴は揃えろ。ソファーへ飛び込むな。制服のまま寝るな。何度もそう言われている。


 だが、輝は直らない。


 直す気がないわけではない。


 直す必要性を、帰宅した瞬間だけ忘れるのだ。


 その日も、輝はマンションの階段を駆け上がり、二階の廊下を走った。


 夕方の空はすっかり茜色に染まっている。楓川の方から吹く風が、廊下に置かれた誰かの傘をかすかに揺らしていた。


 輝の住む部屋は二〇九号室。


 もともとは輝が家族と暮らしていた部屋で、今は事情あって悠樹と二人で住んでいる。


 学校には、輝は祖父母宅から通っていることになっている。悠樹も、表向きは家庭の事情で親戚の家にいることになっている。


 実際には、二人はこのマンションで暮らしていた。


 それは、あまり人に知られてはいけない秘密だった。


 輝はポケットから鍵を出し、勢いよく玄関を開ける。


「ただいまー!」


 返事を待たずに靴を脱ぐ。


 片方の靴が横を向いたが、気にしない。


 鞄を廊下の隅に放り、リビングへ向かって走る。


「今日こそ図書委員という理不尽に打ち勝ったオレの魂をソファーで癒や――」


 言いながら、輝はリビングへ飛び込んだ。


 そして、止まった。


 止まろうとした。


 だが、勢いがつきすぎていた。


 床を靴下が滑る。


「うおっ!?」


 輝の身体はソファーへ飛ぶどころか、フローリングの上で見事に空回りし、そのまま腹から床に落ちた。


「ぐえっ!」


 鈍い音がした。


 リビングが、一瞬だけ静かになる。


 輝は床にうつ伏せになったまま、しばらく動けなかった。


 痛い。


 かなり痛い。


 腹も痛いし、膝も痛いし、何より心が痛い。


 なぜなら、顔を上げた先に、見慣れない人影が三つあったからだ。


 ソファーに、星川未空が座っている。


 その隣に、月代玲が座っている。


 そして、さらにその横に、小さな女の子が座っている。


 白い千早のような衣。


 紅色の袴。


 大きな琥珀色の瞳。


 八歳か九歳くらいに見える、小さな少女。


 その少女は、床に転がった輝を見て、ぽかんとした顔をした。


 次の瞬間。


「あははははっ!」


 笑った。


 お腹を抱えて、声を上げて笑った。


 未空は表情をほとんど変えないまま輝を見ている。


 玲は静かに眉を上げている。


 そしてキッチンの方から、買い物袋を片づけていた悠樹が出てきた。


「何をしてるんだ、おまえは」


 学校で女子たちに向けるような爽やかな声ではない。


 完全に家の中の声だった。


 輝は床から顔を上げ、震える指でソファーを指した。


「何でいんの?」


「誰が」


「星川さんと、月代さんと、その小さい子!」


「事情がある」


「どんな事情だよ!」


 輝は跳ね起きた。


 そして、次の瞬間、何かに気づいたように目を見開く。


「まさか……悠樹」


「何だ」


「おまえ、とうとうやったのか」


「何を」


「女の子を家に連れ込むなんて、しかもこんな小さい子まで……!」


 輝はわざとらしく一歩下がった。


「前々から皇子様だの何だの言われて調子に乗ってるとは思ってたが、まさか少女誘拐に手を染めるとは……!」


 ぱしん。


 悠樹の平手が、輝の後頭部にきれいに入った。


「痛っ!」


「アホだろ、おまえ」


「暴力反対!」


「冤罪反対だ」


 悠樹は冷たい目で言う。


 小さな少女は、また笑った。


「あははっ、このお兄ちゃん、おもしろい!」


 輝は少女を見た。


 今度は、ようやくちゃんと見た。


 小さい。


 それが第一印象だった。


 次に、服装が変だと思った。


 巫女服のようだが、神社で見るアルバイト巫女のそれとは違う。もっと古い。袖や裾に、赤い楓の葉のような文様がうっすら浮かんでいる。髪は黒に近い焦げ茶で、少し乱れている。目は涙の跡で赤いが、今は笑っている。


 笑うと、本当にただの子どもみたいだった。


 だが、どこか違う。


 夕方のリビングの光の中で、その輪郭だけが少し薄いように見えた。


「……で、この子誰?」


 輝が尋ねる。


 悠樹は腕を組んだ。


「道端で迷子になっていた子だ」


「迷子?」


「星川さんと月代さんが見つけて、僕が通りかかった」


「なるほど。で、警察に連れていかずにうちに連れてきたと」


「話せば長い」


「長くても話せ」


 輝はまだ疑っている顔だった。


 未空が静かに言う。


「この子、人間じゃないかもしれないから」


 リビングが一瞬だけ静かになった。


 輝の目が、みるみる輝いた。


「マジで!?」


 悠樹が嫌な予感を覚えた時には、もう遅かった。


 輝は少女の前まで一気に近づき、しゃがみ込む。


「人間じゃないってことは、妖怪!? 精霊!? 座敷わらし!? すげえじゃん!」


 少女はびくっと肩を震わせた。


 そして、すぐに頬を膨らませる。


「椛、妖怪じゃないもん!」


「椛?」


 輝は首を傾げる。


 少女は胸元を押さえるようにして言った。


「椛は、椛!」


「名前か。かわいい名前じゃん」


 言いながら、輝は椛の頬を両手でつまんだ。


「ほっぺ柔らかっ。妖怪でもほっぺ柔らかいんだな」


「やめてぇ!」


 椛はむっとして、輝の手を払いのける。


 輝は面白がって、今度は椛の袖をつまんだ。


「服も本物っぽい。コスプレじゃないのか?」


「こすぷれ?」


「知らないのか。じゃあ本物の巫女か? 妖怪巫女?」


「椛、妖怪じゃない!」


「じゃあ神様?」


「……わかんない」


 声が少し小さくなった。


 だが、輝はまだ気づかない。


 未知の存在を前にした興奮が、彼の判断力を見事に上書きしていた。


「わかんないって何だよ。自分のことだろ?」


 輝は椛の腕をそっと持ち上げた。


「腕はあるな。透けてない。ロボットって感じでもない。体温は……」


「やだっ!」


 椛は本気で嫌そうに腕を引っ込めた。


 未空が低く言う。


「真堂くん、乱暴にしないで」


「乱暴じゃないって。観察だよ観察」


「嫌がってる」


「え?」


 輝は椛を見た。


 椛はむすっとしている。


 だが、それでもまだ泣いてはいない。


 輝は少しだけ笑った。


「悪い悪い。だってさ、妖怪とか神様とか、そういうの見たの初めてなんだよ。テンション上がるだろ普通」


「普通じゃない」


 未空が言う。


「そうか?」


「そう」


 玲は黙って見ていた。


 その視線は冷たい。


 輝は少し居心地が悪くなったが、椛への興味はまだ勝っていた。


「で、結局なんなんだ? 椛は妖怪じゃない。人間でもないかもしれない。じゃあ何なんだよ、おまえ」


 その言葉が落ちた瞬間、椛の表情が変わった。


 怒った顔ではなくなる。


 不安そうに揺れる。


 琥珀色の瞳が、急に暗くなる。


「……わからない」


 小さな声だった。


「椛、わからないの。椛は、椛って名前と、お兄ちゃんを探してたことしか覚えてなくて……」


 声が震える。


「椛が何なのか、わからないの」


 目に涙が溜まった。


 輝は固まった。


 リビングの空気が、さっきまでの軽さを失う。


 椛は必死に涙をこらえようとしていた。だが、小さな肩が震えている。膝の上で握った手が、袴の布をぎゅっと掴んでいる。


 輝はようやく、自分が何を言ったのかに気づいた。


「え、いや……オレは、そういう意味じゃ」


「真堂」


 玲の声が落ちた。


 静かで、低い。


 それだけで、輝は背筋を伸ばした。


「泣かせたな」


 短い言葉だった。


 だが、刺さった。


 未空は何も言わない。


 悠樹も、すぐには口を挟まなかった。


 輝は視線をさまよわせた。


 ふざけていた。


 悪気はなかった。


 面白かった。


 すごいと思った。


 でも、目の前の椛は泣きそうになっている。


 自分が、そうさせた。


「……悪い」


 輝は小さく言った。


 いつもの勢いはない。


 椛は顔を上げない。


「その、オレ、珍しいもの見つけたみたいに騒いで……」


 言葉がうまく続かない。


 こんな時、輝はどう謝ればいいのかわからない。


 軽口ならいくらでも出る。


 言い訳も、逆ギレも、茶化しもできる。


 でも、本当に相手を傷つけたと気づいた瞬間、言葉が喉で引っかかる。


 悠樹がため息をついた。


「輝」


「わかってる」


「本当にわかってるのか」


「たぶん……今、わかった」


 輝は頭をかいた。


 椛にもう一度向き直る。


「ごめん。怖がらせるつもりはなかった。妖怪とか言ったのも……悪かった」


 椛は涙を浮かべたまま、ちらりと輝を見る。


「椛、妖怪じゃないもん」


「うん。悪かった」


「ほっぺ、痛かった」


「それも悪かった」


「腕、上げたりした」


「それも悪かった」


「椛、わからないのに、何って聞いた」


「……それも、悪かった」


 輝は素直に言った。


 椛はまだ泣きそうだったが、少しだけ頬を膨らませる。


「お兄ちゃん、失礼」


「本当にすみませんでした」


 輝は正座した。


 その様子を見て、椛は少しだけ目を丸くした。


 未空の表情も、ほんのわずかに緩む。


 玲はまだ輝を見ていたが、先ほどほど冷たくはなかった。


 悠樹はもう一度ため息をついた。


「まったく」


「いや、今回はオレが悪かった」


「珍しく自覚が早いな」


「珍しくって言うな」


「事実だ」


 いつものやり取りが戻りかけた、その時。


 ぴんぽーん。


 玄関のチャイムが鳴った。


 輝は反射的に立ち上がる。


「オレ出る!」


「逃げたな」


 玲が言う。


「逃げてない! 来客対応だ!」


 輝はリビングを飛び出し、玄関へ向かった。


 ドアスコープを覗く。


 そこには、段ボール箱があった。


 いや、正確には、段ボール箱を抱えた涼宮綾乃がいた。


 輝はドアを開ける。


「何だ、綾乃か」


「何だとは何よ」


 綾乃は大きめの段ボール箱を両腕で抱えていた。箱の側面には、南国フルーツ直送、という文字が印刷されている。


「ママの実家から今年もパイナップルが送られてきたから、おすそ分け」


「またか。毎年食いきれなくなってうちに押しつけてるだけだろ」


「おすそ分けって言いなさい」


 綾乃は強引に箱を輝へ押しつけた。


 輝は受け取る。


 思ったより重い。


「うわ、重っ。中に何個入ってんだよ」


「知らない。たぶん多い」


「雑だな」


「いいから受け取りなさいよ」


「はいはい。ありがとな。じゃ」


 輝はドアを閉めようとした。


 だが、綾乃は動かなかった。


 視線が、玄関の靴に向いている。


 そこには、女子の靴が二足。


 そして、小さな草履のような履き物が一つ。


 輝は内心で叫んだ。


 しまった。


 綾乃はゆっくり顔を上げる。


「輝」


「何だ」


「誰か来てるの?」


「いや」


「靴あるけど」


「靴だな」


「誰の?」


「知り合いの」


「どの知り合い?」


「人類」


「広すぎるわよ」


 綾乃の目が細くなる。


 輝は段ボール箱でさりげなく玄関を塞いだ。


「今日はちょっと取り込み中でさ。パイナップルありがと。じゃあまた明日学校で」


「待ちなさい」


「待たない」


「何を隠してるの」


「何も隠してない」


「その顔で?」


「どんな顔だよ」


「隠し事が下手な顔」


「失礼な」


「いつも通りよ」


 綾乃は一歩踏み込もうとする。


 輝は段ボール箱で押し返す。


「だから今日は駄目だって」


「何でよ」


「いろいろあるんだよ」


「いろいろって何」


「いろいろは、いろいろだ」


「怪しすぎる」


 押し合いになった。


 段ボール箱を挟んで、玄関先で輝と綾乃がじりじり攻防する。


「帰れって!」


「嫌よ!」


「何でだよ!」


「あんたが帰れって言う時は、だいたい面白いこと隠してるから!」


「人の行動パターンを読むな!」


「幼なじみ何年やってると思ってんのよ!」


 その騒ぎを聞きつけ、悠樹が廊下へ出てきた。


「何をやってるんだ、二人とも」


 綾乃は悠樹を見るなり、にっこり笑った。


 ただし、その笑顔には棘がある。


「あら、皇子様。ご機嫌麗しゅう」


「その呼び方をやめろと言っているだろ」


「学校で呼ばれるのは嬉しいくせに」


「嬉しくない」


「本当に?」


「本当に」


「へえ」


 綾乃は疑わしそうに目を細める。


 悠樹は疲れた顔をした。


 輝と悠樹と綾乃は、幼い頃からの腐れ縁だ。


 綾乃は輝の隣の部屋に住んでいる。輝の家に出入りすることにも抵抗がない。輝の家族が不在がちになってからは、綾乃の家からおかずや果物が届くことも珍しくなかった。


 だからこそ、今のように追い返そうとすると、逆に怪しまれる。


「悠樹」


 綾乃は段ボール箱越しに言った。


「誰が来てるの?」


 輝は慌てた。


「言うな、悠樹!」


「星川さんと月代さんと、椛ちゃん」


「言うの早っ!」


 輝が叫ぶ。


 綾乃の目が輝いた。


「星川さんと月代さん? それに椛ちゃん? 誰?」


「だから帰れって!」


「帰るわけないでしょ!」


 綾乃は段ボール箱の横をすり抜けようとする。


 輝は止めようとした。


 しかし、綾乃の肘が輝の脇腹にきれいに入った。


「ぐふっ」


「邪魔」


 綾乃は靴を脱ぎ、勝手に上がり込んだ。


 輝は玄関で膝をつく。


「こいつ……昔から人んちを自分ちみたいに……」


「実家みたいなものでしょ」


「違うわ!」


 綾乃はリビングへ向かった。


 そして、そこで足を止める。


 ソファーには、未空と玲。


 その真ん中に、巫女装束のような服を着た小さな少女。


 綾乃は数秒間、状況を見た。


 それから、腕を組んだ。


「説明」


 玲が顔を上げる。


「何の」


「全部」


「範囲が広いな」


「まず、月代さんと星川さんがここにいる理由。それから、その子が誰か。あと輝が玄関で不審者みたいな動きをしてた理由」


「最後はいつものことだ」


 玲が淡々と言う。


「納得」


「納得すんな!」


 輝が遅れてリビングへ戻ってくる。


 綾乃は椛の前にしゃがんだ。


 椛は少し怯えたように未空の袖を掴んだ。


 綾乃の勢いが強すぎるのだ。


「こんにちは。アタシは涼宮綾乃。輝と悠樹の幼なじみ。あなたは?」


 椛は上目遣いで答える。


「……椛」


「椛ちゃん?」


 椛はこくんとうなずく。


 綾乃の目元が、わずかに緩んだ。


「かわいい名前ね」


 椛は少しだけ頬を赤くした。


「で」


 綾乃は立ち上がり、悠樹を見る。


「この子、どうしたの」


 悠樹は簡潔に事情を説明した。


 楓川の緑道で、未空と玲が椛を見つけたこと。


 椛はお兄ちゃんを探して迷子になったと言っていること。


 名前以外のことをほとんど覚えていないこと。


 未空によると、人間ではないかもしれないこと。


 警察へ連絡しようとしたが、状況が不自然で、一度家に連れてきたこと。


 綾乃は黙って聞いていた。


 途中で何度か眉をひそめ、椛を見て、未空を見て、玲を見た。


 最後に、輝を見た。


「あんた、何か失礼なことしたでしょ」


「なぜわかる」


「顔」


「オレの顔、情報量多すぎないか?」


「多いわよ」


 綾乃は即答した。


 椛は未空の袖を掴んだまま、小さく言った。


「このお兄ちゃん、椛のほっぺ引っ張った」


 綾乃の視線が鋭くなる。


「輝」


「謝った! もう謝ったから!」


「最低」


「本当に反省してます」


 輝はまた正座した。


 綾乃はため息をつき、椛へ向き直る。


「椛ちゃん、怖かった?」


 椛は少し考えてから、こくんとうなずいた。


「ちょっと」


「よし。輝はあとで追加で謝らせるとして」


「追加制なのかよ」


「当然でしょ」


 綾乃は腕を組んだ。


「問題は、この子をどうするかよね」


 その一言で、リビングの空気が少し真面目になる。


 悠樹は頷いた。


「そうだ。僕は、やはり警察や児童相談所に相談するべきだと思っている。ただ、星川さんの話や現場の状況を考えると、今すぐ引き渡して解決するとは言い切れない」


「人間じゃないって話?」


 綾乃が未空を見る。


 未空は短く答えた。


「たぶん」


「たぶんって」


「見えるけど、わからない」


「ふうん」


 綾乃は椛を見る。


 白い千早。


 紅い袴。


 小さな手。


 涙の跡。


 人間ではないかもしれない。


 神様かもしれない。


 妖怪かもしれない。


 未空がそう言うなら、たぶん何かあるのだろう。


 けれど、綾乃にとって一番大事なのはそこではなかった。


「この子、今夜どこで寝るの?」


 全員が黙った。


 綾乃は続ける。


「ご飯は? お風呂は? 着替えは? その服のままじゃ目立つし、寒いかもしれないでしょ」


 悠樹が少しだけ目を伏せる。


 そこまで具体的には考えていなかったわけではない。


 だが、正しい手順と現実的な対応を考えることに気を取られて、椛が今夜どこで眠るかという、あまりにも当たり前の問題が後回しになっていた。


 綾乃は言う。


「神様か妖怪か知らないけど、今ここにいるのは泣いてた小さい子でしょ」


 椛が小さく綾乃を見る。


「だったら、とりあえず今日寝る場所とご飯を決めるのが先」


 その言葉は、とても普通だった。


 普通すぎるほど普通だった。


 だからこそ、椛の不安にまっすぐ届いた。


 玲が綾乃を見る。


 未空も、少しだけ目を細めた。


 悠樹は深く息を吐いた。


「正論だな」


「でしょ」


「ただし、預かる場所が問題だ」


「ここでいいじゃない」


 綾乃はあっさり言った。


 輝が叫ぶ。


「ちょっと待て! 何でそうなる!」


「ここ、親いないでしょ」


「言い方!」


「悠樹もいるし、アタシも隣だし、何かあったらすぐ来られるし。星川さんと月代さんの家に連れていくより現実的じゃない?」


「それは……」


 悠樹は反論しかけて、止まる。


 確かに、この部屋は秘密の多い場所だ。


 学校に知られたら困る。


 だが同時に、椛を一時的に置くには都合がいい。


 大人の目が少ない。


 綾乃が隣にいる。


 悠樹が生活面を管理できる。


 輝は論外としても、少なくとも部屋はある。


「多数決ね」


 綾乃が言った。


「何で急に民主主義」


 輝が警戒する。


「椛ちゃんを、とりあえず今夜ここで預かることに賛成の人」


 綾乃が手を上げた。


 未空が上げた。


 玲も、少し遅れて上げた。


 椛は意味がわかっていないが、未空を見ておずおずと手を上げた。


 悠樹はため息をつきながら、最後に上げた。


 輝だけが上げない。


「いや待て。ここ、オレんちなんだけど」


「だから?」


「だから、家主の意見は?」


「少数意見として記録しておくわ」


「尊重しろ!」


 綾乃はにっこり笑った。


「決定。椛ちゃんは今夜ここに泊まります」


「横暴!」


「椛ちゃん」


 綾乃は輝を無視して椛を見る。


「今日だけでも、ここにいていいからね」


 椛は目を丸くした。


「椛、いていいの?」


「いいわよ」


「迷惑じゃない?」


「迷惑なのは輝だけ」


「何でオレ!?」


「うるさいから」


「否定できない……!」


 椛は少しだけ笑った。


 その笑顔を見て、輝は反論の言葉を飲み込んだ。


 まあ、いいか。


 そう思ってしまった。


 自分の家なのに、決定権がほとんどない気がする。


 だが、椛が少し安心した顔をしたなら、それはそれで悪くないのかもしれない。


 悠樹は買い物袋を持ち上げた。


「では、夕食を作る」


「何作るの?」


 綾乃が聞く。


「トマトソースのパスタと野菜スープ」


「一人前追加ね」


「一人前どころじゃない。今この部屋に何人いると思っている」


 悠樹は順番に数える。


 輝。


 悠樹。


 未空。


 玲。


 椛。


 綾乃。


「六人前か……」


 深いため息。


「材料は足りるの?」


「足りるようにする」


「さすが皇子様」


「その呼び方はやめろ」


「じゃあ主婦」


「もっとやめろ」


 悠樹はキッチンへ向かった。


 玲が立ち上がる。


「手伝う」


 悠樹が少し驚いた顔をした。


「いいんですか?」


「ああ。食べるだけでは悪い」


「助かります。では、スープをお願いしてもいいですか」


「わかった」


 未空はそのやり取りを見て、先に言った。


「あたしはできない」


 悠樹は一瞬、期待を砕かれた顔をした。


「……まだ何も頼んでいません」


「顔に出てた」


「僕の周りには、人の顔を読む人が多いですね」


「悠樹は読みやすい」


 玲がキッチンへ向かいながら言った。


 悠樹は少しだけ動きを止めた。


「月代さんまで」


「玲でいい」


「え?」


「ここは学校ではないだろう」


 玲は冷蔵庫を開けながら言う。


「それと、無理に丁寧に話さなくてもいい。疲れる」


 悠樹は返事に詰まった。


 輝がリビングからにやにやする。


「バレてるぞ、外面」


「黙れ輝。手伝わないなら座ってろ」


「手伝った方がいい?」


「いい。邪魔になる」


「信用ないな!」


「実績だ」


 輝は反論できず、ソファーへ戻った。


 キッチンでは、玲が手際よく鍋を出している。


 悠樹は食材を並べながら、少しだけ玲を横目で見た。


「料理、できるんですね」


「簡単なものなら」


「意外です」


「そうか」


「月代さんは、あまり生活感がないので」


「君はありすぎる」


「……褒めていますか」


「たぶん」


「たぶんですか」


 玲は野菜を洗いながら、静かに言った。


「無理しているように見える」


 包丁を取ろうとしていた悠樹の手が止まった。


「僕が?」


「ああ」


「何を」


「丁寧で、正しくて、困らない人間でいようとしている」


 玲の声は淡々としていた。


 責めているわけではない。


 ただ、見えたものを言っている。


 悠樹はしばらく黙った。


 キッチンの向こうでは、綾乃が椛に話しかけている声が聞こえる。輝の叫び声も混じっている。未空はおそらく静かにそれを見ている。


 リビングの騒がしさと、キッチンの静けさが、奇妙に分かれていた。


「無理はしていません」


 悠樹は言った。


「慣れているだけです」


「そうか」


 玲はそれ以上踏み込まない。


 その引き際が、逆に悠樹の胸に残った。


 リビングでは、綾乃が椛の手を取ろうとしていた。


「椛ちゃん、髪かわいいね。ちょっと結んでみてもいい?」


「えっ」


「絶対似合うって。ほら、うちに小さい頃使ってたヘアゴムあったかな。あと服も何か探せば――」


 椛はじりじりと未空の方へ逃げる。


「お姉ちゃん、近い……」


「え、近い? ごめんごめん。かわいくてつい」


「綾乃は押しが強いんだよ」


 輝が言う。


「あんたに言われたくない」


「オレは椛に謝ったからな」


「謝ったら全部済むと思わない」


「はい」


 輝はまたしゅんとした。


 椛はその様子を見て、少しだけ笑う。


 未空が隣で言った。


「椛」


「なあに」


「嫌なことは嫌って言っていい」


「いいの?」


「いい」


 椛は綾乃を見る。


「近いの、ちょっと怖い」


 綾乃は胸を押さえた。


「ごめん……かわいがりすぎた……」


 輝がぼそっと言う。


「オレと同類」


「違うわよ!」


「いや、椛を怖がらせた仲間だろ」


「一緒にしないで!」


 椛は二人を見て、また笑った。


 笑うたびに、椛の輪郭が少しだけ濃くなるように未空には見えた。


 名前を呼ばれる。


 話しかけられる。


 笑う。


 それだけで、椛はここにいる力を少し取り戻している。


 未空はそう感じた。


 けれど、それをどう説明すればいいのかはわからない。


 やがて、キッチンからトマトソースの香りが広がり始めた。


 にんにくと玉ねぎが油で炒められ、トマト缶の酸味が加わる。玲の作るスープからは、野菜の甘い匂いが立っていた。


 椛が鼻をひくひく動かす。


「いい匂い」


「お腹空いた?」


 綾乃が聞く。


 椛は少し考える。


「わかんない。でも、食べてみたい」


「よし。食べよう」


「まだできていない」


 悠樹がキッチンから言う。


「悠樹ー、飯まだー?」


 輝が叫ぶ。


「今作ってるだろ!」


「腹減った!」


「昼を食べないからだ!」


「オレは一日二食派なんだよ!」


「だったら夕食まで黙って待て!」


 いつものやり取り。


 椛はそれをきょとんと見て、それから小さく笑った。


「このおうち、にぎやか」


「主に輝のせい」


 未空が言う。


「星川さんまで!?」


 輝はショックを受けた。


 やがて、テーブルの上に六人分のパスタとスープが並んだ。


 輝と悠樹の二人暮らしにしては、明らかに人数が多い。


 椅子が足りず、輝は予備の折りたたみ椅子を引っ張り出した。綾乃は当たり前のように椛の隣を確保し、未空はその反対側に座る。玲はキッチンに近い席を選び、悠樹は全体を見やすい位置に腰を下ろした。


 輝は自分の部屋なのに、なぜか一番端に追いやられていた。


「ここ、オレんちだよな?」


「正確には、今は共同使用空間だ」


 悠樹が言う。


「何その言い方」


「現状を表している」


 椛はフォークを見つめていた。


 どう使えばいいのかわからないらしい。


 綾乃がすぐに気づく。


「椛ちゃん、こうやってくるくるするの」


 フォークでパスタを巻いて見せる。


 椛は真剣な顔で真似をする。


 だが、麺がすぐにほどけた。


「逃げた」


「パスタは逃げるものなのよ」


「違う」


 悠樹が冷静に否定する。


 輝が自分の皿から麺を巻き上げて見せる。


「こうだ。こうやって、ぐるぐるっと」


 椛はそれを見て、もう一度挑戦する。


 今度は少しだけ巻けた。


「あっ」


「できたじゃん」


 輝が笑う。


 椛も少し嬉しそうに笑った。


 さっき泣かせたことがあるから、輝はその笑顔に少しだけほっとした。


 椛はフォークを口に運ぶ。


 小さく噛む。


 目を丸くする。


「……赤い」


「味の感想じゃないな」


 玲が言う。


「おいしい?」


 悠樹が尋ねる。


 椛は何度も頷いた。


「おいしい。あったかい」


 その一言で、悠樹の表情が少しだけ和らいだ。


 食べさせる。


 温かいものを出す。


 寝る場所を用意する。


 それは神様か妖怪かを信じることとは違う。


 目の前で困っている子どもを放っておけないから、することだった。


 夕食が進むにつれ、綾乃が場を仕切り始めた。


「じゃあ、椛ちゃんについて整理しましょう」


 輝がパスタを口いっぱいに入れたまま言う。


「何で綾乃が仕切るんだよ」


「誰かが仕切らないと、あんたが妖怪だの何だの言い出して話が進まないから」


「もう言わないって」


「信用できない」


「みんなオレへの信用低すぎない?」


「実績だ」


 悠樹、玲、未空がほぼ同時に言った。


「息ぴったりかよ!」


 椛が笑う。


 綾乃は紙ナプキンを一枚取り、テーブルに置いた。


「まず名前。椛ちゃん」


「うん」


「探しているのは、お兄ちゃん」


「うん」


「でも、お兄ちゃんの名前も顔も覚えてない」


 椛は少し悲しそうにうなずく。


「椛、探してたの。でも、どこにもいなくて」


 未空が静かに聞く。


「お兄ちゃんは、人間?」


 椛は首を傾げた。


「わからない」


「どこで最後に会った?」


「……わからない」


「何か覚えている音とか、匂いとか」


 椛は目を伏せる。


「木の匂い」


 全員が黙った。


「木?」


 輝が聞く。


「大きい木。あったかくて、ざわざわしてて……椛、そこにいた気がする」


 悠樹が目を細めた。


 綾乃が小さく呟く。


「木……」


 玲は何も言わない。


 ただ、椛を見ていた。


 椛はさらに続ける。


「あと、水の音。いっぱいの水。こわい水。でも、お兄ちゃんがいたから、だいじょうぶだった」


 未空は楓川の水面を思い出す。


 夕方の川。


 その奥に一瞬だけ映った、古い土手と木の橋。


「楓川かもしれない」


 未空が言った。


 悠樹が頷く。


「見つけた場所も楓川緑道でした」


 綾乃は椛の服を見る。


「この格好、巫女さんみたいよね」


「小春神社」


 輝が言った。


 全員の視線が向く。


 輝は少し得意げに指を立てた。


「ほら、昼に武が言ってただろ。小春神社の御神木が燃えたって。で、白狐の噂もあるって」


「その話と椛ちゃんを結びつける根拠は?」


 悠樹がすぐに問う。


「巫女っぽい服。楓川。大きい木。小春神社。つながるだろ」


「仮説としては弱い」


「でもゼロじゃない」


 輝にしては珍しく、食い下がった。


 悠樹は少しだけ黙る。


「……ゼロではないな」


「認めた!」


「可能性を否定しないだけだ」


 綾乃はナプキンに指で項目を作るようにしながら言う。


「小春神社の御神木。白狐の噂。楓川。巫女服。お兄ちゃん。人間じゃないかもしれない」


「情報が多いのに、何もわからない」


 未空が言う。


「ほんとね」


 綾乃はパスタを一口食べ、椛を見る。


「椛ちゃん、キツネって言葉に心当たりある?」


 椛の動きが止まった。


 フォークが皿の上で小さく音を立てる。


 輝はすぐに気づいた。


「椛?」


 椛は胸元を押さえた。


 顔色が少し悪い。


「キツネ……」


 小さく呟く。


 その声は、怖がっているようにも、懐かしがっているようにも聞こえた。


「白い……火……」


 未空が身を乗り出す。


「何か思い出した?」


 椛は首を横に振る。


「わからない。でも、胸が、きゅってする」


 玲の指が、スプーンを持ったまま止まっていた。


 悠樹は椛の様子を見て、すぐに言う。


「無理に思い出さなくていい」


「でも」


「今は食べることが先だ。考えるのは後でいい」


 椛は悠樹を見る。


 悠樹は穏やかに頷いた。


「大丈夫。誰も急かさない」


 その言葉に、椛は少しだけ安心したようだった。


 輝は黙っていた。


 キツネという単語で椛が反応した。


 白狐火災。


 小春神社の御神木。


 巫女装束の迷子。


 普通なら面白がるところだ。


 昼の自分なら、きっと「やっぱり妖怪事件だ」と騒いでいた。


 けれど、今は椛の顔が浮かんでしまう。


 泣きそうな顔。


 「わからない」と言った声。


 それを見ると、騒ぐ気にはなれなかった。


 綾乃はその変化に気づいたが、何も言わなかった。


 代わりに明るく言う。


「じゃあ、明日行ってみようよ。小春神社」


「明日?」


 悠樹が聞き返す。


「土曜日でしょ。学校休みだし。椛ちゃんの手がかりがあるかもしれないなら、行ってみる価値はあるんじゃない?」


「危険かもしれない」


「神社に行くだけでしょ」


「御神木が燃えたばかりだ。立入禁止区域もあるはずだ」


「入らなければいいじゃない」


「輝がいる」


「ちょっと待て、何でそこでオレが危険要因みたいに出てくるんだよ」


「実績」


「便利に使うな、その言葉!」


 玲が静かに言う。


「行くべきだと思う」


 全員が玲を見る。


「椛は、楓川で見つかった。大きな木の記憶がある。小春神社の御神木が燃えた。偶然ではない可能性が高い」


「月代さんがそう言うなら……」


 悠樹は考え込む。


 未空も頷く。


「あたしも、行った方がいいと思う」


「星川さんまで」


「見ないと、わからない」


 悠樹はため息をついた。


「わかりました。ただし、条件があります」


「何」


 輝が身構える。


「立入禁止の場所に入らない。危険なことをしない。椛ちゃんを無理に近づけない。何か異変があればすぐ戻る。以上を守るなら、明日、小春神社へ行きましょう」


「おお、調査だ!」


 輝が少し声を上げた。


 すぐに椛を見る。


 椛は不安そうにしている。


 輝は慌てて声の調子を落とした。


「……いや、調査というか、手がかり探しな」


 綾乃が小さく笑う。


「少しは学習したじゃない」


「オレだって成長する」


「一日で?」


「一時間でもする」


「早いわね」


 椛は輝を見て、少しだけ笑った。


「お兄ちゃん、変」


「お兄ちゃんってオレのこと?」


「うん」


「そっか。まあ、変だけどいいお兄ちゃんを目指すわ」


「変なのは認めるんだ」


 未空が言う。


「そこは否定できない流れだった」


 食卓に、少しだけ笑いが戻る。


 それは、さっきまでよりやわらかい笑いだった。


 椛はスープを両手で持ち、ふうふうと冷ましてから口をつける。


 未空はその様子を静かに見ている。


 玲は窓の外へ目を向ける。


 悠樹は食器の残りを確認しながら、すでに後片づけの段取りを考えている。


 綾乃は椛の髪を結びたい衝動と戦っている。


 輝は、テーブルの向こうにいる椛を見た。


 ほんの数時間前まで、彼女はいなかった。


 この部屋には、自分と悠樹しかいなかった。


 二人暮らし。


 そこへ、椛が加わった。


 未空と玲と綾乃まで加わって、いつもの部屋はすっかり別の場所みたいになっている。


 騒がしい。


 面倒くさい。


 訳がわからない。


 でも。


「……悪くないな」


 輝は小さく呟いた。


 悠樹が聞き逃さなかった。


「何が」


「何でもない」


「今、悪くないと言っただろう」


「言ってない」


「言った」


「聞き間違いだ」


「おまえはわかりやすい」


「みんなして人の顔と声を読むな!」


 また笑いが起きた。


 椛も笑った。


 その笑顔はまだ少し不安そうだったが、確かにそこにあった。


 小春市の外では、夜が深くなっていく。


 楓川の水面には月が映り始めている。


 小春神社の焼けた御神木は、暗い境内で静かに立っている。


 白狐の噂は、まだスマートフォンの中を流れている。


 けれど、この小さなマンションの一室では、噂でも信仰でも畏怖でもなく、ただ一人の迷子が温かいスープを飲んでいた。


 椛。


 その名前を、誰かが呼ぶたびに。


 ほんの少しだけ、彼女の輪郭が確かになっていくことを、まだ誰もはっきりとは知らなかった。

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