第四章 楓川の迷子
放課後の小春西高校は、昼間とは少し違う音がする。
授業中のような整った静けさではない。昼休みのような一斉に広がる騒がしさでもない。部活動へ向かう生徒たちの足音、廊下で友人を呼ぶ声、階段を駆け下りる男子の笑い声、職員室の方から聞こえる教師の注意。そういう音が校舎のあちこちに散らばって、夕方の光の中で薄く伸びている。
星川未空は、昇降口で靴を履き替えた。
下駄箱の扉を閉める音が、少しだけ大きく響く。
背後では、クラスメイトたちが白狐火災の動画をまだ話題にしていた。
「え、まだ消されてないの?」
「こっちの方が画質いいよ」
「いや、これ完全に狐じゃん」
「加工でしょ」
「でも小春市でしょ? 近くじゃん」
未空は振り返らない。
その話題は、朝から何度も聞いた。昼にも聞いた。図書室でも、真堂輝が白狐のことを口にしていた。
白い狐。
炎。
小春神社。
御神木。
そして、図書室の銀色の髪の管理人。
玉城琥珀。
未空は、彼の背後に見えたものを思い出す。
白い尾のような影。
赤い火の揺らぎ。
古い紙の匂いの奥で、何かがこちらを見返してくるような感覚。
見えた。
けれど、わからない。
未空にとって、それはいつものことだった。
見えてしまう。
感じてしまう。
でも、それが何なのか、どうしてそこにいるのか、何を望んでいるのかまではわからない。
だから、言葉にしにくい。
言葉にすると、たいてい誰かを困らせる。
不気味がられる。
笑われる。
あるいは、心配される。
どれも、未空には少し疲れる反応だった。
「未空」
昇降口の外で、静かな声がした。
月代玲が立っていた。
長い黒髪が夕方の風に少しだけ揺れている。制服はきちんと整えられ、鞄を片手に持った姿は、放課後のざわめきの中でもどこか静かだった。
玲は、誰かを待っているように見えない。
ただそこに立っているだけに見える。
けれど、未空にはわかる。
玲は自分を待っていた。
「帰るの?」
未空が短く尋ねる。
「ああ」
玲は答えた。
「一緒に?」
「嫌なら別にいい」
「嫌じゃない」
「なら、行こう」
二人は並んで歩き出した。
小春西高校の正門を出ると、道はゆるやかに下っていく。右手には校庭のフェンス、左手には雑木林の名残のような木々が続き、その先に楓川の緑道がある。
夕方の空は、まだ明るい。
けれど、昼の青さは薄れ、少しずつ橙色が混じり始めていた。部活の掛け声が校庭から遠ざかり、代わりに川の方から水の匂いが近づいてくる。
未空と玲は、あまり喋らない。
それはいつものことだった。
クラスメイトたちから見れば、二人が友人だとはわかりにくいかもしれない。一緒にいてもはしゃがない。昼休みに机を寄せるわけでもない。放課後に寄り道の計画を立てるわけでもない。
けれど、未空にとって玲は、隣にいても疲れない数少ない相手だった。
会話を続けなくてもいい。
沈黙を埋めなくてもいい。
何かを見ても、すぐに説明しなくていい。
そういう相手は、未空にはほとんどいなかった。
楓川緑道へ入る。
護岸された川は、夕方の空を映していた。水面はゆっくり流れ、橙色と薄い青色が細かく揺れている。川沿いには桜並木が続き、春の花はもうかなり散って、若葉が目立ち始めていた。
緑道には、犬を連れた老人、ジョギングをする学生、自転車を押す主婦の姿がある。普通の町の、普通の夕方。
そのはずだった。
未空は、川の向こう側を見た。
一瞬だけ、水面に今の町ではないものが映った気がした。
黒い土手。
古い石積み。
木の橋。
提灯の列。
着物姿の子どもたち。
瞬きをすると、すべて消える。
そこにはただ、整備された護岸と遊歩道と、川面に揺れる夕焼けがあるだけだった。
「また見えたのか」
玲が言った。
未空は歩きながら、少しだけ玲を見る。
「何が?」
「今、川を見ていただろう」
「見てただけ」
「そうか」
玲はそれ以上聞かない。
未空はその距離感に少しだけ救われる。
普通の人なら、もっと聞く。
何が見えたの。
怖いの。
また変なもの。
そうやって、好奇心か心配か、どちらかの形で踏み込んでくる。
玲は踏み込まない。
けれど、何も気づいていないわけではない。
それが未空にはありがたかった。
「図書室は、どうだった」
しばらく歩いてから、玲が聞いた。
「静かだった」
「図書室だからな」
「変な人がいた」
「新しい管理人か」
「うん」
「玉城琥珀」
玲がその名を口にした時、未空は少しだけ足を止めかけた。
「知ってるの?」
「学級委員だから、職員の名前くらいは聞く」
「そう」
未空はまた歩き出す。
玲は隣を歩調を合わせて歩く。
「何か見えたのか」
今度は、少しだけ踏み込んだ問いだった。
未空は川を見た。
「白い尾」
「尾?」
「狐みたいな」
玲の表情は変わらなかった。
ただ、歩く速度がほんの少しだけ落ちる。
未空はそれに気づいたが、何も言わなかった。
「それだけか」
「火も」
「火」
「赤い火。でも、燃えてる感じじゃなかった。そこに残ってる感じ」
玲は黙った。
風が川面を撫でる。
夕方の光が、玲の黒髪に青い影を落とした。ほんの一瞬、その髪の先が月明かりのように淡く光った気がして、未空は視線を逸らす。
今はまだ、見なかったことにする。
未空はそう決めた。
玲には、他の人間と違う気配がある。
それはずっと前から感じている。
けれど、言葉にすれば壊れてしまいそうだった。
友達。
未空にとって、その言葉はあまり簡単なものではない。
だから、今はまだ。
「未空」
玲が呼んだ。
「何」
「玉城琥珀には、気をつけた方がいい」
未空は足を止めた。
玲も止まる。
二人の横を、自転車に乗った中学生が通り過ぎていった。ベルの音が一度だけ鳴り、すぐに遠ざかる。
「知ってるの?」
「知らない」
「でも、気をつけた方がいいって言う」
「ああ」
「どうして」
玲は川を見る。
夕方の水面に、薄い月が映り始めていた。
まだ空にはっきり出ているわけではない。けれど、昼と夜の境目に、白い爪のような月が浮かんでいる。
「人間に見えても、人間とは限らないものがある」
玲は静かに言った。
未空は玲を見た。
「それ、玲が言うの?」
声に、ほんの少しだけ揺れが混じった。
玲は未空を見返した。
その瞳は黒い。
けれど、奥に何か深い夜のようなものが沈んでいる。
「私が言う」
「そう」
未空はそれ以上聞かなかった。
玲もそれ以上言わなかった。
再び二人は歩き出す。
緑道の街灯が、まだ点いていない。細いポールの先にある丸い灯りは、夕方の中でただ白く沈黙している。やがて夜になれば、一つずつ灯るはずだった。
未空は、灯っていない街灯が少し苦手だった。
点く前の灯りは、どこか死んでいるように見える。
けれど玲は、その下を通る時だけ少し落ち着いているように見えた。
夜へ向かう時間が、玲の輪郭を濃くしていく。
そんな気がした。
「未空」
玲がまた呼んだ。
今度の声は、少し違っていた。
「何」
「前」
玲は進行方向を指さした。
緑道から少し外れた道路脇。
古い石の小さな祠がある場所だった。今ではほとんど誰も手を合わせない。脇には錆びたガードレールと、使われなくなった用水路の跡がある。
その近くで、小さな子どもがうずくまっていた。
最初は、近所の子が転んで泣いているのかと思った。
けれど、違った。
服装が、普通ではない。
白い千早のような上衣。
紅色の袴。
袖や裾には、古い楓の葉のような文様がうっすら浮かんでいる。
まるで、神社の行事で着る巫女装束のようだった。
その少女は、道路脇にしゃがみ込み、両手で顔を覆って泣いていた。肩が小さく震えている。年齢は八歳か九歳くらいに見える。
夕方の町の中で、その姿だけがひどく浮いていた。
未空と玲は足を止める。
近くを通る人たちは、誰も少女に気づいていないようだった。
犬を連れた老人が横を通り過ぎる。
自転車の高校生が通る。
買い物帰りの女性がスマートフォンを見ながら歩いていく。
誰も、泣いている少女の方を見ない。
いや。
見えていない。
未空は、胸の奥が冷えるのを感じた。
玲が先に動いた。
少女の前まで歩き、少し距離を置いてしゃがむ。
「どうした。迷子か?」
声は静かだった。
少女は肩を震わせたまま、顔を上げない。
「泣いていてはわからない。怪我をしたのか」
玲の問いに、少女は首を横に振った。
しゃくり上げる声が小さく漏れる。
「……おにいちゃん」
「兄とはぐれたのか」
少女は、顔を覆った手を少しだけ下げた。
大きな目に涙が溜まっている。
瞳は、淡い琥珀色をしていた。
「あのね……椛、お兄ちゃんを探してたの」
幼い声だった。
けれど、どこか古い木の葉がこすれるような響きが混じっていた。
「お兄ちゃん、どこにもいなくて……椛、探して……でも、見つからなくて……」
また涙がこぼれる。
「迷子に、なっちゃったの」
未空は、少女をじっと見ていた。
白い千早。
紅い袴。
薄く浮かぶ楓の文様。
琥珀色の瞳。
そして、輪郭の薄さ。
夕方の光の中にいるはずなのに、その体はどこか透けているように見えた。影が地面に落ちているのに、完全ではない。風が吹くたび、袖の端が空気ではなく記憶の中で揺れるようにぼやける。
人間の子どもではない。
未空はそう思った。
思ってしまった。
「この子」
未空は静かに言った。
玲が振り向く。
少女も涙に濡れた目で未空を見る。
「人間じゃないかもしれない」
空気が、少しだけ止まった。
少女は意味がわからないという顔をした。
玲は未空を見た。
「それを今言うのか」
「見えたから」
「泣いている子どもに言う言葉ではない」
「でも、人間じゃない」
未空の声は揺れない。
冷たいわけではない。
ただ、見えたものをごまかせないだけだった。
少女は未空と玲を交互に見て、また泣きそうな顔になる。
「椛……人間じゃないの?」
その声は、自分でもわかっていないものを突きつけられた子どもの声だった。
未空は少しだけ唇を結んだ。
言葉が足りなかった。
けれど、どう言えばよかったのかわからない。
玲は小さく息を吐き、少女へ手を伸ばした。
「すまない。未空は、見たものをそのまま言ってしまうだけだ。君を怖がらせたいわけでは――」
玲の手が、少女の肩に触れる。
はずだった。
指先が、すり抜けた。
玲の手は、少女の肩を通り抜け、空を掴んだ。
「……っ」
玲の表情が、ほんの一瞬だけ強張る。
少女は気づいていないのか、あるいはそれが当たり前なのか、ただ涙を拭っている。
未空は、ゆっくりと手を伸ばした。
自分の指がすり抜けるかもしれない。
そう思いながら、少女の肩に触れる。
今度は、触れた。
小さな肩だった。
少し冷たい。
けれど、確かにそこにある。
少女がびくっと震え、未空を見上げた。
未空はできるだけ声を柔らかくした。
「名前は?」
少女は涙をこらえながら、ぽつりと答える。
「……椛」
「もみじ?」
少女はこくんとうなずく。
「椛は、椛」
名前だけは、はっきりしていた。
未空はその名前を胸の中で繰り返す。
椛。
楓川のほとり。
小春神社の御神木。
焼けた楓。
白狐。
図書室で見た古い資料。
いくつもの断片が、まだつながらないまま、未空の中に沈んでいく。
「椛」
未空はもう一度呼んだ。
少女は、少しだけ肩の震えを止めた。
名前を呼ばれたことで、ほんの少し輪郭が濃くなったように見えた。
未空はその変化に気づき、目を細める。
「あなたは何?」
玲がわずかに眉を寄せた。
「未空」
「聞かないとわからない」
「聞いても、わからないかもしれない」
「でも聞く」
未空は椛を見たまま、もう一度問う。
「椛は、何?」
椛は、困ったように視線を下げた。
小さな手が、袴の布を握る。
「……わからないの」
声が震える。
「椛、わからない。椛はね、椛って名前と、お兄ちゃんを探してたことしか覚えてないの」
「どこから来たの?」
「わからない」
「家は?」
「わからない」
「お兄ちゃんの名前は?」
「……わからない」
答えるたびに、椛の顔がくしゃりと歪む。
自分でも何もわからないことが怖いのだ。
未空はそれ以上聞けなくなった。
玲が静かに言う。
「椛。立てるか」
椛は玲を見た。
その瞬間、椛の肩が小さく跳ねた。
怯え。
未空は気づいた。
椛は玲を怖がっている。
それは初対面の相手への警戒とは違う。もっと深い場所で、何かを感じ取ったような反応だった。
玲もそれに気づいたはずだった。
だが、玲は表情を変えない。
ただ、伸ばしかけた手を下ろした。
「無理に触れない。立てるなら、自分で立つといい」
椛はこくんとうなずき、涙を拭いながら立ち上がった。
その動きは危うい。
足元が少し透けて見える。
未空は支えるように手を添えた。
今度も触れられる。
玲はそれを見て、目を細めた。
「未空は触れられるのか」
「うん」
「私は無理だった」
「うん」
「なぜだ」
「わからない」
未空は正直に答えた。
玲は少しだけ黙った。
楓川の水面が夕日を映している。
その上を、まだ点いていない街灯の影が細長く落ちていた。
椛は未空の袖を小さく掴んでいる。
不安そうな顔で周囲を見ているが、通り過ぎる人々はやはり誰も椛を見ない。
見えていない。
あるいは、見てもすぐ忘れている。
未空はそのことに気づき、胸が少し痛くなった。
「このままにはできない」
玲が言った。
「うん」
「警察へ連れていくか」
未空は首を横に振った。
「たぶん、無理」
「人間ではないからか」
「うん」
「だが、子どもが泣いている」
「子どもだけど、人間じゃない」
「それは理由にならない」
玲の声が少しだけ低くなった。
未空は玲を見る。
玲は椛を見ていた。
その目には、冷たさと、何か別の感情が混じっている。
未空には、それが何なのかわからない。
懐かしさ。
痛み。
それとも、警戒。
椛は玲の視線を受けて、未空の袖をぎゅっと握った。
「お姉ちゃん……」
未空は少し驚いた。
お姉ちゃん。
自分をそう呼ばれることに慣れていない。
「何」
「椛、怒られる?」
「誰に」
「わからない。でも、椛、迷子になったから……お兄ちゃん、怒るかも」
「怒らないと思う」
「ほんと?」
「たぶん」
未空は断言できなかった。
お兄ちゃんが誰なのかもわからないのだから。
だが、椛はその曖昧な返事でも少しだけ安心したようだった。
その時だった。
「あれ?」
背後から声がした。
未空と玲が振り返る。
買い物袋を両手に持った葵城悠樹が、緑道の入り口に立っていた。
制服姿のまま、両手にはスーパーの袋。中には長ネギ、パスタ、トマト缶、牛乳、卵などが入っている。学校で見る完璧な学級委員の姿とは微妙に違い、妙に生活感があった。
悠樹は未空と玲を見て、次に椛を見た。
そして、しばらく黙った。
「……月代さん、星川さん」
外向きの丁寧な声だった。
「こんなところで何をしているんですか」
玲が短く答える。
「迷子を見つけた」
悠樹は椛を見る。
巫女装束のような服を着た、小さな少女。
目元は赤く、未空の袖を掴んでいる。
どう見ても、ただ事ではない。
悠樹は買い物袋を持ち直し、眉をひそめた。
「この子ですか」
「ああ」
「名前は?」
未空が答える。
「椛」
「もみじちゃん?」
椛は未空の影に隠れるようにしながら、小さくうなずいた。
「お兄ちゃんを探していて、迷子になったそうだ」
玲が言う。
「家や保護者は?」
「わからない」
「住所は?」
「わからない」
「電話番号は?」
「わからない」
「年齢は?」
椛は困った顔をした。
「……わからない」
悠樹の表情が少し険しくなる。
当然だった。
泣いている迷子。
名前以外は何もわからない。
服装は不自然。
周囲には保護者らしき人物もいない。
普通なら、すぐに警察へ連絡する案件である。
「わかりました」
悠樹は買い物袋を足元に置き、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「警察に連絡しましょう。保護してもらって、そこから児童相談所や関係機関に――」
「だめ」
未空が言った。
悠樹の指が止まる。
「だめ?」
「警察に渡しても、たぶん無駄」
「無駄とはどういう意味ですか」
「この子、人間じゃないから」
沈黙。
楓川の水音だけが聞こえた。
悠樹は未空を見た。
次に玲を見た。
最後に椛を見る。
椛は、自分がまた人間ではないと言われたことで、泣きそうな顔になっていた。
悠樹は額に手を当てた。
「すみません。今、聞き間違えましたか」
「聞き間違えていない」
未空は静かに言う。
「この子は、人間じゃないかもしれない」
「星川さん」
悠樹の声は丁寧なままだった。
だが、その奥に困惑が見える。
「目の前で泣いている子どもを、そういう言い方で扱うのはどうかと思います」
「でも、本当に人間じゃない」
「根拠は?」
「玲が触れなかった」
悠樹は玲を見た。
玲は否定しなかった。
「私の手が、すり抜けた」
「……手が、すり抜けた?」
「ああ」
「月代さんまで、何を言っているんですか」
悠樹は深く息を吐いた。
彼は怪異や妖怪、神様といったものを簡単には信じない。
信じないというより、そういう説明で現実を処理することを拒む。
目の前に泣いている子どもがいるなら、まず確認すべきは身元であり、安全であり、保護者であり、必要なら公的機関への連絡である。
人間ではない。
手がすり抜けた。
そんな言葉で現実の手順を飛ばすことはできない。
「確認します」
悠樹はスマートフォンをしまわず、椛の前にしゃがんだ。
目線の高さを合わせる。
「椛ちゃん」
「……はい」
「怪我はしていない?」
椛は首を横に振る。
「お腹は空いている?」
椛は少し迷ってから、首を傾げた。
「わからない」
「寒くは?」
「……少し」
「お兄ちゃんと最後に会った場所は覚えている?」
椛は黙り込む。
目に涙が溜まる。
「わからないの……ごめんなさい」
悠樹の表情がわずかに緩んだ。
泣いている子どもに謝られるのは、彼にとってかなり弱い。
「謝らなくていい」
声が少しだけ柔らかくなる。
「わからないなら、わからないでいい。大丈夫だから」
椛は恐る恐る悠樹を見た。
悠樹は手を伸ばしかけて、未空と玲の言葉を思い出し、一瞬ためらう。
それでも、椛の肩にそっと触れようとした。
触れた。
少なくとも、悠樹にはそう感じられた。
布の感触がある。
小さな肩の重みがある。
体温は少し低いが、幽霊のように完全に空っぽではない。
悠樹は未空を見た。
「触れます」
「悠樹くんは、触れるんだ」
未空は少しだけ目を細めた。
「どういう意味ですか」
「わからない」
「そればかりですね」
「見えることと、わかることは違う」
未空の声は淡々としていた。
悠樹は反論しかけて、やめた。
この場で議論しても、椛を余計に不安にさせるだけだ。
それはわかっている。
悠樹はスマートフォンを見た。
警察に連絡するべきだ。
理屈ではそうだ。
だが。
椛が未空の袖を握っている。
玲の手はすり抜けたと言う。
通行人は、誰も椛を見ていないようだった。
悠樹はあらためて周囲を見回した。
近くを通る人々は、三人の高校生のことはちらりと見る。だが、椛には視線を向けない。こんなに目立つ格好の子どもが泣いているのに、誰も立ち止まらない。
それは不自然だった。
不自然すぎた。
悠樹は眉を寄せる。
信じるわけではない。
だが、説明できない。
説明できないものを信じることと、説明できない状況に対応することは、別の問題だった。
「……家が近いです」
悠樹は言った。
未空が顔を上げる。
「僕と輝のマンションが、ここから歩いてすぐです。少し落ち着かせて、話を整理しましょう」
「警察は?」
玲が問う。
「必要なら、その後で連絡します」
「必要なら、か」
「今すぐここで連絡するより、まずこの子を落ち着かせる方が先です」
悠樹はそう言ってから、少しだけ苦い顔をした。
本当は、こんな判断は正しくないかもしれない。
だが、目の前の椛は泣いている。
そして、この場で「人間ではない」と言われ続けるたびに、さらに小さくなっていく。
正しい手順が必ずしも正しい結果につながるとは限らない。
そのことを、悠樹はまだ言葉にはできない。
けれど、直感的に感じていた。
「椛ちゃん」
悠樹はなるべく穏やかに言う。
「少しだけ、僕たちの家に来る? 温かいものくらいなら出せるから」
椛は未空を見た。
未空は小さくうなずく。
「行った方がいい」
「お姉ちゃんも来る?」
「行く」
椛は玲を見た。
玲と目が合った瞬間、また少しだけ怯えたように未空の後ろへ隠れる。
玲は何も言わなかった。
ただ、静かに視線を伏せる。
その横顔を、未空は見ていた。
「玲」
「何だ」
「椛のこと、知ってる?」
問いは短かった。
玲はすぐには答えなかった。
夕方の光が薄くなり、川沿いの街灯が一つ、ぱっと点いた。
まだ明るいのに、その灯りだけが小さな月のように白く浮かぶ。
玲の影が、地面に長く伸びた。
「知らない」
玲は言った。
未空はその言葉を聞いた。
信じたわけではない。
けれど、今はそれ以上聞かなかった。
悠樹は買い物袋を拾い上げる。
片方の袋から長ネギがはみ出していた。
この状況にはあまりにも生活感がありすぎる。
玲はそれを見て、ほんのわずかに目を細めた。
「夕食の買い物か」
「ええ」
悠樹は少しだけ気まずそうに答える。
「真堂の分も?」
「……まあ」
「大変だな」
「慣れています」
「無理しているように見える」
悠樹は一瞬、言葉を止めた。
その言い方が、妙にまっすぐだったからだ。
「月代さんに言われるほどではありません」
「そうか」
玲はそれ以上言わなかった。
悠樹はほんの少しだけ困った顔をする。
学校での自分の仮面を、玲にはどこか見透かされている気がした。
だが今は、それどころではない。
「行きましょう」
悠樹が歩き出す。
未空が椛の手を引く。
椛の手は小さく、冷たい。
けれど、未空が名前を呼ぶたびに、その輪郭は少しだけ確かになるように見えた。
「椛」
「なあに」
「転ばないで」
「うん」
椛は未空の手を握ったまま、恐る恐る歩き出す。
玲は少し後ろを歩いた。
椛は時々振り返って玲を見る。
そのたびに、不安そうに未空へ寄る。
玲は何も言わない。
ただ、夕方から夜へ変わり始めた楓川を横目で見ていた。
川面には、薄い月が映っている。
その月の下に、ほんの一瞬だけ、古い小春市の影が揺れた。
木の橋。
赤い楓。
人々の祈り。
小さな神の名前を呼ぶ声。
そして、焼け落ちた御神木の黒い幹。
未空は足を止めかけた。
だが、椛の手が震えているのに気づき、そのまま歩いた。
今は、見ることよりも、連れていくことが先だった。
小春市の夕方は、ゆっくり夜へ沈んでいく。
スマートフォンの中で消費されていた白狐の噂。
図書室の奥に眠る古い記録。
焼けた御神木。
そして、楓川のほとりで泣いていた小さな迷子。
それらはまだ、誰の中でも一つにはつながっていない。
椛は未空の手を握りながら、小さく呟いた。
「お兄ちゃん……」
その声は川の音に紛れて、すぐに消えた。
けれど、玲だけはその言葉に反応した。
足を止めず、表情も変えず、ただ瞳の奥だけを少し暗くする。
お兄ちゃん。
椛が探しているもの。
それが人間の兄ではないことを、玲はおそらく知っていた。
だが、玲は何も言わない。
言えば、何かが動き出してしまう。
まだ、早い。
そう言い聞かせるように、玲は夜へ傾く空を見上げた。
薄い月が、そこにあった。
小春市の上で、静かに、冷たく。
まるで、迷子の神様を見つけたこの夕方を、忘れないように見届けているかのように。




