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第四章 楓川の迷子

 放課後の小春西高校は、昼間とは少し違う音がする。


 授業中のような整った静けさではない。昼休みのような一斉に広がる騒がしさでもない。部活動へ向かう生徒たちの足音、廊下で友人を呼ぶ声、階段を駆け下りる男子の笑い声、職員室の方から聞こえる教師の注意。そういう音が校舎のあちこちに散らばって、夕方の光の中で薄く伸びている。


 星川未空は、昇降口で靴を履き替えた。


 下駄箱の扉を閉める音が、少しだけ大きく響く。


 背後では、クラスメイトたちが白狐火災の動画をまだ話題にしていた。


「え、まだ消されてないの?」


「こっちの方が画質いいよ」


「いや、これ完全に狐じゃん」


「加工でしょ」


「でも小春市でしょ? 近くじゃん」


 未空は振り返らない。


 その話題は、朝から何度も聞いた。昼にも聞いた。図書室でも、真堂輝が白狐のことを口にしていた。


 白い狐。


 炎。


 小春神社。


 御神木。


 そして、図書室の銀色の髪の管理人。


 玉城琥珀。


 未空は、彼の背後に見えたものを思い出す。


 白い尾のような影。


 赤い火の揺らぎ。


 古い紙の匂いの奥で、何かがこちらを見返してくるような感覚。


 見えた。


 けれど、わからない。


 未空にとって、それはいつものことだった。


 見えてしまう。


 感じてしまう。


 でも、それが何なのか、どうしてそこにいるのか、何を望んでいるのかまではわからない。


 だから、言葉にしにくい。


 言葉にすると、たいてい誰かを困らせる。


 不気味がられる。


 笑われる。


 あるいは、心配される。


 どれも、未空には少し疲れる反応だった。


「未空」


 昇降口の外で、静かな声がした。


 月代玲が立っていた。


 長い黒髪が夕方の風に少しだけ揺れている。制服はきちんと整えられ、鞄を片手に持った姿は、放課後のざわめきの中でもどこか静かだった。


 玲は、誰かを待っているように見えない。


 ただそこに立っているだけに見える。


 けれど、未空にはわかる。


 玲は自分を待っていた。


「帰るの?」


 未空が短く尋ねる。


「ああ」


 玲は答えた。


「一緒に?」


「嫌なら別にいい」


「嫌じゃない」


「なら、行こう」


 二人は並んで歩き出した。


 小春西高校の正門を出ると、道はゆるやかに下っていく。右手には校庭のフェンス、左手には雑木林の名残のような木々が続き、その先に楓川の緑道がある。


 夕方の空は、まだ明るい。


 けれど、昼の青さは薄れ、少しずつ橙色が混じり始めていた。部活の掛け声が校庭から遠ざかり、代わりに川の方から水の匂いが近づいてくる。


 未空と玲は、あまり喋らない。


 それはいつものことだった。


 クラスメイトたちから見れば、二人が友人だとはわかりにくいかもしれない。一緒にいてもはしゃがない。昼休みに机を寄せるわけでもない。放課後に寄り道の計画を立てるわけでもない。


 けれど、未空にとって玲は、隣にいても疲れない数少ない相手だった。


 会話を続けなくてもいい。


 沈黙を埋めなくてもいい。


 何かを見ても、すぐに説明しなくていい。


 そういう相手は、未空にはほとんどいなかった。


 楓川緑道へ入る。


 護岸された川は、夕方の空を映していた。水面はゆっくり流れ、橙色と薄い青色が細かく揺れている。川沿いには桜並木が続き、春の花はもうかなり散って、若葉が目立ち始めていた。


 緑道には、犬を連れた老人、ジョギングをする学生、自転車を押す主婦の姿がある。普通の町の、普通の夕方。


 そのはずだった。


 未空は、川の向こう側を見た。


 一瞬だけ、水面に今の町ではないものが映った気がした。


 黒い土手。


 古い石積み。


 木の橋。


 提灯の列。


 着物姿の子どもたち。


 瞬きをすると、すべて消える。


 そこにはただ、整備された護岸と遊歩道と、川面に揺れる夕焼けがあるだけだった。


「また見えたのか」


 玲が言った。


 未空は歩きながら、少しだけ玲を見る。


「何が?」


「今、川を見ていただろう」


「見てただけ」


「そうか」


 玲はそれ以上聞かない。


 未空はその距離感に少しだけ救われる。


 普通の人なら、もっと聞く。


 何が見えたの。


 怖いの。


 また変なもの。


 そうやって、好奇心か心配か、どちらかの形で踏み込んでくる。


 玲は踏み込まない。


 けれど、何も気づいていないわけではない。


 それが未空にはありがたかった。


「図書室は、どうだった」


 しばらく歩いてから、玲が聞いた。


「静かだった」


「図書室だからな」


「変な人がいた」


「新しい管理人か」


「うん」


「玉城琥珀」


 玲がその名を口にした時、未空は少しだけ足を止めかけた。


「知ってるの?」


「学級委員だから、職員の名前くらいは聞く」


「そう」


 未空はまた歩き出す。


 玲は隣を歩調を合わせて歩く。


「何か見えたのか」


 今度は、少しだけ踏み込んだ問いだった。


 未空は川を見た。


「白い尾」


「尾?」


「狐みたいな」


 玲の表情は変わらなかった。


 ただ、歩く速度がほんの少しだけ落ちる。


 未空はそれに気づいたが、何も言わなかった。


「それだけか」


「火も」


「火」


「赤い火。でも、燃えてる感じじゃなかった。そこに残ってる感じ」


 玲は黙った。


 風が川面を撫でる。


 夕方の光が、玲の黒髪に青い影を落とした。ほんの一瞬、その髪の先が月明かりのように淡く光った気がして、未空は視線を逸らす。


 今はまだ、見なかったことにする。


 未空はそう決めた。


 玲には、他の人間と違う気配がある。


 それはずっと前から感じている。


 けれど、言葉にすれば壊れてしまいそうだった。


 友達。


 未空にとって、その言葉はあまり簡単なものではない。


 だから、今はまだ。


「未空」


 玲が呼んだ。


「何」


「玉城琥珀には、気をつけた方がいい」


 未空は足を止めた。


 玲も止まる。


 二人の横を、自転車に乗った中学生が通り過ぎていった。ベルの音が一度だけ鳴り、すぐに遠ざかる。


「知ってるの?」


「知らない」


「でも、気をつけた方がいいって言う」


「ああ」


「どうして」


 玲は川を見る。


 夕方の水面に、薄い月が映り始めていた。


 まだ空にはっきり出ているわけではない。けれど、昼と夜の境目に、白い爪のような月が浮かんでいる。


「人間に見えても、人間とは限らないものがある」


 玲は静かに言った。


 未空は玲を見た。


「それ、玲が言うの?」


 声に、ほんの少しだけ揺れが混じった。


 玲は未空を見返した。


 その瞳は黒い。


 けれど、奥に何か深い夜のようなものが沈んでいる。


「私が言う」


「そう」


 未空はそれ以上聞かなかった。


 玲もそれ以上言わなかった。


 再び二人は歩き出す。


 緑道の街灯が、まだ点いていない。細いポールの先にある丸い灯りは、夕方の中でただ白く沈黙している。やがて夜になれば、一つずつ灯るはずだった。


 未空は、灯っていない街灯が少し苦手だった。


 点く前の灯りは、どこか死んでいるように見える。


 けれど玲は、その下を通る時だけ少し落ち着いているように見えた。


 夜へ向かう時間が、玲の輪郭を濃くしていく。


 そんな気がした。


「未空」


 玲がまた呼んだ。


 今度の声は、少し違っていた。


「何」


「前」


 玲は進行方向を指さした。


 緑道から少し外れた道路脇。


 古い石の小さな祠がある場所だった。今ではほとんど誰も手を合わせない。脇には錆びたガードレールと、使われなくなった用水路の跡がある。


 その近くで、小さな子どもがうずくまっていた。


 最初は、近所の子が転んで泣いているのかと思った。


 けれど、違った。


 服装が、普通ではない。


 白い千早のような上衣。


 紅色の袴。


 袖や裾には、古い楓の葉のような文様がうっすら浮かんでいる。


 まるで、神社の行事で着る巫女装束のようだった。


 その少女は、道路脇にしゃがみ込み、両手で顔を覆って泣いていた。肩が小さく震えている。年齢は八歳か九歳くらいに見える。


 夕方の町の中で、その姿だけがひどく浮いていた。


 未空と玲は足を止める。


 近くを通る人たちは、誰も少女に気づいていないようだった。


 犬を連れた老人が横を通り過ぎる。


 自転車の高校生が通る。


 買い物帰りの女性がスマートフォンを見ながら歩いていく。


 誰も、泣いている少女の方を見ない。


 いや。


 見えていない。


 未空は、胸の奥が冷えるのを感じた。


 玲が先に動いた。


 少女の前まで歩き、少し距離を置いてしゃがむ。


「どうした。迷子か?」


 声は静かだった。


 少女は肩を震わせたまま、顔を上げない。


「泣いていてはわからない。怪我をしたのか」


 玲の問いに、少女は首を横に振った。


 しゃくり上げる声が小さく漏れる。


「……おにいちゃん」


「兄とはぐれたのか」


 少女は、顔を覆った手を少しだけ下げた。


 大きな目に涙が溜まっている。


 瞳は、淡い琥珀色をしていた。


「あのね……椛、お兄ちゃんを探してたの」


 幼い声だった。


 けれど、どこか古い木の葉がこすれるような響きが混じっていた。


「お兄ちゃん、どこにもいなくて……椛、探して……でも、見つからなくて……」


 また涙がこぼれる。


「迷子に、なっちゃったの」


 未空は、少女をじっと見ていた。


 白い千早。


 紅い袴。


 薄く浮かぶ楓の文様。


 琥珀色の瞳。


 そして、輪郭の薄さ。


 夕方の光の中にいるはずなのに、その体はどこか透けているように見えた。影が地面に落ちているのに、完全ではない。風が吹くたび、袖の端が空気ではなく記憶の中で揺れるようにぼやける。


 人間の子どもではない。


 未空はそう思った。


 思ってしまった。


「この子」


 未空は静かに言った。


 玲が振り向く。


 少女も涙に濡れた目で未空を見る。


「人間じゃないかもしれない」


 空気が、少しだけ止まった。


 少女は意味がわからないという顔をした。


 玲は未空を見た。


「それを今言うのか」


「見えたから」


「泣いている子どもに言う言葉ではない」


「でも、人間じゃない」


 未空の声は揺れない。


 冷たいわけではない。


 ただ、見えたものをごまかせないだけだった。


 少女は未空と玲を交互に見て、また泣きそうな顔になる。


「椛……人間じゃないの?」


 その声は、自分でもわかっていないものを突きつけられた子どもの声だった。


 未空は少しだけ唇を結んだ。


 言葉が足りなかった。


 けれど、どう言えばよかったのかわからない。


 玲は小さく息を吐き、少女へ手を伸ばした。


「すまない。未空は、見たものをそのまま言ってしまうだけだ。君を怖がらせたいわけでは――」


 玲の手が、少女の肩に触れる。


 はずだった。


 指先が、すり抜けた。


 玲の手は、少女の肩を通り抜け、空を掴んだ。


「……っ」


 玲の表情が、ほんの一瞬だけ強張る。


 少女は気づいていないのか、あるいはそれが当たり前なのか、ただ涙を拭っている。


 未空は、ゆっくりと手を伸ばした。


 自分の指がすり抜けるかもしれない。


 そう思いながら、少女の肩に触れる。


 今度は、触れた。


 小さな肩だった。


 少し冷たい。


 けれど、確かにそこにある。


 少女がびくっと震え、未空を見上げた。


 未空はできるだけ声を柔らかくした。


「名前は?」


 少女は涙をこらえながら、ぽつりと答える。


「……椛」


「もみじ?」


 少女はこくんとうなずく。


「椛は、椛」


 名前だけは、はっきりしていた。


 未空はその名前を胸の中で繰り返す。


 椛。


 楓川のほとり。


 小春神社の御神木。


 焼けた楓。


 白狐。


 図書室で見た古い資料。


 いくつもの断片が、まだつながらないまま、未空の中に沈んでいく。


「椛」


 未空はもう一度呼んだ。


 少女は、少しだけ肩の震えを止めた。


 名前を呼ばれたことで、ほんの少し輪郭が濃くなったように見えた。


 未空はその変化に気づき、目を細める。


「あなたは何?」


 玲がわずかに眉を寄せた。


「未空」


「聞かないとわからない」


「聞いても、わからないかもしれない」


「でも聞く」


 未空は椛を見たまま、もう一度問う。


「椛は、何?」


 椛は、困ったように視線を下げた。


 小さな手が、袴の布を握る。


「……わからないの」


 声が震える。


「椛、わからない。椛はね、椛って名前と、お兄ちゃんを探してたことしか覚えてないの」


「どこから来たの?」


「わからない」


「家は?」


「わからない」


「お兄ちゃんの名前は?」


「……わからない」


 答えるたびに、椛の顔がくしゃりと歪む。


 自分でも何もわからないことが怖いのだ。


 未空はそれ以上聞けなくなった。


 玲が静かに言う。


「椛。立てるか」


 椛は玲を見た。


 その瞬間、椛の肩が小さく跳ねた。


 怯え。


 未空は気づいた。


 椛は玲を怖がっている。


 それは初対面の相手への警戒とは違う。もっと深い場所で、何かを感じ取ったような反応だった。


 玲もそれに気づいたはずだった。


 だが、玲は表情を変えない。


 ただ、伸ばしかけた手を下ろした。


「無理に触れない。立てるなら、自分で立つといい」


 椛はこくんとうなずき、涙を拭いながら立ち上がった。


 その動きは危うい。


 足元が少し透けて見える。


 未空は支えるように手を添えた。


 今度も触れられる。


 玲はそれを見て、目を細めた。


「未空は触れられるのか」


「うん」


「私は無理だった」


「うん」


「なぜだ」


「わからない」


 未空は正直に答えた。


 玲は少しだけ黙った。


 楓川の水面が夕日を映している。


 その上を、まだ点いていない街灯の影が細長く落ちていた。


 椛は未空の袖を小さく掴んでいる。


 不安そうな顔で周囲を見ているが、通り過ぎる人々はやはり誰も椛を見ない。


 見えていない。


 あるいは、見てもすぐ忘れている。


 未空はそのことに気づき、胸が少し痛くなった。


「このままにはできない」


 玲が言った。


「うん」


「警察へ連れていくか」


 未空は首を横に振った。


「たぶん、無理」


「人間ではないからか」


「うん」


「だが、子どもが泣いている」


「子どもだけど、人間じゃない」


「それは理由にならない」


 玲の声が少しだけ低くなった。


 未空は玲を見る。


 玲は椛を見ていた。


 その目には、冷たさと、何か別の感情が混じっている。


 未空には、それが何なのかわからない。


 懐かしさ。


 痛み。


 それとも、警戒。


 椛は玲の視線を受けて、未空の袖をぎゅっと握った。


「お姉ちゃん……」


 未空は少し驚いた。


 お姉ちゃん。


 自分をそう呼ばれることに慣れていない。


「何」


「椛、怒られる?」


「誰に」


「わからない。でも、椛、迷子になったから……お兄ちゃん、怒るかも」


「怒らないと思う」


「ほんと?」


「たぶん」


 未空は断言できなかった。


 お兄ちゃんが誰なのかもわからないのだから。


 だが、椛はその曖昧な返事でも少しだけ安心したようだった。


 その時だった。


「あれ?」


 背後から声がした。


 未空と玲が振り返る。


 買い物袋を両手に持った葵城悠樹が、緑道の入り口に立っていた。


 制服姿のまま、両手にはスーパーの袋。中には長ネギ、パスタ、トマト缶、牛乳、卵などが入っている。学校で見る完璧な学級委員の姿とは微妙に違い、妙に生活感があった。


 悠樹は未空と玲を見て、次に椛を見た。


 そして、しばらく黙った。


「……月代さん、星川さん」


 外向きの丁寧な声だった。


「こんなところで何をしているんですか」


 玲が短く答える。


「迷子を見つけた」


 悠樹は椛を見る。


 巫女装束のような服を着た、小さな少女。


 目元は赤く、未空の袖を掴んでいる。


 どう見ても、ただ事ではない。


 悠樹は買い物袋を持ち直し、眉をひそめた。


「この子ですか」


「ああ」


「名前は?」


 未空が答える。


「椛」


「もみじちゃん?」


 椛は未空の影に隠れるようにしながら、小さくうなずいた。


「お兄ちゃんを探していて、迷子になったそうだ」


 玲が言う。


「家や保護者は?」


「わからない」


「住所は?」


「わからない」


「電話番号は?」


「わからない」


「年齢は?」


 椛は困った顔をした。


「……わからない」


 悠樹の表情が少し険しくなる。


 当然だった。


 泣いている迷子。


 名前以外は何もわからない。


 服装は不自然。


 周囲には保護者らしき人物もいない。


 普通なら、すぐに警察へ連絡する案件である。


「わかりました」


 悠樹は買い物袋を足元に置き、ポケットからスマートフォンを取り出した。


「警察に連絡しましょう。保護してもらって、そこから児童相談所や関係機関に――」


「だめ」


 未空が言った。


 悠樹の指が止まる。


「だめ?」


「警察に渡しても、たぶん無駄」


「無駄とはどういう意味ですか」


「この子、人間じゃないから」


 沈黙。


 楓川の水音だけが聞こえた。


 悠樹は未空を見た。


 次に玲を見た。


 最後に椛を見る。


 椛は、自分がまた人間ではないと言われたことで、泣きそうな顔になっていた。


 悠樹は額に手を当てた。


「すみません。今、聞き間違えましたか」


「聞き間違えていない」


 未空は静かに言う。


「この子は、人間じゃないかもしれない」


「星川さん」


 悠樹の声は丁寧なままだった。


 だが、その奥に困惑が見える。


「目の前で泣いている子どもを、そういう言い方で扱うのはどうかと思います」


「でも、本当に人間じゃない」


「根拠は?」


「玲が触れなかった」


 悠樹は玲を見た。


 玲は否定しなかった。


「私の手が、すり抜けた」


「……手が、すり抜けた?」


「ああ」


「月代さんまで、何を言っているんですか」


 悠樹は深く息を吐いた。


 彼は怪異や妖怪、神様といったものを簡単には信じない。


 信じないというより、そういう説明で現実を処理することを拒む。


 目の前に泣いている子どもがいるなら、まず確認すべきは身元であり、安全であり、保護者であり、必要なら公的機関への連絡である。


 人間ではない。


 手がすり抜けた。


 そんな言葉で現実の手順を飛ばすことはできない。


「確認します」


 悠樹はスマートフォンをしまわず、椛の前にしゃがんだ。


 目線の高さを合わせる。


「椛ちゃん」


「……はい」


「怪我はしていない?」


 椛は首を横に振る。


「お腹は空いている?」


 椛は少し迷ってから、首を傾げた。


「わからない」


「寒くは?」


「……少し」


「お兄ちゃんと最後に会った場所は覚えている?」


 椛は黙り込む。


 目に涙が溜まる。


「わからないの……ごめんなさい」


 悠樹の表情がわずかに緩んだ。


 泣いている子どもに謝られるのは、彼にとってかなり弱い。


「謝らなくていい」


 声が少しだけ柔らかくなる。


「わからないなら、わからないでいい。大丈夫だから」


 椛は恐る恐る悠樹を見た。


 悠樹は手を伸ばしかけて、未空と玲の言葉を思い出し、一瞬ためらう。


 それでも、椛の肩にそっと触れようとした。


 触れた。


 少なくとも、悠樹にはそう感じられた。


 布の感触がある。


 小さな肩の重みがある。


 体温は少し低いが、幽霊のように完全に空っぽではない。


 悠樹は未空を見た。


「触れます」


「悠樹くんは、触れるんだ」


 未空は少しだけ目を細めた。


「どういう意味ですか」


「わからない」


「そればかりですね」


「見えることと、わかることは違う」


 未空の声は淡々としていた。


 悠樹は反論しかけて、やめた。


 この場で議論しても、椛を余計に不安にさせるだけだ。


 それはわかっている。


 悠樹はスマートフォンを見た。


 警察に連絡するべきだ。


 理屈ではそうだ。


 だが。


 椛が未空の袖を握っている。


 玲の手はすり抜けたと言う。


 通行人は、誰も椛を見ていないようだった。


 悠樹はあらためて周囲を見回した。


 近くを通る人々は、三人の高校生のことはちらりと見る。だが、椛には視線を向けない。こんなに目立つ格好の子どもが泣いているのに、誰も立ち止まらない。


 それは不自然だった。


 不自然すぎた。


 悠樹は眉を寄せる。


 信じるわけではない。


 だが、説明できない。


 説明できないものを信じることと、説明できない状況に対応することは、別の問題だった。


「……家が近いです」


 悠樹は言った。


 未空が顔を上げる。


「僕と輝のマンションが、ここから歩いてすぐです。少し落ち着かせて、話を整理しましょう」


「警察は?」


 玲が問う。


「必要なら、その後で連絡します」


「必要なら、か」


「今すぐここで連絡するより、まずこの子を落ち着かせる方が先です」


 悠樹はそう言ってから、少しだけ苦い顔をした。


 本当は、こんな判断は正しくないかもしれない。


 だが、目の前の椛は泣いている。


 そして、この場で「人間ではない」と言われ続けるたびに、さらに小さくなっていく。


 正しい手順が必ずしも正しい結果につながるとは限らない。


 そのことを、悠樹はまだ言葉にはできない。


 けれど、直感的に感じていた。


「椛ちゃん」


 悠樹はなるべく穏やかに言う。


「少しだけ、僕たちの家に来る? 温かいものくらいなら出せるから」


 椛は未空を見た。


 未空は小さくうなずく。


「行った方がいい」


「お姉ちゃんも来る?」


「行く」


 椛は玲を見た。


 玲と目が合った瞬間、また少しだけ怯えたように未空の後ろへ隠れる。


 玲は何も言わなかった。


 ただ、静かに視線を伏せる。


 その横顔を、未空は見ていた。


「玲」


「何だ」


「椛のこと、知ってる?」


 問いは短かった。


 玲はすぐには答えなかった。


 夕方の光が薄くなり、川沿いの街灯が一つ、ぱっと点いた。


 まだ明るいのに、その灯りだけが小さな月のように白く浮かぶ。


 玲の影が、地面に長く伸びた。


「知らない」


 玲は言った。


 未空はその言葉を聞いた。


 信じたわけではない。


 けれど、今はそれ以上聞かなかった。


 悠樹は買い物袋を拾い上げる。


 片方の袋から長ネギがはみ出していた。


 この状況にはあまりにも生活感がありすぎる。


 玲はそれを見て、ほんのわずかに目を細めた。


「夕食の買い物か」


「ええ」


 悠樹は少しだけ気まずそうに答える。


「真堂の分も?」


「……まあ」


「大変だな」


「慣れています」


「無理しているように見える」


 悠樹は一瞬、言葉を止めた。


 その言い方が、妙にまっすぐだったからだ。


「月代さんに言われるほどではありません」


「そうか」


 玲はそれ以上言わなかった。


 悠樹はほんの少しだけ困った顔をする。


 学校での自分の仮面を、玲にはどこか見透かされている気がした。


 だが今は、それどころではない。


「行きましょう」


 悠樹が歩き出す。


 未空が椛の手を引く。


 椛の手は小さく、冷たい。


 けれど、未空が名前を呼ぶたびに、その輪郭は少しだけ確かになるように見えた。


「椛」


「なあに」


「転ばないで」


「うん」


 椛は未空の手を握ったまま、恐る恐る歩き出す。


 玲は少し後ろを歩いた。


 椛は時々振り返って玲を見る。


 そのたびに、不安そうに未空へ寄る。


 玲は何も言わない。


 ただ、夕方から夜へ変わり始めた楓川を横目で見ていた。


 川面には、薄い月が映っている。


 その月の下に、ほんの一瞬だけ、古い小春市の影が揺れた。


 木の橋。


 赤い楓。


 人々の祈り。


 小さな神の名前を呼ぶ声。


 そして、焼け落ちた御神木の黒い幹。


 未空は足を止めかけた。


 だが、椛の手が震えているのに気づき、そのまま歩いた。


 今は、見ることよりも、連れていくことが先だった。


 小春市の夕方は、ゆっくり夜へ沈んでいく。


 スマートフォンの中で消費されていた白狐の噂。


 図書室の奥に眠る古い記録。


 焼けた御神木。


 そして、楓川のほとりで泣いていた小さな迷子。


 それらはまだ、誰の中でも一つにはつながっていない。


 椛は未空の手を握りながら、小さく呟いた。


「お兄ちゃん……」


 その声は川の音に紛れて、すぐに消えた。


 けれど、玲だけはその言葉に反応した。


 足を止めず、表情も変えず、ただ瞳の奥だけを少し暗くする。


 お兄ちゃん。


 椛が探しているもの。


 それが人間の兄ではないことを、玲はおそらく知っていた。


 だが、玲は何も言わない。


 言えば、何かが動き出してしまう。


 まだ、早い。


 そう言い聞かせるように、玲は夜へ傾く空を見上げた。


 薄い月が、そこにあった。


 小春市の上で、静かに、冷たく。


 まるで、迷子の神様を見つけたこの夕方を、忘れないように見届けているかのように。

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