第三章 図書室の銀髪
五時間目の途中で、教室の空気がばらけた。
各委員の初回集まりがあるため、委員になった生徒たちはそれぞれ指定された教室へ向かう。保健委員は保健室前、美化委員は一階の会議室、体育委員は体育館、文化祭実行委員は視聴覚室。
そして図書委員は、当然ながら図書室だった。
「何で当然みたいな顔してオレが図書室に向かってんだろうな……」
真堂輝は、廊下を歩きながら深いため息をついた。
まだ納得していない。
自分が遅刻してきた間に図書委員へ決定されたことも、クラス全体が妙に団結していたことも、親友である葵城悠樹がまったく悪びれず黒板に名前を書かせたことも、全部納得していない。
だが、現実として輝は図書室へ向かっている。
人間は、納得していなくても歩ける生き物だった。
「元気出しなよ、輝」
隣を歩く藍澄武が、弁当箱の入った袋をぶら下げたまま言った。
「図書委員って、案外面白いかもしれないよ」
「おまえが言うな。そもそもおまえがオレを売ったんだろ」
「売ってないよ。推薦しただけ」
「本人不在の推薦は売却と同じだ」
「そうかなあ」
「そうだ」
輝はじろりと武を睨む。
武はまったく悪びれない。むしろ、少し楽しそうですらある。
「でもさ、昼休みに話した白狐のこと、図書室で調べられるかもしれないよ」
その言葉に、輝の足がほんの少し軽くなった。
白狐火災。
燃える屋根の上に現れた白い狐。
小春神社の御神木にも同じ白狐の噂があるという話。
ついさっきまで図書委員という言葉は絶望に近かったが、「白狐の資料があるかもしれない」と思った瞬間、少しだけ別の色がついた。
「……まあ、郷土資料とかあるならな」
「あるんじゃない? 学校の図書室って、地元の歴史コーナーとかあるし」
「白狐伝説とか?」
「狐の神様とか?」
「火を操る妖狐とか?」
「おお、いいね」
二人の声が少し弾む。
その後ろから、冷たい声が飛んできた。
「初回の委員会でいきなり怪談探しをするなよ」
振り返ると、悠樹が少し離れたところを歩いていた。
悠樹は学級委員の集まりへ向かう途中らしい。手には配布用のファイルを持っている。制服は相変わらず乱れず、廊下を歩くだけでも無駄にきちんとしていた。
輝は片手を上げる。
「お、皇子様。これから会議ですか」
「その呼び方をやめろ」
「綾乃の真似だ」
「涼宮にもやめろと言っている」
「言ってもやめないだろ」
「だから困っている」
悠樹は本気で少し疲れている顔をした。
輝はにやりと笑う。
「で、何だよ。わざわざオレに忠告か? 心配性だな」
「おまえが信用できないだけだ」
「似たようなもんだろ」
「全然違う」
悠樹は足を止め、輝の方をまっすぐ見た。
「図書室で騒ぐな。星川さんに失礼なことを言うな。白狐の資料探しで本棚を荒らすな。管理人に変な質問をするな」
「何で全部オレがやりそうなこと言うんだよ」
「やりそうだからだ」
「失礼な」
「特に最後」
悠樹は念を押すように言った。
「相手がどんな人でも、髪が変わっているからといって地毛かどうか聞くな」
「何で銀髪前提なんだよ」
「昼休みにおまえが勝手に言っていただろう」
「言ったけどさ。実際に銀髪の管理人なんているわけないだろ」
「だったら聞くな」
「いたら?」
「聞くな」
「どうしても気になったら?」
「我慢しろ」
「無理だな」
「無理と言うな」
悠樹は眉間を押さえた。
武が横から楽しそうに言う。
「でも、銀髪の図書管理人がいたら、絶対かっこいいよね」
「武まで乗るな」
「白狐の資料がある図書室に銀髪の管理人。完全に何か始まる感じだよ」
「始まらなくていい」
「もう始まってるかもよ」
武は冗談めかして言った。
悠樹は答えず、廊下の先を見た。
窓の外には、楓川の方へ続く町並みが見える。春の光の中では、白狐火災の不穏さも、御神木が焼けた事実も、遠い話のように見えた。
それでも、悠樹の胸には小さな違和感が残っている。
輝と武が面白がっている噂。
白い狐。
小春神社。
御神木の不審火。
それらが、ただの偶然で済むならいい。
だが、輝は面白そうなものに近づく。
その性格を、悠樹はよく知っていた。
「輝」
「何だよ」
「本当に、変なことをするな」
「わかったって。図書室で本を燃やしたりはしない」
「そこまで想定していない」
「じゃあ大丈夫だろ」
「大丈夫じゃないから言っている」
悠樹はもう一度ため息をつき、武へも視線を向けた。
「武も、余計なことを吹き込むな」
「余計なことじゃないよ。白狐の調査だよ」
「それが余計なことだ」
「ひどい」
「事実だ」
チャイム前の予鈴が廊下に響いた。
悠樹はファイルを持ち直す。
「僕は行く。輝、時間に遅れるなよ」
「遅刻魔扱いするな」
「遅刻魔だろ」
「今日一回遅刻しただけだろ」
「昨日もだ」
「一昨日は?」
「ぎりぎりだった」
「じゃあ遅刻じゃない」
「自慢することじゃない」
悠樹はそう言い残し、学級委員の集合場所へ向かっていった。
輝はその背中に小さく舌を出す。
「うるせー家政夫」
「聞こえているぞ」
「地獄耳かよ!」
悠樹は振り返らずに片手を上げた。
武が笑う。
「仲いいよね、二人」
「どこがだよ」
「今の全部」
「武、おまえの友情観どうなってんだ」
そんなことを言い合っているうちに、図書室の前へ着いた。
小春西高校の図書室は、校舎三階の東端にある。
廊下の突き当たりに近い場所で、窓からは校庭と楓川の方角が見える。普段、輝が来ることはほとんどない。授業で一度使ったことがあるくらいで、自主的に本を借りた記憶はない。
扉の上には、古びた木のプレートがかかっていた。
図書室。
その下に、小さく「郷土資料閲覧可」と書かれた紙が貼られている。
輝はそれを見て、少しだけ目を細めた。
「郷土資料、あるじゃん」
「おお」
武が嬉しそうに言う。
「白狐の手がかり、あるかもね」
「だな」
輝の胸に、さっきまでの面倒くささとは別のものが湧いてきた。
面白そう。
その言葉が、頭の中で跳ねる。
輝はドアに手をかけた。
「じゃあ、ボクは美化委員行くね」
「おう。卵焼きの恨みは忘れないからな」
「まだ奪われてないよ?」
「予告だ」
「怖いなあ」
武は手を振って廊下を戻っていく。
輝はひとり、図書室の扉を開けた。
音が変わった。
廊下のざわめきが、扉を一枚隔てた瞬間に少し遠くなる。
図書室の中には、紙と木と少しだけ埃の混じった匂いがあった。窓から入る春の光が、書架の列を斜めに照らしている。貸出カウンター。閲覧机。雑誌棚。新刊コーナー。奥には低い棚が並び、そのさらに奥に、背の高い書架がある。
普通の学校図書室。
そのはずだった。
だが、輝は入った瞬間、少しだけ妙な感じを覚えた。
明るいのに、奥が暗い。
窓は大きく開いているのに、空気の底だけが冷えている。
特に奥の郷土資料棚。
そこだけ、時間の流れが少し遅いように見えた。
古い背表紙。
色あせた冊子。
小春市史。
楓川治水史。
小春神社縁起。
郷土祭礼記録。
そんな文字がちらりと目に入る。
「……マジでありそうだな」
輝は小さく呟いた。
「何が?」
声がした。
輝の肩が跳ねる。
振り向くと、すでに何人かの生徒が閲覧机に座っていた。初回の委員会に集まった各クラスの図書委員たちだ。その中に、星川未空がいた。
未空は窓際に近い席に座っている。
机の上には、薄い文庫本が置かれていた。読んでいたのか、あるいはただ持っているだけなのか、表紙に細い指が乗っている。
輝は一瞬、言葉に詰まった。
昼休みの会話を思い出す。
呪い。
見えないものが見える。
心の中を読まれる。
本人を前にすると、噂というものは急に質量を持つ。
いや、綾乃にも言われた。
噂で人を判断するな。
輝は咳払いをした。
「こ、こんちは」
声が少し裏返った。
自分でも情けないと思った。
未空は、輝をじっと見た。
その視線は長い。
怒っているわけでも、笑っているわけでもない。ただ、見ている。
輝はなぜか、背中に冷たいものが走るのを感じた。
そして未空は、普通に言った。
「こんにちは、真堂くん」
「……え」
輝は間抜けな声を出した。
挨拶が返ってきた。
それだけのことなのに、何か大きな予想を外されたような気分だった。
「真堂くん、で合ってる?」
「あ、うん。合ってる。真堂輝。えっと、星川未空さん、だよな」
「うん」
「よろしく」
輝は反射的に手を差し出した。
自分でも、なぜ握手を求めたのかよくわからない。
緊張すると、距離を詰めすぎる癖が出る。
未空はその手を見た。
ほんの少し、迷うような間があった。
その間に、輝は急に自分の行動が失礼だったのではないかと気づく。
「あ、いや、別に無理にとは――」
言い終わる前に、未空の手が伸びた。
白くて細い手だった。
輝の手に、そっと触れる。
握手。
未空の手は、ちゃんと温かかった。
輝は心底ほっとした。
よかった。
血が通っている。
いや、何を考えているんだオレは。
輝は自分の失礼な思考に遅れて気づき、慌てて顔を引き締めた。
未空は手を離しながら、静かに言う。
「温かかった?」
「へ?」
「手」
「えっ、いや、その、別にそういう意味じゃなくて」
「そう」
未空はそれ以上追及しなかった。
だが、その短いやり取りだけで、輝はすでに負けた気分になっていた。
読まれている。
絶対に読まれている。
心の中を読まれているという噂は本当なのかもしれない。
輝の顔にそう書いてあったのか、未空は少しだけ首を傾げた。
「呪ったりはしないから」
「何でそれを!?」
「顔に出てた」
「顔か!」
輝は胸を押さえた。
未空は少しだけ目元を緩める。
笑ったのかどうか、微妙な変化だった。
けれど、輝にはそれが意外だった。
噂で聞く星川未空は、もっと冷たくて、不気味で、近づきがたい存在だった。
けれど、実際に話してみると、声は静かだが普通に返事をする。握手もしてくれる。冗談なのか本気なのかわからないが、こちらの緊張にも気づいている。
怖い。
でも、悪い人ではなさそうだった。
輝は自分の席を探すように周囲を見た。
初回の委員会では、クラスごとに並んで座るらしい。未空の隣が空いている。
つまり、そこが輝の席だった。
「隣、いい?」
「図書委員だから」
「だよな」
輝は椅子を引いて座った。
机の上には、図書委員用のプリントが置かれている。貸出当番表、返却処理、蔵書整理、学期末の点検、読書週間の展示協力。文字だけで眠くなりそうだった。
輝はプリントを見て顔をしかめる。
「うわ、思ったより仕事ある」
「図書委員だから」
「それ、さっきも聞いた気がする」
「事実だから」
未空は静かにプリントを見ている。
輝は横目で彼女を観察した。
姿勢がいい。
動作が小さい。
周囲の騒がしさから、少し距離を取っている。
他の委員たちは友達同士で小声で話しているが、未空に話しかける生徒はいない。未空も自分から話しかけない。
孤立している。
そう言ってしまえば簡単だった。
だが、輝には少し違って見えた。
未空は避けられているのかもしれない。
けれど同時に、自分からも距離を置いているように見えた。
それがどういう理由なのか、輝にはまだわからない。
「星川さんってさ」
「何?」
「本、好きなの?」
「うん」
「どんなの読むの?」
「いろいろ」
「いろいろって、たとえば?」
「民俗学、郷土史、神話、幻想文学、天文」
「……強そう」
「強い?」
「何か、本のジャンルが強い」
「そう」
未空は小さくうなずく。
輝はプリントの端を指で弾きながら、奥の棚を見た。
「郷土史って、あそこの棚?」
「たぶん」
「小春神社の資料とかあるかな」
未空の視線が、ほんの少しだけ動いた。
「小春神社?」
「ああ。ほら、最近御神木が燃えたっていうだろ。あと、昨日の火事の白狐動画。あれと関係あるんじゃないかって武が言ってて」
未空は答えない。
ただ、奥の郷土資料棚を見ていた。
その沈黙に、輝は少しだけ焦る。
「あ、いや、オレが変な噂を信じてるとかじゃなくてさ。まあ、ちょっとは信じたいけど。白狐とかいたらすげえし。でも、火事だし、面白がるだけじゃ駄目だって悠樹にも言われて」
「白狐」
未空が小さく言った。
「え?」
「火の中にいたもの?」
「動画ではそう見えた。星川さんも見た?」
「少し」
「どう思った?」
未空はしばらく黙っていた。
教室とは違い、図書室の沈黙は重い。
本棚に吸い込まれるような沈黙だった。
やがて未空は言った。
「わからない」
「わからない?」
「見えたものが、何なのかまでは」
輝は首を傾げた。
その言い方が、少し引っかかった。
普通なら「映ってたものが何かわからない」と言う。
だが未空は、「見えたもの」と言った。
まるで、動画の白狐とは別に何かを見ていたように。
「星川さんって、本当に……」
そこまで言いかけて、輝は口を閉じた。
見えないものが見えるのか。
そう聞きかけた。
聞いてはいけない気がした。
未空は輝を見た。
「何?」
「いや、何でもない」
「そう」
未空は追及しない。
輝は少しだけ胸をなで下ろした。
その時、図書室の扉が開いた。
遅れて入ってきたのは、一人の青年だった。
図書室の空気が、ほんの少し変わる。
最初に目に入ったのは、髪だった。
銀色がかった長い髪。
真っ白ではない。光の角度によって、銀にも、淡い灰にも、薄い金にも見える。肩甲骨のあたりまで伸びた髪を、後ろでゆるく束ねている。
次に、その顔。
中性的で、整っていた。
男性と言われれば男性に見える。女性と言われれば、一瞬迷う。目鼻立ちははっきりしているのに、全体の印象は柔らかい。笑みは穏やかで、どこか温度が低い。
服装は、シンプルな白いシャツに淡いグレーのカーディガン、細身の黒いパンツ。学校職員としては少し目立つが、派手というほどではない。
ただ、髪だけはどう見ても普通ではなかった。
図書室にいた生徒たちがざわつく。
「誰?」
「先生?」
「新しい司書さん?」
「髪、すご……」
青年はそのざわめきを気にする様子もなく、カウンターの前まで歩いてきた。
足音が静かだった。
まるで本棚の影から最初からそこにいたような歩き方だった。
「ごめんね。少し遅れてしまった」
声は低すぎず、高すぎず、穏やかだった。
その声を聞いて、生徒たちの中にあった「男か女かわからない」という戸惑いが、ひとまず男の方へ傾いた。
青年は図書委員たちの前で軽く頭を下げた。
「今年度から、この図書室の管理を担当することになりました。玉城琥珀です」
玉城琥珀。
輝はその名前を頭の中で繰り返した。
玉城。
琥珀。
変わった名前だ。
けれど、人間の名前として不自然というほどではない。
ただ、その姿と合わせると、妙に印象に残る。
「図書室の使い方や委員の仕事について、今日説明する予定だったんだけど」
琥珀はプリントを手に取った。
「実は、僕一人でも日常業務はだいたい回せそうなんだ。だから、みんなにお願いするのは主に学期末の蔵書点検と、読書週間の展示準備くらいになると思う」
生徒たちが顔を見合わせた。
「え、当番ないの?」
「貸出とかは?」
「仕事少ないってこと?」
琥珀は穏やかに笑う。
「もちろん、手伝いたい人は歓迎するよ。本が好きな人も、静かな場所が好きな人も、ここを使ってくれていい。ただ、無理に毎日当番に入る必要はない。初回の説明は、これでほとんど終わりかな」
図書室に、妙な間が落ちた。
まだ五時間目は始まってそれほど経っていない。
初回委員会というからには、もっと仕事内容の説明や役割分担や当番表作成があると思っていた生徒たちは、拍子抜けしている。
輝だけは違った。
心の底から明るい顔をした。
「マジか。楽じゃん」
小声のつもりだったが、普通に聞こえた。
隣で未空が少しだけ視線を向ける。
輝は咳払いした。
「いや、何でもない」
琥珀はその声を聞いていたらしい。
輝の方を見て、微笑む。
「楽だと思ってくれたなら、それはそれでいいよ。図書室は、本来、苦しい場所ではないからね」
「え?」
「本を読まない人が来てもいい。静かに休みたい人がいてもいい。何かを調べたい人がいてもいい。図書室は、そういう場所だから」
琥珀の声は優しかった。
けれど、輝はなぜか少しだけ背筋がむずむずした。
言っていることは普通だ。
むしろ良いことを言っている。
なのに、その言葉の奥に、別の意味が隠れているような気がした。
何かを調べたい人。
輝は奥の郷土資料棚を見た。
小春神社。
白狐。
御神木。
それらの言葉が頭の中で並ぶ。
琥珀は続ける。
「ただし、郷土資料棚の一部は古い冊子も多い。持ち出し不可のものもあるから、使う時は僕に声をかけてほしい」
輝の目が光った。
郷土資料棚。
ある。
やはり、ここには何かある。
未空もまた、奥の棚を見ていた。
その横顔は、輝よりずっと静かだった。
けれど、その静けさの中に、わずかな緊張がある。
琥珀はプリントを机の上に置いた。
「質問がなければ、今日はこれで解散にしよう。まだ授業時間中だから、教室へ戻るか、先生の指示に従ってね。帰っていいと言われている人は、静かに帰ること。廊下で騒がないように」
生徒たちはざわめきながら立ち上がった。
「早く終わった」
「ラッキー」
「これなら図書委員でもよかったかも」
「当番ないの助かる」
椅子を引く音が重なり、図書室の中に少しだけ日常の空気が戻る。
輝も鞄を持って立ち上がろうとした。
だが、その前にどうしても気になることがあった。
悠樹の忠告が頭をよぎる。
髪が変わっているからといって、地毛かどうか聞くな。
聞くな。
聞くな。
聞くなと言われると、余計に聞きたくなる。
輝は数秒だけ葛藤した。
そして負けた。
「あの」
琥珀の前まで歩いていく。
琥珀は穏やかに輝を見る。
「何かな?」
輝は真剣な顔で聞いた。
「その髪って、地毛ですか?」
少し離れたところで、未空がまばたきをした。
他の生徒の何人かも振り返る。
琥珀は一瞬だけ目を丸くした。
それから、ふっと笑った。
「気になる?」
「めちゃくちゃ気になります」
「正直だね」
「よく言われます」
それは長所なのか短所なのか微妙なところだった。
琥珀は自分の髪を一房つまみ、光に透かすように見る。
「これは染めているんだよ」
「染めてるんですか」
「うん」
「本当に?」
「本当に」
輝は少しだけ残念そうな顔をした。
琥珀はそれに気づいたように笑みを深める。
「地毛だと言ってほしかった?」
「ちょっと」
「どうして?」
「その方が面白いからです」
言ってから、輝はしまったと思った。
悠樹にまた怒られそうな返答だった。
だが、琥珀は怒らなかった。
「面白い、か」
その言い方が、ほんの少しだけ違って聞こえた。
普通に笑っている。
なのに、声の底だけが冷えている。
「人間は、変わったものを見ると、すぐ面白がるね」
「え?」
「いや、悪い意味ではないよ」
琥珀はすぐに柔らかい声に戻した。
「興味を持つことは悪いことじゃない。忘れられるよりは、ずっといい」
輝は首を傾げた。
忘れられるよりは。
変な言い方だった。
「えっと、玉城さんって、前は何してたんですか? バンドとか?」
「バンド?」
「ヴィジュアル系とか」
「びじゅある……?」
琥珀は本当に知らないような顔をした。
輝はがっかりした。
「あ、知らないんですね」
「有名なもの?」
「まあ、ジャンルというか、文化というか。銀髪で長髪だったら、そういうのやってたのかなって」
「なるほど。残念ながら、音楽は聴く方専門かな」
「へえ。じゃあ、何で図書室の管理人に?」
「本が好きだから」
「シンプルですね」
「それと」
琥珀は少しだけ視線を奥の棚へ向けた。
「古い記録が好きなんだ」
輝もつられて郷土資料棚を見る。
その棚だけ、やはり少し暗く見えた。
「古い記録って、小春市の歴史とか?」
「そうだね。町の歴史、神社の由来、川の記録、祭りのこと。そういうものは、放っておくとすぐ忘れられてしまうから」
「忘れる……」
「人は新しいものを見るのが好きだからね。古いものは、棚の奥にしまわれる」
琥珀は穏やかに言った。
その言葉は、図書室の管理人としては自然だった。
古い資料を大切にする。
記録を残す。
忘れられないようにする。
それだけなら、普通の話だ。
けれど輝は、なぜか胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。
この人は、本の話をしている。
でも、本だけの話ではないような気がする。
「小春神社の資料とかも、あります?」
輝はつい聞いた。
琥珀の瞳が、わずかに輝いたように見えた。
薄い琥珀色。
名前と同じ色の瞳。
「興味があるの?」
「最近、御神木が燃えたじゃないですか。それに、白狐の噂もあるし」
「白狐」
琥珀はその言葉を繰り返した。
声はとても静かだった。
「君も、あの動画を見たんだ」
「はい。炎の中に白い狐がいるやつ」
「どう思った?」
「すげえって思いました」
輝は即答した。
言ったあと、悠樹の言葉を思い出す。
火事だぞ。
輝は少しだけ声を落とした。
「でも、火事だから、面白がるだけじゃ駄目だとも思います。たぶん」
「たぶん」
琥珀は小さく笑う。
「正直だね、君は」
「よく言われます」
「うん。悪くない」
琥珀はそう言った。
その声は優しかった。
けれど未空は、その優しさの奥に別のものを感じていた。
未空は、少し離れた場所で立ち止まっている。
他の生徒たちはほとんど図書室を出ていった。扉の開閉音が何度か続き、やがて静かになる。
残っているのは、輝と未空と琥珀だけだった。
輝はまだ琥珀の髪や郷土資料棚に気を取られている。
だが、未空は琥珀の背後を見ていた。
最初は、光の加減だと思った。
窓から入る午後の光が、銀色の髪に反射して、床に薄い影を落としているだけ。
そう思おうとした。
けれど、影が揺れた。
人間の影とは違う動きだった。
細く、長く、柔らかく、床を撫でるように。
尾。
白い狐の尾のような影。
未空の指先が、ほんの少し冷える。
彼女には、普通の人には見えないものが見えることがある。
けれど、見えるからといって、何でもわかるわけではない。
今、琥珀の後ろに見えたものが何なのか。
狐なのか。
火なのか。
記憶なのか。
それとも、人間が勝手に語った噂の残像なのか。
未空にはわからない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
この人は、普通ではない。
琥珀が、ふと未空の方を見た。
目が合う。
未空は息を止めた。
琥珀は微笑んだ。
「星川さん」
名前を呼ばれて、未空の肩がわずかに動いた。
輝も振り返る。
「え、星川さん、まだいたの?」
「いた」
「気配消すのうまいな」
「消してない」
「そう?」
「真堂くんが見てなかっただけ」
「それはありえる」
輝は納得した。
琥珀は未空へ向き直る。
「何か、僕に用かな?」
その声は変わらず穏やかだった。
未空は答えない。
琥珀を見る。
銀色の髪。
薄い琥珀色の瞳。
整った顔。
柔らかい笑み。
人間の姿をしている。
けれど、背後の影だけが違う。
白い尾のようなものが、もう一度だけ揺れた。
未空の喉が小さく動く。
言葉は出なかった。
何を言えばいいのかわからなかった。
あなたは何。
そう聞くには、早すぎる。
白狐なの。
そう聞くには、確証がなさすぎる。
人間じゃないの。
その言葉は、自分にも返ってくるような気がした。
未空は、ただ琥珀を見ていた。
琥珀は待っている。
急かさない。
否定もしない。
ただ、彼女が何を見たのか、わかっているような顔で微笑んでいる。
輝は二人を交互に見た。
「えっと……知り合い?」
「違う」
未空が短く答える。
「だよな。じゃあ何でそんな見つめ合ってんの?」
「見てただけ」
「何を?」
未空は答えなかった。
琥珀が代わりに言う。
「図書室の新しい管理人が珍しかったんじゃないかな」
「まあ、珍しいですよね。銀髪だし」
「染めているけどね」
「本当に?」
「本当に」
輝はまだ少し疑っている顔をした。
琥珀は楽しそうに笑う。
未空は、その笑みを見ていた。
狐の尾の影は、もう見えない。
代わりに、琥珀の足元の影が、ほんの少しだけ赤く揺らいだ気がした。
狐火。
そんな言葉が、未空の頭に浮かぶ。
彼女は一歩下がった。
「帰る」
「もう?」
輝が聞く。
「うん」
「一緒に教室戻る?」
「いい」
「そっか」
輝は少しだけ肩透かしを食らった顔をする。
未空は鞄を持ち、図書室の扉へ向かった。
その途中で、郷土資料棚の前を通る。
小春市史。
楓川治水史。
小春神社縁起。
白狐異聞。
未空の足が、ほんの一瞬だけ止まった。
白狐異聞。
そんな冊子は、前に見た時にはあっただろうか。
未空は目を細めた。
背表紙は古い。色あせた紙。手書きに近い文字。
けれど、なぜかそこだけ新しい傷口のように見えた。
「星川さん?」
輝が呼ぶ。
未空は振り返らない。
「何でもない」
そう言って、図書室を出ていった。
扉が静かに閉まる。
図書室には、輝と琥珀だけが残った。
輝は頭をかく。
「星川さんって、やっぱ不思議な人ですね」
「そうかな」
「何考えてるかわかんないっていうか」
「それは君が、まだ彼女のことを知らないからじゃない?」
「あー、まあ、そうかもしれないですけど」
「噂は、人をわかった気にさせるからね」
琥珀の声が、静かに落ちる。
輝はその言葉に、なぜか少しだけ返事が遅れた。
噂。
白狐火災。
星川未空の噂。
見えないものが見える。
呪いをかける。
全部、誰かが話したことだ。
自分もそれを面白がっていた。
「……玉城さんって、何か先生みたいなこと言いますね」
「先生ではないよ。図書室の管理人だ」
「それも先生っぽいです」
「そうかな」
琥珀は笑う。
その笑みはやはり穏やかだった。
輝は鞄を肩にかけた。
「じゃあ、オレも戻ります。あ、郷土資料って、今度見てもいいですか?」
「もちろん」
「小春神社のこととか、白狐のこととか」
「調べたいなら、いつでもおいで」
琥珀は、奥の棚へ視線を向けた。
「ただし、古い記録を読む時は気をつけて」
「何にですか?」
「記録は、事実だけを書いているとは限らない」
輝は首を傾げる。
「どういう意味ですか?」
「人間は、自分たちに都合のいい形で物語を残すことがある。恐れたものを怪物にし、忘れたいものをなかったことにし、救われたことさえ、いつか別の名前で呼ぶ」
「……難しいですね」
「今はそれでいいよ」
琥珀は微笑んだ。
「いつか、わかるかもしれない」
輝はよくわからないまま頷いた。
「じゃあ、また来ます」
「うん。待っているよ、真堂くん」
名前を呼ばれた瞬間、輝は少しだけ不思議な感覚を覚えた。
呼ばれ慣れているはずの自分の名前が、ほんの少し重くなったような感じ。
けれど、それはすぐに消えた。
輝は図書室を出る。
廊下のざわめきが戻ってくる。
普通の学校。
普通の午後。
普通ではない銀髪の管理人。
輝は歩きながら、思わず笑った。
「何だよ。図書室、ちょっと面白いじゃん」
その声は軽かった。
まだ何も知らない少年の声だった。
図書室の中では、琥珀がひとり、閉じた扉を見つめていた。
未空が出ていった扉。
輝が出ていった扉。
しばらくして、琥珀はゆっくりと郷土資料棚へ歩く。
棚の前に立ち、背表紙を指でなぞる。
小春市史。
楓川治水史。
小春神社縁起。
白狐異聞。
その指が、白狐異聞の背表紙で止まる。
琥珀は小さく笑った。
「見える子がいるんだね」
声は誰にも聞こえない。
窓の外では、春の光が校庭を照らしている。
けれど、図書室の奥だけは少し暗い。
古い紙の匂いの中で、赤い火の粉のようなものが一瞬だけ浮かんだ。
それはすぐに消えた。
琥珀は振り返り、窓の外を見た。
本来なら、そこから見えるのは校庭と楓川の方角だけのはずだった。
だが、ガラスの向こうにほんの一瞬、古い鳥居の影が映る。
苔むした石段。
焼けた御神木。
誰にも呼ばれなくなった神の社。
琥珀は、その幻を見つめたまま、静かに目を細める。
「もう少しだよ」
誰に向けた言葉なのか。
図書室の本たちは答えない。
ただ、棚の奥で、古い記録が一冊、誰にも触れられていないのに、かすかに音を立てた。




