第二章 白狐の噂!
昼休みになった瞬間、二年二組の教室は一気に騒がしくなった。
四時間目の数学で眠気と戦っていた生徒たちは、チャイムと同時に生き返ったように動き出す。机を寄せる音。弁当箱を開ける音。購買へ走る男子の足音。窓際でスマートフォンを覗き込む女子たちの笑い声。
春の教室は、どこか浮ついている。
新年度が始まって一週間。
まだクラス全体の距離感は決まりきっていない。誰と弁当を食べるか、どのグループに混ざるか、どの話題なら笑っていいか。そういう小さな探り合いが、弁当箱の蓋を開ける音の下で静かに続いている。
そんな教室の中で、真堂輝は何の迷いもなく葵城悠樹の席へ向かった。
「はー、疲れた」
言いながら、輝は悠樹の前の席を勝手に借りて座る。椅子を反対向きにし、背もたれに腕を乗せるいつもの姿勢だ。
悠樹の席は窓側から数えて三列目の前方。授業中は教師の視線を受けやすい、あまり嬉しくない位置である。だが昼休みになると、そこはなぜか輝の休憩所になる。
悠樹は机の中から文庫本を取り出しながら、輝を一瞥した。
「疲れるほど何かしたか?」
「しただろ。遅刻して、怒られて、図書委員にされて、精神を削られた」
「遅刻はおまえの責任だし、怒られたのもおまえの責任だし、図書委員はクラスの総意だ」
「一番ひどいやつが一番正論っぽく言うな」
「正論だからな」
悠樹は淡々と言った。
午前中の委員決めで、輝は本人不在のまま図書委員にされた。
しかも相手は星川未空。
教室の後方、窓際の席では、その未空がひとりで本を読んでいる。昼休みのざわめきの中でも、彼女の周りだけ少し空気が静かに見えた。
輝はちらりとそちらを見てから、小声で言う。
「なあ悠樹」
「何だ」
「星川さんって、本当に呪いとか使うと思う?」
「本人に聞こえる場所で言うな」
「小声だろ」
「おまえの小声は普通の人間の会話音量だ」
「マジか」
「マジだ」
輝は口を閉じた。
だが、三秒ももたなかった。
「でもさ、なんか雰囲気あるじゃん。静かだし。本読んでるし。目が合うとこう、心の奥まで見透かされる感じっていうか」
「噂で人を判断するな」
「珍しくまともなこと言った」
「おまえは僕を何だと思ってるんだ」
「外面のいい家政夫」
悠樹の眉がほんの少しだけ動いた。
学校での悠樹は「僕」と言う。丁寧で、穏やかで、隙がない。
だが、輝の前では違う。
それでも教室の中では、彼は外向きの仮面を完全には外さない。女子たちの視線もある。教師もいる。いつ誰に聞かれるかわからない。
その切り替えを知っている輝は、遠慮なくそこを突いてくる。
「輝」
「何だよ」
「昼休み中に僕の理性を試すな」
「理性って試されると減るのか?」
「おまえといると減る」
「ひどくね?」
「事実だ」
悠樹は文庫本を開こうとした。
その瞬間、輝は当たり前のように本の上へ両手を置いた。
「読むなよ」
「なぜ」
「オレが暇だ」
「知らん」
「友達が暇そうにしてるんだから構えよ」
「本を読ませろ」
「本なら五時間目に図書室で嫌ってほど見られるだろ」
「おまえが見るんだろ、図書委員」
「その言葉は今のオレに刺さる」
「刺さって反省しろ」
輝が机に突っ伏した。
「図書委員かあ……」
声が沈む。
悠樹はその様子を見て、少しだけ目を細めた。
輝は騒がしい。軽い。考えるより先に口と足が出る。だが、完全に無神経というわけでもない。
未空の噂を怖がってはいる。
けれど、未空と一緒になったことそのものを本気で嫌がっているわけではない。
単に、知らないものにどう接していいかわからないのだ。
怖いものほど、茶化す。
輝にはそういうところがある。
「真堂くん」
突然、後ろから声がした。
輝の肩がびくっと跳ねる。
振り返ると、涼宮綾乃が自分の弁当箱を開けながら、冷めた目でこちらを見ていた。
「声、大きい」
「おまえまで言うか」
「だって大きいもの」
「そんなに?」
「廊下まで聞こえる勢い」
「嘘だろ」
「嘘じゃない。あと、星川さんの話をするなら、もっと気をつけなさいよ」
綾乃は卵焼きを箸でつまみながら言う。
「本人、聞こえてるかもしれないでしょ」
「いや、でも小声で……」
「あんたの小声は小声じゃない」
「悠樹と同じこと言うな!」
「同じこと言われるってことは、相当よ」
輝は言い返せず、また机に突っ伏した。
綾乃はため息をつく。
「まったく。星川さんだって普通の女子なんだから、変な噂で騒がれたら嫌でしょ」
「綾乃は怖くないのか?」
「何が?」
「呪いとか」
「怖い怖くない以前に、本人の前で言うことじゃないでしょ」
「それは……まあ」
輝は少しだけ黙った。
綾乃はこういうところで妙にまっすぐだ。
妖怪だの呪いだの怪異だの、そういう話には特別詳しいわけではない。むしろ輝や武ほど食いつくタイプではない。それでも、目の前の誰かが嫌な思いをするかどうかについては、反応が早い。
悠樹は本を閉じ、輝を見た。
「ほら、涼宮の方がよほどまともなことを言っている」
「おまえがオレを図書委員にしなければ、こんな悩みは生まれなかった」
「だからクラスの総意だと言っただろう」
「その総意を誘導したのはおまえだ!」
「証拠は?」
「おまえの顔」
「証拠能力に欠ける」
輝がぎりぎりと歯を鳴らした。
その時、教室の前方から軽い足音が近づいてきた。
「二人とも、今日もお昼食べないの?」
藍澄武だった。
両手で弁当箱を抱え、にこにこしながら悠樹の席のそばへやって来る。身長はクラスの男子の中でも低い方で、表情もどこか幼い。だが、制服の袖からのぞく手首は剣道部らしく引き締まっていた。
武は近くの空いている椅子を勝手に引き寄せ、そこへ座る。
いつものことだった。
「食べない」
悠樹が答える。
「オレは朝食ったからいい」
輝も答える。
「えー、また?」
武は弁当箱を机に置き、頬を膨らませた。
「昼休みだよ? お昼だよ? 人間ならお昼にはお腹空くものでしょ」
「オレは一日二食派なんだよ」
「それ、健康に悪くない?」
「健康なんて気合いでどうにかなる」
「ならないと思う」
「なる」
「ならない」
「なるって」
輝と武がくだらない押し問答を始める横で、悠樹は静かに言った。
「僕は腹が空いていないだけだ」
「悠樹の場合、何か考え事してると食べるの忘れるじゃん」
武が弁当箱の蓋を開ける。
中には色とりどりのおかずが詰められていた。卵焼き、唐揚げ、きんぴら、ブロッコリー、ミニトマト。きちんとした弁当である。
輝が覗き込んだ。
「お、今日唐揚げじゃん」
「見るだけ?」
「見るだけ」
「食べる?」
「いや、いい」
「何で?」
「ひと口もらったら昼飯食ったことになるだろ」
「なるよ?」
「オレの一日二食ルールが崩れる」
「変なところで頑固だね」
武は不満そうに箸を持つ。
「ボクさ、三人でお弁当食べるの、ちょっと憧れてるんだけどな」
「勝手に憧れるな」
悠樹が言う。
「おかず交換とかしたいじゃん。卵焼きと唐揚げ交換したり、ウインナーを取り合ったりさ」
「誰が僕と輝の弁当を作ると思っている」
「え?」
武が瞬きをする。
悠樹は文庫本を閉じたまま、静かに続けた。
「もし僕と輝が弁当を持ってくることになったら、二人分を作るのは僕だ」
「ああ……」
「朝食も僕だ」
「うん……」
「夕食も僕だ」
「うん」
「洗い物も僕だ」
「うん」
「洗濯も僕だ」
「うん?」
「掃除もだいたい僕だ」
「輝、何してるの?」
武の視線が輝に向いた。
輝は胸を張った。
「生きてる」
「それは最低限だよ」
「あと、たまにゴミを出す」
「たまに?」
「月に何回か」
「少ないね」
「オレは精神的支柱だから」
「家事しない人がよく言うやつだ」
悠樹が冷たく言った。
輝は指を鳴らす。
「聞け武。オレと悠樹の生活は役割分担で成り立っている」
「役割?」
「悠樹が家事をする」
「うん」
「オレが食べる」
「分担じゃないよね?」
「需要と供給だ」
「もっと違うよね?」
悠樹は深くため息をついた。
そのため息には、学校用の爽やかさが一切なかった。
「おまえがもう少し生活能力を身につければ、僕の寿命は三年は延びる」
「三年しか延びないのか」
「すでにかなり削られているからな」
「誰に?」
「おまえに」
「ひどい」
「事実だ」
武は卵焼きを口に運びながら、にこにこ笑っていた。
その顔は完全に、面白いものを見ている顔だ。
「でもさ、二人ってほんと一緒に暮らしてるみたいだよね」
その一言で、輝と悠樹の動きが止まった。
次の瞬間、二人の手が同時に伸びた。
「むぐっ!?」
輝の右手と悠樹の左手が、武の口を塞いでいた。
武は目を丸くする。
綾乃が後ろの席から呆れた顔をした。
「何やってんのよ、あんたたち」
輝は周囲を素早く見回す。
幸い、教室のざわめきに紛れて今の言葉を聞いていた者はほとんどいないようだった。未空は本を読んでいるし、玲は席にいない。女子たちは別の話題で盛り上がっている。
悠樹は声を低くした。
「武」
「むぐ」
「それは言うなと言ったはずだ」
武はこくこくとうなずいた。
輝も小声で続ける。
「バレたら面倒なんだよ。学校にはオレ、祖父母の家から通ってることになってるんだからな」
武はさらにこくこくとうなずく。
悠樹がゆっくり手を離した。
輝も手を離す。
武は大きく息を吸った。
「ぷはっ。ごめん、ついうっかり」
「そのうっかりで僕たちは社会的に死ぬ可能性がある」
「そんなに?」
「そんなにだ」
悠樹の声は静かだったが、目が本気だった。
輝と悠樹は、実際には二人で暮らしている。
輝の家族は父親の転勤をきっかけに小春市を離れた。学校の都合などもあり、輝は祖父母宅から通っていることになっている。だが本当は、以前家族で住んでいたマンションにそのまま残っている。
そして、家庭の事情で家を出た悠樹が、そこへ転がり込んだ。
学校には言っていない。
言えるわけがない。
保護者だの生活状況だの、いろいろ面倒なことになるのは目に見えている。
この秘密を知っているのは、本人たちと、武と、隣の部屋に住む綾乃くらいだった。
「武はほんと口軽いわよね」
綾乃が箸を止めずに言う。
「悪気はないんだよ」
「悪気がない方が怖いのよ」
「うっ……それはちょっと傷つく」
「傷つく前に気をつけなさい」
武はしゅんとした。
しかし、落ち込みは三秒で終わった。
「でもさ、ボク、二人の生活ちょっと羨ましいんだよね」
「羨ましがるようなものじゃない」
悠樹が即答する。
「えー、楽しそうじゃん。友達同士で同じ部屋に住んで、夜中にゲームしたり、朝まで語ったり、休日に一緒にご飯作ったり」
「現実は、輝が脱ぎっぱなしにした靴下を僕が拾い、輝が流しに置きっぱなしにしたコップを僕が洗い、輝が買い忘れた日用品を僕が買いに行く生活だ」
「家政夫じゃん」
武が素直に言った。
輝は手を叩く。
「ほら見ろ、武もそう言ってる」
「おまえが言わせたようなものだろ」
「いや、悠樹はすごいと思うよ」
武は唐揚げを箸でつまみながら言う。
「勉強できて、女子に人気で、家事もできて、輝の世話もしてるんでしょ?」
「最後だけ不名誉だ」
「でも輝、ひとりで生きていけなさそうだし」
「武まで!?」
輝が叫ぶ。
「オレだってひとりで生きていけるわ!」
「昨日の夕飯、何食べた?」
「悠樹が作ったカレー」
「一昨日は?」
「悠樹が作った生姜焼き」
「その前は?」
「悠樹が作った……何だっけ?」
「だめだね」
「何がだよ!」
「ひとりで生きていける人は、三日前の夕飯を作った人が全部同じにならないと思う」
武は真顔で言った。
悠樹は珍しく少しだけ笑った。
輝は敗北した顔で机に突っ伏す。
「くそ、今日は全方位から攻撃される日か」
「日頃の行いね」
綾乃が即座に言う。
教室の窓から、春の風が少しだけ入ってきた。
外では部活動の声が聞こえる。校庭の向こうには楓川の堤防が見え、その先に住宅地の屋根が続いている。昨日の火災があった方角は、ちょうどその向こうだった。
武は弁当の唐揚げを飲み込むと、急に表情を輝かせた。
「あ、そうだ」
「今度は何だよ」
輝が顔を上げる。
武は待ってましたと言わんばかりに身を乗り出した。
「二人とも、昨日の火事の動画見た?」
教室の空気の一部が、また少し動いた。
白狐火災。
朝から何度も聞こえていた言葉。
輝はすぐに反応した。
「見た見た。ニュースのやつだろ? 家が燃えてたやつ」
「違う違う、ニュースじゃなくて、SNSの動画」
「白い狐が映ってるってやつ?」
「そう、それ!」
武は嬉しそうにスマートフォンを取り出した。
悠樹は眉をひそめる。
「学校でスマホを出すな」
「昼休みだからちょっとだけ」
「校則では原則使用禁止だ」
「悠樹、そういうところ真面目だよね」
「真面目以前に、見つかると面倒だ」
言いながらも、悠樹はスマートフォンを取り上げようとはしなかった。
武は画面を操作し、輝と悠樹の間へ差し出す。
そこには、昨夜の火災現場を映した短い動画が表示されていた。
画面は縦向き。
暗い住宅街。
揺れる炎。
遠くから聞こえるサイレン。
撮影者の焦った息遣い。
動画はかなり不鮮明だった。火の明るさで画面の一部が白く飛び、煙で輪郭もぼやけている。
だが、輝はすぐに画面へ顔を近づけた。
「おお……!」
炎の中に、白い影があった。
屋根の上。
赤い炎の向こう。
狐のような輪郭。
尖った耳と、揺れる尾。
それは確かに、何かの形をしていた。
「すげえ」
輝の声が低くなる。
怖がっているのではない。
興奮している。
武は満足そうにうなずいた。
「ね、すごいでしょ」
「マジで狐じゃん」
「でしょ!」
「炎の中に立ってるじゃん!」
「でしょでしょ!」
「すげえ、本当に妖怪じゃん!」
輝が声を上げた。
綾乃が後ろから即座に言う。
「声大きい」
「悪い、でもこれ見ろよ!」
「見ない。怖そうだし、ご飯中だし」
「白い狐だぞ!」
「火事でしょ」
綾乃の一言に、輝は少しだけ言葉を止めた。
火事。
そうだ。
動画の向こうで燃えているのは、誰かの家だ。
人的被害はなかったらしい。
ニュースではそう言っていた。
けれど、画面の中で燃えている家には、そこに住んでいた誰かの生活があったはずだ。食卓や、布団や、写真や、買ったばかりの何かや、捨てられなかった古いものがあったはずだ。
輝はそのことに一瞬だけ気づきかけた。
しかし、その一瞬は、武の弾んだ声にかき消された。
「しかもね、昨日の火事だけじゃないんだよ」
「他にもあるのか?」
輝の好奇心がすぐに戻る。
悠樹は画面を見つめたまま、何も言わない。
武は声を潜める。
「小春神社の御神木、燃えたでしょ」
「ああ、ニュースでやってたな。古い木が不審火でどうとか」
輝が言う。
「そう、それ。うちのお母さんが近所の人から聞いたんだけどさ、その時にも白い狐を見たって人がいるんだって」
「マジで?」
「マジマジ」
「御神木にも白狐。住宅火災にも白狐。これはもう確定だろ!」
「何が確定なんだ」
悠樹が冷静に突っ込む。
輝はびしっと指を立てた。
「白狐連続放火事件!」
「名前をつけるな」
「いや、でも事件名っぽいだろ」
「事件名っぽいから余計にやめろ」
悠樹はスマートフォンの画面をもう一度見た。
表情は冷静だった。
だが、完全に無関心というわけではない。
小春神社の御神木。
その言葉だけは、彼の中でわずかに引っかかっていた。
小春神社は、楓川の少し奥にある古い神社だ。参拝者が多いわけではない。むしろ、地元の人間でも初詣か祭りの時くらいしか意識しない場所だった。
その御神木が燃えた。
そして、その数日後に住宅街で火災。
どちらにも白い狐の噂。
偶然と片づけるには、少しだけ形ができすぎている。
ただし。
それは「怪異の証拠」ではない。
悠樹にとっては、まず検証すべき情報だった。
「武」
「何?」
「この動画は誰が撮った」
「えっと、近所の人らしいよ」
「近所の誰だ」
「それは知らない」
「撮影者本人が投稿したのか」
「たぶん?」
「たぶんでは困る。元動画はどこにある」
「いろんな人が上げてる」
「切り抜きや再投稿ではなく、最初に投稿されたものは?」
「えーっと……」
武は画面を操作しながら首をひねる。
「わかんない」
「では、証拠としては弱い」
「出た、悠樹の現実主義」
武が不満げに頬を膨らませる。
悠樹は淡々と続けた。
「まず動画が不鮮明だ。炎と煙で輪郭が乱れている。人間は曖昧な形に意味を見出すことがある。雲が顔に見えるのと同じだ」
「でも狐に見えるじゃん」
「見えることと、実際に狐がいたことは別だ」
「じゃあ、これは何?」
「煙、炎、屋根の一部、映像のノイズ、撮影者の手ぶれ。候補はいくらでもある」
「夢がないなあ」
「証拠がないだけだ」
「証拠ならあるよ。動画!」
「だから、その動画の信頼性を今疑っている」
武は悔しそうに唇を尖らせた。
輝は画面を覗き込んだまま、目を輝かせている。
「いや、でもさ、悠樹」
「何だ」
「これ、狐だろ」
「おまえは最初から狐であってほしいと思って見ている」
「だって狐だった方が面白いじゃん」
その言葉は、輝らしかった。
まっすぐで、軽くて、悪気がない。
悠樹はその言葉に少しだけ眉を寄せた。
「火事だぞ」
短い言葉だった。
輝は一瞬、口を閉じる。
武も箸を止めた。
悠樹は画面から目を離し、静かに言う。
「誰も怪我をしなかったとしても、家が一軒焼けている。小春神社の御神木も燃えている。面白がるだけの話じゃない」
「……それは、まあ」
輝が後ろ頭をかいた。
武も少しだけ目を伏せた。
「うん。そうだよね。ごめん」
教室のざわめきが、少し遠くなる。
けれど、沈黙は長く続かなかった。
武がすぐに顔を上げる。
「でも、だからこそ気になるんだよ」
「何がだ」
「普通の火事じゃないかもしれないってこと」
武はスマートフォンを机に置き、画面を指で拡大した。
炎の中の白い影が、ぼやけたまま大きくなる。
「ほら、ここ。尾みたいなのがあるでしょ」
「炎の揺らぎにも見える」
「こっちは耳」
「屋根の破片にも見える」
「じゃあこれは?」
武がさらに拡大する。
画面の端。
炎が強く跳ねる瞬間。
そこに、白とも銀ともつかない縦の光が一瞬だけ映っている。
輝が目を細めた。
「何だこれ。人?」
「でしょ? 人影っぽくない?」
「屋根の上に?」
「火の中に」
「怖っ」
輝はそう言いながら笑っていた。
怖い。
でも、面白い。
その二つが輝の中ではほとんど同じ場所にある。
悠樹は画面を見た。
確かに、人影のようにも見える。
だが、それこそ偶然の揺らぎかもしれない。炎は何にでも見える。人間の目は、見たいものをそこに作る。
それでも、悠樹の頭の片隅に、小さな違和感が残った。
動画の粗さではない。
噂の軽さでもない。
小春神社の御神木が燃えたという事実と、今回の火事の映像が、奇妙に重なっていること。
「武」
「何?」
「小春神社の神様が狐だという話は、誰から聞いた」
武は待ってましたとばかりに胸を張った。
「うちのお母さんの知り合いの、近所のおばさんの、親戚のおじいさん」
「遠い」
悠樹が即答した。
「友達の友達の友達が見た幽霊と同じ構造だ」
「でも、そのおじいさんは昔から小春に住んでるんだって」
「だとしても伝聞だ」
「悠樹はほんと疑り深いなあ」
「おまえが信じやすすぎる」
武は頬を膨らませた。
「だってさ、小春神社って古い神社でしょ? 御神木があって、白狐の噂があって、そこが燃えて、その後にまた火事で白狐が出たんだよ? これはもう、狐の神様が怒ってるって考えるのが自然じゃない?」
「自然ではない」
「えー」
「まず、小春神社の祭神が狐だという確証がない。次に、御神木を燃やされた神様が復讐しているという仮説には、動機以外の証拠がない。そもそも神様が火をつけるという前提がおかしい」
「でも、神様ならできそうじゃん」
「神様を万能便利装置にするな」
「妖怪でもいいよ」
「もっと雑になったな」
輝が横から割り込む。
「でもさ、狐の神様ってかっこよくね?」
「輝まで」
「白い狐が御神木を燃やされて怒って、人間に復讐するんだろ? めっちゃ怪談っぽい」
「だから面白がるなと」
「いや、火事はよくない。それはわかってる。でも、もし本当にそういうのがいたら、すごくないか?」
輝は窓の外を見た。
校庭の向こう、楓川の方へ続く町並み。
小春市は、普段は退屈な町だ。
駅前に行けば店はある。新小春モールもある。旧商店街には古い店も残っている。だが、東京のように何でもあるわけではない。田舎と呼ぶほど何もないわけでもない。便利だけれど、どこか半端。
そんな町の奥に、白い狐がいる。
御神木が燃え、住宅街に炎が上がり、その屋根の上で狐が吠える。
それは恐ろしい。
けれど同時に、輝の中の何かを強く引っ張った。
日常の床板の下に、知らない世界がある。
そう思うだけで、胸がざわつく。
「オレさ」
輝は言った。
「こういうの、昔から一回くらい見てみたかったんだよな」
「火事をか?」
悠樹が低く言う。
「違う。怪異とか、妖怪とか、神様とか。そういう、普通じゃないもの」
「普通じゃないものは、だいたい普通の生活を壊すぞ」
「悠樹はすぐそうやって現実に戻す」
「現実だからな」
「夢がない」
「夢と現実の区別をつけろ」
「つまんねーの」
輝は唇を尖らせた。
悠樹は何か言いかけて、やめた。
彼は怪異を信じない。
妖怪も神様も、簡単には信じない。
だが、輝がそういうものに惹かれる理由を、まったく理解できないわけではなかった。
輝は退屈している。
本人はそう言わない。
家族と離れて小春市に残り、学校に通い、騒がしく毎日を過ごしている。けれど、その明るさの奥には、自分だけがどこかに置いていかれたような感覚が薄くある。
だから輝は、日常を揺らすものに弱い。
面白そうなものに近づく。
危なそうなものほど覗き込みたがる。
それが輝の長所でもあり、短所でもあった。
「まあまあ」
武が場を取りなすように笑う。
「今はまだ噂なんだし、そんなに真面目にならなくてもいいじゃん」
「噂だからこそ、扱いには気をつけろ」
悠樹が言う。
「え?」
「噂は勝手に広がる。誰かが面白がって話す。別の誰かが少し大げさにする。そうやって、いつの間にか最初の事実から離れていく」
「それが都市伝説ってやつでしょ?」
「そうだ」
悠樹はスマートフォンの画面を指さした。
「この動画も同じだ。最初は火災の記録だったのかもしれない。だが今は『白狐火災』という名前がついている。白い狐がいたかどうかもわからないうちから、もう怪談として消費されている」
武は少しだけ目を丸くした。
「悠樹、たまにすごく難しいこと言うよね」
「難しい話ではない」
「でも、なんか先生みたい」
「やめろ」
悠樹は嫌そうな顔をした。
輝はにやっと笑う。
「葵城先生」
「黙れ」
「家庭科担当」
「輝」
「得意料理はカレーと生姜焼き」
「次に言ったら夕食から肉を抜く」
「すみませんでした」
輝は即座に頭を下げた。
武が笑う。
綾乃も少しだけ吹き出した。
教室の空気がまた軽くなる。
その軽さの中で、武は弁当箱の隅に残ったミニトマトを箸で転がしながら言った。
「でもさ、もし本当に狐の神様だったら、どうして怒ってるんだろうね」
「御神木を燃やされたからだろ」
輝がすぐに答える。
「やっぱりそう思う?」
「だって神社の御神木って、神様の家みたいなもんじゃん」
「家を燃やされたら怒るよね」
「怒るだろ」
「それで人間に復讐してる、と」
「おお、つながった!」
武と輝は同時にうなずいた。
悠樹は頭を押さえた。
「つながっていない」
「何でだよ」
「仮説の上に仮説を重ねるな。まず小春神社の神様が狐かどうかも不明だ。御神木の火災と昨日の火災の関連も不明。復讐という動機も不明。全部不明だ」
「でもロマンがある」
「ロマンで放火事件を語るな」
悠樹の声が少し強くなった。
輝は口を閉じる。
武も、今度はすぐに言い返さなかった。
悠樹は冷たいわけではない。
むしろ、こういう時ほど現実的になる。
火事があった。
家が焼けた。
神社の御神木も燃えた。
それは誰かにとって現実の損害であり、痛みであり、事件だ。
面白い噂として話すだけでは済まない。
悠樹はそう考える。
だが、輝と武は、まだそこまで深くは受け止めていない。
白い狐。
炎の中の影。
御神木を燃やされた神様の復讐。
それらは、彼らにとってまだ「すごい話」だった。
誰かの痛みにつながっているかもしれないという想像は、まだ追いついていない。
「でもさ」
武が小さく言った。
「ボク、やっぱり気になるよ」
悠樹は黙って武を見る。
「面白がってるだけって言われたら、まあ、そうかもしれないけど。でも、こういう噂って、放っておくとどんどん変になってくじゃん。だったら、ちゃんと元を調べた方がよくない?」
「調べる?」
輝が顔を上げる。
「うん。動画の出どころとか、小春神社のこととか、御神木のこととか」
「おお、調査っぽい!」
輝の目がまた輝いた。
「調査するな」
悠樹が即座に言った。
「何でだよ」
「危ないからだ」
「火災現場に突撃するとは言ってないだろ」
「言い出しかねない」
「信用ないな!」
「実績がある」
「何の実績だよ!」
「中学の時、心霊スポットだと言って工事現場に入ろうとした」
「あれは入口までだろ!」
「入口まで行くな」
「フェンスは越えてない!」
「越えようとして僕と涼宮に止められた」
綾乃が後ろから冷たく付け加えた。
「しかも、止めたら『未知との遭遇を邪魔するな』って叫んだ」
「若気の至りだ!」
「去年よ」
「最近だった!」
武は目を輝かせた。
「そんなことあったの? いいなあ、ボクも行きたかった」
「おまえはそういうところだぞ」
悠樹が言う。
武はきょとんとした。
悠樹はため息をつく。
「とにかく、火災現場には近づくな。警察や消防の迷惑になる。小春神社も、立入禁止の場所には入るな」
「じゃあ、立入禁止じゃないところは?」
輝が聞く。
「そういう抜け道を探すな」
「でも神社は普通に行けるだろ」
「行く必要があるのか?」
「あるだろ。白狐の謎を解くために」
「ない」
「ある!」
「ない」
「あるって!」
輝と悠樹がにらみ合う。
武はその横でスマートフォンをしまいながら、楽しそうに言った。
「まあ、今すぐじゃなくてもいいじゃん。今日は輝、図書委員の集まりがあるし」
「思い出させるな」
輝が机に倒れ込む。
武はにこにこ続ける。
「図書室ってさ、郷土資料とかあるんじゃない? 小春神社のこと、調べられるかもよ」
輝の動きが止まった。
ゆっくり顔を上げる。
「……図書室で?」
「うん」
「白狐のことを?」
「うん」
「小春神社の御神木とか、狐の神様とか?」
「あるかもしれないよね」
輝は黙った。
ついさっきまで、図書委員は不幸そのものだった。
静かにしなければならないし、本を読まなければならないし、相手は噂の星川未空だ。
だが。
もし図書室に、小春神社の資料があるなら。
白狐の噂につながる手がかりがあるなら。
炎の中に立つ白い狐の正体を知ることができるなら。
「……図書委員、悪くないかもしれない」
「単純」
綾乃が即座に言った。
「うるさい。男には未知を追う義務があるんだよ」
「委員の仕事をしなさいよ」
「それもする。たぶん」
「たぶんって言った」
悠樹は少し嫌な予感がしていた。
輝の目が完全に「面白そうなものを見つけた時」の目になっている。
止めても無駄な時の目だ。
武はそんな輝を見て、満足そうにうなずいた。
「じゃあ、輝。図書室で白狐関係の本あったら教えてね」
「任せろ」
「任せるな」
悠樹が止める。
だが輝はもう聞いていない。
彼の頭の中では、図書室の奥に古い本棚があり、その中に『小春神社白狐伝説』みたいなタイトルの本が眠っていることになっていた。
もちろん、実際にそんな都合のいい本があるかどうかはわからない。
だが、輝にとっては「あるかもしれない」だけで十分だった。
チャイム予告の音が、廊下の向こうで鳴った。
昼休みの終わりが近い。
武は慌てて残りのご飯を口に入れた。
「やば、まだ食べ終わってない」
「喋りすぎだ」
悠樹が言う。
「だって白狐の話、重要だったから」
「重要かどうかはまだわからない」
「悠樹は最後まで認めないね」
「証拠が出れば認める」
「じゃあ、証拠を探そう」
「探すなと言っている」
「図書室で本を見るだけなら安全だろ」
輝がにやりと笑う。
悠樹は嫌そうに目を細めた。
「おまえ、本当に面倒な方向にだけ頭が回るな」
「褒めるなよ」
「褒めていない」
輝は椅子の背もたれに顎を乗せ、窓の外を見た。
春の光に包まれた小春市。
遠くの住宅地。
楓川の流れ。
そのどこかに、昨夜の炎の跡がある。
焼けた家。
焼けた御神木。
動画の中で揺れていた白い狐。
輝は胸の奥がざわつくのを感じていた。
それは恐怖ではない。
まだ、違う。
今の輝にとって、それは好奇心だった。
知らないものを知りたい。
見えないものを見たい。
普通の日常の裏側に隠れている何かを、覗き込んでみたい。
その好奇心が、やがて誰かを傷つけるかもしれないことを、彼はまだ知らない。
噂がただの噂ではないことを、武もまだ知らない。
人間が面白半分に語る言葉が、神や妖怪の輪郭を歪ませることを、誰もまだ知らない。
ただ一人、悠樹だけが、何となく嫌な予感を覚えていた。
それは怪異を信じたからではない。
輝がまた何かに首を突っ込むと確信したからだった。
「輝」
「何だよ」
「図書室で変なことをするなよ」
「変なことって?」
「本棚を勝手に漁る。立入禁止の場所に入る。星川さんに失礼な質問をする。管理人に髪が地毛か聞く」
「最後のは聞くかもしれないだろ」
「聞くな」
「だって気になるじゃん」
「誰の髪の話をしている」
「まだ見ぬ図書室の管理人」
「勝手に銀髪設定を作るな」
輝は笑った。
武も笑った。
綾乃は呆れた。
悠樹はため息をついた。
昼休みの教室は、いつものように騒がしい。
白狐火災の動画は、スマートフォンの中に収まっている。
小春神社の御神木が焼けたことも、住宅街で炎が上がったことも、今はまだ、噂と興味と少しの怖さに包まれているだけだった。
やがて午後の授業が始まる。
輝は図書室へ行く。
そこで、噂は本の匂いと混ざり合い、銀色の髪をした青年の笑みに出会うことになる。
だが、その少し前。
輝はまだ、ただの高校生として、机に突っ伏してぼやいていた。
「図書委員かあ……白狐の資料がなかったら、マジで損だな」
悠樹は文庫本を開きながら、冷たく返した。
「委員を損得で判断するな」
武は弁当箱を片づけながら、楽しそうに言った。
「でも、あったら面白いよね」
輝は顔を上げた。
「だよな」
二人は笑った。
その笑い声は軽かった。
どこまでも軽かった。
けれど、小春市の古い土地のどこかで、焼けた御神木の根が、まだ熱を抱いていることを、彼らは知らなかった。




