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第一章 遅刻魔と図書委員

 白狐火災の動画が小春市内を駆け回った翌朝も、町は普通に朝を迎えた。


 駅前のコンビニでは新作スイーツのポスターが貼り替えられ、楓川沿いの緑道では犬の散歩をする老人がいつものように歩いている。昨日の夜、住宅街で空へ伸びていた黒煙も、スマートフォンの画面の中ではすでに短い動画になっていた。


 怖い。


 すごい。


 加工じゃない?


 白狐の呪いってやつ?


 そうやって何度も再生され、何度も笑われ、何度も疑われるうちに、火事は少しずつ火事ではなくなっていく。


 ただの話題になる。


 そして、話題というものは、学校に一番早く流れ込む。


 小春西高校二年二組の教室にも、そのざわめきは朝から薄く漂っていた。


「昨日の火事、見た?」


「動画やばくない?」


「白い狐って、あれ煙でしょ」


「でも小春神社の御神木も燃えたばっかだしさ」


「え、何それ。こわ」


 休み時間ごとにそんな声が飛び交う。


 ただ、それもずっと続くわけではない。新年度が始まって一週間。生徒たちには、生徒たちで処理しなければならない現実がある。


 友人関係。


 席順。


 新しい教科担当。


 春休み明けの小テスト。


 そして、誰も積極的にはやりたがらない、各種委員決め。


 五時間目のロングホームルーム。


 二年二組の黒板には、白いチョークでいくつもの委員名が並んでいた。


 学級委員。


 保健委員。


 美化委員。


 体育委員。


 文化祭実行委員。


 図書委員。


 その横には、すでに何人かの名前が書かれている。ほとんどの枠は埋まっていた。残っているのは、たった一つ。


 図書委員、男子枠。


 ただそれだけで、教室の空気は見事に固まっていた。


「それでは、図書委員の男子を決めたいと思います」


 黒板の前に立つ葵城悠樹は、穏やかな声でそう言った。


 その声だけで、教室の一部の女子がすっと姿勢を正す。


 葵城悠樹。


 小春西高校二年二組の学級委員。


 成績優秀、容姿端麗、教師からの信頼も厚く、運動もそこそこ以上にこなす。制服はいつもきちんと着ていて、シャツの襟もネクタイも乱れていない。黒に近い髪は清潔に整えられ、笑う時の角度まで計算されているのではないかと思えるほど隙がない。


 女子の一部からは、半ば本気で「皇子様」と呼ばれている。


 本人がそれを喜んでいるのか、迷惑がっているのかは定かではない。ただ、少なくとも表向きの悠樹は、その呼び名にふさわしいだけの爽やかな微笑みを浮かべることができた。


「立候補してくれる人はいませんか?」


 悠樹は教室全体を見渡した。


 誰も目を合わせない。


 男子たちは一斉に机の木目を観察し始め、シャーペンの芯を確認し、窓の外の春空に急な興味を示した。


 これほどわかりやすい沈黙も珍しい。


 悠樹の隣では、もう一人の学級委員である月代玲が黒板の横に立っていた。


 長い黒髪が、背中の半ばまでまっすぐ落ちている。肌は白く、表情は静かで、教室の中にいてもどこか夜の気配をまとっているように見える少女だった。


 月代玲。


 悠樹と同じく学級委員で、教師からの評価も高い。だが、悠樹のように明るく輪の中心に立つタイプではない。必要なことだけを言い、必要な時だけ動き、それ以外の時間は静かにそこにいる。


 近寄りがたい美人。


 クラスの多くは、玲をそんなふうに認識していた。


 玲はチョークを持ったまま、黒板の「図書委員」の欄を見ている。女子枠には、すでに名前が書かれていた。


 星川未空。


 その名前があるだけで、男子たちの沈黙はさらに重くなる。


 星川未空は、教室の窓際の後方に座っていた。


 長めの黒髪。白い肌。感情をあまり外に出さない瞳。机の上には文庫本が一冊置かれている。周囲のざわめきとは少し離れたところに、ひとりだけ別の空気をまとっているような少女だった。


 未空は図書委員に立候補した。


 本が好きだから。


 図書室が落ち着くから。


 おそらく理由はそれだけだった。


 けれど、クラスの男子たちにとって、問題はそこではない。


 星川未空には、変な噂がある。


 見えないものが見えるらしい。


 目が合うと、考えていることを読まれるらしい。


 気に入らない相手に呪いをかけるらしい。


 誰かの不幸を言い当てたことがあるらしい。


 もちろん、ほとんどは根も葉もない話である。


 だが、噂というものは、真実かどうかよりも「そう見えるかどうか」で広がっていく。


 未空は否定しない。


 笑って打ち消すこともしない。


 ただ静かにしている。


 その沈黙が、さらに噂を育ててしまっていた。


「ええと……」


 悠樹は少しだけ困ったように眉を下げた。


 完璧な皇子様にも、誰も立候補しない委員決めを魔法のように解決する力はない。


「図書委員は、本の貸し出しや整理、図書室の当番が主な仕事です。そこまで負担は大きくないと思います」


 誰も動かない。


「星川さんも立候補してくれていますし、できれば男子からも一名お願いしたいんですが」


 誰も動かない。


 教室の端で、誰かが小さく咳払いをした。


 未空は本の表紙に目を落としたまま、表情を変えない。


 慣れている。


 その態度は、そう言っているようにも見えた。


 悠樹の視線が一瞬だけ未空に向く。


 その時、隣の玲がほんのわずかに顔を上げた。玲は未空を見ているのではなく、悠樹を見ていた。


 微笑みの奥で、何かを測るように。


「葵城」


 玲が小さく呼んだ。


「このままでは終わらない」


「わかっています」


 悠樹は柔らかく答えた。


 返事は丁寧だったが、その目の奥にだけ、ごく薄い疲れが浮かんでいた。


 その疲れに気づいたのか、玲はそれ以上何も言わなかった。


 沈黙がさらに三秒続いた。


 四秒目に、前方の席で手が上がった。


「はいはーい」


 妙に軽い声だった。


 手を上げたのは、藍澄武。


 小柄で、柔らかそうな髪をした男子生徒である。顔立ちは年齢より幼く、ぱっと見ただけなら中学生に見えなくもない。本人はそのことをかなり気にしているが、残念ながら表情がくるくる変わるせいで、年下感に拍車をかけている。


 ただし、見た目だけで判断すると痛い目を見る。


 武は剣道部員で、体力もある。毎朝走っているらしく、小柄な体は意外に引き締まっている。竹刀を持つと雰囲気が変わる、と剣道部の女子が言っていた。


 もっとも、今の武は竹刀ではなく、シャーペンを持ってにこにこしているだけだった。


「藍澄くん」


 悠樹は少しだけ目を細めた。


「君はもう美化委員に決まっています」


「うん、知ってるよ」


「では、なぜ手を上げたんですか」


「提案があるんだ」


 嫌な予感がした。


 それは悠樹だけではなかった。教室の何人かが同じ方向を見た。


 空席。


 二年二組に、今日一つだけ空いている席がある。


 窓際から少し離れた中ほどの席。


 そこに座るべき生徒は、まだ来ていない。


 真堂輝。


 遅刻常習犯。


 騒がしく、反応が大きく、よく怒られ、よく笑い、なぜか大きなトラブルの匂いがする場所へ自分から近づいていく少年。


 武は、その空席を指さした。


「今日来てない輝にやってもらえばいいんじゃないかな」


 教室が一瞬だけ静かになった。


 次の瞬間、数人が「あ」と言った。


 発見だった。


 盲点だった。


 そして、かなり都合のいい解決策だった。


「本人いないけど?」


 誰かが言った。


「いないのが悪いんじゃない?」


 別の誰かが言った。


「遅刻だし」


「いつものことだし」


「図書委員くらい平気でしょ」


「真堂なら星川さん相手でも喋りそう」


「いや、むしろ喋りすぎて怒られるんじゃない?」


 ざわめきが広がる。


 未空は顔を上げなかった。


 武は悪気のない笑顔で手を下ろした。


 悠樹は、ほんの数秒だけ黙っていた。


 その沈黙の中で、彼の中にある公正さと面倒くささと親友への遠慮が、見えないところで小さく衝突した。


 結果。


 悠樹は微笑んだ。


「月代さん」


「何だ」


「図書委員男子の欄に、真堂輝と書いてください」


 玲は一度だけ悠樹を見た。


 その目が、ほんの少しだけ面白がるように細まった。


「本人不在だが」


「欠席裁判ではありません。クラスの総意です」


「まだ採決していない」


「では、採決しましょう」


 悠樹は教室へ向き直った。


「真堂くんに図書委員をお願いすることに賛成の人」


 かなりの数の手が上がった。


 男子の手が多い。


 女子の手もそこそこ上がる。


 綾乃は後方の席で頬杖をつきながら、面倒くさそうに手を上げていた。


 涼宮綾乃。


 輝の幼なじみであり、隣人であり、腐れ縁であり、たぶん輝の弱点の一つである。


 髪は肩口より少し長い。表情はよく動く。目つきは強めで、思ったことが顔に出るタイプだった。制服は崩しすぎない程度に今風で、明るく普通の女子高生らしい雰囲気を持っている。


 ただし、輝に対してだけは容赦がない。


 ついでに悠樹に対しても、なぜか少しだけ容赦がない。


「涼宮さんまで賛成ですか」


 悠樹が少し意外そうに言うと、綾乃は手を上げたまま肩をすくめた。


「だって、あいついないし。いないやつが悪いでしょ」


「幼なじみなのに薄情ですね」


「皇子様に言われたくないんだけど」


 教室の一部がぴくりと反応した。


 皇子様。


 その呼び名は、女子たちの中では半ば敬称だった。だが、綾乃が言うと、見事に皮肉になる。


 悠樹はにこりと笑った。


「それでは、真堂くんに決定します」


 玲が黒板に名前を書いた。


 白いチョークが、きゅっと小さく音を立てる。


 図書委員 星川未空 真堂輝


 その名前が並んだ瞬間、教室の空気が一つ片づいた。


 男子たちはほっと息を吐き、女子たちは別の委員決めの結果をノートに写し始め、担任の立花莉奈は教卓の横でようやく顔を上げた。


 立花莉奈。


 二年二組の担任である。


 若く、美人で、服装も教師として許されるぎりぎりの華やかさを攻めてくる。生徒からの人気は高い。教師としての評判は、状況による。


 今も立花先生は、教卓の横に椅子を持ってきて座り、紙コップのコーヒーを飲んでいた。委員決めの進行は学級委員に丸投げである。


「決まった?」


「はい、立花先生」


 悠樹が答える。


「じゃ、よかった。揉めなかった?」


「揉める前に解決しました」


「さすが葵城くん。先生、助かる」


「いえ」


 悠樹は完璧な笑顔で返す。


 教室の女子の何人かが小さく息を呑んだ。


 綾乃は後ろからぼそっと言った。


「外面」


 玲の手が止まった。


 悠樹の笑顔は崩れなかった。


 だが、玲だけは、悠樹の肩にほんのわずかな力が入ったのを見ていた。


 その時だった。


 教室の前のドアが、勢いよく開いた。


「遅刻したーっ!」


 叫び声と一緒に、真堂輝が飛び込んできた。


 全員が振り向く。


 輝は息を切らし、片手に鞄を持ち、制服のネクタイを半端に緩め、髪には寝癖を残していた。黒に近い髪があちこち跳ねている。顔立ちは悪くないのに、全身から漂う慌ただしさがそれを台無しにしていた。


 彼は教室の空気を一瞬で変える。


 静かだった場所を騒がしくする才能がある。


 本人が望んでいるかどうかは別として。


「真堂くん」


 立花先生が紙コップを片手に言った。


「遅刻ね」


「はい! すみません!」


「理由は?」


「目覚まし時計が鳴らなくて!」


「昨日も同じこと言ってなかった?」


「昨日はスマホのアラームです!」


「じゃあ今日は?」


「目覚まし時計です!」


「明日は?」


「気合いです!」


「信用できないけど、席に着きなさい」


「はい!」


 輝は勢いよく頭を下げ、自分の席へ向かった。


 その途中で、武が小さく手を振った。


「おはよう、輝」


「おう武。何だよ、今日みんな妙にオレを見るな。そんなにオレが恋しかったのか?」


「ある意味、みんな輝のこと考えてたよ」


「マジで? 人気者はつらいな」


「たぶん、思ってるのと違うよ」


 武がにこにこ言う。


 輝は首を傾げながら席に着いた。


 その後ろから、綾乃がシャーペンの先で黒板を指した。


「輝」


「あ?」


「黒板見なさい」


「黒板?」


「特に、図書委員」


 輝は何の疑いもなく黒板を見た。


 数秒。


 彼は固まった。


 それから目をこすった。


 もう一度見た。


 さらに首を傾げた。


「……ん?」


 そして、叫んだ。


「はああああああああっ!? 何でオレが図書委員になってんだよ!」


 教室中に声が響いた。


 立花先生が耳を押さえる。


「真堂くん、うるさい」


「いや、うるさくもなるでしょ! 何これ!? 何この知らないうちに人生決まってる感じ!」


 綾乃は頬杖をついたまま冷たく言った。


「来ないからでしょ」


「遅刻しただけだろ!」


「その遅刻中に決まったのよ」


「そんなバカな!」


「バカはあんたでしょ」


 輝は机に両手をつき、黒板を睨んだ。


 図書委員。


 星川未空。


 真堂輝。


 自分の名前の横にあるもう一つの名前を見た瞬間、輝の声が少しだけ裏返った。


「しかも星川……さん?」


 なぜか「さん」だけ小さくなった。


 未空は窓際の席で静かに本を閉じた。


 輝の視線と、未空の視線が一瞬だけ合う。


 未空の瞳は黒く深かった。


 怒っているわけではない。


 笑っているわけでもない。


 ただ、見ていた。


 輝はなぜか背筋が伸びた。


「あ、いや、その、よろしくお願いします?」


 疑問形になった。


 未空は小さくうなずいた。


「よろしく、真堂くん」


「しゃ、喋った」


「失礼すぎるでしょ」


 綾乃のシャーペンが輝の背中をつついた。


「痛っ。いやだって、なんかこう、星川さんって静かなイメージがあるから」


「静かな人だって喋るわよ」


「そりゃそうだけど」


 輝は未空からそっと視線を外し、今度は黒板の前に立つ悠樹を見た。


 悠樹は穏やかに微笑んでいる。


 その笑顔を見た瞬間、輝はすべてを理解した。


 犯人はこいつだ。


「悠樹ぃぃぃぃ!」


 輝は椅子から立ち上がった。


「おまえか! おまえの陰謀か! オレを図書委員にして星川さんと二人きりにして呪い殺す気だな!」


 教室の空気が変わった。


 悠樹ファンの女子たちが、一斉に輝を見た。


 冷たい視線だった。


 春の教室が、一瞬で真冬になる。


 輝はその視線をまともに受けて、胸を押さえた。


「ぐっ……何だこの圧……!」


 綾乃が後ろから小声で言う。


「あんたバカ? 皇子ファンの前で呼び捨てはともかく、陰謀とか言うからでしょ」


「いや、だって陰謀だろ!」


「事実でも言い方ってものがあるのよ」


「事実なのかよ!」


 悠樹は笑顔のまま、軽く手を上げた。


「みんな、輝は僕の友人だから、少し言葉が乱暴でも気にしないであげてくれるかな」


 完璧な笑顔だった。


 声は柔らかく、表情は穏やかで、親しい友人を守る優しい学級委員そのものだった。


 女子たちの視線が一瞬で和らぐ。


「葵城くん優しい」


「真堂くん、感謝しなよ」


「皇子様に免じて許す」


 輝は震えた。


「こ、こいつ……外面だけで世界を支配してやがる……!」


「聞こえているよ、輝」


 悠樹の笑顔は崩れない。


 だが、声の温度だけが少し下がった。


 輝は反射的に口を閉じた。


 そのやり取りを、玲が横から見ていた。


 玲の表情はほとんど変わらない。


 けれど、その瞳だけは、悠樹の笑顔の奥にある別の顔を見ているようだった。


 人前では「僕」。


 輝の前では、たぶん違う。


 そういう切り替えを、玲は何も言わずに見ていた。


「はいはい、そこまで」


 立花先生が手を叩いた。


「真堂くん、文句があるなら遅刻しないこと。委員はもう決まりました。先生は決定事項を覆すのが嫌いです」


「先生、そこは教育者として本人の意思を尊重するところじゃないんですか!」


「先生、面倒くさいことも嫌いです」


「教師が言っちゃいけないやつ!」


「それに」


 立花先生はにっこり笑った。


「図書委員、似合うかもしれないわよ?」


「どこがですか! オレ、本なんてマンガの単行本くらいしか読みませんけど!」


「じゃあ、図書室で活字に触れなさい。青春よ」


「青春の使い方、雑じゃないですか!?」


 教室に笑いが起きた。


 輝は納得していなかったが、笑われるとそれ以上強く言い返しづらくなる。


 綾乃は小さくため息をついた。


「ほんと騒がしい」


「誰のせいだよ」


「あんたのせいでしょ」


「オレ被害者だぞ!?」


「遅刻した時点で加害者みたいなものよ」


「理不尽!」


 武が前の方から振り返った。


「ごめんね、輝。提案したのボクなんだ」


 輝の動きが止まった。


 ゆっくりと武を見る。


「……武?」


「うん」


「おまえか」


「うん」


「おまえがオレを売ったのか」


「売ったっていうか、ちょうどいいかなって」


「ちょうどいいで人の一年を差し出すな!」


 輝は机を乗り越えそうな勢いで立ち上がった。


 武は慌てて両手を振る。


「だって、輝なら星川さん相手でも普通に話せそうだし」


「話せるかどうかと図書委員をやるかどうかは別問題だろ!」


「でも本を読まない人が図書委員になったら、新しい世界が開けるかもしれないよ?」


「開けなくていい! オレの世界は閉じてていい!」


「そんなこと言わずにさぁ。図書室って意外と怪談の宝庫なんだよ。古い学校の記録とか、郷土資料とか、封印された本とか」


「封印された本!?」


 輝の目が一瞬だけ輝いた。


 悠樹がすぐに言う。


「ない」


「まだ何も聞いてないだろ!」


「図書室に封印された本はない」


「わかんないだろ!」


「少なくとも学校の図書室に置くな」


「でもさ、最近は白狐の動画とかもあるし、小春って意外とそういう町かもしれないじゃん?」


 武の何気ない一言で、教室の数人が反応した。


 白狐。


 火災。


 昨夜の動画。


 それまで笑っていた空気の中に、ほんの少しだけ別の色が混ざる。


 未空が、ゆっくりと窓の外を見た。


 窓の向こうには、春の光がある。校庭の向こう、遠くには楓川の緑道が見える。昼間の町は明るく、昨日の火災などなかったように静かだった。


 けれど未空は、その明るさの奥に何かを見ているようだった。


 玲もまた、未空の視線を追った。


 ほんの一瞬。


 玲の表情が、夜の水面のように冷たくなる。


「月代さん?」


 悠樹が声をかける。


 玲はすぐに黒板へ視線を戻した。


「何でもない」


「そうですか」


「ああ」


 それだけだった。


 輝はそんな二人の様子に気づかない。


 彼はまだ自分が図書委員になったという現実と戦っていた。


「とにかく、オレは認めないぞ。これは不当な決定だ。本人不在のまま決めるなんて、民主主義に反する」


 綾乃が冷たい目を向ける。


「さっき採決してたわよ」


「オレがいない採決に意味あるか!」


「あるんじゃない? クラスの多数決だし」


「少数意見の尊重は!?」


「あんた一人しか反対してないじゃない」


「だから少数意見だろ!」


「少数すぎるのよ」


 輝は頭を抱えた。


「くそっ、こんな時だけみんな団結しやがって……!」


 悠樹は黒板の前でプリントを整えながら言った。


「輝」


「何だよ、裏切り者」


「図書委員の最初の集まりは今日の五時間目の後半だ。場所は図書室。遅れないように」


「さらっと追い打ちかけてくるな!」


「委員になったんだから当然だろう」


「まだ認めてない!」


「先生」


 悠樹は立花先生を見た。


「真堂くんが認めていないそうですが」


 立花先生は紙コップの中身を飲み干し、すっきりした顔で言った。


「認めなさい」


「圧!」


「真堂くん」


「はい」


「遅刻してきて、委員決めをやり直させて、ロングホームルームを延長させて、先生の放課後の予定を圧迫するつもり?」


「いえ、ありません」


「じゃあ決定」


「はい……」


 権力には勝てなかった。


 輝は椅子に座り直し、机に突っ伏した。


「オレの高校二年生が終わった……」


「始まったばっかりでしょ」


 綾乃が呆れたように言う。


「図書委員になったくらいで大げさなのよ」


「わかってないな綾乃。図書室っていうのは静かにしなきゃいけない場所だぞ」


「だから?」


「オレに一番向いてない」


「それは同意するわ」


「同意すんな!」


「でも、たまには静かにする練習になっていいんじゃない?」


「オレは練習しないと静かにできない幼児か!」


「違うの?」


「違うわ!」


 綾乃は鼻で笑った。


 輝は反論しようとして、ふと未空の方を見た。


 未空はもう本を開いていた。


 クラスの騒がしさから少し離れた場所で、ページをめくっている。自分の名前が話題になっても、図書委員の相手が大騒ぎしても、大きく反応しない。


 ただ、静かにそこにいる。


 輝は少しだけ気まずくなった。


 さっき「呪い殺す」とか言った。


 本人に聞こえていたかもしれない。


 いや、たぶん聞こえていた。


「あー……」


 輝は後ろ頭をかいた。


 未空が顔を上げる。


 視線が合う。


「その、星川さん」


「何?」


「さっきのは、別に本気で呪いとか信じてるわけじゃなくてだな」


「そう」


「いや、まあ、ちょっとは怖いけど」


「そう」


「でも、図書委員になったからには、まあ、その……よろしく」


 言ってから、輝は自分でも驚いた。


 文句は山ほどある。


 納得はしていない。


 だが、相手が未空であることそのものを嫌がっていると思われるのは、なんとなく違う気がした。


 未空は輝を見ていた。


 教室のざわめきの奥で、二人の間だけが少し静かになる。


 やがて未空は、小さくうなずいた。


「よろしく」


 それだけだった。


 けれど、輝はなぜか少しだけ安心した。


 少なくとも、今すぐカエルにされることはなさそうだった。


「はい、じゃあ話を戻すわよ」


 立花先生が教壇に立った。


 ようやく教師らしい動きである。


「今日の五時間目後半は、各委員の初回集まりがあります。集合場所はこのプリントを見て確認しておくこと。委員じゃない人は教室で係決めの続きと、簡単なクラス目標を決めます」


 黒板にプリントが貼られる。


 輝はげんなりした顔でそれを見た。


 図書委員――図書室。


 逃げ場はなかった。


「委員会が終わった人から、今日はそのまま帰ってよし。ただし、寄り道しすぎないこと。特に昨日の火災現場を見に行くとか、そういう野次馬根性はほどほどに」


 その言葉に、何人かがびくっとした。


 武も少しだけ肩を揺らす。


 輝は武を見た。


「おまえ、行く気だったな」


「ちょっとだけ」


「ちょっとだけって顔じゃないぞ」


「だって気になるじゃん。白い狐だよ? 火事だよ? 地元だよ?」


「まあ、それは……気になるけど」


 輝の声も少しだけ弾んだ。


 悠樹が即座に振り向く。


「行くなよ」


「まだ何も言ってないだろ」


「顔に書いてある」


「人の顔を勝手に読むな」


「おまえは読みやすい」


「悪かったな単純で!」


 悠樹はため息をついた。


 そのため息は、学校で見せる皇子様のものではなかった。


 もっと遠慮がなく、もっと疲れていて、もっと近い相手に向けるため息だった。


 玲は、それを見ていた。


 悠樹はすぐに表情を戻したが、玲の視線からは逃れられていないようだった。


「葵城」


 玲が呼ぶ。


「何でしょう」


「大変そうだな」


 唐突な言葉だった。


 悠樹は一瞬だけ黙る。


 それから、いつもの笑みを浮かべた。


「慣れていますから」


「そうか」


 玲はそれ以上踏み込まなかった。


 だが、その短いやり取りだけで、悠樹はほんのわずかに居心地悪そうな顔をした。


 輝はそれに気づかない。


 綾乃は気づいたが、何も言わなかった。


 ただ、少しだけ面白くなさそうにシャーペンを回した。


「それでは、これでロングホームルームを終わります」


 悠樹がきれいにまとめる。


 立花先生が満足げにうなずく。


「はい、お疲れさま。委員の人は忘れずに移動してね」


 チャイムが鳴った。


 教室の空気が一気にほどける。


 椅子を引く音、鞄を開ける音、プリントをしまう音、友達同士の声が重なっていく。


 輝は机に突っ伏したまま動かなかった。


「なあ綾乃」


「何」


「オレ、図書委員らしい」


「知ってる」


「夢じゃない?」


「現実」


「悪夢じゃない?」


「現実」


「オレ、今日帰っていい?」


「図書室行きなさい」


 綾乃は容赦なかった。


 前方では、武が悪びれもなく笑っている。


「がんばってね、輝」


「おまえは後で覚えてろよ」


「えっ、何されるの?」


「おまえの弁当の卵焼きを奪う」


「それは重罪だよ!」


「人の委員を勝手に決めた罪に比べれば軽い!」


 教室の隅で、未空が静かに本を閉じた。


 その動きは小さかったのに、輝はなぜか気づいた。


 未空は鞄に本をしまい、立ち上がる。


 図書委員の集合場所へ向かうのだろう。


 輝は大きく息を吐いた。


「行くか……」


「最初からそうしなさいよ」


 綾乃が言う。


「うるせー。これは戦いなんだよ」


「何と?」


「運命と」


「大げさ」


 輝は鞄を肩にかけた。


 黒板には、まだ白いチョークの文字が残っている。


 図書委員。


 星川未空。


 真堂輝。


 何の変哲もない委員決めの結果。


 ただそれだけのはずだった。


 けれど、その名前の並びは、確かに一つの扉だった。


 輝はまだ知らない。


 図書室で出会う銀色の髪の管理人のことも。


 楓川沿いで泣いている小さな迷子のことも。


 白狐火災が、ただの噂では終わらないことも。


 自分が面白半分で覗き込もうとしているものの奥に、誰かの長い孤独と、消えかけた名前が眠っていることも。


 今の輝にわかっているのは、ただ一つ。


「くそっ、絶対に悠樹のせいだ……」


 図書委員になった。


 しかも、相手は噂の星川未空。


 小春西高校二年二組の春は、本人の知らないところで勝手に始まり、本人の不満などお構いなしに、妙な方向へ転がり出していた。

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