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第二十一章 椛はここにいる

 小春市が、夜に沈んでいく。


 駅前では、電車が止まっていた。


 ホームの手前で静止した車両は、まるで見えない膜に押し返されているようだった。改札前では人々が遅延表示を見上げ、ため息をつき、スマートフォンを確認している。


「また遅れてるのか」


「最近多いね」


「まあ、仕方ないか」


 誰も本当には不思議がらない。


 電車は来ている。


 なのに、駅へ入ってこない。


 それを見ているはずなのに、人々は見ていない。


 旧駅前商店街では、閉まったはずの店に灯りがともっていた。


 何十年も前の看板が、夜の中にぼんやり浮かび上がる。写真館の奥では、古いカメラのフラッシュが一度だけ光った。駄菓子屋の軒先には、子どもたちの笑い声が残響のように漂っている。和菓子屋の前には、楓の葉を模した提灯が並び、誰もいない通りに祭りの光を落としていた。


 楓川には、灯籠の幻が流れていた。


 小さな灯りが、ひとつ。


 またひとつ。


 川面に浮かび、月の光と混ざりながら下流へ進んでいく。けれど、その灯籠はどこへも流れ去らない。同じ場所を巡り、同じ祈りを繰り返す。川そのものが、過去の祭りを思い出そうとしているようだった。


 小春西高校の図書室では、白い本が開いていた。


 誰もいない郷土資料棚の前で、ページがひとりでにめくれる。白紙だったはずの紙面に、黒い文字が浮かび上がる。


『白狐の町』


『神隠しの小春』


『戻れない町』


『狐火に守られた土地』


『忘れられた神々の器』


 文字は、書かれるたびに町へ染み込んでいく。


 噂が記録になり、記録が町を変え、町がまた新しい噂を生む。


 小春市は、外の世界から少しずつ切り離されていた。


 その中心に、小春神社があった。


 焼けた御神木の根元で、玉藻琥珀の狐火が燃え上がる。


 白銀の狐の影は、境内いっぱいに広がっていた。何本もの尾が赤い炎の中で揺れ、空には大きな月が浮かんでいる。さっきまで輝たちを閉じ込めていた玲の夜は薄れたが、完全には消えていない。月光は狐火の赤と混ざり合い、境内を現実でも夢でもない場所へ変えていた。


 輝は走っていた。


 葉月神社の弓を抱え、御神木へ向かって。


 足元の砂利が、時々濡れた土に変わる。石段の上にいるはずなのに、楓川の水面がすぐ横に見える。旧商店街の提灯が鳥居の向こうに揺れ、図書室の白い本のページが空中に浮かんでは消える。


 町の記憶が、重なっていた。


 全部がここへ集まっている。


 悠樹が叫んだ。


「輝、止まるな! でも弓はまだ引くな!」


「難しい注文すんな!」


「難しいから言っている!」


 輝は歯を食いしばりながら前へ進む。


 綾乃は椛と楓の手を握っている。狐火の熱が迫るたび、二人の名前を叫ぶ。


「椛ちゃん! 楓ちゃん! こっち見て! ここにいるわよ!」


 その声は、祈りでも信仰でもなかった。


 ただの呼び声だった。


 けれど、そのただの呼び声が、椛と楓を現実へ引き戻す。


 椛の輪郭が揺れるたび、綾乃はさらに強く呼んだ。


「椛ちゃん!」


 楓が薄くなりかけるたび、綾乃は怒るように呼んだ。


「楓ちゃん!」


「声、大きい」


 楓が苦しそうに言う。


「大きくしてるのよ!」


「うるさい」


「文句言えるなら大丈夫!」


「その判断、雑」


「雑でも呼ぶ!」


 綾乃は泣きそうな顔で笑った。


 武は葉月神社の記録を抱え、紙垂を押さえながら走っていた。


 肩から提げた鞄の中には、葉月光伸から預かった祝詞の写し、楓祭りの儀式の手順、予備の紙垂、電池式の小さな灯り、そして楓の葉を模した紙片が入っている。


 彼には霊力はない。


 夜の糸も、町の流れも、狐火の本当の形も見えない。


 それでも、見えないからといって役に立たないわけではない。


 武は走る。


 記録を届ける。


 必要なものを落とさないように抱え、怖くても前へ出る。


「輝!」


 武が叫んだ。


「祝詞、読むよ!」


「頼む!」


 武は息を切らしながら、記録の写しを開いた。


 文字は古い。


 読み方も難しい。


 何度も練習したはずなのに、狐火の中では紙面が揺れて読みにくい。それでも、武は声を出した。


「楓川の流れを鎮め、小春の御木に名を結び、子らの息災を願い、灯を流し、矢に託す――」


 途中で声が震える。


 怖い。


 しかし、止まらない。


「――忘れられし名よ、流れに戻れ。失われし声よ、木の根に宿れ。呼ぶ者あれば、ここに在れ」


 その声に、楓川の灯籠が少しだけ強く光った。


 武は目を見開く。


 自分の声で何かが動いたことに驚いたのだ。


 けれど、すぐに歯を食いしばる。


 驚いている暇はない。


「続き、読む!」


 悠樹が地図と記録を見比べながら叫ぶ。


「未空さん、流れは!」


 未空は境内の中心を見ていた。


 彼女の目には、町全体が一本の複雑な糸の束のように見えている。


 楓祭りの灯籠。


 御神木の根。


 楓川。


 図書室の記録。


 駅前に広がった白狐の噂。


 商店街の忘れられた祭り。


 葉月神社から届いた弓。


 月夜霊尊が一瞬だけ緩めた夜の道。


 それらがすべて、御神木の焼けた根元へ集まっている。


 その中心に、空白があった。


 名前が消えた場所。


 本来ならそこにあったはずの、椛の名。


 そして今、御神木の残り火から生まれた楓の名が、そこへ並ぼうとしている。


 未空は指を上げた。


「根元じゃない」


 輝が振り返る。


「え?」


「幹じゃない。火でもない。琥珀でもない。御神木の焼けた根の下。町の記憶の中心。そこに、名前が抜けた場所がある」


「そこを狙えばいいのか」


「たぶん」


「たぶんか!」


「見えるだけだから!」


 未空の声に、今までとは違う強さがあった。


 自分で言った言葉なのに、もう諦めではなかった。


 見えるだけ。


 だからこそ、見えたものを言う。


「でも、あそこ。そこに届けば、書き換えられてる記録に名前が入る」


 悠樹がすぐに言う。


「輝、聞いたな! 敵を狙うな。名前を届けろ!」


「わかってる!」


「おまえは、わかっている時ほど勢いで間違える!」


「信用なさすぎだろ!」


「今までの積み重ねだ!」


 輝は一瞬だけ笑いそうになった。


 こんな時なのに。


 でも、そのやり取りで肩の力が少し抜けた。


 琥珀が狐火の向こうで笑った。


「余裕だね」


 輝は弓を構えた。


「余裕じゃねえよ。怖すぎて、逆にいつも通りに喋ってるだけだ」


「人間らしい」


「褒めてないな」


「褒めていない」


 琥珀の尾が広がる。


 赤い狐火が椛へ向かって伸びた。


 椛は呻いた。


「っ……!」


 土地神としての力が引き出されている。


 小春市そのものが神隠しの町へ変わろうとするたび、椛の身体から何かが抜かれていく。楓川の流れ、御神木の記憶、子どもたちの祈り、楓祭りの声。すべてが椛を通して、琥珀の術式へ組み込まれていく。


 椛は膝をつきかけた。


 楓が支える。


「椛!」


「だい、じょうぶ」


「大丈夫じゃない!」


 楓の輪郭も薄くなっていた。


 椛を支えようとして、自分の力を流しているのだ。御神木の残り火でできた楓は、力を使うたびに光が減っていく。赤い葉の飾りが一枚、灰のように崩れた。


 未空が叫ぶ。


「楓、使いすぎ!」


「知ってる!」


「じゃあ止めて!」


「椛が倒れる方が嫌!」


 楓は椛を抱きしめるように支えた。


「椛、立って」


「楓、薄くなってる」


「椛も!」


「椛は」


「椛はじゃない!」


 楓は泣きそうな顔で怒鳴った。


「椛、また自分だけ消えればいいって思ったでしょ!」


 椛の目が揺れる。


「思って、ない……」


「嘘!」


 楓はすぐに見抜いた。


「椛はすぐそう思う。町が痛いから。琥珀が悲しいから。みんなが傷つくから。自分がいなくなればって考える」


 椛は何も言えなかった。


 狐火が椛の周囲で燃えている。


 町の声が聞こえる。


 消えたくない。


 忘れないで。


 思い出して。


 その声は、椛の胸を締めつける。


 自分が行けば、みんなを救えるのかもしれない。


 自分が差し出されれば、町が閉じられて、忘れられたものたちが消えずに済むのかもしれない。


 また、そう思いかけていた。


 楓は椛の肩を掴んだ。


「椛、言って」


「何を」


「消えたくないって」


 椛は首を振った。


「神様なのに」


「神様でも言っていい!」


「人間に忘れられたのに」


「忘れられたからって、消えたいことにはならない!」


「でも、町が」


「町が痛いなら、痛いって言って! 助けてって言って! でも、消えるって言わないで!」


 楓の声が涙に滲む。


「椛、楓は椛を守るためだけに出てきたのかもしれない。でも、今は違う。楓もここにいたいって思ってる。だから、椛も言って」


 椛は泣きながら首を振った。


「わからない」


「言って!」


「わからないよ!」


 椛の声が境内に響いた。


 狐火が揺れる。


 椛は泣きながら叫ぶ。


「椛、神様だったのに、何も守れなかった! 川も、御神木も、琥珀さんも、玲お姉ちゃんも、町も! 忘れられて、名前もなくして、輝お兄ちゃんたちに迷惑かけて、楓も薄くなってる!」


 言葉が溢れる。


 ずっと胸の奥にあったもの。


 消えてもいいという諦めの下に隠れていた、本当の声。


「そんな椛が、まだここにいたいって言っていいのかわからない!」


 輝は弓を握ったまま、椛を見た。


 胸が熱くなる。


 今だ。


 今、言わなければならない。


 理屈ではない。


 証拠でもない。


 神かどうかでもない。


 輝は叫んだ。


「椛はここにいる!」


 境内に、彼の声が響いた。


 狐火の赤を裂くように。


 夜の霧を押し返すように。


 椛が顔を上げる。


 輝は続けた。


「神様とか、妖怪とか、証拠とか、そういう話じゃない! オレが知ってる!」


 弓を握る手が震えている。


 でも、声は止めなかった。


「椛は、うちで飯食った! パスタで口の周り赤くした! フードコートでうどんと戦った! ワンピース着て、神様じゃなくなったみたいって言った! うさぎのぬいぐるみ抱えて寝てた! オレに怒った! 泣いた! 笑った!」


 椛の涙が止まらない。


 綾乃が泣きながら叫ぶ。


「そうよ! 椛ちゃんはここにいる! アタシが服選んだ! 髪留めも似合ってた! 神様でも女の子でも、椛ちゃんは椛ちゃんでしょ!」


 武も叫んだ。


「ボクも知ってる! 最初は面白がってたけど、今は違う! 椛ちゃんの名前、ちゃんと覚えてる! 楓ちゃんも!」


 悠樹が声を張る。


「椛ちゃん。君はここにいていい。理由は後からいくらでも整理できる。今は、君自身の意思を言ってくれ」


 未空が静かに言った。


「椛。見えてる。椛は消えたいんじゃない。消えても仕方ないって思ってただけ」


 楓が、椛の手を握る。


「椛、言って」


 椛は、息を吸った。


 胸が痛い。


 町の声はまだ聞こえる。


 琥珀の狐火はまだ優しくて怖い。


 自分がここにいたいと言うことが、わがままのように思える。


 でも。


 輝が呼んでくれた。


 綾乃が呼んでくれた。


 悠樹が、武が、未空が、楓が。


 椛の名前を呼んでくれた。


 椛は、泣きながら口を開いた。


「椛……消えたくない」


 その瞬間、御神木の根元が震えた。


 椛は続ける。


「神様じゃなくてもいい。役に立たなくてもいい。昔みたいに祈られなくてもいい。椛は、椛のまま、ここにいたい」


 言葉が光になった。


 未空には、そう見えた。


 椛の胸から、柔らかな赤い光があふれる。


 御神木の根へ伸びる。


 楓川へ流れる。


 図書室の白い本へ届く。


 小春市の地図から消えた空白へ、椛という名がゆっくり戻っていく。


 楓が涙を拭った。


 それから、自分も声を出した。


「楓も」


 みんなが楓を見る。


 楓は、少しだけ怖そうだった。


 今まで、彼女は椛を守るために怒っていた。


 椛を叱るために立っていた。


 でも、それだけではないと言葉にするのは、初めてだった。


「楓も、椛を守るためだけじゃなくて、楓としてここにいたい。御神木の残り火でもいい。短くてもいい。でも、楓は楓として、椛の隣にいたい」


 楓の声も、光になった。


 赤い楓の葉が舞い上がる。


 狐火の赤とは違う。


 燃やす赤ではなく、紅葉する赤。


 散ってもまた土へ戻る葉の赤。


 輝の持つ矢に、二つの光が宿った。


 紙垂が揺れる。


 そこには、悠樹の整った字で書かれていた。


 椛。


 楓。


 その文字が、淡く輝く。


 輝は弓を構えた。


 腕は震えている。


 肩は痛い。


 足元は不安定で、狐火の熱が頬を焼く。


 だが、狙う場所は見えた。


 琥珀ではない。


 狐火ではない。


 御神木の幹でもない。


 焼けた根元の下。


 町の記憶が集まり、名前が抜け落ちていた中心。


 未空が指し示した場所。


 そこへ届ける。


 悠樹が輝の背後に立った。


 手を出して支えるわけではない。


 ただ、声で支える。


「呼吸を整えろ」


「無理」


「無理でもやれ」


「鬼」


「後で聞く」


 輝は息を吸った。


 悠樹が続ける。


「敵を狙うな」


「名前を届ける」


「そうだ」


 綾乃が叫ぶ。


「椛ちゃん! 楓ちゃん!」


 武が祝詞の続きを読む。


「名を結び、矢に託し、町へ返す――」


 未空が境界を見つめる。


「今。流れが重なった」


 椛と楓が、輝を見る。


 輝は、二人の名前を呼んだ。


「椛」


 椛が頷く。


「楓」


 楓が頷く。


 輝は弦を引いた。


 弓が軋む。


 腕が震える。


 指が痛い。


 けれど、矢はまっすぐ前を向いていた。


 玉藻琥珀が狐火の向こうで目を細める。


「それで、僕の火に勝てると思うのか」


 輝は答えた。


「勝つんじゃない」


 息を吸う。


 名前を胸に置く。


「届けるんだ」


 矢を放った。


 音は、思っていたより小さかった。


 弦が鳴る。


 矢が走る。


 狐火の赤い壁を抜け、月光の霧を裂き、御神木の焼けた根元へ向かう。


 琥珀は動かなかった。


 矢は彼を狙っていない。


 それがわかったのだろう。


 矢は、焼けた根元の中心に刺さった。


 次の瞬間、炎が爆ぜた。


 狐火が境内いっぱいに広がる。


 小春市全体へ燃え移るように、赤い火が一気に膨れ上がった。


 駅前へ。


 商店街へ。


 楓川へ。


 学校へ。


 図書室へ。


 新小春モールへ。


 人々が一瞬、空を見上げた。


 火事ではない。


 熱くもない。


 赤い光が、町を包んだ。


 その赤が、途中で変わった。


 炎ではなく、楓の葉になった。


 無数の赤い葉が、小春市の空を舞う。


 駅前では、遅延表示が一瞬だけ乱れた。


 電車の窓に映っていた白狐の影が薄くなる。


 代わりに、車窓の向こうに小春神社の焼けた御神木と、その根元に芽吹く小さな緑が映った。


 商店街では、昔の祭りの灯りが消えずに、今の街灯と重なった。


 駄菓子屋の幻の子どもたちが笑い、和菓子屋の前の提灯が静かに揺れる。だが、店は過去へ戻らない。今の閉じたシャッターも、古い灯りも、両方が同じ町の記憶として並んでいた。


 楓川には、幻の灯籠が流れた。


 今度は同じ場所を巡らない。


 小さな灯りは下流へ向かって、ゆっくり進んでいく。


 その灯籠の一つに、椛の名が浮かぶ。


 もう一つに、楓の名が浮かぶ。


 小春西高校の図書室では、白い本のページが激しくめくれた。


『白狐の町』


『神隠しの小春』


『戻れない町』


 それらの文字が、赤い葉に覆われる。


 消えるのではない。


 上書きされるのでもない。


 その下に、別の文字が書き込まれていく。


『椛』


『楓』


『小春神社』


『楓祭り』


『川守りの神』


『御神木の記憶』


 本の余白に、二つの名前が刻まれた。


 その瞬間、町の地図から消えていた小春神社の場所に、小さな鳥居の印が戻った。


 新小春モールの大型書店では、白狐火災の雑誌のページがひとりでに開いた。


 スマートフォンに保存された白狐動画は、一斉に消えたわけではない。


 炎の中で踊る白狐の影が、少し薄くなった。


 代わりに、映像の端に、焼けた御神木の根元が映る。


 そこに、小さな新芽があった。


 それを見た誰かが、画面を拡大する。


「これ、何?」


「新芽?」


「小春神社って、どこだっけ」


 その小さな問いが、町の中に生まれた。


 完全な信仰ではない。


 祈りでもない。


 ただの疑問。


 けれど、忘却を止めるには、それで十分な最初の一歩だった。


 小春神社の境内で、琥珀の狐火が崩れた。


 赤い炎が白い光へ変わり、白銀の尾が一つずつ薄くなる。琥珀の人の形が揺れ、膝をつく。


 輝は弓を下ろした。


 腕が限界だった。


 その場で倒れ込みそうになるところを、悠樹が後ろから支えた。


「立っていろ」


「無理」


「今倒れると格好がつかない」


「そこかよ」


「そこだ」


 輝は笑いそうになったが、息が続かなかった。


 綾乃は椛と楓を抱きしめていた。


「椛ちゃん! 楓ちゃん!」


「苦しい」


 楓が言う。


「我慢して」


「何で」


「今、抱きしめたいから」


「人間、勝手」


「そうよ。でも離さない」


 楓は文句を言いながら、離れようとはしなかった。


 椛は、綾乃の腕の中で泣いていた。


 けれど、その輪郭はさっきよりずっとはっきりしている。


 未空には見えた。


 椛の名前が、町の中に細い根を伸ばしている。


 楓の名前も、その隣に根を張り始めている。


 まだ弱い。


 すぐに消えそうなほど細い。


 でも、確かにある。


 武は記録を抱えたまま、地面に座り込んでいた。


「……届いた?」


「届いた」


 未空が言った。


 武はその言葉を聞いて、目元を拭った。


「そっか」


「泣いてる?」


 輝が聞く。


「汗」


「今、走ってないだろ」


「心の汗」


「便利な言葉だな」


 武は少し笑った。


 その笑いは、以前のような軽いだけの笑いではなかった。


 琥珀は、御神木の影に倒れていた。


 人の姿は崩れ、白銀の狐の姿になっている。


 大きくはない。


 昔、椛が見た傷ついた狐に似ていた。


 白銀の毛並みはところどころ焦げ、赤い火はほとんど消えている。琥珀色の目だけが、まだ輝を見ていた。


「それで」


 琥珀が言った。


 声は弱い。


 それでも、笑っているようだった。


「それで残れると思うのか。数人に名を呼ばれるだけで」


 椛は、綾乃の腕から離れた。


 楓がすぐに手を伸ばす。


 椛はその手を握り、琥珀へ近づいた。


 輝も止めなかった。


 琥珀は逃げない。


 もう、狐火で椛を奪う力も残っていない。


 椛は琥珀の前にしゃがんだ。


 涙の跡が頬に残っている。


 でも、声は静かだった。


「うん。今は、それでいい」


 琥珀の瞳が揺れる。


「今は?」


「うん。今は、輝お兄ちゃんたちが呼んでくれる。綾乃お姉ちゃんが普通に呼んでくれる。未空お姉ちゃんが見てくれる。武お兄ちゃんが記録を届けてくれる。悠樹お兄ちゃんが考えてくれる。楓が怒ってくれる」


 椛は、そっと手を伸ばした。


 琥珀の毛に触れる。


 今度は、手がすり抜けなかった。


「それで、椛はここにいられる」


 琥珀は、目を細めた。


「弱い答えだ」


 輝が、少しだけふらつきながら歩いてきた。


 弓は悠樹が支えている。


 輝は琥珀を見下ろした。


「でも、奪うよりは強い」


 琥珀は、輝を見る。


 怒りとも悲しみともつかない笑みを浮かべる。


「君は、ずいぶん言うようになったね」


「まだ怖いけどな」


「怖い?」


「また忘れるかもしれないって言われたら、今でも怖い。オレ一人じゃ絶対無理だし、町も全部は変わらないと思う」


 輝は御神木の根元を見た。


 黒く焦げた根の間に、矢が刺さっている。


 その周りに、小さな新芽が出ていた。


 赤くも青くもない。


 まだ色の定まらない、柔らかい若葉。


「でも、怖いから奪うんじゃなくて、怖いから呼ぶ方を選ぶ」


 琥珀は、しばらく黙っていた。


 やがて、小さく笑った。


「本当に、弱い」


「しつこいな」


「弱いものは、すぐ消える」


「かもな」


「それでも?」


「それでも」


 輝は言った。


「椛はここにいる。楓もここにいる。おまえも、まだここにいる」


 琥珀の笑みが消えた。


「僕も?」


「いるだろ」


「僕は、恐怖で形を保ってきた妖狐だ」


「だったら、恐怖じゃない呼ばれ方も少しずつ覚えろよ」


 輝は言ってから、自分で少し驚いた。


 そんなことを琥珀に言える立場なのかはわからない。


 けれど、口から出た。


 琥珀はしばらく輝を見ていた。


 そして、椛へ視線を戻す。


「椛」


「なあに」


「僕は、間違っていたのかな」


 椛はすぐには答えなかった。


 琥珀は椛を消したくなかった。


 それは本当だ。


 忘れられたものたちを残したかった。


 それも本当だ。


 そのために町を閉じようとした。


 椛を利用しようとした。


 それも本当だ。


 全部が一つの言葉で片づくわけではない。


 椛は、小さく首を横に振った。


「わからない」


 琥珀の目が細くなる。


「でも、椛は、琥珀さんが消えないでほしいって思ってくれたこと、嫌じゃなかった」


 椛の声は優しかった。


「やり方は、怖かった。でも、椛を消したくないって言ってくれたのは、少し嬉しかった」


 琥珀は、目を閉じた。


 白銀の狐の身体から、最後の狐火がふっと浮かぶ。


 それは燃えることなく、赤い楓の葉に変わった。


 葉は御神木の新芽の上を一度だけ回り、静かに消えた。


「椛」


 琥珀は目を閉じたまま言った。


「名前を、呼んでもいい?」


 椛は涙をこぼしながら頷いた。


「うん」


「椛」


 白銀の狐が、名前を呼んだ。


 その声は、火ではなかった。


 恐怖でもなかった。


 ただ、誰かを失いたくなかったものの声だった。


 椛は答えた。


「琥珀さん」


 琥珀の身体が、完全には消えずに御神木の影へ沈んでいく。


 白銀の狐は、焼けた根元に寄り添うように丸くなった。


 眠るように。


 傷ついた狐が、ようやく火を消して休むように。


 境内の狐火は消えた。


 月も、少しずつ小さくなっていく。


 楓川の水音が遠ざかる。


 図書室の白い本は閉じた。


 駅前の電車が、ゆっくりホームへ入ってくる音がした。


 旧商店街の幻の灯りは消えたが、提灯の影だけが少し残った。


 小春神社の境内には、焼けた御神木と、刺さった矢と、小さな新芽が残った。


 椛は、その新芽を見つめた。


 楓が隣に立つ。


「椛」


「なあに」


「消えたくないって言えたね」


「うん」


「楓も言えた」


「うん」


 二人は手をつないだ。


 輝は、弓を悠樹に預けたまま、その場に座り込んだ。


「疲れた」


「倒れるなと言っただろ」


 悠樹が言う。


「もう終わったからいいだろ」


「後始末がある」


「おまえ、そういうこと言うと思った」


「実際ある」


 綾乃が椛と楓を抱きしめたまま言う。


「今くらい休ませてあげなさいよ」


「十分だけだ」


「短い!」


 武が笑った。


 未空も、少しだけ笑った。


 空の月は、普通の大きさに戻っていた。


 その月明かりの中で、未空は鳥居の奥を見た。


 玲の姿はない。


 けれど、夜の端に、ほんの少しだけ道が残っているように見えた。


 帰る道なのか。


 去っていく道なのか。


 まだわからない。


 未空は小さく呟いた。


「玲」


 返事はなかった。


 でも、夜風が一度だけ頬を撫でた。


 それで今はよかった。


 小春神社に、静けさが戻っていく。


 完全な救いではない。


 町は昔には戻らない。


 琥珀の怒りも、人間が忘れた事実も、消えない。


 それでも、椛はここにいる。


 楓もここにいる。


 誰かがその名前を呼んだ。


 そして、町のどこかで、小さな名前がもう一度記録された。


 それは弱い答えだった。


 けれど、確かに奪うよりは強かった。

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