第二十一章 椛はここにいる
小春市が、夜に沈んでいく。
駅前では、電車が止まっていた。
ホームの手前で静止した車両は、まるで見えない膜に押し返されているようだった。改札前では人々が遅延表示を見上げ、ため息をつき、スマートフォンを確認している。
「また遅れてるのか」
「最近多いね」
「まあ、仕方ないか」
誰も本当には不思議がらない。
電車は来ている。
なのに、駅へ入ってこない。
それを見ているはずなのに、人々は見ていない。
旧駅前商店街では、閉まったはずの店に灯りがともっていた。
何十年も前の看板が、夜の中にぼんやり浮かび上がる。写真館の奥では、古いカメラのフラッシュが一度だけ光った。駄菓子屋の軒先には、子どもたちの笑い声が残響のように漂っている。和菓子屋の前には、楓の葉を模した提灯が並び、誰もいない通りに祭りの光を落としていた。
楓川には、灯籠の幻が流れていた。
小さな灯りが、ひとつ。
またひとつ。
川面に浮かび、月の光と混ざりながら下流へ進んでいく。けれど、その灯籠はどこへも流れ去らない。同じ場所を巡り、同じ祈りを繰り返す。川そのものが、過去の祭りを思い出そうとしているようだった。
小春西高校の図書室では、白い本が開いていた。
誰もいない郷土資料棚の前で、ページがひとりでにめくれる。白紙だったはずの紙面に、黒い文字が浮かび上がる。
『白狐の町』
『神隠しの小春』
『戻れない町』
『狐火に守られた土地』
『忘れられた神々の器』
文字は、書かれるたびに町へ染み込んでいく。
噂が記録になり、記録が町を変え、町がまた新しい噂を生む。
小春市は、外の世界から少しずつ切り離されていた。
その中心に、小春神社があった。
焼けた御神木の根元で、玉藻琥珀の狐火が燃え上がる。
白銀の狐の影は、境内いっぱいに広がっていた。何本もの尾が赤い炎の中で揺れ、空には大きな月が浮かんでいる。さっきまで輝たちを閉じ込めていた玲の夜は薄れたが、完全には消えていない。月光は狐火の赤と混ざり合い、境内を現実でも夢でもない場所へ変えていた。
輝は走っていた。
葉月神社の弓を抱え、御神木へ向かって。
足元の砂利が、時々濡れた土に変わる。石段の上にいるはずなのに、楓川の水面がすぐ横に見える。旧商店街の提灯が鳥居の向こうに揺れ、図書室の白い本のページが空中に浮かんでは消える。
町の記憶が、重なっていた。
全部がここへ集まっている。
悠樹が叫んだ。
「輝、止まるな! でも弓はまだ引くな!」
「難しい注文すんな!」
「難しいから言っている!」
輝は歯を食いしばりながら前へ進む。
綾乃は椛と楓の手を握っている。狐火の熱が迫るたび、二人の名前を叫ぶ。
「椛ちゃん! 楓ちゃん! こっち見て! ここにいるわよ!」
その声は、祈りでも信仰でもなかった。
ただの呼び声だった。
けれど、そのただの呼び声が、椛と楓を現実へ引き戻す。
椛の輪郭が揺れるたび、綾乃はさらに強く呼んだ。
「椛ちゃん!」
楓が薄くなりかけるたび、綾乃は怒るように呼んだ。
「楓ちゃん!」
「声、大きい」
楓が苦しそうに言う。
「大きくしてるのよ!」
「うるさい」
「文句言えるなら大丈夫!」
「その判断、雑」
「雑でも呼ぶ!」
綾乃は泣きそうな顔で笑った。
武は葉月神社の記録を抱え、紙垂を押さえながら走っていた。
肩から提げた鞄の中には、葉月光伸から預かった祝詞の写し、楓祭りの儀式の手順、予備の紙垂、電池式の小さな灯り、そして楓の葉を模した紙片が入っている。
彼には霊力はない。
夜の糸も、町の流れも、狐火の本当の形も見えない。
それでも、見えないからといって役に立たないわけではない。
武は走る。
記録を届ける。
必要なものを落とさないように抱え、怖くても前へ出る。
「輝!」
武が叫んだ。
「祝詞、読むよ!」
「頼む!」
武は息を切らしながら、記録の写しを開いた。
文字は古い。
読み方も難しい。
何度も練習したはずなのに、狐火の中では紙面が揺れて読みにくい。それでも、武は声を出した。
「楓川の流れを鎮め、小春の御木に名を結び、子らの息災を願い、灯を流し、矢に託す――」
途中で声が震える。
怖い。
しかし、止まらない。
「――忘れられし名よ、流れに戻れ。失われし声よ、木の根に宿れ。呼ぶ者あれば、ここに在れ」
その声に、楓川の灯籠が少しだけ強く光った。
武は目を見開く。
自分の声で何かが動いたことに驚いたのだ。
けれど、すぐに歯を食いしばる。
驚いている暇はない。
「続き、読む!」
悠樹が地図と記録を見比べながら叫ぶ。
「未空さん、流れは!」
未空は境内の中心を見ていた。
彼女の目には、町全体が一本の複雑な糸の束のように見えている。
楓祭りの灯籠。
御神木の根。
楓川。
図書室の記録。
駅前に広がった白狐の噂。
商店街の忘れられた祭り。
葉月神社から届いた弓。
月夜霊尊が一瞬だけ緩めた夜の道。
それらがすべて、御神木の焼けた根元へ集まっている。
その中心に、空白があった。
名前が消えた場所。
本来ならそこにあったはずの、椛の名。
そして今、御神木の残り火から生まれた楓の名が、そこへ並ぼうとしている。
未空は指を上げた。
「根元じゃない」
輝が振り返る。
「え?」
「幹じゃない。火でもない。琥珀でもない。御神木の焼けた根の下。町の記憶の中心。そこに、名前が抜けた場所がある」
「そこを狙えばいいのか」
「たぶん」
「たぶんか!」
「見えるだけだから!」
未空の声に、今までとは違う強さがあった。
自分で言った言葉なのに、もう諦めではなかった。
見えるだけ。
だからこそ、見えたものを言う。
「でも、あそこ。そこに届けば、書き換えられてる記録に名前が入る」
悠樹がすぐに言う。
「輝、聞いたな! 敵を狙うな。名前を届けろ!」
「わかってる!」
「おまえは、わかっている時ほど勢いで間違える!」
「信用なさすぎだろ!」
「今までの積み重ねだ!」
輝は一瞬だけ笑いそうになった。
こんな時なのに。
でも、そのやり取りで肩の力が少し抜けた。
琥珀が狐火の向こうで笑った。
「余裕だね」
輝は弓を構えた。
「余裕じゃねえよ。怖すぎて、逆にいつも通りに喋ってるだけだ」
「人間らしい」
「褒めてないな」
「褒めていない」
琥珀の尾が広がる。
赤い狐火が椛へ向かって伸びた。
椛は呻いた。
「っ……!」
土地神としての力が引き出されている。
小春市そのものが神隠しの町へ変わろうとするたび、椛の身体から何かが抜かれていく。楓川の流れ、御神木の記憶、子どもたちの祈り、楓祭りの声。すべてが椛を通して、琥珀の術式へ組み込まれていく。
椛は膝をつきかけた。
楓が支える。
「椛!」
「だい、じょうぶ」
「大丈夫じゃない!」
楓の輪郭も薄くなっていた。
椛を支えようとして、自分の力を流しているのだ。御神木の残り火でできた楓は、力を使うたびに光が減っていく。赤い葉の飾りが一枚、灰のように崩れた。
未空が叫ぶ。
「楓、使いすぎ!」
「知ってる!」
「じゃあ止めて!」
「椛が倒れる方が嫌!」
楓は椛を抱きしめるように支えた。
「椛、立って」
「楓、薄くなってる」
「椛も!」
「椛は」
「椛はじゃない!」
楓は泣きそうな顔で怒鳴った。
「椛、また自分だけ消えればいいって思ったでしょ!」
椛の目が揺れる。
「思って、ない……」
「嘘!」
楓はすぐに見抜いた。
「椛はすぐそう思う。町が痛いから。琥珀が悲しいから。みんなが傷つくから。自分がいなくなればって考える」
椛は何も言えなかった。
狐火が椛の周囲で燃えている。
町の声が聞こえる。
消えたくない。
忘れないで。
思い出して。
その声は、椛の胸を締めつける。
自分が行けば、みんなを救えるのかもしれない。
自分が差し出されれば、町が閉じられて、忘れられたものたちが消えずに済むのかもしれない。
また、そう思いかけていた。
楓は椛の肩を掴んだ。
「椛、言って」
「何を」
「消えたくないって」
椛は首を振った。
「神様なのに」
「神様でも言っていい!」
「人間に忘れられたのに」
「忘れられたからって、消えたいことにはならない!」
「でも、町が」
「町が痛いなら、痛いって言って! 助けてって言って! でも、消えるって言わないで!」
楓の声が涙に滲む。
「椛、楓は椛を守るためだけに出てきたのかもしれない。でも、今は違う。楓もここにいたいって思ってる。だから、椛も言って」
椛は泣きながら首を振った。
「わからない」
「言って!」
「わからないよ!」
椛の声が境内に響いた。
狐火が揺れる。
椛は泣きながら叫ぶ。
「椛、神様だったのに、何も守れなかった! 川も、御神木も、琥珀さんも、玲お姉ちゃんも、町も! 忘れられて、名前もなくして、輝お兄ちゃんたちに迷惑かけて、楓も薄くなってる!」
言葉が溢れる。
ずっと胸の奥にあったもの。
消えてもいいという諦めの下に隠れていた、本当の声。
「そんな椛が、まだここにいたいって言っていいのかわからない!」
輝は弓を握ったまま、椛を見た。
胸が熱くなる。
今だ。
今、言わなければならない。
理屈ではない。
証拠でもない。
神かどうかでもない。
輝は叫んだ。
「椛はここにいる!」
境内に、彼の声が響いた。
狐火の赤を裂くように。
夜の霧を押し返すように。
椛が顔を上げる。
輝は続けた。
「神様とか、妖怪とか、証拠とか、そういう話じゃない! オレが知ってる!」
弓を握る手が震えている。
でも、声は止めなかった。
「椛は、うちで飯食った! パスタで口の周り赤くした! フードコートでうどんと戦った! ワンピース着て、神様じゃなくなったみたいって言った! うさぎのぬいぐるみ抱えて寝てた! オレに怒った! 泣いた! 笑った!」
椛の涙が止まらない。
綾乃が泣きながら叫ぶ。
「そうよ! 椛ちゃんはここにいる! アタシが服選んだ! 髪留めも似合ってた! 神様でも女の子でも、椛ちゃんは椛ちゃんでしょ!」
武も叫んだ。
「ボクも知ってる! 最初は面白がってたけど、今は違う! 椛ちゃんの名前、ちゃんと覚えてる! 楓ちゃんも!」
悠樹が声を張る。
「椛ちゃん。君はここにいていい。理由は後からいくらでも整理できる。今は、君自身の意思を言ってくれ」
未空が静かに言った。
「椛。見えてる。椛は消えたいんじゃない。消えても仕方ないって思ってただけ」
楓が、椛の手を握る。
「椛、言って」
椛は、息を吸った。
胸が痛い。
町の声はまだ聞こえる。
琥珀の狐火はまだ優しくて怖い。
自分がここにいたいと言うことが、わがままのように思える。
でも。
輝が呼んでくれた。
綾乃が呼んでくれた。
悠樹が、武が、未空が、楓が。
椛の名前を呼んでくれた。
椛は、泣きながら口を開いた。
「椛……消えたくない」
その瞬間、御神木の根元が震えた。
椛は続ける。
「神様じゃなくてもいい。役に立たなくてもいい。昔みたいに祈られなくてもいい。椛は、椛のまま、ここにいたい」
言葉が光になった。
未空には、そう見えた。
椛の胸から、柔らかな赤い光があふれる。
御神木の根へ伸びる。
楓川へ流れる。
図書室の白い本へ届く。
小春市の地図から消えた空白へ、椛という名がゆっくり戻っていく。
楓が涙を拭った。
それから、自分も声を出した。
「楓も」
みんなが楓を見る。
楓は、少しだけ怖そうだった。
今まで、彼女は椛を守るために怒っていた。
椛を叱るために立っていた。
でも、それだけではないと言葉にするのは、初めてだった。
「楓も、椛を守るためだけじゃなくて、楓としてここにいたい。御神木の残り火でもいい。短くてもいい。でも、楓は楓として、椛の隣にいたい」
楓の声も、光になった。
赤い楓の葉が舞い上がる。
狐火の赤とは違う。
燃やす赤ではなく、紅葉する赤。
散ってもまた土へ戻る葉の赤。
輝の持つ矢に、二つの光が宿った。
紙垂が揺れる。
そこには、悠樹の整った字で書かれていた。
椛。
楓。
その文字が、淡く輝く。
輝は弓を構えた。
腕は震えている。
肩は痛い。
足元は不安定で、狐火の熱が頬を焼く。
だが、狙う場所は見えた。
琥珀ではない。
狐火ではない。
御神木の幹でもない。
焼けた根元の下。
町の記憶が集まり、名前が抜け落ちていた中心。
未空が指し示した場所。
そこへ届ける。
悠樹が輝の背後に立った。
手を出して支えるわけではない。
ただ、声で支える。
「呼吸を整えろ」
「無理」
「無理でもやれ」
「鬼」
「後で聞く」
輝は息を吸った。
悠樹が続ける。
「敵を狙うな」
「名前を届ける」
「そうだ」
綾乃が叫ぶ。
「椛ちゃん! 楓ちゃん!」
武が祝詞の続きを読む。
「名を結び、矢に託し、町へ返す――」
未空が境界を見つめる。
「今。流れが重なった」
椛と楓が、輝を見る。
輝は、二人の名前を呼んだ。
「椛」
椛が頷く。
「楓」
楓が頷く。
輝は弦を引いた。
弓が軋む。
腕が震える。
指が痛い。
けれど、矢はまっすぐ前を向いていた。
玉藻琥珀が狐火の向こうで目を細める。
「それで、僕の火に勝てると思うのか」
輝は答えた。
「勝つんじゃない」
息を吸う。
名前を胸に置く。
「届けるんだ」
矢を放った。
音は、思っていたより小さかった。
弦が鳴る。
矢が走る。
狐火の赤い壁を抜け、月光の霧を裂き、御神木の焼けた根元へ向かう。
琥珀は動かなかった。
矢は彼を狙っていない。
それがわかったのだろう。
矢は、焼けた根元の中心に刺さった。
次の瞬間、炎が爆ぜた。
狐火が境内いっぱいに広がる。
小春市全体へ燃え移るように、赤い火が一気に膨れ上がった。
駅前へ。
商店街へ。
楓川へ。
学校へ。
図書室へ。
新小春モールへ。
人々が一瞬、空を見上げた。
火事ではない。
熱くもない。
赤い光が、町を包んだ。
その赤が、途中で変わった。
炎ではなく、楓の葉になった。
無数の赤い葉が、小春市の空を舞う。
駅前では、遅延表示が一瞬だけ乱れた。
電車の窓に映っていた白狐の影が薄くなる。
代わりに、車窓の向こうに小春神社の焼けた御神木と、その根元に芽吹く小さな緑が映った。
商店街では、昔の祭りの灯りが消えずに、今の街灯と重なった。
駄菓子屋の幻の子どもたちが笑い、和菓子屋の前の提灯が静かに揺れる。だが、店は過去へ戻らない。今の閉じたシャッターも、古い灯りも、両方が同じ町の記憶として並んでいた。
楓川には、幻の灯籠が流れた。
今度は同じ場所を巡らない。
小さな灯りは下流へ向かって、ゆっくり進んでいく。
その灯籠の一つに、椛の名が浮かぶ。
もう一つに、楓の名が浮かぶ。
小春西高校の図書室では、白い本のページが激しくめくれた。
『白狐の町』
『神隠しの小春』
『戻れない町』
それらの文字が、赤い葉に覆われる。
消えるのではない。
上書きされるのでもない。
その下に、別の文字が書き込まれていく。
『椛』
『楓』
『小春神社』
『楓祭り』
『川守りの神』
『御神木の記憶』
本の余白に、二つの名前が刻まれた。
その瞬間、町の地図から消えていた小春神社の場所に、小さな鳥居の印が戻った。
新小春モールの大型書店では、白狐火災の雑誌のページがひとりでに開いた。
スマートフォンに保存された白狐動画は、一斉に消えたわけではない。
炎の中で踊る白狐の影が、少し薄くなった。
代わりに、映像の端に、焼けた御神木の根元が映る。
そこに、小さな新芽があった。
それを見た誰かが、画面を拡大する。
「これ、何?」
「新芽?」
「小春神社って、どこだっけ」
その小さな問いが、町の中に生まれた。
完全な信仰ではない。
祈りでもない。
ただの疑問。
けれど、忘却を止めるには、それで十分な最初の一歩だった。
小春神社の境内で、琥珀の狐火が崩れた。
赤い炎が白い光へ変わり、白銀の尾が一つずつ薄くなる。琥珀の人の形が揺れ、膝をつく。
輝は弓を下ろした。
腕が限界だった。
その場で倒れ込みそうになるところを、悠樹が後ろから支えた。
「立っていろ」
「無理」
「今倒れると格好がつかない」
「そこかよ」
「そこだ」
輝は笑いそうになったが、息が続かなかった。
綾乃は椛と楓を抱きしめていた。
「椛ちゃん! 楓ちゃん!」
「苦しい」
楓が言う。
「我慢して」
「何で」
「今、抱きしめたいから」
「人間、勝手」
「そうよ。でも離さない」
楓は文句を言いながら、離れようとはしなかった。
椛は、綾乃の腕の中で泣いていた。
けれど、その輪郭はさっきよりずっとはっきりしている。
未空には見えた。
椛の名前が、町の中に細い根を伸ばしている。
楓の名前も、その隣に根を張り始めている。
まだ弱い。
すぐに消えそうなほど細い。
でも、確かにある。
武は記録を抱えたまま、地面に座り込んでいた。
「……届いた?」
「届いた」
未空が言った。
武はその言葉を聞いて、目元を拭った。
「そっか」
「泣いてる?」
輝が聞く。
「汗」
「今、走ってないだろ」
「心の汗」
「便利な言葉だな」
武は少し笑った。
その笑いは、以前のような軽いだけの笑いではなかった。
琥珀は、御神木の影に倒れていた。
人の姿は崩れ、白銀の狐の姿になっている。
大きくはない。
昔、椛が見た傷ついた狐に似ていた。
白銀の毛並みはところどころ焦げ、赤い火はほとんど消えている。琥珀色の目だけが、まだ輝を見ていた。
「それで」
琥珀が言った。
声は弱い。
それでも、笑っているようだった。
「それで残れると思うのか。数人に名を呼ばれるだけで」
椛は、綾乃の腕から離れた。
楓がすぐに手を伸ばす。
椛はその手を握り、琥珀へ近づいた。
輝も止めなかった。
琥珀は逃げない。
もう、狐火で椛を奪う力も残っていない。
椛は琥珀の前にしゃがんだ。
涙の跡が頬に残っている。
でも、声は静かだった。
「うん。今は、それでいい」
琥珀の瞳が揺れる。
「今は?」
「うん。今は、輝お兄ちゃんたちが呼んでくれる。綾乃お姉ちゃんが普通に呼んでくれる。未空お姉ちゃんが見てくれる。武お兄ちゃんが記録を届けてくれる。悠樹お兄ちゃんが考えてくれる。楓が怒ってくれる」
椛は、そっと手を伸ばした。
琥珀の毛に触れる。
今度は、手がすり抜けなかった。
「それで、椛はここにいられる」
琥珀は、目を細めた。
「弱い答えだ」
輝が、少しだけふらつきながら歩いてきた。
弓は悠樹が支えている。
輝は琥珀を見下ろした。
「でも、奪うよりは強い」
琥珀は、輝を見る。
怒りとも悲しみともつかない笑みを浮かべる。
「君は、ずいぶん言うようになったね」
「まだ怖いけどな」
「怖い?」
「また忘れるかもしれないって言われたら、今でも怖い。オレ一人じゃ絶対無理だし、町も全部は変わらないと思う」
輝は御神木の根元を見た。
黒く焦げた根の間に、矢が刺さっている。
その周りに、小さな新芽が出ていた。
赤くも青くもない。
まだ色の定まらない、柔らかい若葉。
「でも、怖いから奪うんじゃなくて、怖いから呼ぶ方を選ぶ」
琥珀は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく笑った。
「本当に、弱い」
「しつこいな」
「弱いものは、すぐ消える」
「かもな」
「それでも?」
「それでも」
輝は言った。
「椛はここにいる。楓もここにいる。おまえも、まだここにいる」
琥珀の笑みが消えた。
「僕も?」
「いるだろ」
「僕は、恐怖で形を保ってきた妖狐だ」
「だったら、恐怖じゃない呼ばれ方も少しずつ覚えろよ」
輝は言ってから、自分で少し驚いた。
そんなことを琥珀に言える立場なのかはわからない。
けれど、口から出た。
琥珀はしばらく輝を見ていた。
そして、椛へ視線を戻す。
「椛」
「なあに」
「僕は、間違っていたのかな」
椛はすぐには答えなかった。
琥珀は椛を消したくなかった。
それは本当だ。
忘れられたものたちを残したかった。
それも本当だ。
そのために町を閉じようとした。
椛を利用しようとした。
それも本当だ。
全部が一つの言葉で片づくわけではない。
椛は、小さく首を横に振った。
「わからない」
琥珀の目が細くなる。
「でも、椛は、琥珀さんが消えないでほしいって思ってくれたこと、嫌じゃなかった」
椛の声は優しかった。
「やり方は、怖かった。でも、椛を消したくないって言ってくれたのは、少し嬉しかった」
琥珀は、目を閉じた。
白銀の狐の身体から、最後の狐火がふっと浮かぶ。
それは燃えることなく、赤い楓の葉に変わった。
葉は御神木の新芽の上を一度だけ回り、静かに消えた。
「椛」
琥珀は目を閉じたまま言った。
「名前を、呼んでもいい?」
椛は涙をこぼしながら頷いた。
「うん」
「椛」
白銀の狐が、名前を呼んだ。
その声は、火ではなかった。
恐怖でもなかった。
ただ、誰かを失いたくなかったものの声だった。
椛は答えた。
「琥珀さん」
琥珀の身体が、完全には消えずに御神木の影へ沈んでいく。
白銀の狐は、焼けた根元に寄り添うように丸くなった。
眠るように。
傷ついた狐が、ようやく火を消して休むように。
境内の狐火は消えた。
月も、少しずつ小さくなっていく。
楓川の水音が遠ざかる。
図書室の白い本は閉じた。
駅前の電車が、ゆっくりホームへ入ってくる音がした。
旧商店街の幻の灯りは消えたが、提灯の影だけが少し残った。
小春神社の境内には、焼けた御神木と、刺さった矢と、小さな新芽が残った。
椛は、その新芽を見つめた。
楓が隣に立つ。
「椛」
「なあに」
「消えたくないって言えたね」
「うん」
「楓も言えた」
「うん」
二人は手をつないだ。
輝は、弓を悠樹に預けたまま、その場に座り込んだ。
「疲れた」
「倒れるなと言っただろ」
悠樹が言う。
「もう終わったからいいだろ」
「後始末がある」
「おまえ、そういうこと言うと思った」
「実際ある」
綾乃が椛と楓を抱きしめたまま言う。
「今くらい休ませてあげなさいよ」
「十分だけだ」
「短い!」
武が笑った。
未空も、少しだけ笑った。
空の月は、普通の大きさに戻っていた。
その月明かりの中で、未空は鳥居の奥を見た。
玲の姿はない。
けれど、夜の端に、ほんの少しだけ道が残っているように見えた。
帰る道なのか。
去っていく道なのか。
まだわからない。
未空は小さく呟いた。
「玲」
返事はなかった。
でも、夜風が一度だけ頬を撫でた。
それで今はよかった。
小春神社に、静けさが戻っていく。
完全な救いではない。
町は昔には戻らない。
琥珀の怒りも、人間が忘れた事実も、消えない。
それでも、椛はここにいる。
楓もここにいる。
誰かがその名前を呼んだ。
そして、町のどこかで、小さな名前がもう一度記録された。
それは弱い答えだった。
けれど、確かに奪うよりは強かった。




