終章 トゥプラス
朝が来た。
それだけのことが、少しだけ不思議だった。
小春駅のホームには、電車が入ってきていた。
銀色の車両が、いつもの速度でホームへ滑り込み、ドアが開く。通勤客が乗り込み、高校生たちが眠そうな顔で流れに混ざり、駅員が白い手袋の手を上げる。
電光掲示板には、遅延の文字はない。
誰も、昨日までホームの手前で止まり続けていた電車のことを話していない。見えていたはずの異変は、朝の人混みの中に溶けていた。寝不足のせい。通信障害。気のせい。そういう言葉にもならないまま、日常は当然の顔で動き出している。
新小春モールも営業していた。
開店前の自動ドアの向こうでは、店員たちが床を掃除し、書店では新刊が並べられている。大型ビジョンには週末セールの告知が流れ、フードコートの椅子は整然と並んでいた。
旧駅前商店街は、急に昔の賑わいを取り戻したわけではない。
閉じたシャッターは閉じたままだ。写真館の窓に灯っていた幻の明かりも、駄菓子屋から聞こえた子どもの笑い声も、朝の光の中には残っていない。古い看板は錆び、アーケードの電球はところどころ切れている。
それでも、和菓子屋の軒先に一枚の写真が飾られていた。
古い小春神社。
赤く染まった御神木。
灯籠を持つ子どもたち。
その端に、白い千早と紅い袴の小さな影が写っている。
写真の下には、手書きの紙が貼られていた。
『昔の楓祭りの写真です。ご存じの方はお声がけください』
足を止める人は少ない。
けれど、ゼロではなかった。
「これ、どこの神社?」
「小春神社じゃない?」
「あそこ、まだ残ってたっけ」
そんな小さな会話が、朝の商店街に生まれていた。
小春西高校も、通常通りだった。
チャイムが鳴り、生徒たちが廊下を走り、先生が「走るな」と注意する。教室では宿題を忘れた者が騒ぎ、購買のパンを買い損ねた者が落ち込み、放送委員が少し眠そうな声で連絡事項を読み上げる。
もう、放送に祭囃子は混じらない。
ただ、図書室だけは少し変わっていた。
郷土資料棚の横に、小さな机が置かれている。
そこには、簡単な手書きの札が立てられていた。
『小春市郷土資料コーナー』
棚には、小春市史、楓川治水史、小春神社縁起抄、楓祭り保存会資料、白狐異聞が並べ直されている。その隣に、まだ新しいファイルが一冊あった。
背表紙には、星川未空の細い字と、葵城悠樹の整った字と、藍澄武の少し丸い字が混ざっていた。
『小春神社・楓祭り調査メモ』
そのファイルの最初のページには、二つの名前が書かれている。
椛。
楓。
図書室の窓からは、小春神社は見えない。
けれど、その朝だけは、光の加減のせいか、窓ガラスの隅に小さな鳥居の影が映っているように見えた。
小春神社では、一人の老人が石段を掃いていた。
葉月光伸ではない。
近所に住む老人だった。
彼は特別な理由があって来たわけではない。朝の散歩の途中で、石段に落ち葉が溜まっているのを見て、家に戻り、箒を持ってきたのだという。
「昔は誰かが掃いてた気がするんだがなあ」
老人はそう呟きながら、苔のついた石段を一段ずつ掃いた。
小春神社の境内は、昨日の神域が嘘だったかのように静かだった。
赤い狐火はない。
大きすぎる月もない。
古い田畑も、灯籠の川も、商店街の幻も消えている。
あるのは、古びた拝殿と、閉じた社務所と、焼けた御神木と、少し傾いた立入禁止のロープ。
そして、御神木の根元に出た小さな新芽だった。
新芽は、赤くも青くもなかった。
まだ何色になるのか決まっていないような、柔らかい若葉。
朝露を受けて、小さく光っている。
その根元の影には、白銀の狐が丸くなっていた。
誰にでも見えるわけではない。
けれど、見える者には見えた。
白銀の狐は目を閉じたまま、静かに眠っている。炎はない。尾も、かつてのように幾本も広がってはいない。ただ、傷ついた狐が、ようやく火を消して眠っているようだった。
風が吹く。
新芽が揺れる。
拝殿の鈴が、一度だけ小さく鳴った。
からん。
その音は、誰かに呼ばれた名前の返事のように、朝の境内へ溶けていった。
輝と悠樹のマンションでは、味噌汁の匂いがしていた。
葵城悠樹は、いつものように台所に立っていた。
フライパンでは卵焼きが焼けている。小さな鍋には味噌汁。炊飯器からは白い湯気が上がり、まな板の上にはきゅうりとトマトが並んでいた。
当たり前の朝食。
だが、食器の数は明らかに多かった。
「輝、皿」
悠樹が言う。
ソファーに沈み込んでいた真堂輝は、寝癖だらけの頭を起こした。
「眠い」
「皿」
「昨日、世界救った翌朝くらい優しくしてくれても」
「世界は救っていない。町が少しだけ戻っただけだ」
「夢がないな」
「事実だ」
「でも、オレ、弓引いたんだぞ」
「弓を引いた人間は皿を出せないのか」
「出せます」
輝はのろのろ立ち上がり、食器棚から皿を出した。
腕が痛い。
弓を引いた腕が、朝になってから本格的に悲鳴を上げていた。少し動かすだけで肩から肘まで重く、指もぎこちない。
「筋肉痛がひどい」
「当然だ」
「悠樹、優しさは?」
「朝食に含まれている」
「そういうタイプの優しさか」
輝は文句を言いながらも、皿を並べた。
テーブルには、二人分どころではない量の食器が並んでいく。
その様子を、椛は窓際から見ていた。
白い千早ではなく、新小春モールで買ってもらったクリーム色のワンピースを着ている。髪には、楓の葉のヘアピン。昨日までより輪郭ははっきりしていたが、それでも朝の光に透けるような儚さは残っている。
椛は窓の外を見た。
小春市が見える。
駅の方角。
楓川の方角。
小春神社の方角。
昔の小春市ではない。
椛さまと呼んで人々が御神木へ祈りに来た町ではない。田畑は減り、川はコンクリートで整えられ、モールは明るく、商店街は半分眠っている。人々は病気になれば病院へ行き、川が危なければ行政へ連絡し、スマートフォンで地図を開く。
椛を祀っていた町ではない。
けれど、今の町にも、輝たちがいる。
椛の名前を呼ぶ人たちがいる。
それだけで、朝の町は少し違って見えた。
「椛」
輝の声がした。
椛は振り返る。
「飯できたって」
その名を呼ばれた瞬間、椛の輪郭が少しだけ強くなる。
胸の奥が、温かくなる。
椛は笑った。
「うん」
すると、寝室の方から楓が顔を出した。
髪は少し跳ねている。昨夜、綾乃が持ってきた寝間着代わりの大きなTシャツを着ていて、袖が余っていた。御神木の記憶と生命から生まれた存在のはずなのに、寝起きの顔は完全にただの子どもだった。
「楓もいるよぉ」
少し眠そうな声で言う。
輝は振り返って笑った。
「わかってるって。楓も飯」
楓は少しだけ満足そうに頷いた。
「ならいい」
「何で上からなんだ」
「楓は楓だから」
「便利な言葉だな」
楓は椅子へ向かおうとして、袖を踏みかけた。
綾乃が慌てて支える。
「ほら、だからそのTシャツ大きいって言ったのに」
「動きにくい」
「着替え持ってきたから、後でちゃんと着替えましょう」
涼宮綾乃は、朝から当然のように部屋にいた。
隣室からやって来た彼女は、大きな紙袋を二つ抱えている。中には、椛と楓の服が入っているらしい。昨日の夜から「楓ちゃんの分も必要でしょ」と言い出し、朝早くから自分の服や子ども服売り場で買った服を引っ張り出してきたのだ。
楓は紙袋を見て、少し警戒した。
「また着せ替え?」
「そうよ」
「楓、見せ物じゃない」
「見せ物じゃないわよ。かわいくするの」
「それは見せ物と何が違うの」
「愛情の有無?」
「人間の理屈、難しい」
綾乃は笑った。
「難しく考えなくていいの。寒くない服、動きやすい服、似合う服。以上」
椛が隣で頷く。
「綾乃お姉ちゃんの服、あったかいよ」
「椛が言うなら、あとで着る」
「椛基準なのね」
綾乃は少し嬉しそうだった。
玄関のチャイムが鳴った。
輝が皿を持ったまま顔を上げる。
「朝から誰だ」
「武だろう」
悠樹が即答する。
「何でわかる」
「昨日、『新芽の写真を撮れたら朝一番で見せに行く』と言っていた」
「律儀なのか騒がしいのか」
「両方だ」
悠樹が玄関を開けると、藍澄武が立っていた。
息を切らしている。
どうやら走ってきたらしい。
「おはよう!」
「朝から声が大きい」
悠樹が言う。
「ごめん。でも見て!」
武は靴を脱ぐのもそこそこに、スマートフォンを取り出した。
画面には、小春神社の御神木の根元が映っている。
黒く焦げた木の根。
そのそばに、小さな新芽。
朝露を受けて光る若葉。
「小春神社、行ってきたのか?」
輝が聞く。
「うん。朝ジョギングのついでに」
「ついでの距離か?」
「ボクにはついで」
「体力おばけ」
「輝が運動不足なんだよ」
「弓引いた翌日の人間に言うな」
武は少しだけ笑った。
それから、画面を椛と楓へ向ける。
「これ、見せたくて」
椛はスマートフォンを覗き込んだ。
楓も隣から覗く。
二人はしばらく何も言わなかった。
新芽は、とても小さい。
吹けば折れそうで、何かの拍子に踏まれてしまいそうで、まだ木と呼ぶには頼りない。
それでも、そこにある。
椛の目に涙が浮かんだ。
「お兄ちゃん……じゃなくて」
椛は少しだけ笑った。
「御神木、まだいた」
楓も画面を見つめた。
自分の根。
自分の始まり。
燃え残ったもの。
そこに、新しい芽が出ている。
「楓も、まだいる」
楓は小さく言った。
武は真面目な顔で頷く。
「うん」
それから、少し迷ってから続けた。
「あとね、小春神社の話、今朝も掲示板に出てたんだけど」
輝が身構える。
「また白狐の噂か?」
「うん。白狐の動画の話もあった。でも、ボク、書き込まなかった」
「いつもなら書き込んでたな」
「たぶんね」
武は苦笑する。
「『あの新芽すごくない?』って言いそうになった。でも、ちょっと待った。写真を勝手に載せたら、人が来すぎるかもしれないし、また変な噂になるかもしれない。だから、まず椛ちゃんと楓ちゃんに見せようと思って」
その言葉に、楓が武を見る。
「面白がる人、少し成長した」
「まだ少し?」
「少し」
「でも増えた?」
「増えた」
武は嬉しそうに笑った。
「やった」
綾乃が呆れたように言う。
「楓ちゃんの評価に一喜一憂しすぎでしょ」
「貴重な成長判定だから」
武は真剣だった。
そこへ、もう一度チャイムが鳴る。
悠樹は小さくため息をついた。
「今度は星川さんだろう」
「予言者か」
輝が言う。
「来ると言っていた」
「聞いてない」
「おまえが寝ていたからだ」
「それは仕方ない」
「仕方なくない」
悠樹が玄関を開けると、星川未空が立っていた。
手には数冊のファイルと、図書室の資料らしき紙束を抱えている。隣には誰もいない。けれど、以前より少しだけ背筋が伸びていた。
「おはよう」
未空が言う。
「おはよう、未空!」
綾乃がすぐに駆け寄る。
抱きしめようとして、未空が資料を抱えていることに気づき、途中で止まった。
「危ない、資料がつぶれる」
「綾乃、止まれた」
「アタシだって学習するわよ」
未空は少しだけ笑った。
その笑顔はまだ控えめだ。
玲のことが消えたわけではない。
傷ついた言葉も、夜の神域も、全部残っている。
それでも、未空はここにいる。
資料を抱え、自分で歩いてきた。
「図書室の郷土資料コーナー、できた」
未空はテーブルへ資料を置いた。
悠樹がすぐに手を伸ばす。
「もう整理したのか」
「まだ途中。司書の先生には、郷土資料の整理を手伝いたいって言った。白い本のことは言ってない」
「言えないだろうな」
「うん」
未空は一枚の紙を取り出す。
「でも、小春神社と楓祭りの資料をまとめ直すことになった。武くんの調査メモも使う」
武が目を輝かせる。
「ボクのメモ、採用?」
「誤字は直す」
「そこは採用前提でお願い」
「悠樹くんにも見てもらう」
「厳正な審査が入る」
悠樹は資料を受け取りながら言った。
「事実確認は必要だ」
輝が笑う。
「武のメモ、半分くらい『すごい』で埋まってそうだしな」
「今は違うよ。『すごい』は三回までにしてる」
「ゼロにしろ」
「感情も記録の一部だから」
武が言うと、悠樹は少しだけ考えた。
「……それは、完全には否定しない」
武が驚く。
「悠樹が認めた」
「ただし、事実と感想は分けろ」
「はい」
未空は窓の外を見た。
朝の空には月はない。
けれど、彼女はどこか遠くを見るような目をしている。
綾乃がそっと声をかけた。
「未空」
「うん」
「玲のこと?」
未空は少しだけ黙った。
そして頷く。
「うん」
玲は戻っていない。
学校にも来ていない。
月代玲の席は空いたままだった。
担任は「体調不良」と言っていた。クラスメイトたちは「珍しいね」と話し、やがて別の話題へ移った。玲のことを本当に気にしている者は少ない。
それが、未空には少し痛かった。
人間は忘れる。
玲の言葉が胸の奥で響く。
けれど、未空は忘れていない。
未空は、小さく息を吸った。
「あとで、楓川緑道に行く」
綾乃がすぐに眉をひそめる。
「一人で?」
「ううん」
未空は綾乃を見る。
「一緒に来て」
綾乃の表情が緩んだ。
「もちろん」
未空は小さく頷いた。
「月は見えないと思うけど、呼びたい」
誰を、と聞く者はいなかった。
綾乃は未空の肩にそっと手を置く。
「呼べばいいわよ」
「うん」
未空は窓の外を見たまま、声に出さずに一度だけ名前を呼んだ。
玲。
返事はない。
それでよかった。
返事がないからといって、呼んだことが消えるわけではない。
悠樹が手を叩いた。
「朝食が冷める」
「切り替えが早い」
輝が言う。
「生活は続く」
「名言っぽい」
「ぽくない。事実だ」
綾乃が椅子を引く。
「ほら、椛ちゃん、楓ちゃん、座って。武も未空も食べていきなさいよ」
「アタシの部屋じゃないぞ」
輝が突っ込む。
「細かいこと言わない」
「ここ、オレと悠樹の部屋なんだけど」
「今さら?」
綾乃の一言に、輝は黙った。
確かに、今さらだった。
この部屋は、もう二人だけの部屋ではない。
最初は輝と悠樹の二人暮らしだった。
そこへ椛が来た。
二人に、ひとり。
そこから、綾乃が毎日のように顔を出し、未空が資料を持って来て、武が写真を見せに走って来て、楓が増えた。
人間に、神様。
現在に、過去。
日常に、異界。
全部が少しずつ足されて、テーブルの上に並んでいる。
「トゥプラスってさ」
輝がぼそっと言った。
悠樹が味噌汁を置きながら眉を上げる。
「急に何だ」
「いや、二人にひとりが足されて、それで終わりかと思ったら、さらに足されて、もう計算合ってないなって」
「おまえの計算能力の問題では」
「違う。そういう話じゃない」
輝は椛と楓を見る。
椛は箸を持とうとして、まだ少し不慣れな手つきで悩んでいる。楓は卵焼きをじっと見ている。真剣すぎる顔だった。
「人間に神様が足されて、今の町に昔の町が足されて、普通の朝に変な連中が足されて。そういうの全部まとめて、トゥプラスでいいんじゃね」
部屋が少し静かになる。
綾乃が最初に笑った。
「輝にしては、まともなこと言うじゃない」
「今の褒めてる?」
「かなり褒めてる」
武が頷く。
「いいと思う。ボク、そういうタイトル回収好き」
「タイトル回収って言うな」
悠樹が冷静に突っ込む。
未空は少しだけ笑った。
「でも、わかる」
椛が首を傾げる。
「トゥプラス?」
輝は箸を持ったまま答える。
「二人にひとり足すって意味、みたいなもの」
「椛、足されたの?」
「最初はな」
輝は笑う。
「でも今は、椛も楓も、ただ足されたんじゃなくて、ここにいる」
椛は少しだけ目を丸くした。
それから、嬉しそうに笑った。
「うん。椛、ここにいる」
楓も卵焼きから顔を上げた。
「楓も」
「わかってるって」
輝は笑う。
「楓もいる」
その名を呼ばれて、楓の輪郭が少しだけ強くなる。
楓は照れたように卵焼きをつまんだ。
「……味、悪くない」
悠樹が言う。
「褒めるなら素直に褒めろ」
「おいしい」
楓は小さく言った。
悠樹は少しだけ目元を緩める。
「そうか」
輝がそれを見逃さなかった。
「悠樹、今ちょっと嬉しそうだった」
「気のせいだ」
「いや、絶対嬉しそうだった」
「朝食を食べろ」
「照れてる」
「黙れ」
椛が笑う。
綾乃も笑う。
武も、未空も、少しだけ笑った。
その笑い声は、昨日までの神域にはなかったものだった。
完全な解決ではない。
小春神社の再開発計画は、まだ取り下げられていない。
商店街のシャッターが全部開くわけでもない。
小春市の人々が、急に椛の名前を思い出すわけでもない。
琥珀は御神木の影で眠っているだけで、完全に許されたわけではない。
玲も戻っていない。
忘却が消えたわけではない。
それでも、朝食は並ぶ。
名前は呼ばれる。
記録は少しずつ整理される。
誰かが石段を掃く。
誰かが古い写真の前で足を止める。
誰かが小春神社の新芽に気づく。
それで、すべてが救われるわけではない。
けれど、何も変わらなかったわけでもない。
朝食の後、輝は椛と楓を連れて小春神社へ向かった。
悠樹は「学校に遅れる」と言ったが、結局ついてきた。綾乃も、未空も、武も来た。結果、いつものように人数が増えた。
「これ、朝の散歩って人数じゃないよな」
輝が言う。
「集団登校みたい」
武が言う。
「高校生で集団登校はどうなの」
綾乃が返す。
「輝が遅刻しないように見張る会」
悠樹が言う。
「目的が変わってる」
輝が抗議する。
椛と楓は、石段の下で立ち止まった。
昨日までのような恐怖は、完全には消えていない。
でも、今日は一人ではない。
椛は一段目に足を乗せた。
楓も隣に立つ。
二人で石段を上る。
輝たちは後ろからついていった。
境内には、朝の光が差していた。
御神木の焼け跡。
その根元に、小さな新芽。
立入禁止のロープはまだある。
けれど、誰かがその周りの落ち葉を掃いてくれていた。
椛は新芽の前にしゃがんだ。
楓も隣にしゃがむ。
二人は、しばらく何も言わなかった。
風が吹く。
新芽が揺れる。
その葉は、まだ赤くも青くもない。
これからどう育つのか、誰にもわからない。
椛はそっと手を合わせた。
神様が、神社で手を合わせている。
輝は少し不思議な気持ちでそれを見た。
椛は小さく言った。
「おはよう」
誰に向けた言葉なのか。
御神木へか。
琥珀へか。
町へか。
それとも、自分自身へか。
新芽が、もう一度揺れた。
楓も小さく言った。
「おはよう」
その声は、少し照れくさそうだった。
輝は、二人の隣に立った。
神社の鈴を見上げる。
古びた鈴。
いつ鳴らされたのかもわからない鈴。
輝は少し迷ってから、そっと鈴紐に手をかけた。
悠樹が眉をひそめる。
「作法は」
「わかんない」
「なら、雑にやるな」
「教えろ」
「最初からそう言え」
悠樹が横に立ち、簡単に作法を教えた。
輝はその通りに、ぎこちなく手を合わせた。
綾乃も、未空も、武も続いた。
椛と楓は、少し離れてそれを見ている。
輝は何を祈ればいいのかわからなかった。
世界平和。
町の安全。
椛と楓が消えませんように。
琥珀が目を覚まして怒りませんように。
玲がいつか戻ってきますように。
遅刻しませんように。
あまりにも願いが多すぎて、まとまらない。
結局、輝は心の中で二つの名前を呼んだ。
椛。
楓。
それから、少し迷って、もう一つ呼んだ。
琥珀。
鈴が鳴った。
からん。
朝の境内に、その音が一度だけ響いた。
遠く、楓川の方から風が来る。
新芽が揺れる。
御神木の影で、白銀の狐がわずかに耳を動かしたように見えた。
未空は、鳥居の向こうの空を見上げた。
月は見えない。
けれど、青い空のどこかに、夜は確かにある。
未空は小さく呟いた。
「玲」
返事はない。
それでも、呼んだ。
綾乃はその横で何も言わず、未空の肩に軽く触れた。
未空は目を伏せて、少しだけ笑った。
小春市は昔には戻らない。
古い信仰も、完全には戻らない。
町の再開発も、現代化も、忘却も、消えはしない。
それでも、完全に忘れることを少しだけやめた。
誰かが写真を飾る。
誰かが資料を整理する。
誰かが噂を話す前に言葉を選ぶ。
誰かが石段を掃く。
誰かが名前を呼ぶ。
輝は、椛と楓を見る。
二人は朝の光の中で並んで立っていた。
神様と、御神木の記憶。
けれど今は、それだけではない。
椛は椛として、楓は楓として、そこにいる。
「椛」
輝が呼ぶ。
椛が振り返る。
「楓」
楓も振り返る。
「学校、遅れるぞ」
悠樹が言う。
「最後にそれかよ」
輝がぼやく。
「生活は続くと言っただろ」
「はいはい」
「返事は一回」
「はい」
椛が笑った。
楓も笑った。
朝の光が、小春神社の新芽に落ちる。
赤くも青くもない、小さな若葉が風に揺れる。
遠くで、もう一度だけ鈴の音がした。
小春の町に、誰かが呼ぶ小さな名前が、もう一つ増えた。




