第1話 今日の晩ご飯
『底辺ハンター一家のダンジョンドリーム』
第1話 今日の晩ご飯
二三〇八年、日本。
午後六時三十分。
神代家の台所には、味噌と醤油の香りが漂っていた。
「悠斗、お皿を並べてくれる?」
「分かった」
母の美咲に声をかけられ、神代悠斗は食器棚から五枚の皿を取り出した。
食卓は小さい。五人が座ると、それだけでほとんどいっぱいになる。テーブルの端には、何度も補修した跡が残っていた。椅子も新品とは程遠く、蒼太が足を動かすたびに、ぎしぎしと音を立てる。
けれど、悠斗にとっては見慣れた光景だった。
生まれてから十五年間、ずっとこの家で暮らしてきたのだから。
「お兄ちゃん、今日のご飯なに?」
足元から声がした。
妹の陽菜が、台所の入り口から顔を覗かせている。
「野菜炒めと味噌汁。あと、豆腐」
「お肉は?」
「……野菜炒めに、ちょっとだけ入ってる」
「ほんと?」
陽菜の目が輝いた。
悠斗は一瞬、言葉に詰まる。
「本当。たぶん、探せば見つかる」
「なにそれ!」
陽菜は笑った。
その笑顔を見て、悠斗も笑う。
だが、食卓に並べられた皿の上には、肉よりもキャベツやニンジンのほうが圧倒的に多かった。
肉は、ほんの少し。
細かく切られ、野菜の間に紛れ込んでいる。
母が工夫してくれていることは分かっていた。少ない食材を家族五人で分けられるように、味付けも量も考えている。
文句を言うつもりなどなかった。
それでも。
焼肉。
その三文字が、悠斗の頭から離れなかった。
テレビで見る焼肉店では、網の上に分厚い肉が並んでいる。脂が弾け、香ばしい煙が立ち上り、箸で持ち上げた肉から肉汁が滴る。
画面の中の人々は、笑いながら次々と肉を口へ運んでいた。
あんな食事を、家族全員で楽しめたら。
陽菜も蒼太も、好きなものを好きなだけ食べられたら。
父と母にも、値段を気にせず注文してほしい。
それは、悠斗がずっと抱いている夢だった。
「悠斗?」
「え?」
「どうしたの? ぼんやりして」
「ああ、いや。なんでもない」
悠斗は慌てて首を振った。
母の美咲は、そんな息子を見て小さく微笑む。
「明日のこと、考えてるの?」
「……まあね」
「緊張する?」
「そりゃ、するよ」
明日は、十五歳になった悠斗が探索者としての適性を正式に判定される日だった。
この世界では、十五歳前後になると、専門機関で生まれ持ったスキルを確認する。
スキルは、探索者としての将来を左右する重要な要素だ。
剣を扱うことに適した能力。
魔法の威力や制御に関わる能力。
仲間を守る能力。
傷を癒やす能力。
危険を察知する能力。
そして、ダンジョンの中で資源を見つけ、採集する能力。
スキルの種類によって、向いている仕事も、周囲からの評価も変わる。
強力な戦闘系スキルを持っていれば、将来を期待されることが多い。
一方で、戦闘に直接関係しないスキルは、評価されにくいこともあった。
悠斗は、自分がどんなスキルを持っているのか知らない。
だからこそ、不安だった。
「お父さんみたいな探索者になれるかな」
ぽつりと漏れた言葉に、美咲は手を止めた。
「大輔さんみたいに?」
「うん」
「そうね……」
母は少しだけ考え、それから穏やかに答えた。
「あなたは、あなたのやり方でいいと思うわ」
「でも、稼げなかったら意味がないだろ?」
思わず強い口調になった。
美咲は驚いたように目を瞬かせる。
悠斗はすぐに視線を落とした。
「ごめん」
「謝らなくていいのよ」
母は再び調理を始めた。
「家族のことを考えてくれるのは嬉しい。でも、明日の結果だけで、あなたの将来が全部決まるわけじゃないからね」
悠斗は返事をしなかった。
母の言葉が間違っていないことは分かっている。
けれど、現実にはお金が必要だった。
家賃も、食費も、光熱費もかかる。
蒼太が成長すれば、必要なものはもっと増える。
陽菜だって、これから学校へ進み、やりたいことが増えていくはずだ。
夢を持つだけでは、家族を養えない。
だからこそ、悠斗は明日に期待していた。
自分に何か、生活を変えるきっかけが与えられることを。
◇
「ただいま」
玄関から父の声がした。
「お父さん!」
蒼太が駆け出す。
「おう、蒼太。元気だったか?」
「うん! 今日はね、絵を描いた!」
「ほう、どんな絵だ?」
神代大輔は、息子が差し出した画用紙を受け取った。
そこには、大きな剣を持った人間と、角の生えた怪物が描かれている。
「これは……探索者か?」
「ぼく! ぼくが魔物をやっつけるの!」
「そうか。これは強そうだな」
大輔は笑いながら蒼太の頭を撫でた。
その姿を見て、悠斗は少しだけ胸が痛くなった。
父は、かつて探索者としてダンジョンに潜っていた。
その頃の話を、悠斗は何度も聞いている。
初めて魔石を採集したときのこと。
仲間と協力して魔物を退けたときのこと。
道に迷い、予定よりも長くダンジョンに滞在したときのこと。
父は華々しい成功談ばかりを語るわけではなかった。
失敗も、危険も、撤退の判断を誤りかけたことも話してくれた。
だからこそ、悠斗は知っている。
探索者という仕事が、夢だけで成り立っているわけではないことを。
「悠斗」
父がこちらを向いた。
「明日は判定だったな」
「うん」
「準備はできているか?」
「必要なものは、鞄に入れた」
「そうか」
大輔は上着を脱ぎ、椅子に腰を下ろした。
少し疲れた表情だった。
父の手には、古い傷がいくつも残っている。手首には、以前から使っているサポーターが巻かれていた。
悠斗は、その手を見つめた。
「父さん」
「なんだ?」
「探索者って……やっぱり、強くないと駄目なのかな」
大輔はすぐには答えなかった。
テーブルの上に画用紙を置き、蒼太が母のところへ戻ったのを確認してから、ゆっくりと口を開いた。
「強さにも、いろいろある」
「いろいろ?」
「魔物を倒す力。仲間を守る力。危険を見つける力。必要なものを見分ける力。仲間が疲れていることに気づく力だって、広い意味では強さだ」
父は自分の手を見下ろした。
「俺は若い頃、強ければ何とかなると思っていた時期があった。でも、ダンジョンじゃ、それだけでは生き残れない」
「……じゃあ、スキルが弱くても?」
「弱いかどうかは、使い方を知らなければ分からないだろ」
大輔は笑った。
「ただし、何でもできると思い込むな。自分にできることと、できないことを知る。それが大事だ」
悠斗は、その言葉を心の中で繰り返した。
自分にできること。
自分にできないこと。
明日になれば、その一端が分かるのかもしれない。
「それと、もう一つ」
父の表情が、少しだけ真剣になった。
「どんな結果が出ても、焦って危険な仕事を引き受けるな。金が必要なときほど、人は判断を間違える」
悠斗は、思わず顔を上げた。
まるで、自分の考えを見透かされたようだった。
「……分かった」
「本当に分かったか?」
「分かったって」
「ならいい」
大輔は悠斗の肩を軽く叩いた。
「明日は、胸を張って行ってこい」
その言葉に、悠斗は小さく頷いた。
◇
夕食の時間になった。
「いただきます!」
陽菜の声に続いて、家族全員が箸を持った。
「今日は野菜炒めよ。お肉も少し入っているから、みんなで分けて食べてね」
「お肉!」
蒼太が嬉しそうに叫んだ。
「蒼太、ちゃんと野菜も食べるのよ」
「はーい!」
大輔が味噌汁を口に運ぶ。
「うん。美味いな」
「本当?」
「ああ。いつも助かるよ」
美咲は少し照れたように笑った。
悠斗も野菜炒めを口に運んだ。
醤油の香ばしさと、野菜の甘みが広がる。
肉も入っている。
ほんの少しだけ。
けれど、ちゃんと美味しかった。
「お兄ちゃん」
陽菜が小声で呼んだ。
「なに?」
「明日、頑張ってね」
「……ああ」
「お兄ちゃんなら、きっと大丈夫だよ」
陽菜は、何の疑いもなくそう言った。
悠斗は返事に困った。
妹にとって、自分は頼れる兄なのだろう。
だが、実際には何も分からない。
明日、どんなスキルが判定されるのか。
どんな将来が待っているのか。
それでも、陽菜の期待を裏切りたくなかった。
「ありがとう」
悠斗は笑顔を作った。
「頑張ってくるよ」
「うん!」
陽菜は満足そうに頷き、再び食事に戻った。
その隣では、蒼太が野菜の中から小さな肉を見つけて歓声を上げている。
「見つけた!」
「よかったな」
大輔が笑う。
「お兄ちゃんも探して!」
「いや、俺はいいよ」
「駄目だよ! お肉はみんなで食べるんだよ!」
蒼太の言葉に、食卓が笑いに包まれた。
悠斗も笑った。
その瞬間、胸の奥にあった不安が、ほんの少しだけ軽くなった。
自分が明日どんな結果を得ても、この家族が大切であることは変わらない。
そして、自分が頑張りたい理由も。
目の前にある、この食卓。
家族の笑顔。
何気ない会話。
いつか、もっと豊かな暮らしを手に入れたとしても、失いたくないものだった。
悠斗は、箸を置く前に心の中で決めた。
明日、自分に与えられるスキルがどんなものであっても、まずは受け止めよう。
そこから考えればいい。
自分にできることを探せばいい。
家族のために、できることを一つずつ増やしていこう。
◇
夕食が終わると、悠斗は食器を洗う母を手伝った。
「明日は朝早いから、今日は早めに寝なさい」
「うん」
「持ち物も、もう一度確認しておいてね」
「分かってるよ」
「それなら大丈夫」
母は微笑んだ。
悠斗は最後の皿を拭き、食器棚へ戻した。
そのあと、自分の部屋へ向かう。
部屋といっても、広いわけではない。
机とベッド、本棚。それだけで大部分が埋まっている。
机の上には、明日持っていく書類と学生証、筆記用具が並んでいた。
悠斗は鞄を開き、一つずつ確認する。
忘れ物はない。
必要な準備もできている。
それでも、落ち着かなかった。
机の端には、探索者の特集記事を切り抜いた紙が置かれていた。
高難度ダンジョンの攻略に成功した探索者たち。
彼らの装備は高価で、表情には自信が満ちている。
記事には、獲得した報酬額も大きく記載されていた。
悠斗は、その数字を見つめた。
自分が同じように稼げるとは思っていない。
だが、少しでも生活に余裕ができればいい。
父が無理をしなくても済むように。
母が食費を計算しながら悩まなくてもいいように。
妹と弟が、何かを欲しがるたびに遠慮しなくていいように。
そして、いつか家族全員で焼肉を食べられるように。
それだけで、今は十分だった。
「……よし」
悠斗は書類を鞄にしまった。
明日は、未来への第一歩だ。
そう考えると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
窓の外には、魔石灯の光が広がっている。
遠くの街並みは明るく、夜空には広告映像が浮かんでいた。
その向こうに、ダンジョンがある。
未知の資源が眠る場所。
危険な魔物が棲む場所。
多くの探索者が夢を追いかける場所。
そして、いつか自分が足を踏み入れるかもしれない場所。
悠斗は窓を閉め、部屋の明かりを消した。
布団に潜り込み、目を閉じる。
明日が怖くないと言えば、嘘になる。
けれど、それ以上に知りたかった。
自分には、何ができるのか。
自分の未来は、どこへ続いているのか。
そして。
自分の夢に、手が届く可能性はあるのか。
答えは、明日分かる。
悠斗は、胸の奥に小さな希望を抱いたまま、ゆっくりと眠りへ落ちていった。
◇
同じ頃。
街の中心部にある高層ビルでは、探索者育成機関の職員たちが翌日の準備を進めていた。
十五歳前後の若者たちが受けるスキル判定。
その結果は、本人の進路だけでなく、将来の職業選択にも大きく関わる。
判定を担当する職員の一人が、端末に表示された翌日の受検者一覧を確認していた。
数多くの名前が並ぶ中に、一つの名前がある。
神代悠斗。
この時点では、特別な記録も、注目すべき経歴もない。
ただの受検者の一人だった。
職員は次の書類へ目を移す。
明日も、いつもと同じように判定が行われる。
多くの若者が自分のスキルを知り、それぞれの未来へ進んでいく。
その中に、後に一つのクランを立ち上げ、仲間たちとともにダンジョンの新しい可能性を切り開く少年がいるなど、誰も予想していなかった。
もちろん、本人でさえも。
この夜、神代家にあったのは、いつもと変わらない食卓と、明日への不安と、小さな夢だけだった。
だが、その小さな夢こそが、すべての始まりだった。
家族で、腹いっぱいご飯を食べたい。
その願いが、いつか多くの人々を支える夢へと変わっていく。
その道のりは、決して平坦ではない。
失敗もする。
悩みもする。
時には、何を選べばいいのか分からなくなることもあるだろう。
それでも、歩みを止めなければ、見えてくるものがある。
誰かが見落とした価値。
仲間とともに生み出す可能性。
そして、一人では届かなかった未来。
神代悠斗の物語は、まだ始まったばかりだった。
明日、彼は自分のスキルを知る。
その名は――《採集士》。
華々しい英雄への道とは、少し違う場所から。
しかし、それはまだ誰も知らない物語の始まりにすぎなかった。
第1話 了
次回、第2話「焼肉屋の前で」
十五歳のスキル判定を目前に控えた悠斗。家族のために稼ぎたいという願いを胸に、彼は自分の未来と向き合い始める。
ここまでお読みいただきありがとうございます!少しでも面白いと感じたら、画面下から【ブックマーク】と【☆☆☆☆☆】の評価をいただけると、執筆の大きなモチベーションになります!




