第0話 プロローグ
『底辺ハンター一家のダンジョンドリーム』
第0話 プロローグ「世界が変わった日、そして夢の始まり」
世界が変わったのは、二〇五七年のことだった。
最初に異変が確認されたのは、東京都心の地下深く。
老朽化した地下鉄の工事現場で、作業員の一人が奇妙な空洞を発見した。
地質調査の記録にない空間。
壁面は、金属とも石ともつかない黒い物質に覆われていた。持ち込んだ照明の光は奥へ進むほど弱まり、測定機器は異常な数値を示した。
そして、空洞の最奥部には、地下へ続く階段があった。
誰が造ったのか。
いつから存在していたのか。
その先に何があるのか。
誰にも分からなかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
階段の先には、現代科学では説明できない世界が広がっていたのだ。
人類は、その場所をこう呼んだ。
――ダンジョン。
◇
発見から三日後。
調査隊が地下へ降りた。
彼らは最新の測定機器を持ち込み、厳重な安全装備を身につけていた。先頭には自衛隊の隊員、中央には地質学者と技術者、最後尾には記録係が続いている。
階段を下りるたびに、地上との通信が不安定になった。
それでも、調査隊は進んだ。
やがて階段が終わり、広大な空間に出た。
「……ここは、本当に地下なのか?」
誰かが呟いた。
目の前には森が広がっていた。
天井は見えない。空のように青白い光が満ち、地面には草が生い茂っている。遠くには岩山がそびえ、その向こうからは水の流れる音が聞こえた。
地下空間という言葉では説明できない光景だった。
そして、森の奥で何かが動いた。
「待て。あれは……?」
四本足の生物だった。
犬に似ている。
だが、体長は二メートルを超え、灰色の体毛の隙間からは赤黒い皮膚が覗いていた。口元から伸びた牙は、普通の動物のものとは思えないほど長い。
調査隊が息を呑んだ瞬間、その生物が顔を上げた。
目が合った。
次の瞬間、怪物が走り出した。
「全員、下がれ!」
銃声が響いた。
何発もの弾丸が怪物の体に命中する。しかし、怪物は止まらなかった。
隊員の一人が吹き飛ばされ、岩壁に叩きつけられる。
悲鳴。
怒号。
通信機から流れるノイズ。
そして、調査隊は撤退した。
生きて戻れた者は、半数にも満たなかった。
この事件は、世界中に衝撃を与えた。
地下に未知の空間が存在すること。
そこには、地上の生物とは異なる怪物が棲息していること。
そして、従来の兵器だけでは対処が難しい存在がいること。
人類は、初めて自分たちの世界の外側を知った。
◇
ダンジョンの発見から数か月。
世界各地で、同様の空間が確認され始めた。
日本だけではない。
アメリカ、ヨーロッパ、中国、アフリカ、南米。
場所も規模も異なるが、いずれも地下深くに広がり、内部には未知の生物と鉱物が存在していた。
その鉱物の中から、人類は新たな資源を発見する。
魔石。
見た目は、色のついた鉱石に過ぎなかった。
だが、加工した魔石は、既存のエネルギー技術では説明できない特性を示した。
熱を生み出すもの。
光を放つもの。
電気を蓄えるもの。
物体の強度を高めるもの。
研究が進むにつれ、魔石を利用した技術は急速に発展していった。
発電施設に魔石が導入される。
輸送機関に魔石動力が組み込まれる。
医療機器や建築資材にも、魔石由来の技術が応用されていく。
それまで人類が何十年もかけて進めてきた技術革新が、数年という短い期間で塗り替えられていった。
しかし、魔石は地上ではほとんど採れなかった。
安定した供給源は、ダンジョンの内部にしか存在しなかったのだ。
危険な場所。
命を落とす可能性のある場所。
それでも、人類はダンジョンへ向かうしかなかった。
そこで生まれたのが、探索者という職業だった。
怪物を討伐する者。
魔石を採掘する者。
薬草や鉱物を採集する者。
内部の地形を調査し、新たな道を切り開く者。
彼らの仕事は多岐にわたり、社会にとって欠かせないものになっていった。
危険と隣り合わせである一方、成功すれば莫大な利益を得られる。
探索者は、いつしか子供たちの憧れとなった。
テレビには華々しい活躍が映し出され、人気探索者の名前は街中で知られるようになった。
高級装備を身につけた探索者が、巨大な魔物を打ち倒す。
希少な魔石を手に入れ、何億という報酬を獲得する。
彼らは英雄だった。
誰もが羨む成功者だった。
けれど。
その華やかな世界の陰には、決して目立たない人々もいた。
探索者として十分な実力を持たない者。
危険な場所へ入ることを許されない者。
怪我や年齢によって第一線を退いた者。
そして、戦う力ではなく、別の能力を持って生まれた者たち。
ダンジョンの資源は、怪物を倒した者だけが手に入れるわけではない。
道端に生える薬草を見つける者がいる。
見落とされた鉱石を拾い上げる者がいる。
危険な場所を避け、安全に持ち帰る方法を考える者がいる。
だが、そうした仕事は、巨大な魔物を倒す華々しい戦いに比べれば、ほとんど注目されなかった。
価値のあるものを見つけても、価値を決めるのは市場だ。
苦労して持ち帰っても、買い取る側が値段を決める。
命を懸けた探索であっても、報酬が生活費に消えてしまうことも珍しくなかった。
ダンジョンが人類に豊かさをもたらしたのは事実だ。
しかし、その豊かさが、すべての人間に平等に行き渡ったわけではなかった。
それから二百年以上。
ダンジョンは社会の一部となり、魔石技術は人々の暮らしに溶け込んでいった。
そして、二三〇八年。
日本。
迷宮時代の恩恵を受けながらも、その恩恵を十分に手にできない一家が暮らしていた。
◇
「……今日も、肉は無理か」
小さな台所で、一人の少年が呟いた。
神代悠斗。
十五歳。
この物語の主人公である。
築年数の古い集合住宅。
狭い台所。
使い込まれた調理器具。
冷蔵庫の中には、半分だけ残ったキャベツと、特売で買った豆腐、それから昨日の夕食で余った野菜が少し。
食卓には、炊きたてのご飯と味噌汁。
そして、野菜炒め。
決して不味くはない。
母の美咲が工夫を凝らして作ってくれた料理だ。限られた食材でも、家族が満足できるように味付けを考え、彩りを整えてくれている。
悠斗だって、それを理解していた。
理解しているからこそ、何も言えない。
「悠斗、何をぶつぶつ言ってるの?」
背後から母の声がした。
「いや、別に」
「なら、お皿を並べてくれる? お父さん、もうすぐ帰ってくるから」
「分かった」
悠斗は食器棚から皿を取り出した。
五人分。
父の大輔。
母の美咲。
悠斗。
妹の陽菜。
弟の蒼太。
五人で暮らす神代家は、決して裕福ではなかった。
父の大輔は、かつて探索者としてダンジョンに潜っていた。
だが、今では若い頃のように自由に動けない。長年の探索で傷めた体と、年齢による衰え。危険を冒してまで稼ぐことは難しくなっていた。
それでも、父は働き続けている。
家族を養うために。
子供たちに、少しでも不自由のない暮らしをさせるために。
その背中を、悠斗はずっと見てきた。
だからこそ、思うことがある。
いつか、自分が家族を支えられるようになりたい。
父と母に、安心して暮らしてほしい。
陽菜や蒼太に、金銭的な理由で何かを諦めさせたくない。
そのためには、稼がなければならない。
ダンジョンで。
探索者として。
けれど、悠斗には一つの不安があった。
自分が、どんな探索者になれるのか。
その答えが分かる日は、もうすぐそこまで迫っていた。
◇
「ただいま」
玄関の扉が開いた。
「おかえりなさい、お父さん!」
陽菜が駆け寄る。
「おう、陽菜。いい子にしてたか?」
「してたよ! 蒼太がね、お絵描きしてた!」
「ほんとか。どれどれ?」
父は笑いながら、幼い息子の頭を撫でた。
蒼太は得意げに画用紙を掲げる。
そこには、剣を持った人間と、大きな怪物らしきものが描かれていた。
「これ、ぼく! こっちは魔物!」
「おお、強そうだな」
「ぼく、探索者になる!」
その言葉に、大輔の表情がほんの少しだけ変わった。
だが、すぐに笑顔へ戻る。
「そうか。なら、強くならないとな」
「うん!」
無邪気な返事。
悠斗は、その様子を黙って見ていた。
父は探索者だった。
それは、悠斗にとって誇りだった。
けれど同時に、父が無理をして働いている姿を知っているからこそ、単純に憧れるだけではいられなかった。
探索者は、夢のある職業だ。
だが、夢だけでは食べていけない。
稼げなければ、生活は苦しくなる。
怪我をすれば、仕事を続けられなくなる。
そして、無事に帰ってこられる保証など、どこにもない。
「悠斗」
父がこちらを向いた。
「明日の準備はできているか?」
「……うん」
「そうか」
大輔はそれ以上、何も言わなかった。
明日。
十五歳になった悠斗は、探索者としての適性を正式に判定される。
生まれ持った能力――スキル。
それによって、将来の進路が大きく左右されるのだ。
剣士。
魔法使い。
盾役。
治療師。
斥候。
採掘士や採集士。
さまざまなスキルが存在し、それぞれに役割と評価がある。
強力な戦闘系スキルを持つ者は、早くから期待される。
珍しいスキルを持つ者は、将来性を見込まれることもある。
では、役に立つと評価されないスキルを持っていたら?
その先に待っているのは、どんな未来なのだろう。
悠斗は、自分の手を見つめた。
何の変哲もない手だった。
剣を握ることもできる。
道具を扱うこともできる。
だが、自分にどんな才能が眠っているのかは分からない。
もし、父のような探索者になれなかったら。
もし、家族を支えるだけの力を得られなかったら。
考えるほどに、不安が膨らんでいく。
「悠斗」
今度は、母が声をかけた。
「大丈夫よ」
「……何が?」
「明日のこと。どんな結果になっても、あなたはあなたでしょう?」
美咲は穏やかに微笑んだ。
「お父さんだって、あなたが元気に帰ってきてくれることが一番だと思っているわ」
「でも……」
「夢を持つのはいいことよ。でも、無理をしてまで叶えなくちゃいけない夢なんてないの」
母の言葉は優しかった。
優しいからこそ、胸に刺さった。
悠斗は、うつむいた。
自分の夢は、家族を幸せにすることだ。
そのために、探索者になりたい。
けれど、その夢を叶えるために家族を悲しませてしまったら、本末転倒なのかもしれない。
何が正しいのか。
まだ、答えは出なかった。
「さあ、ご飯にしましょう」
美咲が食卓へ向かう。
「今日は蒼太がたくさんお絵描きしたから、お腹が空いてるんだって」
「ぼく、いっぱい食べる!」
「お兄ちゃんの分まで食べちゃ駄目よ」
「食べないもん!」
家族の笑い声が、狭い部屋に響いた。
悠斗も笑った。
この時間が好きだった。
豪華な料理があるわけではない。
広い家でもない。
高価な家具も、最新式の魔石家電もない。
それでも、家族がそろって食卓を囲める。
その当たり前の光景を、悠斗は守りたかった。
いつか。
いつか、こんな夕食のときに、母が食費を心配しなくていいように。
父が痛む体を押して働かなくてもいいように。
陽菜が欲しいものを遠慮せずに言えて、蒼太が好きなだけご飯を食べられるように。
そして、自分自身も胸を張って笑えるように。
悠斗は、心の中で決めた。
明日、どんなスキルが判定されても。
自分にできることを探そう。
自分にしかできないことがあるなら、それを見つけよう。
たとえ、誰かに笑われたとしても。
たとえ、華やかな探索者にはなれなかったとしても。
家族を守るという夢だけは、諦めない。
◇
その夜。
家族が寝静まったあと、悠斗は窓辺に立っていた。
遠くの高層ビル群では、魔石を利用した照明が夜空を彩っている。
空中を走る輸送車の光。
巨大な広告映像。
探索者ギルドの本部ビルに掲げられた、ランキング上位者の姿。
その一人が、画面の中で笑っていた。
希少な魔石を発見した探索者。
数々の高難度ダンジョンを踏破した英雄。
彼らの活躍によって、人々の暮らしは豊かになっている。
それは間違いない。
けれど、悠斗の目に映ったのは、華々しい広告のすぐ下で、売れ残った野菜を片づけている小さな商店だった。
魔石技術が進歩しても、誰もが裕福になれるわけではない。
ダンジョンが資源を生み出しても、その恩恵を受けられない人がいる。
探索者が増えても、暮らしに余裕のない家族がいる。
悠斗は、窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。
「……俺に、何ができるんだろう」
答えはなかった。
今の自分には、何も分からない。
ただ、明日になれば何かが変わる。
そう信じるしかなかった。
悠斗はカーテンを閉め、布団に入った。
目を閉じても、なかなか眠れなかった。
明日の判定。
自分の未来。
家族の暮らし。
考えれば考えるほど、胸の奥が落ち着かなくなる。
それでも、最後には一つの光景を思い浮かべた。
家族全員で、焼肉を食べる光景。
店の前を通るたびに、陽菜が目を輝かせていた。
蒼太は、テレビで見た焼肉の映像を真似して、箸を振り回していた。
母は値段を見て、そっと視線を逸らす。
父は何も言わず、いつも通り笑う。
そんな家族を、悠斗は何度も見てきた。
いつか、あの店にみんなを連れていきたい。
値段を気にせず、好きなものを注文してほしい。
肉が焼ける音を聞きながら、みんなで笑いたい。
それは、英雄になることよりも、ずっと身近な夢だった。
けれど、今の神代家にとっては、決して簡単ではない夢でもあった。
「……絶対に、叶えてやる」
小さな声で、悠斗は呟いた。
その誓いを聞いている者は、誰もいない。
まだ、仲間もいない。
まだ、自分の可能性も知らない。
まだ、何者でもない。
神代悠斗は、ただの貧乏な家の十五歳の少年だった。
しかし、夢は、最初から大きくなくてもいい。
世界を救う必要などない。
誰もが知る英雄になる必要もない。
目の前にいる大切な人たちを、少しでも幸せにできればいい。
そして、その幸せを守るために、自分にできることを探せばいい。
その小さな願いが、やがて多くの人々を巻き込み、未来を変えることになるなど。
このときの悠斗は、まだ知らなかった。
◇
二三〇八年。
迷宮時代が始まってから、二百年以上が過ぎた世界。
魔石が街を動かし、探索者が富を築き、ダンジョンが人類の未来を左右する時代。
その片隅で、一人の少年が新しい一歩を踏み出そうとしていた。
彼に与えられるスキルは、華々しいものではない。
誰もが羨む力でもない。
周囲から期待される才能でもない。
それは、戦いの中心に立つための力ではなく、誰かが見落としたものを見つけるための力だった。
だが、価値というものは、いつも目立つ場所にあるとは限らない。
誰も気づかない場所に、明日を変える可能性が眠っていることもある。
小さな素材。
見落とされた道。
誰かの何気ない一言。
仲間と交わした約束。
そして、帰るべき場所。
それらを一つずつ拾い集めることが、世界を変える第一歩になるのかもしれない。
これは、最強の力を持つ英雄の物語ではない。
特別な血筋に生まれた天才の物語でもない。
貧乏な一家に生まれた少年が、自分の価値を探し、仲間と出会い、失敗を重ねながら、それでも夢を諦めずに進んでいく物語だ。
やがて少年は知ることになる。
強さとは、魔物を倒す力だけではないことを。
豊かさとは、金を稼ぐことだけではないことを。
そして、誰かを救うということは、自分一人ですべてを背負うことではないのだということを。
誰も見捨てない。
その言葉が、どれほど難しいものなのか。
どれほど多くの人の助けを必要とするのか。
それを知るまでには、まだ長い時間が必要だった。
けれど、始まりはいつだって、小さな願いから生まれる。
家族と一緒に、腹いっぱいご飯を食べたい。
大切な人たちに、笑っていてほしい。
そんな、ありふれた夢から。
そして翌朝。
神代悠斗の人生を大きく左右する、スキル判定の日が訪れる。
その結果が、彼の人生をどこへ導くのか。
まだ、誰にも分からない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
この少年は、まだ何も持っていない。
だからこそ、これから手に入れるもののすべてが、彼自身の物語になる。
――物語は、ここから始まる。
第0話 プロローグ 了
第1話「今日の晩ご飯」へ続く。
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