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第19話 地の塩や世の光でなくとも(4)

「ニィナ!」


 タワーから落ちていくニィナを、誰よりも早くミクロが迎えに行く。

 素早く跳んだミクロは片方の手でニィナの腕を掴み、もう片方の手で晒された鉄骨を掴んだ。が、雨で滑ったせいで、鉄骨を掴んでいた手は、瞬く間に剥がれ落ちる。

 その手を掴んだのがヨハクだ。ただ、二人分の体重を支え切れなかったヨハクも、しばしの時間を稼いだのち、前のめりに傾いた。

 イチルとレーヨンも地を蹴る。レーヨンは片腕でヨハクを抱きしめて、もう片腕を背後のイチルに伸ばした。イチルはレーヨンの手を掴み、足を踏ん張らせる。イチルとレーヨンの二人がかりで三人を引き上げようとしたものの、強風でニィナやミクロの身体が揺れ、レーヨンまでタワーから落ちそうになった。

 あたしが間に合ったのはこのときだった。

 ほとんど落ちかけていたイチルの身体を抱きしめる。交差させた両腕の先、グローブからリボンを伸ばして、晒された鉄骨に巻きつけた。ぎちぎちと音がしたものの、寸でのところで静止する。

 子供たちはタワーからぶらさがり、イチルだけがフロアに足を引っかけた状態だ。あたしはそんな彼を抱きしめたまま、リボンによって支えられている。それさえもいつ切れるかわからない。あたしは雨に打たれながら、なにがあっても彼らを離しはしないと、ただそれだけを考えていた。

 そんなあたしたちを尻目にエレベーターへと乗りこむゴローさんを、イチルは視線だけで追いかける。

 あくまで逃げるための時間稼ぎだった。たったそれだけのことでニィナを突き落とした。いくらチルドレンでも、この高さから落ちて無事でいられるわけがないのに。

 怒りだか悲しみだかわからない気持ちで、あたしの頭には血が上った。

 踏ん張りながら上体を起こし、あたしは体重を後ろへ傾ける。でも、あたしの体も持って行かれそうになっていた。コスモツリーを旋回する風に髪が吹雪く。じりじりと足が滑った。


「ジュリちゃん、」イチルが腕の中で口を開く。「無理だ、千切れる」

「やからイチルも踏ん張れ!」

「このままだとジュリちゃんただじゃ済まないでしょ」

「うるさい黙れいいからがんばれ!」

「俺たちだけなら、落ちたって怪我で済むかもしれない」

「あんたたちでも、落ちたら怪我するやろ!」


 もう怪我なんてさせないとあたしは約束した。

 彼らよりもずっと弱い、臨時の世話係(シッター)でしかないあたしが、彼らのためになにができるかわからない。でも、それでも、彼らが傷つくのは嫌なのだ。


「死んでも絶対、離さんからな」


 雨に掻き消されそうな奥で、瞬きの音がする。震えるあたしの腕の中でイチルがふっと笑った気がした。

 ややあってから「ジュリちゃん」と囁かれる。イチルはあたしを抱きしめ返した。


「死んでも絶対に離さないでね」


 トン、とイチルは地を蹴る。

 その力に逆らえず、あたしの体も大きく傾いた。

 かろうじてあたしたちを支えてくれていたリボンが、臍の緒のように千切れていく。

 ちっぽけなあたしたちは容易く宙へと放りだされてしまった。

 落ちていく。落ちていく。重力のままに、淀んだ空気の壁を突き破っていく。

 その瞬間があまりにもゆっくりと感じられた。それこそ、宇宙から成層圏を貫き、この地上へと降りてゆくみたいに。

 きっと彼らはこんなふうに産み落とされた。遥か彼方の宇宙、絵にも描けない美しい星空から、光り輝けという大志と祈りをこめて。

 彼らをこの世界へ突き落としたのは、神なのか、研究者なのか、わからないが——その誰かも、あたしと同じように、彼ら自身の幸せを祈ったなら、と願う。

 そのとき、イチルがぐいっと腕を動かす。

 ずっと繋がっていたレーヨンが、ヨハクが、ミクロが、ニィナが、あたしを余すところなく抱きしめた。

 ぎゅっと強い人肌を全身で感じたとき——突如、雷が落ちた。

 一切の容赦もなく叩きつけられる閃光。清々しいほどの直線コースでコスモツリーを襲った。走る稲妻はいっそ見えなくて、数瞬、なにが起こったかわからなかった。

 網膜を焼こうと、鼓膜を痺れさせようと、そんなのは気取らせないほどの圧倒的な光線。人類では太刀打ちできないようななにかに支配された気分だった。

 そのあいだも、彼らはぎゅっとあたしを抱きしめていてくれた。地上へと絶賛真っ逆さま中だ。


「間に合え間に合え」「ああああ俺たちでコネクトできるやつだったらよかったのに」「このまま落ちちゃったらどうしようね」「限りなく死に近い」「せめてジュリちゃんとレーヨンを庇って落ちよう」「俺たちの自癒因子を信じろ」


 こんな状態でも、子供たちはわいのわいのと騒がしい。あたしの心臓は並々ならぬ重力と風で跳ね狂い、微塵の声も出せなかったものの、非常な臨死体験に頭のほうはいっそ冷静で、このままじゃ死ぬな、とシンプルに思った。

 すると、レーヨンが「来た」とこぼした。ニィナがぱっと顔を上げる。一機のヘリがこちらへと近づいていた。

 彼らはあたしから身を放して、「ジュリー!」とそのヘリを指差した。


「あれに!」


 皆まで言わずともわかった。

 あたしはグローブからリボンを噴射する。ヘリの足に巻きつけた瞬間にくんっと手前に引っ張れば、リボンはグローブの篭手へと高速で巻き取られていった。あたしたちの体はヘリのほうへと引っ張られる。


「レーヨン!」


 ヨハクが叫んだ途端、強風に背中を押された。それはもちろん錯覚で、実際はレーヨンが犯人だった。ジェット推進——レーヨンの足の裏からは、ガスバーナーから火が噴射するように、光の尾が伸びていた。

 リボンと推進力であたしたちはヘリまで辿りつく。

 機体の横の、大きな口のようなドアが開いた。

 中にいたイガラシ首長が「こっちへ!」とあたしたちへと手を伸ばした。

 ニィナがその手を掴み、イガラシ首長へと引っ張りあげられる。雪崩れこむようにあたしたちはヘリへと乗りこんで、ドミノのように倒れこんでいく。もどかしかった呼吸が健常になり、心臓も脳も熱くなった。やっと足をつけたことに安堵した。


「……っまじで、死ぬかと、思った」

「ね」

「ね、とちゃうねん」


 あたしは未《いま》だに震える体で、彼らへと振り返る。

 コスモツリーから落ちてヘリに回収されるまでの、地獄のように長くも短い、たったこれだけの時間で、聞きたいことが山ほどあるのだが。


「あ……あんたら、まさか、雷まで落とせんの……!?」

「そんなわけないじゃん」濡れたパーカーを絞るヨハクが言う。「雷が落ちたのは偶然だよ。コスモツリーに落ちたのは奇跡と言えるけどね。建物の中にいた連中は無事だろうけど、ゴローの乗ったエレベーターは絶対に止まったでしょ」


 ヨハクはイガラシ首長のほうを向き、「至急、現場に人を向かわせて、確保して」と告げた。あたしはいやいやいやと絞りだす。すると、ヨハクの後をミクロが継いだ。


「元々、コスモツリーの避雷針は、経年劣化で潰れてんだよ。導線までイカれたわけじゃないから、地中に放電するのには困らねえけど、やっぱ危険じゃん? だから、雷雨の日は、俺たちのうちの誰かが、避雷針の代わりをやってたんだ」

「……え? まさか、雷が鳴ると出かけてたのって、それが理由?」

「うん」


 なんでもないことのように頷くけど、普通にあんたたちが危ないし、そもそも人間にそんなことができるのか……? できてしまうのだろう。本当に何でもないことのように。だからこそ、これまで誰も気づかなかった。

 イチルは体を抱き竦めながら言う。


「さっきも、雷が落ちる予兆はあったんだ。あんな高いところで宙ぶらりんなんてわりと危ない位置だし、なのに、ジュリちゃんは離す気がなさそうで、巻きこむのは避けようがなかったから、俺たちで絶縁したんだけど」


 なるほど。抱きしめられたのはそういうことだったのか。

 イチルはあたしを気遣うように「そういえば怪我はない?」と尋ねてくる。あたしは「ないよ」と答えて、着ていた上着をイチルに羽織らせた。

 イガラシ首長は「雷が落ちても絶縁破壊が起こらないのか……?」と戦慄していた。この子たちに驚いていたきりがない。


「雷撃を避けるためにコスモツリーから落ちたのはわかったわ」あたしはため息をつく。「助かる見込みがあったから落ちたの? このヘリもあんたたちが用意したってこと?」

「ここに来る前、イガラシさんに頼んでおいた」答えたのはレーヨンだ。「いくつかの予測のうち、どの状況に転ぶかわからなかったから、陸路と空路、両方で駆けつけてもらってた」

「間に合ってよかった」イガラシ首長は顔を強張らせていた。「まさかゴローに裏切られるとは思っても見なかったが……最悪の事態を防げたようでなによりだ」


 ゴローさんに撃たれたイガラシ首長だったが、もう動ける状態にはなったらしい。本当によかった。


「で。さっきのレーヨンのあれはなに?」

「ジェットエンジン!」ニィナが朗らかに答える。「すっごいかっこいいでしょ! ニィナにも欲しかったなあ。そしたら一緒に飛べるのにね。レーヨン」


 ニィナに振られて、レーヨンは「うん。みんなと飛びたい」と答えた。チルドレン、最早なんでもありだな。

——結局、ヨハクの予想どおり、ゴローさんはコスモツリーのエレベーターの中に閉じこめられていたという。

 その後、イガラシ首長はゴローさんや落伍社の人間を捕縛し、今回の騒動を解決させたのだった。






 なんて、万事解決とはいかない。出向先で事件に巻きこまれたとあっては、オオサカだって黙っていない。下手をすると一悶着(ひともんちゃく)だ。

 トウキョウはオオサカに一連の事件を報告しないわけにはいかず、ただし、せめてもという情けで、あたしの口からトカゲに伝えることにした。


『だから早く帰ってこいっつったんだボケェ』

「こんなことになるとは思わんやん」

『あほ通り越してあほんだら。いっぺん死んどいたらよかってん』

「生きてるから言える冗談よな」

『いいから気をつけて帰って来いよ』


 その捨て台詞で通話は切れた。とりあえずトウキョウはお咎めなしだ。

 落伍社の企みが明るみになり、イガラシ首長は後始末や対策に忙殺されたが、あたしの仕事は変わらず、五人の世話である。

 相変わらずみんなやんちゃくれで、国会議事堂で泥水鉄砲鬼ごっこに興じたり、猿山《サルヤマ》で高鬼をしたり、未《いま》だにルールのよくわからないボードゲームを観戦したり、夜中にトランプをしたりした。

 あんなことがあったというのに、全然けろっとしている。少なくない時間を共に過ごした大人が裏切り者だったというのに。少しくらいはショックを受けるのではと思っていただけに呆れた。子供ってすごい。このまま強く生きてほしい。

 さて、そんなふうに彼らとすごす合間に、あたしは後任の世話係(シッター)を探した。計算力も体力も、戦闘力も包容力もなくていい。ただ、あの子たちと真摯に向き合ってくれそうな人間を見極めようと思った。

 また、突如いなくなった料理人《コック》の代わりに、今後は自分たちで料理を作ることを選んだ。彼らに火器や刃物を使わせるのは怖かったが、あたしの監督下で挑戦してみることにした。はじめはみんな面倒くさがっていたものの、出来上がった料理を一口食べるごとに「おいしい」と顔を綻ばせていた。

 そういえば、ニィナとヨハクの編み物の腕前は、至高の境地に達していた。特に先に始めたニィナなんかはいろんなものを作れるようになっていて、寒がりなイチルのために、もこもこのセーターとマフラーを編んでやった。それを羨ましそうに見ていたミクロがいたことは述べておこう。

 雨の日はお留守番のレーヨンとしりとりをした。ほとんどは決着がつかないまま終わることが多かったが、たった一度だけ、レーヨンが「〝ジュリさん(、)〟」と言って、負けたことがある。あたしはその一度がとても嬉しかった。その理由はもちろん勝てたからじゃない。

 そうして幾日かが経って、あたしが書類と睨めっこしていると、同じく書類を片していたイガラシ首長が、ふとこぼした。


「少年よ、大志を抱け」


 突飛なことにあたしは「はい?」と返す。イガラシ首長らしくない、あまりに聞きなれない言葉に、小さく混乱していた。

 そんなあたしへ、イガラシ首長は言う。


「私が生まれるよりもずっと昔、外国の教育者が残した言葉だ。まだ幼い少年たちよ、この老いぼれのように、大きな志を抱くのだ、と。だが、老いぼれになって、気づいたこともある」


 そういえば、このひととは意外にも砕けた関係になったな、としみじみ思う。堅物で、厳格で、トカゲ曰く〝爆心期を生き延びたハングリージジイ〟なイガラシ首長だが、あたしにはもう違うように見える。


「私が爆心期を生き抜いたのは、世界の再興の一端を担ったのは、この死に体を引きずって首長の座についたのは、たしかに大志だったと思う……だが、こんな私のように必死になる必要が、後世の人間にはあるだろうか」

「…………」

「大志を抱き、大役を果たせば、それはたいそう立派な心栄えだろう。私はかつて安寧を手に入れるため、我武者羅に働いた。そんな己を誇らしいと思っている。そしていまがある。世界は荒廃したが、生きていけるほどにまでは回復した。安寧とは言えなくとも、小休止だ。誰も必死にならなくていい時代。なのに、私のような大志を、まだ後世にも抱かせるのか」イガラシ首長は目を細めた。「望んで抱くならばまだいい。それこそ立派な心栄えだ。だが、無自覚なまま、あるいは誰かに強いられたまま、いつの間にか抱かせられていたとしたら……それは、本当によいことなのか? そうならないように望んだのは、他でもない私なのに」


 あたしは眉を下げて笑った。

 イガラシ首長は言葉を続けた。


「望んで誕生したわけでもあるまいに、生きているだけで重圧に押し潰され、死に体を強いられ、身を粉にすることを望まれるなんて。私は、後世の人間に、こんな世界なら生まれてこなければよかったとは、思ってほしくない」

「ゴローさんのことですか?」

「それもあるが……検討してみたんだ。チルドレンのことを」イガラシ首長は躊躇いがちに言った。「君がそのように後任に悩む原因は私にもあるだろうからな。君のようにとはいかずとも……私も、彼らについてもっと考えるようにする。なるべく。少しずつ」

「…………」

「だから……安心するといい。私も見たが、その者なら、次の世話係《シッター》を任せられると思うぞ」


 あたしは手元の資料に目を落とす。

 イガラシ首長と二人で厳選した、後任の世話係《シッター》だ。能力は申し分なくて、きっとあの子たちとも上手くやれると思っている。このひとに後を任せてしまおうか悩んでいたのだ。

 なかなか決めきれなくて、ずっと睨めっこしていたけれど、あたしは視線を逸らす。負けてもいいや。あたしが勝つことよりも大事なことがあるのだから。


「……ありがとうございます。勇気が出ました」あたしは微笑む。「このひとに決めます。すぐに連絡はつきますか?」

「ああ。面談ももう終えているから、このまま採用すれば、明後日には来てくれるだろうな」

「早いなあ」


 それは、思ったよりもずっと近い将来で、あたしは力なく肩を落とした。

 寂しいと思ってしまう。

 あくまであたしは臨時なんだから、しょうがないんだけど。


「遅いくらいだ。君にはずいぶんと助けられた」イガラシ首長は言う。「オオサカからは早く君を返せとせっつかれている。後任が決まったならすぐにでも帰すよう圧力をかけられていてな」

「あいつ、あたしがいないとなんにもできないんで」

「君は優秀だからな。本当によくやりとげてくれた。臨時の世話係《シッター》だったのに。首長補佐であった君が、いきなりこんな仕事をすることになるなど、思ってもみなかったろうに」


 あたしは「それ、貴方が言います?」と苦笑した。イガラシ首長は少しだけ笑った。このひとがこんなに心を開いてくれたことは、あたしにとっての誇りかもしれない。


「でも、違うんです。あたしもあの子たちといて楽しかったし。そりゃあ毎日くたくたになるほど大変で、このクソガキって思ったことは一度や二度じゃないけど……でも、帰るのが惜しくなるくらいには、あの子たちが好きだったから」

「彼らもそう思っているはずだ」

「すぐに忘れますよ」あたしは苦笑する。「あの子たちがあたしを慕ってくれる気持ちは本物でも、一緒にいた時間なんて、あの子たちがこれから生きる時間に、すぐに押し流される。そういうものでしょう」


 寂しいけれど、そういうものだ。

 きっと彼らは次の世話係(シッター)にすぐに懐いて、あたしよりもそのひとのことを大好きになる。それがちょっとだけ悔しくて、でも、彼らのためになることなら、あたしはそれでいいのだ。

 あたしもきっと、彼らとすごした時間を遠い記憶のように感じるようになって、そういえば、騒がしくてかわいい子供たちがいたんだよな、とたまに思い出すくらいになる。それでいいと思う。


「……でも、さすがにゴローさんよりかはあたしのことを思い出してほしい」

「比べるまでもないと思うが」

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