第20話 地の塩や世の光でなくとも(5)
そんなこんなで、後任の世話係が決定し、とんとん拍子であたしの帰る日も決まった。
明日である。
あの子たちにも、「そのうち帰る」「いつかは帰る」と口酸っぱく伝えていたけれど、まさかこんなに呆気なく、突然に、決まってしまうとは。
イガラシ首長との話を終え、窓の外を見た。どんよりと汚れた空の光は、猿山のある皇居跡を白ませる。影の落ちるころには空気もすっかり冷えていて、火がなければ足元も見えないような夜が来るのだ。
朝を迎えれば、あたしはトウキョウを発つことになる。
その日の夜、ニィナが枕を持って、あたしの部屋を訪れた。
荷作りをしていると、小さくノックが鳴って、「ジュリー、トイレについてきて」という声が聞こえてきたのだ。
蝋燭の火灯りだけが揺れる暗闇の中、よくもまあこの部屋まで辿りつけたものだ。チルドレンは夜目も利くから怖くないのかもしれないけど、あたしは今でもたまに、おばけとか出そうだな、なんて思ってしまう。
あたしは荷作りをやめ、部屋の扉を開けに行った。開けた途端、枕に顔を埋めるニィナが見えた。トイレに行くのになんで枕。しかもニィナは一人でトイレに行ける。
あたしは呆れつつ首を振った。
「一人で行きなさい」
「やだ」
「やだじゃないの。あたしは荷作りがあるから」
「怖いの、お願い」
「本当に怖いならここまでだって来れないでしょ」
「じゃあ、ご本読んで。眠れないの」
「本だって自分で読めるじゃない」
「お願い、ジュリー」
うるうるとニィナはあたしを見上げ、ちょいっとあたしの服の裾を摘まんだ。
それでも、あたしは「だめ」ときっぱり断った。
ニィナは抱きしめていた枕にそっと額を擦りつける。真ん丸な瞳は見えなくなった。ただ、これまで見たなかで一番綺麗な真っ青が、涙に濡れていたような気がした。それは気のせいではなかった。
「……きらきらの唄を歌って。一緒に寝て」ニィナは涙声になる。「それがだめなら帰らないで」
ニィナが本当に言いたかったのは、きっと最後の言葉なのだと思った。
火に照らされるつむじを見下ろしながら、あたしの胸は痛む。
あたしは、この子を、こんなにかわいい子たちを、置いて行くんだ。あたしをこんなに慕ってくれる子を、放りだしてしまうんだ。
心の片隅で、帰りたくないなあ、なんて思ってしまう。あなたたちがこれからどんな未来を生きていくのか、すぐそばで見守っていたい。
でも、そう思うだけだ。あたしはニィナのお願いを聞いてはあげられない。
あなたたちはきっと、これからたくさんの初めてと出会うだろう。出会いと別れを繰り返すだろう。そうして少しずつ大人になって、この世界を生きていく。あたしはそれを祈っている。
あたしは小さく笑って、ニィナと目を合わせた。
「おいで。一緒に寝よう」
ニィナはきゅっと口を縛って、その眉を震えさせた。お願いが叶わなかったのだと悟ったから。
けれど、ややあってから力なく笑って、あたしのベッドへと潜りこむ。あたしもそれに続いた。荷作りなんて、明日の朝やればいいのだ。
枕を二人で半分こすれば、微睡の香りがした。
あたしはニィナの頭を撫でながら歌う。
「きらきらリトルスター 夜空のエレメノピー」
「瞬きしてる あなたを見てる」
その細い髪を耳にかけてやる。ニィナはくすぐったそうに目を細めた。次第にその目は瞼の奥に隠れていって、あたしたちは身を寄せ合いながら、蕩けるように眠りに就いた。
「ジュリ、お久~。二ヶ月にもわたるバカンスはどないやった~?」
トウキョウ出立の朝。警視庁本部跡のヘリポートで、河豚みたいな機体のヘリを背景に、トカゲが陽気に手を振った。電話口ではあんなだったくせに、会うとこれだ。
あたしは「バカンスなわけあるか」とツッコんだ。ちょっと小突いただけなのに、トカゲは大袈裟に「ひんっ」と悲鳴を上げた。
「気持ち悪い声出すなや。どつくぞ」
「もうどついてるだろ」トカゲは肩を竦めながら言う。「そんな調子でよくチルドレンの世話係なんてやれてたよな。大丈夫? 恨まれたりしてない? やんちゃくれに拍車がかかって、トウキョウだけじゃなくてオオサカの支配まで目論むようなクソガキになってない?」
「クソガキの域超えてるでしょ。あたしはそんなふうに産んだ覚えも育てた覚えもないわ」
「そりゃ産んどらんやろ」
軽口を叩き合っていると、イガラシ首長が「元気そうだな、トカゲ殿」とトカゲに声をかける。
「お久しぶりです、イガラシ首長。ジュリがお世話になりました」
「世話になったのはこちらのほうだがな」
「わかります。俺もジュリにはお世話になりっぱなしなんで」
「チルドレンの次はこの男か。君も大変だな、ジュリ補佐」
「お気遣い痛み入ります」
ちなみに、この場にあの五人の子供たちはいない。朝食のあと、別れを惜しむ暇もなく、彼らは電熱発電のために鬼ごっこへ出かけたのだ。散々っぱら別れを意識してきたぶん、いざそのときになるとあっさりしたものだった。
トカゲと二人でヘリに乗りこみ、イガラシ首長に手を振るりながら、あたしはトウキョウを発った。窓からその街並みを眺める。数時間もすればオオサカだ。
「……で、空気清浄機の製造はできそうなの?」
「時間はかかるだろうな。材料も馬鹿にならない。すでにこの世にない素材は代わりになるものを探す必要があるし」
「おまけに試作段階だもんね、トライアルアンドエラーは絶対だ」
「ま、ジュリがいないあいだサボってたわけじゃないからな。七連との共同開発ってことで、一応目処は立ってる」トカゲは睥睨した。「ていうか、この前イガラシ首長と電話したとき、繊維事業について興味があるって言われたんだけど。話が上手く進んだら、チルドレンの毛髪とうちの繊維を練りこんだ雨傘が開発されるかもしんない。突然すぎるだろ。どうしてそうなった。お前、あのイガラシ首長をどうやって口説き落としたんだ」
「よかったじゃない、自分の補佐が優秀で」あたしはにやりと笑ってみせた。「あたしも、あんたがいないあいだサボってたわけじゃないってことよ」
あたしはオオサカの首長補佐だ。首長であるトカゲのサポートが仕事だ。
大地も海も空も汚れたこの世界で、それでも生き抜くため、あたしがそうやって成すことは、もしかしたらイガラシ首長の言ったような大志になるのだろうか。
誰かのためにしているわけじゃない。もしかしたらトカゲのためかもしれないし、もちろんあたしのためでもあるが、世界をよりよくしようだとか、そんな大それたことは考えちゃいない。ただ、あの子たちが将来どんなふうに生きていくのか、それを見届けられるような世界になればいいと、つくづく思うのだ。
「はあ。オオサカに帰ったら仕事が溜まってるんだろうなあ」
「いっぱい用意してるで」
「してるなや。臨時の補佐はどうしたのよ」
「一夕一朝でジュリの代わりが務まるかよ。さ、まずは治水問題からだ。次の七連の会議で、シガにがつんと言ってやるぞ」
「原稿できてんの?」
「まだ。お願いジュリ、助けて」
「この男はほんまに……」
そのとき、がくんと機体が揺れる。
気流に巻きこまれたにしてはあまりに大きな振動。機体の傾きはいっそ旋回と言えた。突然のことに「なんやなんや」とトカゲが目を瞬かせる。
「大変です!」すると、運転席から声が上がった。「制御不能! ヘリが言うことを聞きません!」
あたしとトカゲの「はい?」という声が重なる。
オオサカへと向かっていたヘリは、急な旋回のあと、来た道を引き返していく。
「ちょ、なんでよ! そっちはトウキョウよ!?」
「わかりません! 機体が勝手に!」
「まさか故障か?」
「にしては動きが安定してる。いったいどうなってんの?」
運転席からは焦る声と息遣い。どれだけ機械を叩いても、うんともすんとも言わないのだ。なんで急にこんなこと。
あたしが瞠目していると、トカゲが「あ」と漏らした。
ちょいちょいと上着の裾を引っ張られて、あたしは顔を上げる。
トカゲはもう片方の手で、窓の外を指差していた。視線を遣ると、窓の向こう、快晴の上空に——彼らはいた。
航空機にも劣らないジェットエンジン。ぎゅうぎゅうに犇めきあう五人の体さえも支えて、広い空を飛んでいる。フライトジャケットを着て、寒そうに首を竦ませる少年。かわいらしい水兵さんの格好をした少女。色違いの髪を持つ双子。そんな彼らをまとめて抱きかかえる、覆面を被った大柄な少年。
度肝を抜くあたしに、彼らは手を振っていた。ヘリが彼らの隣を通過する間際、文字の書かれた一枚の画用紙を、みんなが掲げる。
あたしは目を凝らした。
『これからも遊んでジュリー!』
それはニィナの字だった。
手も足も出ずに彼らを見送ったとき、その真ん丸な瞳が淡く発光していることに気がついた。神の悪戯。神がかりな御業は、彼らの仕業だ。悪戯なんて言うけれど、そんなかわいいものじゃない。悪戯の範疇を越えている。
運転手もトカゲもぽかんとしていたが、ややあってから、トカゲは爆笑した。あたしはあたしで、笑いたいんだか怒りたいんだか自分でもわからなくて、口角が引き攣っていた。
ややあってから、天秤が傾く。
あたしは肩を震わせながら、怒声を張りあげる。
「こんの、クソガキぁああああ!」




