始動
「ただいま戻りましたー」
誰もいない医師の詰所に、自分の声が響いた。
いつもなら誰かしら作業をしているのだが、今は無人。
空調の音だけが規則正しく聞こえてくる。
自分のデスクには戻らず、そのままちょっとした休憩スペースのソファに腰掛けた。
心地よく体重を受け止めてくれるソファに身を預け、俺は今回の騒動に考えを巡らせた。
──きっかけは、病院の評判をチェックするためにインターネットを巡回していた職員が見つけた掲示板だった。
地元の玉石混交の情報が書き込まれるその掲示板の「病院」カテゴリーに、「SZK病院の医師に気をつけろ。遊ばれる」とのトピックがあったのだ。
いまひとつ盛り上がりに欠けるトピックではあったものの、一つ二つ「私も(卑猥なワードのため非表示)」「このアプリにいるww→」と気になるコメントがあったため、報告してくれたそうだ。
病院のホームページ(医師紹介欄。写真は載せてなくてよかった)のアクセス数が増えているとも聞き、「なんか怖いねー」なんて話していた頃……
俺が外来に出ているときにちょっとした騒ぎが起きたのであーる。
・・・
「はいこんにちはー。お待たせしてすみません」
その日最後の患者さん。
いつもながら予約人数超過の患者さん対応の終わりが見え、俺も周りのスタッフも気が緩んでいたときだった。
おずおずと診察室に入ってきたその女性は、丸椅子に座り、じっと俺の顔を見つめてきた。
「えと、……待つのに疲れましたよね、申し訳ないです……」
「…………………………」
あ、緊張してるのかな?
ひたすら続く沈黙に、『主訴なんだっけ?』とカルテを見た瞬間、女性が掠れた声で言った。
「…………あの、あなたが……すずきとうま先生?」
「え?うん、そうだけど……」
あまり聞かれない質問に少々驚きつつ、胸ポケットに下げてあるIDカードを見せた。
それをばっと手に取り、カードと俺を照合するように何度も何度も視線が往復する。
引っ張られたカードの紐が首に食い込み、ちょっと痛い。
「あの……?」
「…………………………」
女性の手からカードがパサっと落ちた。
彼女の目にみるみる涙がたまり、ダムが決壊するように大粒の涙が瞳からこぼれ落ちた。
『わ、大丈夫ですよ〜。ここ病院だからねー。どこが痛みますかー?』
急展開に驚きつつ、イスを寄せて顔を覗き込んだ。
そばにいた看護師がティッシュ箱を差し出してくれ、涙をぬぐってやる。
『やっぱり!違う!!おかしいと思ってた!!!!』
更にわんわん泣き始めてしまった女性。
「「…………………………」」
そばにいた看護師や何事かと様子を見にきた看護師たちに『違う泣かせたの俺じゃない』と首を振りながら、しがみついてきたその女性が泣き止むまで、ずっと抱きしめていたのだった……。
・・・
『斗真、くれぐれも俺がなんとかしてやろうなんて考えるなよ』
副院長室を出る時に兄からかけられた言葉を思い出す。
『……と言っても無駄だろうが……』
『私もそう思います……』
同意を示したがっちゃんのため息が聞こえる。
煌々と光るスマホの画面をタップ、スクロールして目的のアプリを見つけダウンロード。
マッチングアプリをダウンロードするなんて俺のポリシーに反したが、この際仕方ない。
『withというマッチングアプリで知り合ったんです…。医者で、この病院で働いてるって言ってて…』
あの女性が話してくれたことを思い出しながら、「自分情報」をテキトーに入力していく。(何これ?嘘つきたい放題じゃん、意味あんの?)
全ての入力を(テキトーに)終え、「はじめる」のボタンをタップすると、画面に「ようこそ!」の華々しい文字が現れた。
『'すずきとうま'って言ってたんです…。立場が複雑だから、自分とのことはあまり人に言いふらさないでねって…』
──懐疑心に苛まれつつも、受付で暴れることもなく、冷静に診察室に入ってきてくれたあの女性に感謝した。
信じていた人に裏切られているかもしれないのに、自分の目で確認しにきたのは立派だと感じた。
「……女を泣かす奴は男の風上にもおけねぇよ」
苦々しい思いでアプリを進めた。




