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魔女のお話  作者: seara
3/9

母さんが起きる

女の子はクロヒョウのローブをそっと戸棚に仕舞いました。

クロヒョウの毛並みは整い、目玉も澄んでいます。

これなら母さんに叱られずに済むはずです。


戸棚の扉をそっと閉めるとガラス扉に女の子の顔が映りました。染めた髪は黒く、瞳は金色にキラリと光りました。

この小屋には鏡はありません。魔女は鏡に映らないので母さんには鏡はいらないのです。そんな無意味なものはこの小屋には必要ないのでした。

女の子はガラス扉に映った姿に小さな声で話しかけました。


『こんにちは。扉の中のお友達。』


扉の中のお友達は返事を返しません。それでも女の子が話しかけるとにっこりと嬉しそうに笑います。女の子にとってはたった一人の大切なお友達なのです。

本当はもっとゆっくりと話したいのですが、女の子には時間がありません。

母さんの為に食事を作るのです。


商人から買う黒パンを薄くスライスして母さんの為に用意します。

女の子は黒玉葱を薄く切って、調理鍋で長く炒めました。黒玉葱がしんなりしてきたら、調理鍋の中に水瓶の水を注ぎます。澄んだ水面がゆらりと揺れ、やがて底から細かな泡が立ちのぼります。

戸棚から、母さんが森で摘んできた“黒い実”の乾いた房を取り出します。戸棚を閉めるときには鏡の中のお友達とそっと笑いあいました。“黒い実”を指でほぐすと、ぱらぱらと小さな粒がこぼれ落ち、まるで夜の欠片のように黒く光りました。


ひとつまみを鍋に落とすと、水は瞬く間に色を変え、深い墨色へと沈んでいきます。底が見えそうで見えない、調理鍋の中を木の匙でぐるりとかき混ぜました。

火に温められた香りは、ほんのり甘く、どこか土の匂いを含んでいて、胸の奥をほっと緩ませるものでした。


女の子は鍋の横に置いてあった小さな鉄串を手に取り、黒豚の肉をひとかたまり刺しました。

火に近づけると、じゅ、と控えめな音がして、肉の表面がゆっくりと汗をかき始めます。


脂が溶けて滴り、薪の火に落ちるたび、ぱちりと明るい火花が跳ねました。


その香りは、黒パンの素朴な匂いとは違う、濃くて温かい、どこか安心する匂いでした。


肉の端がこんがりと色づき、薄く焦げ目がつく。

女の子は串をくるりと回し、均等に火が通るように慎重に炙ります。

焼けた脂が照りを帯び、表面がぷっくりと膨らんだ瞬間、女の子の喉が小さく鳴りました。


女の子は肉が嫌いでした。

でも、文句なんて言いません。女の子は役立たずで母さんに食べさせて貰っているのですから、母さんの用意してくれた食材に文句を言うなんで恩知らずなことはできません。


女の子が漏らした音は、薪の音に紛れて誰にも届きません。

炙り終えた肉を切ってテーブルの上の皿に移したとき、日が今日の最後の光を投げかけながら森の奥に沈み、母さんが目を覚ましたのです。

母さんが目を覚ました瞬間、小屋の空気がわずかに震え、母さんが起きたことを女の子に教えました。

女の子は黒豚の肉を皿に移した手を止め、そっと振り返りました。


部屋の暗がりの中から長い黒髪を引きずるように母さんが現れました。

その瞳は、夜の底のように深く、光を吸い込むように黒く、そして不機嫌でした。


女の子の金色の瞳とは、まるで対照的でした。


母さんはまだ完全には目覚めていないのか、足取りはふらつき、影のように静かです。

魔女は日が沈むまで眠る――それがこの家の決まりなのです。


女の子は慌ててスープ鍋の蓋を開け、黒い湯気を立ちのぼらせました。

『母さん、食事の支度が出来ました』

母さんの前に差し出された黒い湯気は、まるで夜そのものが鍋から立ちのぼっているようでした。

女の子は背筋を伸ばし、皿と鍋を整え、息をひそめて母さんの反応を待ちます。


母さんはゆっくりと顔を上げ、黒い瞳を細めました。

眠りから覚めたばかりの魔女の瞳は、いつもより鋭く、そしてどこか獣のように光っています。


長い黒髪が床を擦り、影のように揺れました。

その動きに合わせて、小屋の空気がひやりと冷たくなります。


女の子は思わず息を呑みました。

母さんが不機嫌なのは、眠りが浅かったからなのか、それとも――。

『母さんのお気に入りの帽子とローブは戸棚に仕舞ってあります』

問われてもいないのに女の子は母さんに言いました。

『あれがあたしの気に入りだって、あたしが言ったのかい?』

母さんの声は不機嫌でした。

『いいえ。言っていません』

それは本当でした。母さんが新しい帽子とローブを気に入ったと言ったことは確かになかったのです。

『役立たすの馬鹿な子が、いつからあたしの気に入りを決めれるほど偉くなったんだい』

母さんはムシャムシャと炙り肉を食べながら女の子を叱ります。

『……ごめんなさい、母さん』


女の子は小さな声で言いました。

けれど母さんは聞こえていないのか、聞こえていても無視しているのか、黒豚の肉を噛みちぎりながら続けます。


『役立たずのくせに、気を利かせたつもりかい。笑わせるねぇ』

黒パンと黒いスープをごくごく飲みながら、続けます。

『ヘキセンバルトじゃ、今どきクロヒョウのローブなんて流行遅れなんだよ。愚図が何にも言わないものだから、あたしはアイゼンハルトに笑われちまったよ。養ってやってるのにさ』


母さんは黒パンを噛みちぎり、黒いスープを喉に流し込みながら続けました。

その声は、薪の火よりも冷たく、黒豚の脂よりも重たく、女の子の耳に落ちていきます。


女の子は、ただ俯いていました。


ヘキセンバルトの流行なんて、知るはずがありません。

森の奥の小屋で、母さん以外の誰とも会わないのですから。

でも――母さんが恥をかいたのなら、それは自分のせいなのです。


『……ごめんなさい、母さん。わたし……』


言いかけた言葉は、母さんの鋭い舌に遮られました。


『謝るくらいなら、最初から気を利かせなきゃいいんだよ。役立たずが』


女の子の喉がきゅっと縮みました。


母さんは食事を終えると、女の子に残りを食べていいと言いました。

『あたしは寛大だからね。愚図には食事をする資格なんてないんだけど。無駄にするんじゃないよ。役立たずを養うためには硬貨一枚だって大事なんだ。あたしは優しすぎて厳しくできないから駄目なんだね』

本当にそうなのです。だから、女の子は好きではない肉も飲み込むように食べきりました。女の子は肉が苦手な上に母さんの食事の後で冷めた脂は喉の通りが悪かったのですが。


『あたしはもっと新しい帽子とローブを買わないと。愚図がちゃんと教えた通りに薬を作れりゃいいんだけど。あたしが作りゃすぐ稼げるんだけど、馬鹿を教えないといけないから時間がないしね』

母さんのいう通りです。もう母さんが恥をかかないようにしないといけないのです。だって、母さんは腕の良い魔女なのですから。

『ごめんさい、母さん。もっと一杯作れるように頑張ります』

『役立たずが頑張っても知れてるけどね』

そう言いながら母さんは、愚図にやらせるのは心配だけど…と腹痛止め薬とやけどの塗り薬と傷薬を作るように指示しました。やっぱり効きすぎないようにと言うことも忘れません。

『今日はいつもの集会にしよう。新しいローブを買ったら着れないから皆にクロヒョウを見せておこうかな』

やや機嫌を直して、母さんは黒い空に飛び立ちました。

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