7 知らないあなた
使用人たちに尋ねてみると、どうやらフロストは毎晩あのように外で瞑想をしているらしい。彼と話をするなら絶好の機会だと、リリーフィアはその夜も庭園に出ることにした。
庭園を歩いていると、先日と同じ場所にフロストの姿があった。上着を肩にかけるように羽織り、背筋を伸ばして腰かける彼は、目を閉じたまま微動だにしない。この世のものではないと畏怖を感じるほど美しい彼に声をかけるのは躊躇われたけれど、ここで引いていては何も変わらないままだ。
「フロスト様」
呼びかけると、彼は瞼をゆっくり開き、彼女を捉えた。一切驚いていない様子を見るに、もしかしたら彼女が近づいていたことに気づいていたのかもしれない。
「リリーフィア。今夜も眠れないのかな」
「いいえ。今夜は、フロスト様とお話をしたくて参りました」
「私と? それは嬉しいな。こちらへおいで」
彼に促されて隣に腰を下ろすと、彼は近くの籠からショールを取り出して彼女の肩にかけてくれた。彼の方が薄手で寒そうなのに、彼は平気な顔をしている。
「何か、気になることでもあったのかい?」
リリーフィアが考え込んでいるのを見ながら、彼は尋ねる。
「はい。王宮図書館へ行った際、古い文献をいくつか読んだのです。〈夜の世界〉について、気になったものですから」
そう告げると、彼は微かに動揺を見せた。じっと彼の顔を見つめていた彼女だからこそ、その微かな間に、彼の表情から何かが消えたように感じたのである。
「〈夜の世界〉、か。色々な話があるよね。実際にそれが何なのか、確かめようのないことばかりだけれど」
「そうなのです。書物によって書かれていることが違っていて、どれを信じればいいのか分からなくなってしまいました」
「古い時代の記録は、書き残した人の考え方にも左右されるからね。一つの記述だけを鵜呑みにしない方がいいよ」
彼の声にはいつもの落ち着きがあり、表情にも不自然なところはない。だが、リリーフィアは小さな引っかかりを覚えた。
「フロスト様は、〈夜の世界〉について詳しくご存じなのですか?」
「詳しいというほどではないよ。王家に連なる者として、一般的な知識を学ぶ必要があっただけで」
「では、境界が弱まると、こちらの世界にも何か影響が出るという話は……」
「そうした話はよく耳にするね。ただ、現在の状況と照らし合わせてみても、どこまでが事実なのか判断するのは難しいと思う」
「境界を維持するための盟約についても、でしょうか」
そう問いかけた途端、彼女に向けられていた彼の視線が一瞬だけ零度に冷えた。月明りの下で光を帯びているように見える蒼い瞳に見つめられ、彼女は目を逸らしたくなったが、何とか堪えて見つめ返す。
「……その話は、どこで知ったんだい?」
「図書館にあった古い研究書です。境界を維持するために王家では儀式が行われていて、過去には数名境界に捧げられた方がいる、と書かれていました」
彼女は言葉を選びながら説明した。彼は彼女の話を遮ることなく聞いているが、その微笑みが段々と空虚なものになっているような気がした。
「その盟約は古のものだろう。当時の人間が話に手を加えている可能性が高い」
「それでは、実際に誰かが向こう側へ渡ったというのも、確かなことではないのでしょうか」
「そうだね。断定するのは難しいと思う」
そこで彼は、そっと微笑んだ。
「リリーフィア、あまり根を詰めない方がいい。難しい書物を読み続けていると、分からないことばかりが気になってしまうからね。今夜はもう遅いし、身体を冷やさないためにも休んだ方がいいんじゃないかな」
彼がこの会話を終わらせようとしているのだと、すぐに分かった。それが分かったからこそ、彼女は彼の言葉に従わず、まっすぐと蒼い瞳を見つめ続ける。
「フロスト様が〈夜の世界〉についてお知りになったのはいつ頃なのですか?」
「随分前のことだよ。ほら、他にも気になることがあるなら、知り合いの研究者に話を通しておこうか? 私に尋ねるよりも、きちんとした説明を聞けると思うよ」
リリーフィアの肩にかけられたショールを整えながら、彼はそう言った。これ以上自分に尋ねるなと、言外に圧をかけられているように思える。それでも負けじと、彼女は話を続けた。
「フロスト様ご自身は、どう思っていらっしゃいますか?」
「私が?」
「はい。書物に書かれていることが正しいかどうかではなく、フロスト様がどうお考えなのか、知りたいのです」
彼の瞳からはどんどんと色が失われている。綺麗な形に作られた口角は、恐怖を感じるほど完璧に整っていた。
「……私の考えが、君の何かの役に立つとは思えないけれど」
「そんなことはありません。わたくしは、フロスト様のお話を聞きたいのです。〈夜の世界〉についてだけではなくて……その、フロスト様が何を考えていらっしゃるのか、何を大切にしていらっしゃるのか、そういうことも」
〈夜の世界〉についてなんて、ただ話題を作るための手段でしかなかった。それが思っていた以上にフロストと関係がありそうで、食い気味に話を聞きたいと思ってしまう。
「図書館で、アルヴィス殿下にお会いしたのです。殿下は、フロスト様は何も望んでいないわけではなくて、ただ、人に頼るのが苦手なのではないかと……そう、仰っていました」
アルヴィスの名を出すと、彼の表情が強張った。驚いたのか、それとも何か別の感情がよぎったのか、彼女には判断する術がない。しかし彼の瞳から、微かに残っていた柔らかささえも消えてしまったことは分かる。
「アルヴィスと、そんな話をしたんだね」
「はい。……昨夜フロスト様が仰っていた、ご家族に何かを期待することをやめてしまったというお言葉がずっと忘れられないのです。話したくないことでしたら、無理にとは申しません。ただ、わたくしは……」
あなたの妻だから。喉元まで出かかった言葉を、どうにか飲み込む。
「わたくしでよければ、フロスト様のお話を聞かせていただけませんか」
言い終えると、フロストは目を伏せた。自分の言葉が少しでもいいから彼に届いていますように、と彼女は願ったが、しばらくして顔を上げた彼は、彼女が想像していたものとは違う言葉を口にした。
「リリーフィア。君は私のことを気にしすぎているのだよ。私は君に、何かを話さなければならないとは思っていないんだ。家族のことも、過去のことも。今の私にとっては、わざわざ君に聞かせるような話ではないからね」
「で、ですが……」
「何度も言うけれど、私は君がこの家で穏やかに過ごしてくれれば、それで十分なんだ。私のことを気にかけてくれるのは嬉しいけれど、君が私のために何かをしようと頑張る必要はないよ」
また、その言葉だ。これまで何度も聞いてきた言葉。ここで引き下がるべきだったのかもしれないが、もう少しで彼の本音が聞けるかもしれないと欲を見せてしまった。
「……わたくしは」
自分は彼の役に立ちたいのだろうか。それとも、彼にとって特別な存在になりたいのだろうか。自分の気持ちに名前をつけることが怖くてずっと曖昧なままにしてきたものが、胸の奥で形を持ち始めている。
「フロスト様にとって、わたくしは……」
そこまで口にしてようやく、彼の手が膝の上で固く握られていることに気が付いた。手が白くなるほどに握り込まれていて、彼女は思わず息を止める。
「フロスト様……?」
「リリーフィア」
彼は低い声で彼女を呼んだ。その瞳には、必死に何かを抑え込んでいるような、何かを恐れているような、彼女には到底理解できないであろう感情が滲んでいる。
「君が、私のことを知る必要はない」
彼の声は、もう微笑みを含んでいなかった。
「私のことも、私が何を考えているのかも、君が知らなくてもいいことだ。君はただ、私の妻としてこの家にいてくれればいい。……それ以上のことを、しないでほしい」
リリーフィアは、言葉を失った。彼の言葉には、彼女を気遣うための柔らかさがない。彼女が踏み込もうとしている場所に、これ以上近づくなと告げるための、はっきりとした拒絶。
「君には関係のないことだよ」
彼女は瞬きも忘れたまま、彼を見つめていた。
彼は我に返ったかのように目を見開くと、彼女から視線を逸らし、表情を整えるように唇を引き結んだ。
「……すまない。言い方が良くなかったね」
いつもの声色に戻そうとしているのだろう。でも、彼と彼女の間には、決して越えられない壁が作られている。
「君を責めるつもりはないんだ。ただ、私が自分のことを知られたくないから、これ以上私のことを気にかけないでほしいと伝えたかっただけで……」
「いえ」
リリーフィアは小さく首を振った。何かを言わなければと思うのに、喉が上手く動かない。きっと今の彼の言葉は、彼が抑え込んでいた彼女に対する思いなのだろう。
「……申し訳ありませんでした。もう、尋ねません」
彼の瞳が彼女へ向いた。彼は何かを言おうとしたように見えたけれど、結局、何も口にしなかった。その沈黙が、会話の終わりを告げたのだ。
彼女は肩に掛けられたショールを外し、彼の隣に置く。
「ショール、ありがとうございました。とても温かかったです。では、おやすみなさいませ、フロスト様」
「リリーフィア……」
彼の顔には今、どんな表情が浮かんでいるのか。自分を拒絶する表情をもう一度見たくなくて顔を伏せたまま、一礼して足早にその場を後にした。




