6 〈夜の世界〉
人々が暮らすこの世界には、古くから伝わる言い伝えがある。
夜が深まり、月が天の高みに昇る頃、世界の境界は曖昧になる。それは目に見える現象ではないため、地上の人々が普段意識することはない。それは、世界そのものの仕組みに関わる変化であった。
この世界の外側には、もうひとつの世界が存在するとされている。人々はそれを〈夜の世界〉と呼んでいた。
そこがどのような世界なのか、正確に知る者はいない。古い文献には、一切の光が届かず、静寂に満ちた世界だと記されていることが多い。そこには地上とは異なる理があり、生きた人間が本来の姿のまま長く留まることはできないとも伝えられている。
〈夜の世界〉が人間の住む世界から完全に切り離されているわけではない。二つの世界を隔てているのは、目には見えない境界である。その境界が存在することで、人々は日々を何事もなく過ごし、朝が来れば太陽を仰ぎ、夜になれば月を眺めることができる。
しかしその境界は、永遠に揺るがないものではなかった。二つの世界は少しずつ近づいていて、〈夜の世界〉が地上へ向かって手を伸ばすように、境界の向こうからこちら側へと何かが滲みだしてくる。初めは人の目に見えないほどのわずかな変化であっても、それは徐々に人間達に悪影響を及ぼし始めるのだ。
◇ ◇ ◇
リリーフィアは、フローラント家から一通の手紙を受け取った。内容はごくささやかなものだ。父が王宮へ提出する書類に関して以前から親交のある文官へ確認したいことがあるらしく、もし王宮を訪ねる機会があればついでに彼へ伝言を届けてほしいという。急ぎの用件ではないため無理にとは言わないと添えられていたが、調べたいことがあって丁度王宮を訪ねようと思っていたところだ。
昨夜、フロストとの会話の中で、〈夜の世界〉について改めて知りたいと思ったのである。知識としてその名を知っているものの、詳しいことは何も知らない。もしかしたらあの夜の違和感は、〈夜の世界〉と何らかの関りがあるかもしれない。
王宮を訪れることについてフロストに話すと、彼はすぐに馬車と護衛を用意してくれた。
用事を終えた後、リリーフィアは本来の目的である王宮の図書館を訪ねた。
高い天井を支える白柱には、王家の紋章と古い時代の神話を描いた装飾が施され、壁一面に設けられた書架には無数の書物が並べられている。上階へ続く螺旋階段は書架の間を縫うように伸びており、所蔵されている書物がどれほどあるのか想像もつかないくらいだ。
リリーフィアは受付で身分を提示し、司書の案内を受けて、歴史や古代信仰に関する書物が集められた一角へと向かった。フロストが手配してくれていたようで、閲覧に必要な手続きは驚くほど簡単に済んだ。
彼女が求めたのは、〈夜の世界〉について記された文献である。司書は少し考えた後、一般向けの神話集だけでなく、王立学術院から寄贈された古い研究所に該当する記述があるかもしれないと教えてくれた。
「ただ、古い時代の記録は、同じ出来事でも書物によって表現が異なることが多いです。伝承として語り継がれてきた部分と実際の歴史として記録された部分とが混在しておりますので、いくつかの書に目を通された方がよろしいかと」
「わかりました。ありがとうございます」
リリーフィアは礼を述べ、案内された棚の前に立った。
最初に手に取ったのは、神話や伝承がまとめられた比較的新しい書物だ。〈夜の世界〉は、古代の人々が世界の果てに想像した異界として紹介されており、そこには光が届かず、死者が行き場を失って彷徨い、時間の流れも地上とは異なるといった一般的なことが記されていた。この程度の知識であればリリーフィアも持っているため、さらに詳細に書かれた書物を探すことにした。
次の一冊は、古い羊皮紙を用いた写本を後世の学者が読みやすい形に整理したもの。地上の世界とその外側に存在するとされる異界について、年代ごとの記述が並んでいた。文章は難しかったものの、興味深い説明を発見した。
〈夜の世界〉は、単に遠い場所にある異界ではない。地上の世界と隣り合いながらも、異なる法則によって成り立つ世界であり、両者の間には目に見えない境界が存在する。その境界が保たれている限り、二つの世界は互いに干渉することなく、それぞれの在り方を維持できる。しかし境界が弱まれば、〈夜の世界〉に属するものが地上へ影響を及ぼし、反対に地上のものが本来あるべき場所を失うこともあるという。
リリーフィアは夢中になってページをめくった。境界が弱まる原因として、特定の季節や星々の位置と関係があるとする説もあれば、地上の世界と〈夜の世界〉の均衡そのものに由来するという説もある。そのどれも決定的な証拠に乏しく、今もなお学者たちの間で見解は分かれているらしい。
さらに読み進めると、彼女の目に、ひとつの記述が飛び込んできた。
——古き盟約は、境界の均衡を保つために結ばれたとされる。その成立の経緯については複数の説が存在するが、いずれの記録にも、地上の世界に生きる者が異界との関わりを引き受けたことが示されている。
異界との関わりを引き受けた者。それは、〈夜の世界〉へ赴いた者を指しているのだろうか。それとも境界の向こうから何かが入り込まないように、地上で何らかの役目を果たした者たちなのだろうか。
文章はそこで終わり、詳しい説明は後世の記録に委ねられていた。
彼女はまた別の本を開いた。こちらは、王家の歴史と古い儀式について記された書物だ。王家が代々受け継いできた祭礼や、王族が担ってきた役割について、簡潔な説明が並んでいる。〈夜の世界〉についての記述もあったが、その内容は神話集よりも曖昧な表現が多かった。
ある時代には、境界の維持に関わる儀式が王家の重要な務めとして記録されている。また別の時代には、王族の一人が突如公の場から姿を消し、その後公式の記録からその名が消されたという記述もあった。その人物が消えた理由については明確に説明されていない。
姿を消した王族。境界の維持に関わる儀式。〈夜の世界〉との古き盟約。これらすべては恐らく結びついているのだろう。これらの記述はいくつもの書物に共通しており、単なる創作ではないということが分かる。
さらに奥の方から取り出した研究書には、儀式の一部として「境界の向こうへ捧げられた者」という表現があった。古代の人々が異界の存在を恐れ、世界の均衡を保つと称して生贄のようなものを捧げていたとしても、それほど不思議には思わない。書き手によっては、〈夜の世界〉に捧げられた者を「英雄」だと述べていることもある。
リリーフィアは、文字を指でなぞりながらしばらく考え込んだ。これがただの迷信ではなく事実だとしたら、世界を護るために誰かが〈夜の世界〉へ渡ったことがあるということだ。その人は、どうやって選ばれたのだろう。自らの望んだのか、それとも誰かに選ばれたのか。
研究書の最後のページに記されていた参考文献を確かめ、次に読むべき書物を探そうと考えた、その時。
「ずいぶんと熱心に読んでいるね。何を調べているのだい?」
背後から、穏やかな男性の声が聞こえた。リリーフィアは驚いて振り返る。
そこに立っていたのは、二十代後半ほどの青年だ。濃い金色の髪を整え、澄んだ青緑色の瞳を柔らかく細めている。整った顔立ちには気さくな笑みが浮かんでいるが、彼が纏う衣装と雰囲気は、一般の貴族とは異なる、自然と人の目を引く気品がある。彼の胸元には王家の紋章を象った徽章が留められていて、彼が王族に連なる人物であるということが分かった。
リリーフィアは慌てて立ち上がり、礼を取る。
「失礼いたしました。読書に夢中になってしまい、ご挨拶が遅れました」
「いや、謝る必要はないよ。ここは本を読むための場所なのだから。むしろ邪魔をしてしまってすまないね」
青年は気軽な調子でそう答え、彼女の前に開かれていた本へ目を向けた。
「〈夜の世界〉についての本か。珍しいものを読んでいるね」
「こちら、ご存じなのですか?」
「もちろん。王宮にある本なら、幼い頃から何度も目を通しているからね。もっとも、すべてを読めているわけではないのだけれど」
そう言って、彼は手を伸ばして本の表紙を確かめる。
「この辺りの書物は伝承と事実が混ざり合っているからかなり厄介だろう。何を事実と考えるかによって、同じ記述でも意味が変わってしまう」
「はい。読めば読むほど、分からないことが増えてしまって……」
思わず本音を零すと、青年は楽しそうに笑った。
「それは素晴らしいことだよ。分からないことが増えるということは、今まで知らなかった疑問を見つけたということだからね」
目の前の青年には、初対面の相手であっても自然に会話へ引き込んでしまうような、明るく親しみやすい雰囲気がある。話し方がどことなく似ているからだろうか、彼と話をしているとフロストの姿が思い浮かぶ。
「ところで、君は……」
青年は言葉を切り、リリーフィアの顔を改めてまじまじと見つめた。その視線に、少しばかり緊張してしまう。
やがて彼は何かに気づいたように目を見開き、それから先ほどよりも親しげな笑みを浮かべた。
「もしかして、リリーフィア・フローラント嬢かな?」
言い当てられ、彼女は驚きながら頷いた。
「はい。そうでございます」
「やはりそうか。いや、今はリリーフィア・アヴァランシュ公爵夫人とお呼びすべきだったね」
青年は少し申し訳なさそうに笑い、改めて彼女へ向き直る。
「失礼。私はアルヴィス・エテルナハトだ。君の夫であるフロストとは従兄弟という関係になるね」
リリーフィアは、思わず思考を止めた。
アルヴィス・エテルナハト。ここエテルナハト王国を名に持つ人物であり、この国の王太子である人物の名だ。人望があり、王族の中でも特に気さくで、身分の低い者や平民にも分け隔てなく接することで知られている。
もちろんリリーフィアは彼の姿を見たことがある。だがそんな人物がまさか自分の目の前にいるわけがないという確証のない自信から、その考えに至ることができなかったのだろう。
「ご挨拶が遅れまして、申し訳ございません。リリーフィア・アヴァランシュでございます」
「そんなにかしこまらなくても大丈夫だよ。私は、ただの『アルヴィス』としてここを訪れたのだからね。君が良かったら、座って話さないかい? 君に聞いてみたいことがあるんだ」
リリーフィアは戸惑ったものの、断る理由も見つからず、勧められた椅子へ腰を下ろした。アルヴィスも向かい側に座り、開かれた本へ視線を落とす。
「それで、どうして〈夜の世界〉について調べているのだい? 何か気になることでもあったのかな」
「……最近、〈夜の世界〉について書かれた本を読む機会がありまして、もう少し詳しく知りたいと思ったのです」
正直に昨夜のことを話しても良かったのだが、躊躇ってしまった。アルヴィスがフロストと親しいのか、それとも彼が距離を置いている親族の一人なのか分からないため、彼の名を出してもよいのかと考えたのだ。
「そうなのだね。こういった話に興味を持つ者はそれほど多くないのだけれど……ああ、この辺りの部分を見てご覧。世界を守るために誰かが何かを捧げたという記録を崇高な献身として扱う者もいれば、当時の人々が恐怖から作り上げた伝承だと考える者もいる」
アルヴィスは本のページをめくり、先ほどリリーフィアが目を通していた部分を指で示した。
「……どちらが正しいのでしょうか?」
「さあ、どうだろうね。古い時代のことだから、確かなことは分からない。ただ私は、こうした書に残っている情報だけで、そこにいた人々の気持ちまで決めつけてしまうのは如何なものかと思っているよ。当時の人々の考えは、結果だけを見ても分からないことだからね」
その言葉を聞いて、彼女ははっとした。彼の言葉は、古い記録に限った話ではない。断片的な情報だけで誰かを判断し、決めつけてしまうことは、避けなくてはならない。
優しい微笑みを浮かべるフロストの姿が思い浮かぶ。優しい微笑みという仮面で覆われた彼の内面は、一体どうなっているのだろう。彼の気持ちを勝手に想像して決めつけてしまうのが適切でないのなら、どうやって彼の心を知れば良いのだろう。
「アルヴィス殿下は、フロスト様と親しくしていらっしゃるのですか?」
思い切って尋ねてみると、アルヴィスは少し意外そうに目を瞬かせた後、ふっと笑った。
「そうだね。少なくとも私は、彼を大切な従弟だと思っているよ」
その答えには迷いがない。だが彼はわずかに視線を落とし、悲しそうに続けた。
「ただ、フロストは昔から一人でいることを好み、あまり人に頼ろうとしない男だったからね。こちらが声をかけても、必要ないと言われてしまうことが多かった」
年の近いアルヴィスですら、フロストの心を溶かすことはできなかったのだ。リリーフィアが目を伏せていると、彼は明るい声で続けた。
「君は、彼のことを知りたいと思ってくれているのだね。ならば、彼に直接聞いてみたらどうだろう。誤魔化されてしまうかもしれないけれど、君になら何か明かしてくれるかもしれない。私から聞くよりも、本人から聞ける方がいいだろう?」
このままアルヴィスに色々聞いてしまいたいという思いは強いが、フロストの知らないところで勝手に聞いてしまおうとするのは心苦しい。やはり正々堂々と彼と話をして、彼自身の口から彼について聞きたい。
「フロストは、誰かに何かを求めることが苦手なだけで、何も望んでいない人間ではない。……もっとも、私が彼にしてあげられたことは、ほとんどないのだけれど」
過去を思い出していたのか、寂しさの滲む表情を浮かべていたアルヴィスだが、リリーフィアの決意溢れる顔を見て優しく微笑んだ。
「さて、私はそろそろ行かなくては。あまり長く引き留めてしまっては、君の調べものの邪魔になるからね」
「いいえ、とんでもございません。貴重なお話をありがとうございました」
「こちらこそ、君と話ができてよかったよ。もしまた王宮に来ることがあれば、遠慮なく声をかけてくれたら嬉しい」
彼は椅子から立ち上がり、軽く手を振ってから、図書館の出口へと歩いて行った。リリーフィアは、その後ろ姿が見えなくなるまで目で追う。
王太子という貴き人でありながら、気取ったところのない人だった。だがフロストの話題になった時の彼の表情は複雑で、色々な事情が絡み合っているということが伺えた。
先ほど決めたことを変えるつもりはない。たとえ彼に拒絶されたとしても、彼について知りたいと思う心は止められないだろう。




