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5 月明りの下

 

 リリーフィアはなかなか寝つけなかった。寝台に横たわって目を閉じても、フロストの顔が浮かんでしまい眠ることができない。


 親族たちの言葉から判断するに、彼と家族との関係も恐らくは良くないのだろう。彼は一体、どのような過去を抱えていて、今は何を考えているのか。問いかけても答えは当然出てこない。


 やがて、これ以上布団の中で考え続けていても眠れそうにないと諦めたリリーフィアは、寝台を降りて寝間着の上から厚手の上着を羽織った。いつもなら寒い夜に外へ出ようと考えることもないけれど、今夜は不思議と外に出たいと考えている。外の空気を吸いたかったのだろうか。


 扉を開けると、廊下はしんと静まり返っていた。夜番の使用人のものだと思われる靴音がかすかに聞こえてくるものの、リリーフィアの視界には誰もいない。彼女は音を立てないようにそっと歩いて、階段を下り、庭園へ続く扉へと向かった。


 扉を開けて外に出ると、冷たい夜風が頬を撫でる。その風が胸に積もっていたもやもやを払ってくれるような気がした。


 月明りの下の庭園は、昼とは異なる美しさを見せてくれた。白い花が月明りを帯び、星のかけらを閉じ込めたようにきらめいている。リリーフィアはその景色に見惚れながら、行き先を決めないまま歩いた。丁寧に整えられた植え込みの向こうには、屋敷の裏手へと続く小さな庭がある。そこは表の庭園ほど華やかではなく、古い樹木と季節の草木が自然な姿で残されている場所だ。何度か散歩したことがあり、彼女はその場所を好んでいる。


 裏手へ続く小径を歩いていた時、不意に木々の向こうに人影が見えた。夜番の騎士かと思ったが、その人影は庭園の奥にある東屋のそばに座り、微動だにしない。近づいてみると、月明りに照らされたその顔には見覚えがあることに気づいた。夜の闇に溶け込んだ髪が月の光を吸収しながら揺れ、淡い光が積もっているようにも見える。


 あの人影は、フロストだ。どうやら彼は、瞑想をしているらしい。背筋を伸ばし、両手を膝の上に置き、目を閉じてゆっくりと呼吸を繰り返している。冬の夜はとても冷えているのに薄手の装いで、いつもの礼装よりずっと簡素な衣服を纏っているものの、その姿は少しも無防備には見えない。まるで彼だけが、この世界から切り離されているかのようにも感じられた。


 月の光は彼の髪を銀糸のように輝かせ、伏せられた睫毛の影を頬に落している。端正な顔立ちからは普段の微笑みは消えていて、そこにあるのはただ研ぎ澄まされた美しさのみ。


 リリーフィアは、息をすることさえ忘れそうになった。夜の静寂の中にひとり身を置く彼の姿を見て、言葉にできない感情が込み上がってくる。美しいと思ったが、それだけではない。彼がひとりでいる時間を、偶然とはいえ自分が目にしてしまったことに対する罪悪感のようなものも芽生えていた。


 彼は深く集中しているのか、身じろぎひとつせず、静かにそこにいる。その姿を眺めていると、彼が自分の知らない場所で生きている人のように思えてきた。


 彼の心には、リリーフィアがまだ足を踏み入れることを許されていない場所がある。そこには家族も、仕事も、妻である彼女も存在せず、ただ一人何かと向き合っているのだろうか。彼が一人でいることに慣れている理由も、そこにあるのだろうか。


 ふと、彼の親族らの言葉が蘇ってくる。何を考えているのか分からない、何も求めない、勝手に物事を決めてしまう。彼らはそれをフロストの性格として語っていたけれど、そうした振る舞いは生まれつきのものではない、というのがリリーフィアの考えだ。きっと彼は、自分の心を誰にも見せないように包み隠すようになったのだろう。今の刻限は、彼にとってしがらみから解放される時間であり、孤独と向き合う時間なのかもしれない。


 リリーフィアは、無意識のうちに胸元を押さえていた。どうして、こんなにも悲しいのだろう。今のは全部彼女の想像で、事実であるかどうかは分からない。なにせ彼女は、彼のことについて何も知らないのだ。そんな自分が、彼に何かをしてあげられるのだろうか。彼が一人でいることを望んでいるのであれば、彼女は彼との距離間を保ち、遠くから彼を支えるべきなのではないか。


 それでも……。今の彼を見ていると、彼のそばにいないといけない、と自分の心が叫ぶ。このまま彼を一人にしてはいけないと、理由は分からないけれど、焦燥にも似た感情が溢れ出してくる。


 美しい彼の姿を眺めているだけではいけない。でも瞑想中の彼に声をかけることは憚れる。流石に、彼が己と向き合う時間を邪魔してはいけないだろう。ぐるぐると考えを巡らせていた、その時。


「こんな時間に、どうしたんだい?」


 不意に声をかけられ、彼女は驚いて小さく悲鳴を上げた。目を閉じていたはずのフロストが、いつの間にか彼女を見ている。月明りを映した蒼い瞳は例えようもなく美しい。彼は固まってしまったリリーフィアを見て、そっと微笑んだ。


「眠れなかったのかな」

「……はい。少し、外の空気を吸いたくなりまして」

「そうだったんだね。今夜は風が冷たいから、あまり長く外にいない方がいいよ」


 そう言いながら、彼は自分の隣に目を向ける。そして、ぽんぽんと隣を叩いた。


「よかったら、少し座っていくかい? 立ったままでは足も疲れるだろう」


 リリーフィアは悩んだ。これは、立ち尽くしている彼女を気遣ってくれたのか、それとも彼自身の望みから出たものなのか。どちらにせよ、断る理由はない。


「では……ご一緒してもよろしいですか?」

「もちろん」


 フロストは頷いて、彼女が腰かけやすいように身体の位置をずらす。リリーフィアは失礼しますと言って、彼の隣に腰を下ろした。


 二人の間には、子どもひとりが座れるくらいの距離が残されている。夫婦としては少しばかりよそよそしい間隔なのかもしれないけれど、この距離を無理に縮めようとしてはいけないのだろう。それに、この距離感であっても、隣に座る彼の存在はずっと近かった。


「フロスト様は、よくこうして瞑想をなさるのですか?」

「そうだね。夜は静かだから、考えを整理するにはちょうどいいんだ」

「何か、考えごとを?」

「色々とね」


 彼はそう答え、夜空を見上げた。それ以上詳しく話してくれるつもりはないようだ。


 リリーフィアは膝の上で指を組んで、言葉を探す。せっかく二人きりで座っているのだから、何か話をしたい。しかし彼の一人の時間を邪魔してしまった上に失礼なことを尋ねてしまえば、彼にとっては迷惑この上ないだろう。


 考えて、結局彼女は、ずっと胸に引っかかっていた思いを口にすることにした。


「フロスト様は、ご親族様と……ご家族と、あまり親しくないのですか?」


 彼の反応を窺いながら、言葉が足りなかったと慌てて言い添える。


「すみません。立ち入ったことをお尋ねしてしまって。答えていただかなくても……」

「いや。君が謝ることではないよ」


 フロストは、彼女の言葉を遮るように首を振った。だがその後、彼は沈黙する。リリーフィアは彼を急かさないよう、彼の言葉を待った。


 夜風が二人の間を通り抜け、木々の葉を揺らす音が聞こえる。月明りの下で、彼の横顔には濃い影が落ちていた。


「家族だからといって、必ずしも心を通わせられるわけではないんだ」


 やがて、フロストは口を開いてそう言った。


「血が繋がっていることと、互いを大切に思えることは、別の話だからね」


 その声は穏やかだけれど、感情が一切込められていないことが伝わってくる。ただ淡々と、事実を話しているだけなのだろう。


「私の家族は、私を愛してなどいないよ」


 あまりにも声色が変わらなかったからこそ、その言葉が胸に鋭く突き刺さった。彼はただ、月を見上げたまま普通のことのように告げたのだ。


「……どうして、そう思われるのですか?」


 問いかけてから、リリーフィアは自分がずいぶん踏み込んだことを尋ねているということに気づいた。彼の過去に踏み入るべきではないのかもしれないけれど、口にされた言葉がとても寂しくて、聞かなかったことにして話題を変えることなんてできない。


「どうして、か……」


 繰り返された言葉に、かすかな笑いが混ざる。それは少しも楽しげなものではなく、まるで何かを嘲っているような笑みだった。


「誰も私のことなど考えていなかったから、かな。私自身に関することを問われた記憶があまりないんだ。私が何をしようと何を言おうと、彼らにとって大切なのは私自身ではない。私が何を果たせて、どれだけ役に立つのか。そういうことばかりを考えていたように思う」


 リリーフィアは、彼の横顔を見つめた。彼の表情はほとんど変わらない。


「私にも至らないところはあったのだと思う。私自身、可愛げのない子だったと思うからね。私は、誰が悪いのかを決めたいわけではないんだ。ただ……」


 彼はそこで言葉を切り、視線を落とす。


「いつからだったかな。何かを期待すること自体、無駄なのだと思うようになったのは」


 彼の親族たちは彼のことを、何を考えているのか分からないと語っていた。何かを与えようとしても断って、勝手に物事を決めてしまう、と呆れたように笑っていた。あの言葉の真意は実は別のところにあって、彼が何かを求めても聞き入れてもらえなかったという可能性はあるのではないか。何度も同じことを繰り返すうちに、望むことも、期待することも嫌になって、諦める方が楽になってしまったのではないか。


 家族のことを語る彼は、彼らを憎んでいるようには見えない。ただただ無感情で、それが彼女にはひどく悲しく思えた。


「……寂しくは、ありませんか?」


 ようやく口にできたのは、そんな言葉だった。フロストは少し目を丸くして、それから困ったような微笑みを浮かべる。


「どうだろうね。もうとっくに、そういうものだと思ってしまっているから」


 彼はきっと、寂しくないのではなく、寂しいと感じることを止めてしまったのだ。


「わたくしは……」


 リリーフィアは膝の上で組んだ指に力を込める。あなたの気持ちを聞きたい、と伝えたいのか、あなたの望みを教えてほしいと言いたいのか。


 だがそれを口にしてしまうことは、彼が自分に何かを望んでくれることを期待するのと同じだ。自分には何も期待されていないのに、彼に期待してしまうのは良くないのではないだろうか。


「……わたくしは、フロスト様のおそばにおります」


 考えた結果、よくわからないことを言ってしまった。フロストは驚いたように彼女を見つめていたが、すぐに彼の目元が和らいで柔らかな雰囲気に戻る。


「ありがとう、リリーフィア。君は、とても優しいのだね」


 その声は、いつもよりも少し低く、優しかった。彼の微笑みを見ていると、リリーフィアの胸には言いようのないもどかしさが広がる。


 彼女は決して、優しい人だと思われたかったわけではない。彼が自分のことを、ただ気遣うべき相手として扱っているのなら、それだけでは足りないと考えてしまう。


 彼との結婚は『白い結婚』で、そこに愛はない。それでも夫婦なのだから、お互いに支え合いたいと思うのは間違いなのだろうか。





 しばらく、二人は並んで月を眺めていた。会話は途切れてしまったけれど、流れる空気は居心地の悪いものではない。


 心地の良い夜の静けさは、しかし夜が深まるにつれて少しずつ変わっているように感じられた。いつのまにか風が姿を消し、遠くから聞こえていた虫の声も聞こえなくなっている。


 リリーフィアは不思議に思い、空を見上げた。月は変わらず高い場所に浮かんでいるけれど、その周囲に広がる闇は、先ほどよりも濃くなっているように見える。星々の光が弱まっていて、夜空の向こう側に、何か底知れないものが広がっているように感じられた。


「……フロスト様」


 心細くなり隣に座る彼を見ると、柔らかな視線で彼女を見つめていた彼が、いつの間にか遠くを見つめるような表情に変えていた。彼の視線は、庭園の向こう、木々の更に先へと向けられている。リリーフィアもそちらへ目を向けたが、見えるのは夜に染まった木々だけ。彼女に見えていない何かが、彼には見えているのだろうか。


「そろそろ戻ろうか。身体が冷えてしまう」


 フロストは立ち上がり、リリーフィアに手を差し出す。その手を取って彼女も立ち上がったが、彼が見つめていたものが気になって、もう一度だけ夜空を振り返った。


「フロスト様。あの、なんだか変な感じが……」


 この違和感を彼も感じているのか問いかけようとしたが、彼の目に見据えられて言葉が詰まった。彼の瞳が冷たかったのは一瞬のことで、すぐに優しい色が戻る。


「気にしなくていいよ。きっと、夜が近づいているだけだから」


 その不思議な言葉に込められた意味を、この時のリリーフィアが理解することはできなかった。

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