4 アヴァランシュ家
翌日。フロストと朝食を共にして、自室に戻ったリリーフィアの元に、アヴァランシュ家の侍女であるツバキがやってきた。彼女は少しばかり言いにくそうな表情で、話しかけてくる。
「奥様。本日は、アヴァランシュ家の方々がお屋敷へいらっしゃいます」
公爵家の親族が訪れること自体、さほど珍しいことではない。先日もフロストの叔母と言葉を交わしたところだ。アヴァランシュの一員となったリリーフィアをよく知りたいと、彼らが訪問を望むのは自然なことだろう。ところがツバキの表情には、来客を迎えることへの緊張とは異なるものが浮かんでいるように見えた。まるで、何かを心配しているようだ。
「フロスト様は、ご親族様とあまり仲がよろしくないの?」
問いかけてみると、ツバキは困ったように眉を下げた。
「仲がよろしくない、と申し上げるべきなのかどうか……私にはわかりかねます。ただ、旦那様はご実家にいらっしゃる頃から、あまりご親族様と親しくしていらっしゃらなかったと聞いております。旦那様は……ご親族様に何かを期待することを、ずいぶん前におやめになったように思えるのです」
それは、リリーフィアが想像していた答えとは違っていた。彼が親族から疎まれているのなら、彼が誰にも頼らず生きてきたことにも説明がつく気がしていたからだ。公爵家当主という立場は、周囲から羨望を集める一方で複雑な思惑や嫉妬を招くこともある。彼の能力や立場が、親族の中で何らかの軋轢を生んでいたとしても不思議ではない。
だが、期待することをやめたというのは、疎まれることよりもずっと寂しいことのように思えた。期待することそのものを諦めてしまったなら、相手に何を言われても、何をされても、もう心を動かされることすらなくなってしまうのではないだろうか。
ツバキの言葉だけで、フロストとその家庭の間に何があったのかを決めつけることはできない。彼は自分のことをちっとも語ろうとしないし、リリーフィアが知っている彼の姿はほんの短い時間で見たものに限られている。
彼が彼女に何も求めないように、血の繋がりのある人たちに対しても何かを求めることをやめてしまっているのだとしたら。それは、とても辛いことではないか。
応接室に通されたのは、壮年の男性とその妻らしい女性、そして二十代半ばほどの青年だった。
男性はフロストとよく似た整った顔立ちをしていているが、その視線には他人を見下すような鋭さがある。夫人は身に着けた宝石をさりげなく見せながら、リリーフィアをじろじろと眺めてくる。彼らの子であると思われる青年は退屈そうに室内を見回しており、彼女に挨拶をする時もどこか上の空だった。
彼らは結婚を祝う言葉を口にしていたが、その言葉の端々に、彼女と彼女の夫を軽んじるような響きが混ざっている。
「フロストが身を固めるとは、少々意外でしたよ。あれは昔から、何事にも執着しない男でしたから」
フロストの父の従兄であるらしい男性が紅茶を口に運びながらそう言った。リリーフィアはその言葉に引っかかりを覚えながらも、それを表情に出さないようにしながら首を傾げる。
「そうなのですか?」
「ええ。欲しいものがあったとしても、手を伸ばそうとしない。そして、最初から必要としていなかったような顔をするのです。こちらが何かを与えようとしても、いつも同じ顔で断るばかりでしてね」
夫人が扇を口元へ添え、軽く笑った。
「こちらが何も言わずにいると、勝手に物事を決めてしまうのですから困ったものでしたわ。今も昔も、何を考えているのかさっぱり分からないのよ」
その言い方に、親しみがないわけではないのだろう。フロストの幼い頃を思い出しているのか、懐かしさに似た感情があることは伝わってくるが、彼らがフロストのことを語る時に、彼を理解しようとする気配はほとんど感じられない。そんな彼らの話を聞いて、気分が良くなるはずがない。
「妻というものは、夫の身の回りを整え、家庭を守るものです。あの子にも、自分ひとりでは生きていけないのだと知っていただかなくては」
その言葉に、リリーフィアは曖昧な微笑みを返した。フロストが自分ひとりでは生きていけないなどと、彼女には思えなかったのだ。彼は誰の助けも必要とせず、どんなことでも自分で片づけてしまえるような人であるように見える。
それからも愚痴に似た話を聞いていると、用事を終えたフロストが応接室へ姿を現した。
「お待たせして申し訳ありません」
穏やかな挨拶と共に入出した彼は、真っ先にリリーフィアを確かめるように目を向けると、それから客人たちへ視線を戻し、礼儀正しく一礼する。
先ほどの会話にフロストが混ざることになった。相手がどれほど遠回しに批判を口にしても、昔の失敗を持ち出しても、彼は怒ることも困った顔を見せることもなかった。常に微笑みを浮かべていたが、それはリリーフィアに普段向けられている柔らかな笑顔とはどこか違っているように感じられる。
その微笑みは、心を通わせるためのものではなく、まるで相手を拒絶するための仮面であるようだ。どんな言葉が飛んできても、彼は傷つかないのではなく、傷つくことのないところまで、とうに心を遠ざけてしまっているのかもしれない。
「相変わらず、お前は何を考えているのか分からんな」
男性が冗談めかして言った時、フロストは微笑みを崩さないまま述べた。
「そうでしょうか。私としては、皆のお考えを尊重しているつもりなのですが」
「尊重、か。お前はそうやって何でも自分の中で決めてしまう」
「ご不快にさせたのであれば、申し訳ありません」
彼は口で謝罪するものの、決して反論しようとはしない。相手の言葉を受け止めたように見せながら、自分の感情を一かけらも差し出さないその姿は、リリーフィアが知る優しい彼とは違う人のようにも見えてしまう。
彼らはしばらく公爵家の財産や領地のことを話し、最後には、今後も親族間の集まりに夫婦で顔を出すようにと告げて帰っていった。
傍目には、何事もなく訪問が終わったように見えただろう。しかし、リリーフィアは見てしまった。
彼らが帰る間際、男性がフロストの肩に手を置いて、何かを言ったのだ。フロストはその手を振り払おうとせず、相手の目を見て変わらない顔で言葉を聞いていた。ただ、肩に置かれた手が離れた後、彼の表情からすべての温度が消えたように見えたのである。
それは、怒りを押し殺した人のような顔であり、悲しみを隠している人のような顔であり、己を封じ込めることに慣れてしまった人が、ほんの一瞬だけ見せた素顔のようだった。その顔は、すぐに微笑みで覆われてしまったのだけれど。
客人たちを見送った後、リリーフィアはフロストと並んで歩いている途中で、彼の横顔をそっと窺った。
「あの、フロスト様。お疲れではありませんか?」
何と声をかけたらいいのか迷った末に出てきたのは、そんなありふれた言葉だ。彼は視線を下げて彼女を見ると、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「心配してくれてありがとう。私は大丈夫だよ。君こそ、長い時間付き合わせてしまってすまないね」
「わたくしは、何も……」
「親族といっても、ほとんど他人みたいなものだ。かなり気を遣わせてしまっただろう。今夜はゆっくり休んでほしい。夕食も、無理に私に合わせる必要はないからね」
また、そう言うのだ。先ほどの親族らに対する彼の様子を見た今では、彼は心から自分を大切にしてくれているのだと実感している。それでも、今回の件で疲れているのは、確実に彼の方だろう。少し関わった彼女でさえ嫌な気持ちになったのだから、彼はもっと辛い思いを抱えているに違いない。
その思いを、彼は明かしてくれない。彼女が尋ねれば答えてくれるのかもしれないが、彼の方から話してくれる気配はない。彼の心へ踏み込もうとすること自体が彼の望むことと反するのかもしれないけれど、だからといって彼の優しさをただ享受することはしたくないのだ。
彼が彼女に何も求めないのは、彼が親族に対して距離を置いているような感覚なのかもしれない。彼女を頼っていないのではなく、頼ることに意味を見出せなくなっているのだとしたら。ずっと昔に、誰かに望むことを諦めてしまったのだとしたら。彼の優しい微笑みの後ろに、誰も触れられない寂しさがあるのではないかと思えて、胸が苦しくなる。
「フロスト様」
「うん? どうしたんだい、リリーフィア」
「もし……何か、お困りのことがあれば、わたくしに何でもお話してください。ほんの些細なことでもいいのです」
彼は意外そうに彼女を見つめ、それからふわりと柔らかく微笑んだ。
「ありがとう。君にそう言ってもらえるだけで嬉しいよ」
そう言った彼だけれど、彼女の言葉をそのまま受け取るつもりはないようだ。彼は彼女を部屋に送ると、近くにいた使用人へ温かい肩掛けを用意するように頼んだ。窓から入り込む風が冷えていることに気づいたのだろう。
リリーフィアは礼を言いながら、その優しさを受け取った。……受け取ることしか、できなかった。




