3 妻としての役割
アヴァランシュ公爵邸での暮らしが始まってから、十日ほどが過ぎた。
リリーフィアは侍女が淹れてくれた紅茶を口に運びながら、新しい生活に馴染み始めていることを実感していた。自室の窓からは庭園の様子がよく見えて、白い花々が風に揺れている様子を楽しむことができる。
この屋敷に来たばかりの頃は、廊下を歩くだけで緊張していたものだけれど、今では屋敷内の間取りを覚えて、大体の使用人たちの顔と名前も把握している。公爵夫人としての振る舞いについてはまだまだ学ぶことが多いものの、屋敷を取り仕切る家令も侍女たちも親切で、思っていたほど苦労はしていない。
それなのに、リリーフィアの胸には日を追うごとに小さな不穏が積もり始めている。原因は、夫であるフロストだ。
彼は、彼女に対して終始優しく接してくれている。常に彼女のことを気遣い、彼女が不便を感じることがないよう、必要なものは何でも用意してくれた。
しかしその優しさに、違和感を覚えるようになったのだ。彼は、リリーフィアに何も求めないのである。彼女の望むことなら何でも叶える代わりに、自分からは何ひとつ望まないと決めているかのように、何も求められない。
「奥様。本日は午後からお客様がお見えになる予定ですが、いかがなさいますか?」
紅茶のおかわりを注いでくれたテリアの声に、リリーフィアは顔を上げる。テリアは、フローラント家からついてきてくれた唯一の侍女だ。幼い頃から一緒にいてくれる彼女に「奥様」と呼ばれることには、いつまで経っても慣れる気がしない。
「お客様?」
「はい。旦那様の叔母君でございます。先ほど先方から連絡がありまして、奥様にご挨拶をなさりたいとのことでした」
「そう……」
リリーフィアは、手元のカップをソーサーに戻す。結婚してから、公爵家の親族が彼女を訪ねてくる機会は何度かあった。いずれも礼儀正しく接してくれるのだが、中にはあからさまに彼女を貶してくる者もいる。公爵家に嫁いだ以上、そういったやり取りも避けては通れない。
「フロスト様はご存じなの?」
「はい。旦那様には既にお話が通っております」
顔を伏せた彼女を見て、テリアは少し迷いながら口を開く。
「奥様がお疲れでしたら、お断りしてもよろしいかと存じます。旦那様も、そのように仰られました」
フロストは、いつもそうだ。疲れているなら無理をしなくていい、したくないことをする必要はない、と事あるたびに言ってくれる。
彼は彼女の意思を尊重してくれているのに、どうしてだろう。何をしなくても構わないと言われるたび、自分がここにいる意味まで曖昧になっていくような気がするのだ。
「いいえ、お会いするわ。せっかくお越しくださるのでしょう?」
「かしこまりました。では、お仕度を整えさせていただきます」
テリアが部屋を出ていった後、リリーフィアは再び窓の外へ視線を向けた。
午後、フロストの叔母が訪ねてきた。彼からは、執務の都合で同席できないと連絡が入っている。
応接室のソファに身を預けた彼女は、四十代半ばほどの、柔らかな物腰の女性だった。彼女はフロストの母の妹であり、王都と北方の領地を行き来しながら暮らしているのだという。
リリーフィアが挨拶をすると、夫の叔母は彼女の手を取って、親しみの籠った笑顔を浮かべた。
「お会いできてうれしいわ、リリーフィア様。結婚式以来ね。この屋敷での暮らしは、もう慣れたかしら?」
「皆さまによくしていただいておりますので、少しずつではありますが」
「それならよかった。……あの子は昔から、自分のことを後回しにするところがあってね。何もかもを一人で抱え込んでしまうものだから、妻を迎えたと聞いた時にはようやく誰かに頼ることを覚えたのかと嬉しく思っていたのだけれど」
叔母はそこで言葉を区切り、リリーフィアの表情を確かめるように見つめた。
「あら、わたくしったら。余計なことを言ってしまったわね」
「いいえ、そのようなことは……」
リリーフィアは微笑みを返したものの、先ほどの叔母の言葉がかなり気になっていた。
叔母の予想とは異なり、フロストは彼女に何も頼ろうとしない。彼の仕事について詳しく尋ねたことはないが、抱えている責任があまりにも大きいということは知っている。帰宅が遅くなる日もあれば、彼女が起きた頃には既に執務を始めているという日もある。それでも、彼は忙しさを理由に彼女へ何かを頼んだことはなく、一度も困っている様子を見せたこともない。
仮にも夫婦になったのだから何か手伝えることがあれば力になりたいと思っているのだが……そう思うこと自体、間違っているのだろうか。
「フロスト様は、いつもお忙しそうです」
「ええ、昔からね。あの子は自分で何でもできてしまうから、誰かに任せられることまで自分でやろうとするところがあるの。周りが心配しても、本人は平気な顔をしてしまうから、なかなか厄介なのよね」
「そうなのですか……」
「でも、あなたが来てくれたのだから、少しは変わるのかもしれないわ」
にこやかに微笑みながらそう言った叔母に、リリーフィアは返事をすることができなかった。自分が来たことで、彼は何か変わったのかと考えてしまったのだ。彼女が来る前と後で、彼の暮らしに何か変化があったのだろうか。二人が関わる時なんて、食事を共にするくらいだ。
リリーフィアという存在が彼にとって心地よいものなのか、それともいてもいなくても変わらないものなのか。彼女にはまだ判断がついていない。
「わたくしに、何かできることがあればよいのですが」
気づけば、そんな言葉が口から零れていた。慌てて訂正しようとするが、叔母は優しく微笑んでくれた。
「きっと、あなたがそばにいてくれるだけで、あの子には十分なのだと思うわ」
そばにいるだけで十分。何もしなくていい。何も求められずに、ただそこにいるだけ。それは、妻としての役割と言えるのだろうか。
叔母が帰った後も、その問いは胸の中に残り続けた。
その日の夕食には、フロストが姿を見せた。彼は食堂へ入ってくるとリリーフィアに軽く微笑みかけ、向かいの席へ腰を下ろす。王宮で仕事をしていた帰りだと思われるが、彼の表情に疲労を感じさせるものは一切ない。
「今日は伯母上が来ていたそうだね。彼女はお喋りな人だから、君に何か失礼なことを言っていなければいいのだけれど」
「とても親切にしてくださいました」
「そうか。それなら良かった」
フロストはそれ以上尋ねることなく、給仕された料理に手を伸ばした。リリーフィアも食事を続けているものの、叔母との会話が頭から離れず、いつもであれば積極的に彼と話をしようとするところだが、口数がかなり少なくなっている。
彼の優しさを受け取るたび、彼女の心には言葉にしにくいもどかしさが生まれているのだ。どうして彼は、自分に何も望んでくれないのだろう。肉体的な関係がなくても、自分たちは夫婦なのだ。もっと頼ってくれてもいいのではないだろうか。彼が何を考えて、何に困っていて、何を大切にしているのか、知りたいと思うことさえ許されないのだろうか。
自分が何かを差し出そうとする前に、彼はいつも、気を遣わなくていいと告げてしまう。気を遣っているわけではないのに。ただ、彼のことが気になるだけなのに。
「リリーフィア?」
名を呼ばれ、彼女ははっと顔を上げた。
「食事が進んでいないようだけれど、口に合わなかったかな」
「い、いいえ。とても美味しいです」
「少し疲れているように見えるね。今日は早めに休んだ方がいいかもしれないよ」
疲れているわけではない、と、喉元まで出かかった言葉を飲み込む。彼と同じ食卓を囲んでいるのに、どうしてこんなにも遠く感じてしまうのだろう。彼の純粋な優しさが、段々と苦しくなってくる。
「……フロスト様は、わたくしと一緒に食事をすることを、どう思っていらっしゃいますか?」
気づけば、変なことを尋ねていた。彼は手を止めて、まっすぐと彼女の目を見つめる。
「どう、とは?」
「いえ、その……」
何を尋ねたかったのだろう。もっとうまく言葉にできたら良かったのに。
一緒に食事をすることが、彼にとって楽しいことなのか。それとも、夫婦として同じ席につくのは当然のことであり、そこに特別な意味などないのか。そんなことを尋ねたところで、彼を困らせてしまうだけなのではないだろうか。
しかし今更取り消すこともできず、彼女は手元のナプキンを弄りながら言葉を続けた。
「……わたくしはフロスト様の妻となったのですから、わたくしも、フロスト様のお役に立てることがあればと思っております。何か、わたくしにできることはございませんか?」
彼は、しばらく彼女をじっと見つめていた。燭台の炎がかすかに揺れていて、彼の瞳に映る光が形を変えている。
リリーフィアは、彼が深く考えてくれていることを感じた。いつもなら、彼は彼女の問いにもっと早く答えてくれる。今もまた、彼女が困らないように言葉を選んでくれているのだろうか。いや、きっと違う。彼はきっと、答えを探しているのだ。
ずっと見つめられるのに耐え切れずあちこちに視線を飛ばしていると、彼がそっと口を開いた。
「君は、何もしなくていいんだよ」
その言葉が、リリーフィアの胸に突き刺さった。
「ここで君が心地よく暮らしてくれることが、私にとって一番嬉しくて大切なんだ。君に、私のことで気負わせたくない」
とても優しい声。言葉のひとつひとつに、彼女を気遣う気持ちが込められている。彼は本当に、心からリリーフィアのことを考えていてくれるのだろう。彼女が自分の好きなように暮らし、穏やかな日々を送ることを望んでいるのだろう。だけど……彼女が求めていたのは、そういうことではない。
忙しい彼に、何かをしてあげたいと思うこと。彼の力になりたいと思うこと。彼が自分を頼ってくれたら、きっと嬉しいのだろうと思うこと。これらの思いは、彼にとっては必要のないものなのだろうか。大切にしてもらっていても、必要とされていないのなら、彼女がここにいる意味はどこにあるのだろう。
「ありがとうございます。フロスト様のお気遣い、とても嬉しく思います」
リリーフィアは、どうにか微笑んでこの会話を終わらせようとした。これ以上何かを尋ねて、彼が困った顔をするのを見たくない。自分の望みを口にしたところで、彼が何かを求めるようになるとは思えなかったのも理由のひとつだ。彼は最初から愛情を約束できないとはっきり告げているのだから、寂しいと感じてしまう自分のほうが間違っているのだろう。
フロストは彼女の微笑みをしばらく見つめ、それから彼も微笑んで言った。
「私は、君と一緒に食事をすることを、幸福だと思っているよ」
リリーフィアは顔を跳ね上げて彼を見たが、彼は食事に戻っていてそれ以上何も言わなかった。




