8 知りたい気持ち
翌朝、フロストはいつもと変わらない様子でリリーフィアに微笑みかけた。
「おはよう、リリーフィア。よく眠れたかな?」
「おはようございます、フロスト様。おかげさまで」
定位置となった席に腰を下ろしながら、彼女は自然な笑顔を浮かべることを意識した。彼は彼女の顔を見て優しく目元を和らげる。昨夜交わした会話について触れることもなければ、気まずさを感じさせるような態度を取ることもない。彼の中では、既にあの出来事は終わったことになっているのかもしれない。リリーフィアにとっては、ありがたいことだ。
「今朝も冷えるね。外に出るなら、上着を忘れないようにしてくれ。日中は暖かくなるようだけれど、気温差は身体に悪いからね」
「ありがとうございます。気を付けます」
「それと、今日は午後から執務が立て込んでいるんだ。夕食は先に済ませておいてくれ」
「分かりました」
その後も、彼との穏やかな会話は続いた。実は昨夜の彼はリリーフィアが見た幻だと思ってしまうほどに、昨夜彼女を拒んだ彼の姿はそこにない。あの出来事は、彼にとって取るに足らないことで、蒸し返す必要はないと考えているのだろうか。
いっそこのまま、彼の優しさを享受し、この距離感を保ち続けるべきなのかもしれない。リリーフィアがこれまで読んできた恋愛物語の中では、夫が妻を気遣うことは美徳として描かれていたし、夫婦仲が穏やかであることを不満に思う人などそう多くはないだろう。
でも……彼女は今、それだけでは満足できないことに気づいてしまった。フロストのことをもっと知りたいのだ。昨夜拒絶されたからこそ、その思いがもっと強くなったのかもしれない。
彼に直接尋ねるという方法が失敗したなら、彼をよく知る人物から彼の話を聞くという方法を取るしかない。アルヴィスに声をかけたら受け入れてもらえるかもしれないが、王太子である彼を巻き込むわけにはいかないだろう。
ならば、フロストの家族に会うしかない。彼の家族に最後に会ったのは、結婚式の日だ。あの時はほとんど言葉を交わすことがなかったが、それももしかしたらフロストが彼らを避けていたからなのかもしれない。
昨夜の彼の言葉を思えば、これがあまりにも身勝手な考えだということは分かる。彼は彼女に、自分のことを知らないでほしいと言ったのだ。それなのに、本人に内緒で彼の家族に会いに行こうなど、褒められたことではない。彼が嫌がると分かっていることを彼に隠れて行おうとしているのだから、信頼を裏切る行為だと言われても仕方がないだろう。
しかし、リリーフィアの決意は変わらない。彼がひとりで抱え込んできたものを、少しでも軽くしてあげたい。自分が何か大層なことをできるとは思っていないし、余計なお世話だと笑われるかもしれない。それでも、何も知らないまま、何もできないまま、彼が優しい夫として振る舞う姿を眺めているだけでは、きっといつか後悔する。
そんな風に自分に言い聞かせている時点で、既に自分の都合の良い理屈を並べているのかもしれなかったが、今のリリーフィアにはそれ以外の道が思いつかなかった。
朝食を終え、自室に戻ったリリーフィアは、まず侍女のツバキを呼んだ。
「ねえ、ツバキ。フロスト様のご家族と連絡を取る方法を知らないかしら」
彼女は不思議そうに目を瞬かせた。
「旦那様のご家族様でございますか?」
「ええ。最後にお会いしたのは結婚式の時なの。できれば、お話を伺う機会をいただけないかと思って」
「奥様。差し支えなければ、どのようなお話をなさりたいのかお聞きしてもよろしいでしょうか」
ツバキは探るようにリリーフィアを見ている。突然フロストの家族に会いたいと言い出したのだ、不審に思われても仕方がない。彼女は誤魔化すことも考えたが、正直に答えるようにした。
「フロスト様のことをお聞きしたいの。あの方がどのように育ってこられたのか、どんなふうにご家族と過ごしていらしたのか……わたくし、何も知らないでしょう?」
「それは……」
「それと、フロスト様には内緒にしておいてほしいの」
その言葉を口にした時、ツバキの表情が曇った。彼女が現在仕えているのはリリーフィアだが、それより前はフロスト付きの侍女だったと聞いている。彼女にとって真に仕える相手はフロストで、その相手に内緒にしながら協力しろと言われてしまえば困ってしまうのも当然だろう。
「ごめんなさい。困らせるつもりはなかったの」
申し訳なく思ってリリーフィアがそう言うと、ツバキはしばらく黙っていたが、やがて困ったような笑みを浮かべた。
「奥様のお気持ちは、よく分かります。旦那様はご自分のことをご自分でお話しになったことがありませんから。ですが、旦那様がご自分のことを話さないのには、それなりの理由がおありなのだと思います。長年旦那様に仕えている使用人ですら、旦那様のことを詳しく知らない者もいますし……」
「……そうなのね。ごめんなさい、ツバキ。今の言葉は忘れてちょうだい」
リリーフィアは、アヴァランシュ家の使用人に頼むという選択肢を捨てた。
まずは、自分の力でできるところまでやってみよう。フロストの両親、つまりアヴァランシュ公爵家の前当主らの記録であれば、きっとこの屋敷内に保管されているはずだ。
そう考え、彼女は屋敷の図書室に向かい、資料を探し始めた。しかし調べ始めてすぐ、最初の壁にぶつかった。
アヴァランシュ公爵家は王家とも縁の深い家柄であり、親族の情報は一般的な貴族名簿のすべてに載っている。だがそこに記されているのは爵位や領地、公式な役職といった公的な情報ばかりで、私的な連絡先や家族間の関係についてまでは分からなかった。更に、前当主の情報について書かれた資料が極端に少ない。
彼らが領地にいることは間違いないだろうから、手紙を送ろうとも考えた。だがいきなり手紙を送ったところで、先方が応じてくれるとも限らない。どのような名目で面会を申し込めば了承してもらえるだろう。適当な口実を作れば、かえって不振に思われてしまうかもしれない。
リリーフィアは机の広げた資料を見下ろし、深々と息をつく。義理の家族に会う手段も持っていない自分なんかが、本当に彼を支えることができるのだろうか。
悩みに悩んだ末、彼女は結局最後の手段を取ることにした。王太子アルヴィスに協力を求めるのだ。アルヴィスならば、フロストに話を通さずに彼の家族と関わることができるだろう。そんなことを考えながら、書きかけの手紙を封筒にしまっていた、その時。
「リリーフィア」
背後から声がして、彼女は肩を跳ねさせた。振り返ると、図書室の扉の前にフロストが立っていた。いつからそこにいたのだろう。彼の視線は、机の上に広げられた資料と彼女の手元にある封筒へと向けられている。
「……フロスト様。お仕事は、もうよろしいのですか?」
「時間が空いたから、様子を見に来たんだ。君が図書室で何かを熱心に調べていると聞いてね」
彼は落ち着いた声でそう答え、彼女に近づいてくる。
「一生懸命に、何を調べていたのかな?」
凄みのある笑みに、言葉が詰まる。彼に内緒で彼の家族と連絡を取ろうとしていたことが知られてしまうと、きっと……いや、確実に止められてしまうことだろう。
「……アヴァランシュ家について、もう少し詳しく知りたいと思いまして」
ほとんど答えのようなことを言ってしまった。フロストは机の上に視線を落とすと、彼女の書きかけの手紙に視線を留めた。
「これは、誰かに送る手紙かい?」
「……まだ、差出人は決まっていません」
「そう」
彼はそれ以上追及してこなかった。その沈黙がかえって苦しくて、リリーフィアは思わず顔を上げる。フロストは怒っているようには見えなかったが、いつものように微笑んでいるわけでもなかった。
彼は机に置かれた資料を一枚手に取った。そこには、彼の家族の名前が書き留められている。
「私の家族について、調べていたんだね」
「フロスト様、わたくしは……」
「どうして、私に何も言わずに調べようとしたんだい? 私の家族と連絡を取りたかったのなら、私に聞くのが一番手っ取り早いだろうに」
恐らく彼は、リリーフィアの胸の内などとっくに見透かしているのだろう。それを理解した彼女は、言い訳を探すことを止めた。
「昨夜のお話が、気になっていたのです。フロスト様は、わたくしに何も話してくださらないでしょう? 知りたいと思っても、何もしなくていいとおっしゃるし、あなたのことを知りたいと思っても、知る必要はないと……」
そこまで言って、彼女は唇を噛んだ。言葉にすると、しまい込んでいた思いが少しずつ形になっていく。彼を責めるつもりはないのに、彼を責めるようなことを言ってしまっている。
「……ごめんなさい。フロスト様が望んでいらっしゃらないことだと、分かっていました。それでも、どうしても知りたいと思ってしまって……」
「リリーフィア」
名を呼ばれ、彼女は顔を上げた。彼は手にしていた資料を机に戻して、じっと彼女の目を見つめる。
「君が私のことを知りたいと思ってくれること自体はとても嬉しいよ。その気持ちを悪いとは一切思わない。だが……私が話したくないと伝えたことについて、私に隠れて調べようとするのはあまり感心できないね。君が善意でしてくれていることだと分かっているからこそ、困ってしまうんだ」
「…………」
「私と家族との関係は、私自身の問題だ。君が気に病むことではないし、君が何とかしようとする必要もない。どうか、そこは分かってほしい」
穏やかな声だった。彼はきっと怒っているのに声を一切荒げることもなく、彼女の行動を頭ごなしに否定することもない。彼はただ、彼女が自分の望まないところへ踏み込んでしまわないよう、丁寧に境界を引いているのだ。それが分かってしまったからこそ、もう何も言い返すことはできない。
「……申し訳ありませんでした。フロスト様に内緒で勝手なことはしないようにします」
リリーフィアがそう言うと、フロストは表情を和らげて微笑んだ。
「ありがとう、リリーフィア」
彼女も微笑みを返したけれど、上手く笑えていたかは分からない。




