1 白い結婚
リリーフィアが、自分の結婚相手である人物の名を聞かされたのは、冬の気配が濃くなりつつある寒い日のことだった。
母が亡くなってからというもの、伯爵家で過ごす時間は、彼女にとってそれほど心地良いものではなかった。そのため、いつか身分の釣り合う相手を見つけ、その人物の元へ嫁ぐ未来を思い描いていた。
社交界でひときわ目を引くほど華やかな容姿をしているわけでも、誰もが羨むような特別な才能を持っているわけでもない彼女は、どちらかといえば目立たない令嬢であり、本を読んだり庭の花を眺めたりして過ごすことを好んでいた。
「リリーフィア。おまえに縁談が来ている」
父に呼び出され、向かいの椅子に腰かけた彼女は、告げられた言葉の意味を理解するまでに時間を必要とした。
「……縁談、ですか?」
「ああ。先方から正式な申し入れがあった。こちらとしても、これほどの話を断る理由はない」
父は書類に視線を落としながら、普段よりも幾分か上ずった声で話を続けた。いつもならば短く言葉を伝えるだけの父がこれほどまで丁寧に話をしようとしていることに、リリーフィアは驚きを感じる。
「お相手は、フロスト・アヴァランシュ公爵閣下だ」
その名を聞いて、彼女はもっともっと驚いた。
アヴァランシュ公爵家といえば、王家の血を引く由緒ある家門であり、現当主であるフロストは、王族に連なる立場でありながら広大な領地を治める敏腕の若き公爵としても知られている。重要な役目を担い、数々の政務をこなす一方で、領地では民からの信頼も厚く、社交界ではその端正な容姿と落ち着いた物腰がしばしば話題に上る人物だ。情報に疎いリリーフィアでさえ、その名を知っている。むしろ知らないほうがおかしいほどの人である。
そんな人が、自分に縁談を申し込んできた。自分が聞き間違えたのでなければ、いま父は、国内でも屈指の名門公爵との縁談が決まったと告げたのだ。伯爵家の令嬢が公爵家へ嫁ぐということ自体は、珍しくとも何度か事例はある。しかし王族の血を引くほどの高貴な人物が、わざわざ彼女を妻に望む理由がどこにあるというのだろうか。フローラント伯爵家は歴史ある家柄ではあるものの、王家と特別深い縁があるわけでもなく、領地の規模もアヴァランシュ公爵家とは比べるまでもない。
何かの間違いではないかと思ったが、父の表情を見る限り、冗談や聞き間違いで済ませられる話ではなさそうだ。
「どうして、わたくしなのでしょうか……?」
思わず口を出た疑問は、思っていたよりも頼りない。父はすぐには答えず、書類を整えるように指で端を揃えた後、淡々と言った。
「先方から、おまえを妻に迎えたいと申し出があったのだ。こちらから望んだ縁談ではない」
「公爵閣下が、わたくしを……?」
リリーフィアはこれまで、フロストと個人的に親しく言葉を交わしたことなどない。王宮で開かれる祝宴や貴族が集まる式典などで姿を見かけたことはあるものの、それも遠くから眺めた程度である。彼が自分の名前を知り、自分という存在を認識しているのかどうかさえ怪しいくらいだ。
そんな相手が突然、自分を妻にしたいと申し出てきた。一体何が目的なのだろう。目的のない行為だとは思えない。実はフローラント家には、公爵家をも引き寄せるほどの秘密が隠されていたのだろうか。いや、それは流石にない。
「……公爵閣下は、わたくしをご存じだったということでしょうか」
「まったく知らないということはないだろう。おまえは王宮の催しに何度か出席しているのだからな」
「それは、そうですけれど……」
知っていることと、妻に望むことの間には、ずいぶんと大きな隔たりがあるように思えるのだが。
父はそれ以上を語ろうとせず、最後には先方と顔合わせをすることになったとだけ告げた。これほどの家から正式な申し入れがあった以上、彼女が何を思おうと、断るという選択肢を口にできるはずもない。
彼女は父に促されるままに書類に署名し、自室へ戻った。先ほど父に伝えられたことの実感が湧かないまま、ぼんやりと窓辺の椅子に腰かける。
フロスト・アヴァランシュ公爵。あまりにも遠い世界の人だ。彼の隣に立つなら、自分よりもっと華やかで、もっと賢く、誰から見ても相応しいと認められるような女性であるべきではないだろうか。どうして自分なのか、という不安が広がると同時に、別の疑問も浮かび上がってくる。
彼は、これまで一度も浮き立った噂が出たことのない人物である。彼ほどの立場にある男性ならば、縁談の話が持ち込まれたことくらい数えきれないほどあるのだろう。けれど社交界で耳にするのは、現在最も美しいとされる令嬢からの申し出をばっさりと断ったとか、そもそも令嬢と話をしている様子が見られないとか、そういった話ばかりだった。そんな人が急に縁談を申し込んだということは、どうしても妻を迎えなければならない理由ができたのかもしれない。手っ取り早く話をつけられそうな相手として選ばれたという可能性はないだろうか。
何にせよ、彼女は彼女のできることを成さなくてはならない。
◇ ◇ ◇
フロストと初めて二人きりで話をしたのは、それから数日後のことだった。場所は、王都にあるアヴァランシュ公爵家の邸宅。案内された応接室は広々としていて、伯爵家の屋敷も決して小さくはないはずなのに、やはり別格のように思ってしまう。こちらの邸宅では、ひとつひとつの調度品に至るまで、長い歴史と財力が積み重ねられているような気配がするのだ。
リリーフィアは自分の身一つでは大きすぎるソファに腰かけ、膝の上で手を重ねながら、扉が開くのを待つ。
やがて、控えめなノックの後に姿を現した男性を見て、彼女は思わず息を呑んだ。
夜闇の色を映したような漆黒の髪は、窓から差し込む光を吸収して鈍く輝き、眩しい星を閉じ込めたような蒼い瞳には、冬を思わせる静けさが宿っている。整った顔立ちは遠くで見るよりも遥かに美しく、黒を基調とした上品な礼装を身に纏った姿は気品で満ち溢れていた。
彼はソファに座るリリーフィアを見ると、目を柔らかく細める。その視線の穏やかさに、彼女はまた驚いた。
「待たせてしまったかな、フローラント嬢」
「いいえ、とんでもありません。貴重なお時間をいただき、ありがとうございます」
「呼んだのはこちら側だからね。来てくれてありがとう」
フロストは優雅な動作で彼女の向かいに腰を下ろした。彼の声は落ち着いていて、言葉遣いにも嫌味なところはない。威圧的な雰囲気もなく、彼女を値踏みするような視線を向けることもない。リリーフィアは安心して、張り詰めていた肩の力を少しだけ抜いた。
彼は侍女が用意した紅茶に口をつけると、まずは彼女がここまで来るのに不便がなかったかを尋ね、それから当たり障りのない話題を幾つか口にした。どれも穏やかな話ばかりで、彼女も気負うことなく話をすることができた。
ちょうど緊張が薄れるくらいに会話を交わした頃を見計らったように、彼は本題へと入った。
「今日は君に、私たちの結婚について話をしておきたいと思っている」
「はい」
その言葉に、リリーフィアは思わず背筋を伸ばした。
「急に縁談の話を持ち込んでしまってすまない。君は困惑しただろう。この縁談には理由があるんだ。今はまだ、詳細を伝えることはできない。でも、君たちフローラント家にとって不利益となることは一切しないと誓う。……それと、ひとつ伝えておきたいことがある」
彼はそこで言葉を切って、彼女の顔を真っ直ぐに見つめる。蒼い瞳は涼やかで澄んでいたけれど、その奥には、彼女には到底読み取ることのできないだろう何かが深く沈んでいるように思われた。
「私は、君に夫としての愛情を約束することができない」
——あまりにも率直な言葉。結婚の申し入れをした相手に対して、愛情を約束できないと、彼は最初に告げたのだ。
だが不思議なことに、その言葉を聞いても傷ついたという気持ちは一切浮かばなかった。彼が自分を愛していないことなど、最初から分かっていたようなものだから。むしろ最初にきちんと伝えてくれたことに、誠実さを感じるべきなのかもしれない。
「……承知いたしました」
リリーフィアがそう答えると、フロストはほんのわずかに表情を変えた。ほんの一瞬のことだったためどう変わったのかはよく分からなかったけれど、彼はすぐに穏やかな顔に戻って、何事もなかったかのように話を続ける。
「君にも、妻として何かを強いるつもりはない。私たちは互いの生活を尊重し、穏やかに暮らしていけばいいと思っている」
「あなた様がそう望むのであれば、わたくしもそれを望みます」
「そう言ってくれてありがとう」
フロストは微笑んだ。その笑顔はとても優しい。それが彼の生来の優しさなのか、それとも結婚相手に対する礼義なのか、この短い間では判断することはできなかった。
「寝室については、別々に用意させているから安心してくれ。君がこの屋敷で暮らす上で、不便なことや不満が出てきたら遠慮なく伝えてほしい。できる限り、君が過ごしやすいように整えたいと思っている」
「そこまでしていただかなくても……」
「いいや。結婚後、君はこの屋敷で暮らすことになるのだから」
ごく当たり前のことを言うように彼はそう言った。高貴な身分の人々にとって、結婚は家同士の結びつきであり、妻を迎えることは家門の強化にもつながる。夫婦としての情愛がなくとも必要な義務を果たせばそれで十分だと考える人も少なくない。
それなのに彼は、彼女に妻としての何かを求めないにも関わらず、彼女の生活を守ると保障してくれるのだ。いよいよ彼の目的が分からなくなってきた。
「ありがとうございます、公爵閣下」
「フロストで構わないよ。これから夫婦になるのだから、いつまでも他人行儀では君も疲れてしまうだろう」
夫婦になると、彼がはっきりそう口にしたことで、ようやくこれが本当に自分の身に起こっている出来事なのだと実感したような気がした。
「……では、フロスト様とお呼びしてもよろしいでしょうか」
「もちろん。これからよろしくね、リリーフィア」
彼は、どこか嬉しそうに微笑んだ。その表情を見て鼓動がドキリと鳴ってしまうけれど、あまり意識しないようにしなくては。
彼との結婚は、互いに愛情を求めず、穏やかな日々を過ごすための結婚。
——そう、これは『白い結婚』なのだ。




