第八十六話「同じ高校へ行きたい、だけでは理由にならない」
放課後の図書室には、去年の学校案内がまとめて置かれていた。
県立、私立、共学、男子校、女子校。棚の一段分を使い、背表紙がこちらへ向けられている。
その前で、田端が困った顔をしていた。
「高校、多すぎない?」
「減らす方が困るだろ」
「でも、こんなに見られないぞ」
「全部見るつもりだったの?」
久住に聞かれ、田端は棚を見上げた。
「近いところから三つくらい」
「それなら路線で探せばいいと思う」
「路線?」
「田端、お前は何を調べに来たんだ」
「高校」
「それは知ってる」
田端へ進路の話をさせると、最初の説明から必要になる。
俺は棚の横に貼られた路線図を指した。田端はしばらく眺めたあと、自宅の最寄り駅を見つけ、ようやく二校分の案内を手に取った。
「購買が載ってない」
「学校案内にパンの味までは書かないよ」
白石が小さく笑った。
朝に借りてきた緑色の学校案内を胸の前に持っている。図書室へ入ってから、何度かこちらを見てはいたが、田端が棚の前から動かなかったので声をかけるタイミングを失っていたらしい。
「田端くん、こっちの学校は食堂があるみたい」
「白石さん、それ先に言ってよ」
「でも、田端くんの家から電車で一時間くらい」
「なしだな」
「判断が早い」
久住が呆れた声を出した。
田端は食堂の写真だけ少し惜しそうに見てから、学校案内を棚へ戻す。近さと食べ物しか見ていないが、本人なりの条件ではあるらしい。
四人で窓際の長机へ移動した。
田端と久住は自宅から通いやすい高校の案内を広げ、俺と白石は例の県立高校のページを開く。
白石が貼った付箋は、春休みの時と同じ場所にあった。
俺も進路ノートを開き、高瀬から聞いたことを書いたページを見せる。
「駅から、坂があるんだね」
「学校案内だと徒歩十五分だけど、高瀬の姉ちゃんは二十分かかるらしい」
「毎朝だと大変かな」
「雨の日はもう少しかかるってさ。電車も混むみたいだ」
白石は通学の欄へ目を落とし、自分のノートへ書き写した。
「課題量は要確認、ってある」
「多いらしいけど、高瀬の姉ちゃんが前の日まで溜めるから多く感じてる可能性もある」
「それは、学校のせいじゃないかも」
「高瀬も同じことを言ってた」
そこまで話したところで、向かい側から田端が顔を上げた。
「何で悠真だけ、そんな詳しい情報持ってんの?」
「高瀬の姉ちゃんが通ってるんだよ」
「ずるくない?」
「お前、朝も同じこと言ってたぞ」
「情報のある家は強い」
田端が妙に悔しそうな顔をする。
「田端くん、お姉さんいなかった?」
久住が聞いた。
「いるけど、工業高校。俺が聞いても『近い』と『男子が多い』しか言わない」
「田端くんと同じくらいの情報量だね」
「姉弟だからな」
「納得するところじゃないと思う」
久住は自分の学校案内へ視線を戻した。
田端も一応は調べる気になったらしく、路線図と高校の所在地を見比べ始める。
俺は高瀬から聞いた話を、白石のノートにも分かる範囲で伝えた。
進学実績は学校案内で確認できる。部活動の一覧には、合唱部はないものの、吹奏楽部と軽音楽同好会が載っていた。文化祭では有志の合唱もあるらしい。
「音楽、気になる?」
俺が聞くと、白石は部活動の欄を指でなぞった。
「うん。入るかどうかは、まだ分からないけど」
「合唱祭の時、楽しそうだったもんな」
「最初は怖かったよ」
「最初は?」
「最後は、少し楽しかった」
白石はそう言って、付箋の端を押さえた。
「図書室も見たいし、音楽の活動も見てみたい。でも、案内に書いてあることだけじゃ分からないよね」
「高瀬の姉ちゃんの話も、本人は説明会で確認するって言ってた」
「教室とか、廊下も見られるのかな」
「たぶん。見学できる場所は限られるかもしれないけど」
「どんな人が通ってるのかも、少し見てみたい」
白石は写真の中にいる高校生を見た。
制服姿の生徒が、校舎の前で笑っている。学校案内用に撮られた写真なので、普段から全員があんなに笑っているとは限らない。
「新しいところでも、ちゃんと話せそうか確かめたいんだ」
声は小さかった。
俺は写真から白石へ目を移した。
「白石なら、もう大丈夫じゃないか」
「今の学校には、佐伯くんたちがいるから」
「高校に行っても、知ってるやつが一人もいないとは限らないだろ」
「うん。でも、同じクラスになるとは限らないよ」
三年生になって、さっそく別のクラスになったばかりである。
隣の教室でも気になって仕方がなかった俺が、簡単に大丈夫と言っていい話でもなかった。
「だから、実際に見てみたいの。ここなら自分から話せそうって、少しでも思えるかどうか」
「そっか」
白石は高校の写真を見たまま、もう一枚の付箋を取り出した。
同じページの上へ貼ろうとして、すでにある付箋に気づく。少し迷ったあと、今度はページの下側へ貼った。
上と下から、同じ学校のページに付箋が二枚出ている。
別の場所へ貼ればいいだけなのに、そのままにするらしい。
「佐伯くんは?」
「俺?」
「この学校で、何がしたいの?」
高瀬と同じことを聞かれた。
俺は進路ノートを見ながら、朝から考えていた答えを並べる。
「家から乗り換えなしで四十分くらい。進学実績も悪くないし、もし就職を選ぶことになっても相談はできそうだ。通学に時間を取られすぎないから、家で勉強したり、パソコンを使ったりする時間も残せる」
「うん」
「図書室も広い。偏差値は、今のままなら届くかもしれないけど、余裕があるほどじゃない。もう一つ上も狙えるとは言われたけど、そうなると乗り換えが増える」
「ちゃんと調べてるね」
言い終えてから、自分でも少し嫌になった。
通学時間、進学実績、家へ帰ったあとの時間。会社を選ぶ時の条件表とあまり変わらない。
残業時間と年間休日が入っていないだけである。
「何か、会社を選んでるみたいになった」
「会社?」
「いや、条件だけ並べすぎた」
白石は俺のノートを覗き込んだ。
「でも、毎日通うんだから大事だと思う」
「それはそうなんだけど、高瀬に聞かれたのは、そこで何をしたいかなんだよ」
「やりたいこと、ないの?」
「まだ、はっきりとは」
大学へ行くのか、就職するのか。
前の人生より楽な会社へ入り、投資で金を増やして、今度こそ帰って寝るだけではない生活をしたい。白石にも、この先は笑っていてほしい。俺の頭にあるのは、そこまで先の話ばかりだ。
高校三年間で何をしたいのかと聞かれると、急に間が抜けている。
「何となくで決めたくないとは思ってる」
「何となく?」
「近いとか、成績で行けそうとか、それだけで決めて、あとから考えるのはやめたい」
前の人生では、だいたいそうやって選んだ。
高校も会社も、その時の成績で入れそうだったから。それくらいの理由で決めたくせに、三十二歳になってから、どうしてこうなったと一人で愚痴っていた。文句を言う相手もいないのに。
そこまで白石へ話すことはできない。俺はノートの端を指で押さえた。
「それと」
口にするか迷った。
ここで隠したら、また条件だけ並べることになる。
「白石が候補にしてるから、この学校が気になったのもある」
白石の指が止まった。
下側へ貼った付箋を押さえたまま、顔を上げない。
「それだけで決めるつもりはないけど、同じ高校になったら……俺は嬉しい」
図書室なので、声はかなり抑えた。
それでも隣に座っている白石には届いたらしい。付箋を押さえていた指が少し曲がる。
「……私も」
白石は学校案内を見たまま答えた。
「佐伯くんと同じだったら、嬉しいよ」
それを聞いた瞬間、さっきまで並べていた条件が頭からいくつか抜けた。
通学時間と偏差値は残っている。課題量と進学実績は、少し怪しい。
「でも」
白石が付箋から指を離した。
「佐伯くんだけを理由にはしたくない。もし別の学校を選んでも、私が見て、ここがいいと思えたら候補に残したいな」
「うん。その方がいい」
「佐伯くんも?」
「俺も、自分で決める」
言ってから、少しだけ困った。
自分で決めるための答えを探している途中なのに、先に口へ出してしまった。
白石は去年の説明会日程が載ったページを開く。
「今年も、七月くらいかな」
「まだ予定は出てないみたいだな」
「候補に残ってたら、見に行く?」
「一緒に?」
「……うん。できれば」
白石は付箋の位置を少しだけ直した。
上と下に分かれていた二枚の端が、同じくらい出るように揃っている。
「じゃあ、今年の日程が出たら確認しよう」
「約束?」
「そうだな、約束だ」
白石が小さく笑った。
その声で田端が顔を上げる。
「何か決まった?」
「学校説明会へ行く話」
「四人で?」
「お前は自分の候補を決めろ」
「今、二校まで減ったぞ」
田端が学校案内を見せた。
二校のうち一校には食堂があり、もう一校は駅から近い。分かりやすくて少し羨ましい。
「久住は?」
「私は三校。家からの時間をもう一回調べるつもり」
「みんな決まるの早くない?」
「田端くんも二校って言ったばかりだよ」
白石に言われ、田端は学校案内を閉じた。
結局、図書室を出るまでに決まったのは候補と、夏に説明会へ行く約束だけだった。
◇ ◇ ◇
夕食後、父は居間で新聞を読んでいた。
俺は自室から進路ノートを持ってきて、向かいへ座る。
「父さん、今度の休みに高校の話をしたい」
「候補が決まったのか?」
「一つは残ってる。ほかにも二校くらい見てるけど」
父は新聞を畳み、テーブルの端へ置いた。
「どんな学校だ」
「県立の共学。電車で四十分くらいで、乗り換えはない。進学実績も悪くないし、図書室も広い」
「学校は見に行けるのか?」
「夏に説明会があると思う。白石も同じところを候補にしてるから、一緒に行こうって話した」
父はそこで少しだけ眉を上げたが、笑わなかった。
「同じ高校へ行きたいのか?」
「行けたら、嬉しいとは思う」
「そうか」
父は進路ノートを受け取り、俺が書いた条件へ目を通した。
通学時間、坂道、電車、進学実績。高瀬から聞いたことも、白石と話したことも書いてある。
「この学校に決めたのか?」
「まだ。説明会を見てから考える」
「なら、休みの日に母さんも一緒に聞こう」
父はノートを返す前に、付箋の多いページを指で押さえた。
「白石さんが行くかどうかではなく、お前が行きたい理由を聞かせろ」
今日だけで二度目だった。
俺はノートを受け取ったが、付箋が増えたせいで、開きたいページを一度で出せなかった。
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▼登場人物まとめ
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