第八十五話「同じクラスの高瀬は、俺より受験生だった」
新学期が始まって一週間が経った。
仮の席にも慣れ、休み時間になれば去年同じクラスだったやつ同士だけでなく、前後の席でも話す声が増えている。
俺も前の席の高瀬とは、それなりに話すようになった。
朝の挨拶と授業の確認、それから田端が忘れたプリントについて。ほとんど田端のせいな気もするが、会話のきっかけなんてそんなものだろう。
朝の会まで十分ほどあるのに、高瀬は机へ進路予定表を広げていた。
先生から配られた時はほとんど空欄だった紙に、六月の模試、夏休みの学校説明会、二学期の三者面談と、小さな字が増えている。
「高瀬、朝から何やってんの?」
田端が俺の机へ片手をつき、高瀬の予定表を覗き込んだ。
「見れば分かるだろ」
「それが分からないから聞いてる」
「進路の予定を書いてる」
「まだ四月だぞ?」
「四月だからだろ。あとで慌てる方が嫌だ」
高瀬は当たり前のように返し、模試の横へ申し込み、と書き足した。
田端がこちらを見る。助けを求めているというより、変なものを見つけた顔だった。
「悠真、こいつお前より細かくない?」
「俺に聞くな」
「でも、似てるよな」
「どこが」
窓側の席でプリントを読んでいた久住が、顔を上げた。
「佐伯くんが二人になったみたい」
「久住までやめてくれ」
「提出期限を気にするところとか、先に予定を書くところとか」
「俺は朝から模試の日程までは書かない」
「じゃあ、高瀬くんの方が細かいんだ」
「そこは否定できないけど」
高瀬は俺たちの会話を聞きながら、予定表の端へ疑問符を書いた。
「この説明会の日は去年のだから、今年は変わるかもしれない」
「だったら書かなくてよくない?」
「鉛筆だから消せる」
「そういう問題か?」
田端が本気で分からない顔をしている。
俺は高瀬の予定表をもう一度見た。去年の日付をそのまま決定事項にせず、疑問符をつけて残している。会社ノートで、白石に何度も言われたやり方と似ていた。
未来の会社名やゲームの題名なら、曖昧でもいくつか思い出せる。しかし、今年の模試の申し込み締切なんて一つも知らない。前の人生で受験したはずなのに、その辺りはきれいに抜けていた。
高瀬は未来のことを知らない代わりに、今から先の予定を俺より細かく見ている。
十四歳相手に少し負けた気分になるのは、さすがに大人げない。
そう思いながら、俺は自分の進路ノートへ『模試の日程確認』と書き足した。
「佐伯も書くんじゃん」
「使えそうだったから」
「素直だな」
「お前も書けばいいだろ」
「俺はまだ四月を楽しみたい」
田端はそう言って、自分の席へ戻っていった。
四月が終わった時、同じことを五月で言い出すに違いない。
◇ ◇ ◇
三時間目の休み時間、白石が一組の入口に立っていた。
最初の日は弁当袋を両手で握っていたが、今日は片手に学校案内を持っている。
近くの生徒に佐伯くんいるよ、と声をかけられ、少しだけ頭を下げていた。俺が席を立つより先に、白石は教室の中へ入ってくる。
「佐伯くん、今日の放課後なんだけど」
「図書室だよな」
「うん。小野さんは委員会で、杉浦くんは部活だって」
「田端と久住は?」
「田端くんは行くって言ってた。久住さんには、まだ聞けてない」
名前を呼ばれた久住が、窓側の席からこちらを見た。
「私も大丈夫。今日は用事ないから」
「じゃあ、四人だな」
「高村先生に、去年の学校案内を借りていいか聞いてみるね」
「もう持ってるのは?」
「二組にあった分。少し書き込みがあるけど、見てもいいって」
白石は学校案内を開き、付箋を貼ったページを少しだけこちらへ向けた。
「この学校、去年の説明会は七月だったみたい。今年も同じくらいかな」
「高瀬も似たようなこと書いてたな」
「高瀬くん?」
白石が小さく首を傾げる。
俺は前の席を指した。
「初日に白石へ聞いてただろ。俺の前の席」
「あの人、高瀬くんなんだ」
「俺の友達か確認してた人」
「……うん」
白石は一度頷いたあと、学校案内を閉じた。
初日に自分で友達だと答えたことを思い出したらしい。表紙の端を親指で何度か押さえている。
「じゃあ、放課後に」
「分かった」
白石は久住にも小さく手を振り、二組へ戻っていった。
教室の入口で一度も立ち止まらなかった。たった一週間だが、初日よりはもう一組へ入り慣れている。
「佐伯」
高瀬が前の席から振り返った。
「何だ?」
「今の学校、候補にしてるの?」
「聞こえてたのか」
「近いから」
高瀬は机と机の間を指した。
確かに、聞こえない方がおかしい距離である。
「まだ候補だけどな。白石と学校案内を見て、少し気になってる」
「どこ?」
学校名を言うと、高瀬はすぐに予定表を閉じた。
「そこ、姉が通ってる」
「この前言ってた高校二年の姉ちゃんか」
「そう」
高瀬は通学鞄から一冊のノートを出した。
後ろの方を開くと、いくつかの高校名と、その横に短いメモが並んでいる。俺が候補にした県立高校にも線が引いてあった。
「学校案内だと、駅から徒歩十五分って書いてあるだろ」
「ああ」
「姉は二十分かかるって言ってる。朝は同じ高校の生徒が多いし、駅を出てから坂があるから」
「坂?」
「正門までずっと上り。雨の日はもっとかかるらしい」
緑色の学校案内には、最寄り駅と徒歩十五分としか書かれていなかった。
毎朝の坂道は、三年間通うなら無視できない。元会社員としては、駅から会社までの徒歩時間を少なく書く求人票を思い出してしまう。信号待ちと上り坂を徒歩時間へ入れないのは、学校も会社も同じなのかもしれない。
「電車も混む?」
「七時半を過ぎると、座るのは無理だって。一本早ければ少しましらしいけど」
「課題は?」
「多いって言ってる」
「どのくらい?」
「そこまでは知らない。姉は何でも締切の前日にやるから、母さんには自分で溜めてるだけだって言われてる」
高瀬が真面目な顔で言うので、少し笑ってしまった。
「それ、課題が多いのか姉ちゃんが遅いのか分からないな」
「だから、説明会で聞くつもり。姉の言うことだけで決めるのも危ないし」
「ちゃんと疑ってるんだな」
「佐伯は、姉が言ったことを全部信じるの?」
「いや」
「じゃあ同じだろ」
高瀬は少し不思議そうにした。
こいつは自分が慎重だと思っているわけではないらしい。分からないから確認する。それを普通にやっているだけだ。
俺は進路ノートを出し、通学時間の横へ『駅から坂』『朝は混む』『課題量は要確認』と書いた。
「その高校、図書室が広いんだよな」
「姉はあまり行かないらしいけど、そう聞いてる。音楽系の部活もいくつかある」
「進学実績は悪くないし、家から乗り換えなしで通える」
「佐伯の成績なら、もう一つ上も考えられるだろ」
高瀬は自分のノートに書いた、別の県立高校を指した。
俺が候補にしている学校より、偏差値は少し高い。電車では乗り換えが必要だが、大学への進学実績も上だった。
「安全圏ってほどじゃないけど、二年の最後の順位なら狙えないことはないと思う」
「高瀬はそっちが第一希望?」
「まだ決めてない。姉と同じところは中の話が分かるけど、上の学校も説明会には行く」
「二校とも?」
「見ないで決めるよりいいだろ」
そこで予鈴が鳴った。
高瀬はノートを閉じたが、先生が来る気配はまだない。
「佐伯は、その学校で何がしたいの?」
「何って、勉強だろ」
「高校ならどこでも勉強はする」
「図書室が広い。家から通いやすい。大学進学も就職も、どっちも考えられそうだ」
「それなら分かるけど」
高瀬はそこで言葉を切り、二組側の壁を見た。
「白石さんも受けるから?」
後ろで教科書を出していた田端の手が止まった。
久住まで、書いていたプリントから顔を上げている。
「いや、まだ白石も候補段階のはずだぞ」
「じゃあ、候補にしたきっかけは白石さん?」
「一緒に学校案内を見たから、気になったのはあるけど」
「悪いとは言ってない」
高瀬の声には、からかっている感じがなかった。
こちらが困っていることにも、たぶん気づいていない。ただ理由を聞き、答えの抜けているところを確かめている。
白石に会社ノートを見てもらった時と少し似ているが、高瀬は遠慮がない分、聞き方が真っ直ぐだった。
「高瀬、もうちょっとこう、聞き方ないの?」
田端が珍しく助けに入った。
「どこが変だった?」
「分かってないならいいや」
「よくないだろ。言ってくれないと直せない」
「面倒くさいな、お前」
田端は自分から口を挟んだくせに、先に諦めた。
久住が小さく息を吐き、俺を見る。
「佐伯くんは、どうなの?」
「久住まで聞くのかよ」
「少し気になったから」
二人とも悪気がないのが余計に困る。
白石と同じ高校へ行けたら嬉しい。それは否定する気になれなかった。
だが、白石が別の学校を選んだら、自分も候補を変えるのか。そう聞かれると、すぐには答えられない。
高瀬は教科書を開きながら、もう一度こちらを見た。
「三年間通うのは佐伯だろ。白石さんがいなくても、その学校を選ぶ?」
答えようとして、言葉が止まった。
手元のシャーペンを無意識にノックすると、出すぎていた芯が机へ当たり、小さく折れた。




