第八十四話「白石澪は、隣の教室へ行く」
またあとで、と言ったのに、いつ会うのかは決めていなかった。
三年二組の教室へ入ってから、そのことに気づいた。
昼休みなら会えると思う。放課後でもいい。でも、佐伯くんにも予定があるかもしれないし、新しいクラスの人と話すかもしれない。
廊下へ戻って聞こうかと思ったけれど、もう一組の教室に入っているはずだった。
「澪、席あった?」
小野さんに呼ばれ、手に持っていた座席表を見直す。
「うん。窓側から二列目」
「私、一つ前の列だ。そんなに遠くないね」
「本当だ」
小野さんが指した席は、斜め前だった。
話す時に大きな声を出さなくても届きそうな距離で、少し安心した。
杉浦くんは男子数人に呼ばれ、窓側の後ろで去年のクラスやサッカー部の話をしている。小野さんはそちらを一度見たが、すぐ座席表へ顔を戻した。
「杉浦くんも、そんなに遠くないね」
「う、うん。まあ、同じ教室だし」
そう答えながら、小野さんは座席表を丁寧に折り始めた。一度ずれた折り目を直そうとして、かえって端が少し曲がっている。
気づかないふりをした方がいい気がして、私は自分の席へ鞄を置いた。
机の中には何も入っていない。後ろの棚には出席番号の紙が貼られ、黒板の端には『三年二組』と書かれている。
三年生になったことより、佐伯くんが同じ教室にいないことの方が先に気になった。
一組は隣だと分かっている。
朝も、隣なら近いと言ってくれた。それなのに、いつもの席を探しても見つからないことが、思っていたより変な感じだった。
「白石さん」
声を聞き、鞄の持ち手を握った。
振り返る前に誰か分かった。
榊原さんは、自分の席へ鞄を置いたあとらしい。手には何も持たず、去年と変わらない笑顔でこちらを見ていた。
「また同じクラスだね」
何と返せばいいのか、一瞬だけ分からなくなった。
小野さんは斜め前の席で、座席表を机へしまっている。声をかければ、すぐに振り返ってくれると思う。
でも、呼ぶ前に言葉が出た。
「うん。よろしくね」
自分の声が震えていないことに、言い終わってから気づいた。
榊原さんは少しだけ目を細め、私の髪へ視線を移した。
「白石さんって、相変わらず髪きれいだね」
「……ありがとう」
「何もしなくても真面目そうに見えて、いいよね」
最後の言葉だけ、どう受け取ればいいのか分からなかった。
今朝も寝癖がついていて、母に後ろから直してもらった。何もしていないわけではないけれど、それを説明する話でもない気がする。
「……そうかな」
榊原さんは答えず、近くの女子に呼ばれると私の席から離れていった。
私は椅子へ座り、髪の先を指で少しだけ触った。
褒められたはずなのに、髪の先が急に気になった。席へ座ってから、さっきの「よろしくね」だけはちゃんと言えた、と遅れて思った。
「澪、どうしたの?」
小野さんが自分の席からこちらを見ていた。
「髪、変じゃないかなと思って」
「変じゃないよ。いつもきれいだよ」
「そっか」
「うん。私、澪の髪好き」
迷わず言われて、私は髪の先から手を離した。
「ありがとう」
「急にどうしたの?」
「何でもない」
小野さんは不思議そうにしていたけれど、深くは聞かなかった。
私は鞄から筆箱を出し、机の右上へ置いた。ファスナーにつけた小さな飾りが机に当たり、思っていたより大きな音がした。
榊原さんの方を見ると、もう別の女子と話している。
こちらは見ていなかった。
◇ ◇ ◇
始業式が終わって教室へ戻ると、学級活動が続いた。
担任の先生から新しい名札や提出用の書類が配られ、係を決め、緊急時の連絡方法を確認する。計画停電や余震の影響で予定が変わるかもしれないという説明もあった。
去年までは高村先生の声を聞いていたので、違う先生が教卓に立っているだけでも落ち着かなかった。
佐伯くんは、また高村先生が担任らしい。クラス表を見た時、先生の名前も一緒に書かれていた。
少し羨ましいと思った。
そのあと、佐伯くんと同じクラスだったら、もっと羨ましく思わなかったかもしれないと考えて、自分でもよく分からなくなった。
「白石さん、これ後ろへ回して」
「うん」
前の席から渡されたプリントを受け取り、一枚取って後ろへ回す。
名前、住所、緊急連絡先。書くことは去年とほとんど同じだった。
時計を見る。
まだ二時間目が始まったばかりだった。
住所を書き、もう一度時計を見る。
長い針は、ほとんど動いていない。
隣の教室では、何をしているのだろう。
田端くんが先生の話を聞かずに怒られていないか。久住さんがそれを見て呆れていないか。佐伯くんは、さっき話していた男子とまた話しているのか。
クラス表の前で、佐伯くんは二組にいる榊原さんの名前を見ていた。
私が気づくより先に見つけていたと思う。
心配してくれているのは分かった。
でも、佐伯くんが見ていない場所でも、今度は自分で返事ができた。それを話したら、どんな顔をするだろう。
言わなくてもいいことかもしれない。
言えば、また心配させるかもしれない。
私はプリントの住所を一文字書き間違え、消しゴムで消した。考えながら書くと、いつもより字が曲がる。
「澪、次の紙きたよ」
斜め前から小野さんに呼ばれ、慌てて顔を上げた。
「ごめん」
「大丈夫。今日、ぼんやりしてる?」
「ちょっとだけ」
「寝不足?」
「そうじゃないよ」
小野さんは私の顔を見たあと、教室の時計へ目を向けた。
それから何も言わず、次のプリントを渡してくる。
たぶん、気づかれた。
私は今度こそ間違えないよう、名前からゆっくり書いた。
昼休みまでに、時計を何回見たかは数えていなかった。
◇ ◇ ◇
昼休みのチャイムが鳴ると、教室の中が急に騒がしくなった。
机を寄せる音がして、弁当袋を持った生徒が友達の席へ移っていく。
私は鞄から弁当を出した。
朝に母が結んでくれた布は、少し固く結ばれている。ほどこうとして、指が止まった。
このまま二組で食べれば、何もおかしくない。
小野さんもいるし、杉浦くんもいる。新しいクラスの人と話すなら、最初の日からここにいた方がいいのかもしれない。
でも、朝にまたあとでと言った。
佐伯くんが覚えているかは分からない。それでも、自分から言ったことを、何となくなかったことにはしたくなかった。
「澪」
小野さんが弁当袋を持って、私の机の前へ来た。
「佐伯くんたちのところ、行く?」
誘われたら行こうと思っていた。
その方が、自分から行ったことにはならない気がしていた。
でも、朝の榊原さんとのやり取りを思い出した。誰かが先に言ってくれるのを待たなくても、短い返事くらいなら自分でできた。
「私、行ってみる」
小野さんが少し目を丸くした。
「うん。じゃあ、私も行く」
「俺も行っていい?」
後ろから杉浦くんが来た。
「何で私に聞くの?」
「いや、一応」
「佐伯くんたちに聞けばいいでしょ」
「そうなんだけど」
小野さんは普通に返していたが、弁当袋の持ち手を指へ二回巻きつけていた。
杉浦くんも自分の首の後ろを触っている。
二人とも同じクラスになれて安心していたのに、教室では前より少し話しにくそうだった。近くなったから簡単になるとは限らないらしい。
それを見ていたら、隣の教室へ行くくらいはできそうな気がした。
私は弁当袋を持ち、先に廊下へ出た。
一組までは、本当に扉一つ分だった。
朝に教室へ入った時より、ずっと近く感じる。数歩進めば着いてしまう。
けれど、一組の入口まで来ると足が止まった。
中には知らない人が多い。入口に立った私を見て、何人かがこちらへ顔を向けた。
後ろには小野さんと杉浦くんがいる。それでも、最初に声を出すのは私だった。
弁当袋の持ち手を握り直し、教室の中を探す。
中央より少し後ろで、田端くんと久住さんが机を寄せていた。
その近くに佐伯くんがいる。
私が呼ぶより先に、目が合った。
「白石」
佐伯くんが椅子から立ち上がった。
顔を見たら、朝から肩に入っていた力が少し抜けた。
「一緒に食べてもいい?」
「ああ」
佐伯くんはそれ以上何も聞かず、自分の机を横へずらした。
「お、三人とも来た」
「田端くん、朝に来いって言ってたでしょ」
「言ったけど、本当に来るとは思わなかった」
「じゃあ戻る?」
「何でそうなるんだよ。座ろうぜ」
昼休みで席を離れている生徒も多く、近くには空いた椅子がいくつかあった。田端くんが慌ててその一つを引いた。
久住さんは弁当を置く場所を空けながら、私を見る。
「白石さん、二組どう?」
「まだ、よく分からない。でも小野さんと杉浦くんがいるから」
「こっちは田端くんが朝からうるさい」
「俺の感想だけ?」
久住さんが少し笑った。
佐伯くんも机を動かしながら、いつものように田端くんへ呆れた顔を向けている。
その前の席では、朝に佐伯くんと話していた男子が、進路と書かれたプリントを読んでいた。
机を寄せる音に気づき、紙から顔を上げる。
「白石さんも、佐伯の友達?」
急に聞かれ、返事が少し遅れた。
佐伯くんを見る。
目が合ったけれど、代わりに答えようとはしなかった。机を押さえたまま、私が話すのを待っている。
「うん」
思っていたより大きな声が出た。
田端くんまでこちらを見たので、急に恥ずかしくなる。私は佐伯くんが空けてくれたところへ入り、まだ固く結ばれたままの弁当袋を膝へ置いた。




