第八十三話「三年生のクラス表に、白石の名前がない」
四月になっても、町はまだ完全には元へ戻っていなかった。
通学路のコンビニには、水と電池の購入数を制限する紙が貼られている。駅前の信号は普通に動いていたが、閉まったままの店もあった。
ただ、春休み明けの中学校は朝から騒がしかった。
校門脇の桜を携帯電話で撮っている生徒がいて、昇降口へ向かう途中では、あちこちから新しいクラスの話が聞こえてくる。震災や余震への不安が消えたわけではない。それでも、誰と同じクラスになるかは中学生にとってかなり重要らしい。
まあ、俺も人のことは言えない。
「悠真、早く行こうぜ。もう貼ってあるって」
隣を歩いていた田端が、昇降口の方を指さした。
玄関前には、すでに人だかりができている。壁へ貼られた何枚かの紙を見ようと、生徒が前へ押し寄せていた。
「押すなよ。表は逃げないぞ」
「でも、後ろだと見えないだろ」
「前に行っても、お前の頭で俺が見えなくなる」
「俺、そんなでかくないぞ」
田端はそう言いながら、遠慮なく人の間へ入っていった。
仕方なく後ろについていく。三十二歳の経験があっても、中学生の身体では人混みの向こうが見えるようになったりしない。こういう時だけでも、せめて前の身体と同じ身長が欲しかった。
肩の隙間から、一番左の紙が見えた。
三年一組。出席番号順に並んだ名前を上から追い、自分の名前を見つける。
前の人生でも、たしか俺は三年一組だった。卒業アルバムのクラス写真に書かれていた文字が、ぼんやり記憶に残っている。
地震は記憶より一日早く起きたが、こういう細かいところまで全部ずれたわけではないらしい。俺は少しだけ息を吐き、同じ紙の下へ視線を移した。
「あった。俺、一組!」
田端が先に声を上げた。
その少し下には、久住七海の名前もある。
「久住さんも一組じゃん。よかった」
「何で私を見て安心するの?」
すぐ後ろから、久住の声がした。
田端が振り返る。久住の隣には小野と白石がいて、その後ろから杉浦も人の間を抜けてきた。
「いや、知ってるやつが多い方がいいだろ」
「佐伯くんもいるよね」
「一人と二人じゃ全然違う」
「私を人数に入れただけじゃない」
「入れちゃ駄目なの?」
「まあ……駄目とは言ってないけど」
久住は少しだけ呆れた顔をしたあと、一組の紙へ視線を戻した。
妙な甘さは一切ない。田端は本当に、知っている顔が一人増えたことを喜んでいるだけだ。あいつの場合、初日から隣の席へ話しかけるくらい平気でやるので、知り合いがゼロでも何とかなる気はするが。
「小野さん、私たちは二組みたい」
白石が一つ隣の紙を見ながら言った。
小野が名前を確認し、少し離れたところにいた杉浦も同じ紙を覗く。
「私と澪、近いね」
「うん」
「俺も二組だった」
「そっか」
小野はそれだけ返したが、持っていた鞄を胸の前へ抱え直した。杉浦も口元を少し緩めたあと、周りを見てすぐに表情を戻す。
付き合い始めてまだ一か月も経っていない。俺たちは知っているが、同学年全員へ発表したわけではないので、ここで喜びすぎると面倒なことになる。
「杉浦、よかったな」
「田端、声」
「え? ……いやあ、知ってるやつがいてよかったなって」
「今考えただろ、それ」
杉浦が田端の肩を押し、人だかりの端へ追いやった。
小野は聞こえなかったふりをしていたが、耳だけ少し赤い。新学期初日から分かりやすい二人である。
「佐伯くん」
呼ばれて、もう一度クラス表を見た。
白石が一組と二組の紙の間に目を向けている。
「隣のクラスだね」
「隣なら近いだろ」
「……うん。近いね」
白石は小さく笑った。
それから二組の自分の名前を確認し、なぜか一組の紙へ視線を戻す。俺の名前はさっきと同じ場所にあり、二組へ移ってくれる様子はない。
六人全員が同じクラスになるとは思っていなかった。三人ずつなら、むしろ上手く分かれた方かもしれない。
そう考えても、白石の名前が一組の紙にないことが妙に引っ掛かった。
去年までは、朝になれば同じ教室にいた。授業中に後ろを振り返れば姿が見えたし、榊原が余計なことを言っていないかも、大体は分かった。
それを当然のように当てにしていたらしい。クラス表を見るまで、自分でも気づかなかった。
「あ」
小野の声が小さく漏れた。
二組の名前を追っていた指が止まっている。
その先に、榊原莉奈の名前があった。
俺は反射的に白石を見た。
白石は鞄の持ち手を両手で握り、クラス表を見ている。口元からさっきの笑みが消えていた。
「白石」
「うん」
呼んだところで、続きが出てこなかった。
大丈夫かと聞いても、大丈夫ではないならどうするのか。俺が二組へ入り込んで一日中見張るわけにもいかないし、そんなことをすれば白石より先に先生から追い出される。
小野が白石の隣へ半歩寄った。
「澪、教室行こうか」
「……うん」
白石は一度だけ息を吐き、持ち手を握っていた指を緩めた。
表から離れかけて、こちらを見る。
「また、あとで」
「ああ。またあとで」
昼休みなのか、放課後なのかは決めていない。それでも白石は、次に会うことを予定に入れたように言った。
「杉浦くん、行こう」
「うん。田端、またな」
「おう。昼にでも来いよ」
小野と白石が二組の教室へ向かい、杉浦が少し遅れて続く。
一組と二組は廊下を挟んだ遠い場所ではなく、同じ階の隣同士だった。白石は一つ先の扉から教室へ入り、見えなくなる。
「本当に隣だな」
俺が言うと、久住が横からこちらを見た。
「さっき自分で言ってたよ」
「確認しただけだ」
「扉一つ分なのに?」
「久住、こいつ朝から細かいぞ。気をつけろ」
「田端にだけは言われたくない」
新しい教室へ入る前から疲れる。
俺は上履きの踵を直し、一組の扉をくぐった。
◇ ◇ ◇
三年一組の教室は、当たり前だが去年の教室とほとんど変わらなかった。
黒板の上には時計があり、後ろの棚には出席番号を書いた紙が貼られている。違うのは窓から見える校庭の角度と、席に座っている顔ぶれくらいだ。
節電のためか、窓側の蛍光灯だけが消えていた。春の日差しが入るので暗くはないが、廊下側の席は少し薄暗い。
俺の席は中央より少し後ろだった。
田端は二列離れた後方で、すでに前の席の男子へ話しかけている。久住は窓側の席に鞄を置き、配られていた名札を机の左上へきっちり揃えていた。
俺も鞄を置き、席へ座る。
廊下から二組の笑い声が聞こえるたびに、そちらへ目が向いた。壁があるので何も見えない。分かっているのに、三回くらい見た。
「佐伯くん、さっきから壁を見すぎ」
久住が名札から顔を上げずに言った。
「時計を見てた」
「時計は前」
「……新しい教室の位置を確認してた」
「もう座ってるのに?」
「久住、放っておいてやれよ」
田端が勝手に助け船を出した。
「悠真は今、いろいろ大変なんだ」
「お前は何も分かってないだろ」
「でも白石さんが二組なのは気になるだろ?」
「声が大きい」
近くの生徒がこちらを見た。
俺は机の横へ鞄を掛けながら、田端を睨む。こいつを同じクラスでよかったと思ったのは、やはり間違いだったかもしれない。
「白石さんって、前に同じクラスだった人?」
前の席から声をかけられた。
振り向いた男子は、机に置いた名札を指で押さえている。名札には、高瀬航平と書かれていた。
同学年なので顔は知っている。話すのは、たぶん初めてだ。
「そう。前のクラスが一緒」
「ふうん」
高瀬は一度だけ二組側の壁を見てから、こちらへ視線を戻した。
「佐伯って、二年の後半に急に順位上がってた佐伯だよな」
「俺の名字は、たぶん学年に一人しかいないけど」
「じゃあ合ってる」
「何で知ってるんだ?」
「期末のあと、田端が廊下で二十六位って言ってた」
俺は田端を見る。
「そんな前のこと覚えてないぞ」
「高瀬は覚えてるみたいだな」
「俺が広めたみたいに言うなよ」
「廊下の端まで聞こえてた」
「じゃあ俺だわ」
認めるのが早い。
高瀬は笑うでもなく、机の端へ置いていた小さな手帳を開いた。始業式の日付の横に、細かい字で何か書いてある。
「何か勉強のやり方を変えた?」
「普通に、やる順番を決めただけ」
「それだけで、あそこまで上がる?」
「前がやってなさすぎたんだよ」
嘘ではない。
三十二歳分の記憶があるとは、さすがに初対面で言えないだけだ。
高瀬は納得したような、していないような顔で俺を見た。
嫌味を言っている感じはしない。ただ、疑問に思ったから聞いただけらしい。初対面でそこまで聞くかとは思うが、田端のように思いついたことを全部口から出しているわけでもなさそうだった。
「高瀬、お前も順位いいよな」
田端が会話へ割り込んでくる。
「まあ、それなりに」
「悠真とどっちが上?」
「前回は俺」
「即答だな」
「聞かれたから」
高瀬は本当にそれだけらしく、また手帳へ目を落とした。
未来のことを何も知らず、普通に勉強して俺より上にいる中学生。前の俺なら、同じクラスでもほとんど話さなかった相手だろう。
今の俺は、少しだけ背筋を伸ばした。三十二歳が十四歳相手に何を張り合っているんだという気もするが、負けていると言われて平気なほど枯れてはいなかったらしい。
前の扉が開き、高村先生が出席簿を抱えて入ってきた。
「席についてください。廊下にいる人も、そろそろ入ってね」
田端が慌てて自分の席へ戻る。
高村先生は教卓へ出席簿を置き、教室を見回した。去年から同じだった生徒には見慣れた顔だが、初めて担任になる生徒も多い。
「三年一組の担任になりました、高村です。一年間、よろしくお願いします」
教室のあちこちから、よろしくお願いします、と声が返った。
俺も頭を下げる。
担任が高村先生なのは助かった。震災の日のことも、白石の件も知っている。何かあった時、最初から説明し直さなくて済む。
ただし、白石の担任は別の先生になる。思わずまた二組側を見そうになり、今度は机の上の名札を直すことで誤魔化した。
高村先生は始業式の流れと、余震があった場合の避難方法を説明した。連絡先に変更がある家庭は、今日配る用紙へ書くこと。学校行事の日程は今後変わる可能性があること。計画停電や交通機関の状況によっては、連絡網を使うこともあるらしい。
「それから、三年生なので進路関係の書類も増えます。期限が短いものもあるから、鞄の底へ入れっぱなしにしないように」
何人かが嫌そうな声を漏らした。
田端は先生に見えない位置で、自分の鞄の底を確認している。言われる前から何か入っているらしい。
高瀬は手帳を開き、進路、と書いて丸で囲んだ。
十四歳の頃の俺は、進路希望調査を配られてから適当に近い高校を書いた。調べた記憶も、親とまともに話した記憶もほとんどない。
今回は、白石と一緒に丸をつけた学校がある。
父と話すことも、説明会へ行くことも決めている。前よりはましだと思いたいが、高瀬の手帳を見ると、こいつはもっと前から準備していたのだろう。
始業式を終えて教室へ戻り、配られた書類を鞄へしまっていると、高瀬がまたこちらを向いた。
「進路希望調査、たぶんすぐ来るよ」
「さっき先生も言ってただろ」
「姉の時は、四月の最初だったらしい」
「姉ちゃんいるのか」
「高校二年。だから、去年から学校の資料を見せてもらってる」
それを聞いた田端が、羨ましそうに机へ身を乗り出した。
「ずるくない? 俺、何も知らないんだけど」
「別に隠されてないだろ。自分で調べればいい」
「高瀬、たまに悠真みたいなこと言うな」
「俺を何だと思ってるんだ」
田端は答えず、机の中から折れかけた年間予定表を引っ張り出した。
高瀬はそちらを一度見てから、俺へ尋ねる。
「佐伯は、もう志望校決めてる?」
緑色の学校案内と、県立高校のページへ付箋を貼った白石の手が浮かんだ。
学校名を答えるだけなのに、俺は一度、何も見えない二組側の壁へ目をやった。
「……候補なら、一つある」
新三年生! ワクワクですねー。




