第八十二話「遅れてきたホワイトデー」
卒業式から数日後、駅前の店にも少しずつ商品が戻り始めた。
水や電池の棚はまだ空いているところが多かったが、菓子売り場には段ボールが積まれ、店員が値札を差し替えている。
その隣に、小さな贈答用の棚があった。
ホワイトデーの札は残っているものの、日付を過ぎたせいで棚の半分ほどは片づけられていた。派手な箱はほとんどなく、透明な袋に入った飴や、小さな焼き菓子の箱が何種類か並んでいる。
俺は棚の前で、二つの箱を見比べた。
一つは、淡い桃色の箱に花柄のリボンがついている。もう一つは、薄い水色の箱に個包装の焼き菓子が四つ入っていた。
値段は五百二十五円。
月の小遣いが二千円なので、だいたい四分の一である。
中学生の出費としては軽くないが、払えない額でもない。白石からもらったチョコと比べても、これくらいなら変に構えさせずに済むだろう。
問題は色だった。
水色を見ると、机の引き出しへしまったリボンを思い出す。合わせたと思われるだろうか。そもそも白石が、自分の使った包装の色を覚えているかも分からない。
棚の前で悩み続ける方が、だいぶ気持ち悪い。
俺は水色の箱を持ってレジへ向かった。
「メッセージカード、おつけしますか?」
店員に聞かれ、足が止まる。
「……お願いします」
渡されたのは、名刺より少し小さい白いカードだった。
帰宅してから机に置き、シャーペンを持つ。進路ノートなら項目をいくつでも書けるのに、白いカードを前にすると一行目すら決まらない。
『チョコありがとう』
そこまで書き、少し考える。
これだけだと、田端が書いても同じである。いや、田端ならもっと大きな字で『うまかった!』と書きそうだ。
カードに書かれていた言葉を、もう一度思い出す。
『いつもありがとう。佐伯くんが待ってくれたから、楽しいことが増えました。これからもよろしくね』
あれをもらっておいて、菓子だけ返すのは違う気がした。
俺は最初の一行の下へ、続きを書いた。
『俺も、白石と話す時間は楽しい。これからもよろしく』
書き終えてから、カードを机へ伏せた。
何だこれ。文章にすると、思っていたよりずっと恥ずかしい。
一度消そうとしたが、シャーペンなので跡が残る。新しいカードはない。駅前まで買い直しに行くほどでもないし、別の紙へ書けば、もっと準備していた感じが出そうだった。
諦めて、そのまま箱へ挟んだ。
明日、これを本人へ渡すところまで考えると胃が少し重い。三十二歳まで生きてきたくせに、中学生の贈り物一つで何をしているんだと思う。
こういう経験がほとんどなかったから困っているわけで、年齢は役に立たなかった。
◇ ◇ ◇
三月下旬になり、学校は午前中だけ授業を再開していた。
通常どおりとはいかず、時間割は毎日少しずつ変わる。計画停電の予定によって、連絡網が回ってくることもあった。
その日は、二年生最後の登校日だった。
授業はなく、通知表と春休みの予定表を受け取り、机や棚を片づける。高村先生は新学期の日程を説明したあと、最後にもう一度、余震と停電に気をつけるよう話した。
「三年生になったら、進路の話も本格的に始まります。春休み中に、ご家族と一度は話しておいてください」
教室の何人かが嫌そうな顔をした。
田端は配られた通知表を少しだけ開き、すぐに閉じる。
「進路の前に、これを親へ見せない方法を考えたい」
「無理だと思う」
「白石さん、まだ中見てないだろ」
「田端くんの顔を見たら、何となく」
白石が笑う。
田端は助けを求めるように俺を見たが、通知表の隠蔽に協力するつもりはない。前の人生で経費の申請漏れを隠そうとして、余計に面倒になった同僚を見たことがある。悪い数字ほど早く出した方がいい。
「諦めて今日出せ」
「悠真まで親みたいなこと言うなよ」
「佐伯、たまに本当に親みたいだよな」
「杉浦まで言うのか」
小野と久住が笑い、白石も通知表で口元を隠した。
そこへ校内放送から、今日の計画停電に関する連絡が流れた。笑い声が止まり、六人とも天井のスピーカーを見る。
「今の放送で、通知表の話は忘れてもらえないかな」
「無理だと思う」
白石にもう一度言われ、田端は通知表を鞄の奥へ押し込んだ。教科書を二冊も上に載せていたが、帰ったら自分で掘り出すことになる。
帰りの会が終わると、ほかの生徒は次々に教室を出ていった。
杉浦はサッカー部の短い打ち合わせがある。小野は昇降口まで一緒に行くと言い、先に鞄を持った。
「一緒に帰るんじゃないの?」
田端が聞くと、小野は少しだけ眉を寄せた。
「校門までだよ。部活の話が終わるまで待ってたら、遅くなるでしょ」
「でも昇降口までは一緒」
「田端、いいから行くぞ」
杉浦が田端の首へ腕を回し、そのまま廊下へ連れていく。
久住は音楽室へ借りていたファイルを返しに行くらしい。三人の後ろへ続きかけ、白石がまだ席にいるのを見て足を止めた。
「白石さんは?」
「学校案内を、佐伯くんと見る約束があって」
「そっか。じゃあ、また新学期」
「うん。またね」
久住はそれ以上聞かずに教室を出た。
教室には、係の仕事でプリントを数えている生徒が二人と、俺たちだけが残った。二人きりではないので変に意識する必要はない。そう考えた時点で、かなり意識している。
白石が鞄から緑色の学校案内を出した。
「今日は、ちゃんと見られそうだね」
「先に、こっちを渡してもいい?」
俺は鞄の一番上に入れていた箱を取り出した。
水色の包装を見た白石が目を丸くする。
「これ……」
「ホワイトデーのお返し。遅くなって、ごめん」
「そんな、謝らなくていいよ。あんなことがあったんだし、私も気にしてなかったから」
白石は慌てて両手を振った。
「気にしてなかった?」
「ち、違うの。忘れてたってことじゃなくて、催促するつもりはなかったっていうか……」
言いながら、白石の声がだんだん小さくなる。
自分でも言い方がおかしいと思ったらしい。両手を下ろし、机の端を指で押さえた。
「うん。分かってる」
「本当?」
「たぶん」
「また、たぶんって言った」
卒業式の日と同じ返しをされ、俺は箱を差し出したまま頭をかいた。
「とにかく、これ。チョコとカード、ありがとう」
「……うん」
白石は箱を両手で受け取った。
水色の面を見て、親指で端を一度撫でる。少しだけ口元を緩めてから、鞄を開いた。
そのまま入れようとして、教科書の角が当たりそうになり、いったん手を止める。筆箱を横へ動かし、学校案内との間に場所を作った。箱を置いてから鞄を少し揺らし、中で動かないことまで確かめている。
「お菓子だから、そこまで丁寧にしなくても大丈夫だと思う」
「でも、潰れたら嫌だから」
「そっか」
カードも入っているとは言えなかった。
家で開けるまで見つからないなら、その方が助かる。
白石は自分の机をこちらへ寄せた。鞄を閉じ、学校案内を二つの机の間へ広げる。
折れていた角には、細い透明のテープが貼ってある。
「直したの?」
「うん。お母さんに借りて」
「返す時は話すんだろ?」
「話すよ。昨日、お母さんにも同じこと言われた」
「それなら大丈夫だな」
「多分?」
「今度は大丈夫」
白石が少し笑った。
学校案内には、近隣の高校が路線ごとにまとめられていた。
公立と私立、共学と女子校。簡単な校風や部活動、前年の説明会の日程も載っている。
俺は進路ノートを出し、調べていた高校の名前を三つ見せた。
「この学校、私も気になってた」
白石が指したのは、家から電車で通える県立高校だった。
駅から少し歩くが、乗り換えはない。制服は落ち着いていて、図書室が広いと紹介されている。
「白石の家からも通える?」
「うん。たぶん四十分くらい。佐伯くんは?」
「俺も同じくらいだと思う」
「そっか」
白石は学校案内へ視線を戻したが、同じ行に指を置いたままだった。
「夏に、学校説明会があるみたい」
「この日程は去年のだな。今年も同じくらいなら行けそうだけど」
「佐伯くんも行く?」
「候補に残ったら行くつもり」
「じゃあ、私も候補に入れておこうかな」
それだけ言うと、白石は付箋を一枚取り、県立高校のページへ貼った。
俺のノートにも同じ名前がある。
一年後、本当にこの学校を受けるかは分からない。父ともまだ話していないし、成績だってどうなるか怪しい。
俺はノートの同じ学校へ丸をつけた。少し力を入れすぎて、最初に書いていた文字より丸の方が濃くなった。
「もう一つの学校は、部活が多いみたいだよ」
「白石、何か入るの?」
「まだ分からない。でも、音楽は少し気になるかも」
「合唱祭の時も歌えてたしな」
「卒業式の時も、見てた?」
シャーペンの先が止まった。
田端に気づかれたことまで思い出す。
「見てたというか、同じ方向にいただろ」
「女子はたくさんいたよ」
「……顔を上げて歌ってたから、目に入った」
白石は返事をせず、付箋の端を指で何度か押さえた。
耳が少し赤くなっている。
「変だった?」
「変じゃない。前の練習より、ちゃんと歌えてた」
「そっか。よかった」
白石は俯いたまま、学校案内の同じ行を指でなぞった。
俺も何か書くふりをしてノートを見る。丸をつけた高校名の周りだけ、やけに線が濃くなっていた。
係の生徒がプリントを抱えて教室を出ていく。
教室の後ろで扉が閉まり、今度こそ俺たちだけになった。
白石が学校案内を閉じかけ、手を止めた。
「あの日、佐伯くんも無事でよかった」
「それ、俺が言う方じゃないか?」
「私も言いたかったから」
白石は表紙の角へ目を落とした。
「学校で待ってた時、佐伯くん、ずっと苦しそうだった」
「……見られてたか」
「少しだけ」
「白石が隣に来てくれただろ。あの時は助かった」
礼を言うだけなのに、途中で喉が引っかかった。
俺が忘れていたことも、何もできなかったことも、白石は知らない。それでも隣に座り、返事が届くまで待ってくれた。
白石は学校案内へ視線を落としたまま、さっき貼った付箋を指でなぞっている。
「私も、佐伯くんの隣にいてよかった」
声は小さかったが、誰もいない教室ではよく聞こえた。
俺はすぐに返事ができず、ノートを閉じる。白石も学校案内を閉じ、透明なテープを貼った角を確かめた。
廊下から、下校を促す放送が流れた。
「帰ろうか」
「うん」
二人で机を戻し、鞄を持った。
白石は持ち上げる前に一度だけ中を覗き、水色の箱が動いていないことを確かめていた。
◇ ◇ ◇
夕食後、父とパソコンの前に座った。
春休みに調べることになっていた、未成年口座の確認である。
俺は候補にした証券会社を三つ、紙へ書いていた。手数料や申し込み方法、親権者側の口座が必要か、どんな商品を扱っているかを横に並べてある。調べても分からなかった部分には、白石に言われたとおり空欄ではなく『要確認』と書いた。
「三つとも、未成年でも口座は作れそうだな」
「親の同意は必要だけど」
「当然だ。こっちの会社は、先に親権者の口座が必要なのか」
「そう書いてある。もう一つは資料を取り寄せないと分からない」
「なら、まず資料請求までだな。申し込みは中身を見てからにする」
「分かった」
父は画面を見ながら、俺の紙へいくつか丸をつけた。
「高校の方は調べたのか?」
「今日、学校案内を見た。候補はまだ三つ」
「白石さんと?」
「何で分かるんだよ」
「前に一緒に調べると言ってただろ」
忘れてほしいことだけ、父はよく覚えている。
俺はパソコンを終了し、春休みに使うノートを開いた。
『高校の候補を調べる』
『証券会社の資料を取り寄せる』
二行書いたところで、机の上の携帯電話が震えた。
白石からだった。
『お菓子、ありがとうございました。カードも読みました』
やはりカードから逃げることはできなかった。
続きを読む。
『私も、佐伯くんと話す時間が楽しいです。これからもよろしくね』
昼間より、ずっと直接的に返ってきた。
父が隣にいるのを思い出し、携帯電話を少し伏せる。
「どうした?」
「何でもない」
「そうか」
父は追及せず、資料請求する会社の名前へ丸をつけていた。
俺は返信欄を開く。
『こちらこそ。喜んでもらえてよかった』
そこまで打って、全部消した。
仕事の返信みたいで、読んでいて嫌になった。
『俺も同じ。次は学校案内の続きな』
これも何か違う気がする。
最初の四文字を消して、少し考えた。
『俺も楽しい。次も一緒に見よう』
送信する。
震災の日のようなエラーは出ず、画面はすぐに送信済みへ変わった。
ほとんど待たずに、携帯電話がもう一度震える。
『うん。約束ね』
俺は携帯電話を伏せ、春休みのノートへもう一行足した。
『学校案内の続き』
「書けたなら、先に片づけろ。父さんも風呂に入りたい」
「分かった。今やる」
証券会社の資料と高校のノートを同じ机へ広げたせいで、片づけるだけでも少し時間がかかった。
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▼登場人物まとめ
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