第八十一話「短くなった卒業式」
卒業式の朝、俺はいつもより早く家を出た。
学校へ行くのは地震の日以来だった。数日しか空いていないはずなのに、通学路の景色が少しよそよそしく見える。
商店街では、まだシャッターを下ろしたままの店があった。営業しているコンビニの入口には、電池と水の入荷は未定だと手書きの紙が貼られている。信号が動いているだけで、妙に安心した。
校門には高村先生や他教師と学年主任が立っていた。
登校してきた生徒を止め、怪我がないか、家族と連絡が取れているかを一人ずつ確認している。
「佐伯くん、ご家族は?」
「全員無事です」
「よかった。余震が来たら、先生の指示を待たずに頭を守ってね。今日は式が終わったら、そのまま下校です」
「はい」
高村先生の目の下には、薄く隈が残っていた。
俺たちが休んでいる間も、校舎の点検や保護者への連絡で動いていたのだろう。朝から元気ですね、とは言えない顔だった。俺も前の人生で何度か似た顔をして出社していたので、そこだけはよく分かる。
昇降口では、上履きへ履き替えるだけなのに列が詰まっていた。
久しぶりに会った同級生同士が足を止め、その場で家のことを話している。先生に進むよう言われ、慌てて靴をしまう生徒もいた。
教室へ入ると、窓側の棚には近づかないよう黄色いテープが張られていた。落ちた教材は片づけられているが、壁の掲示物は端が剥がれたままだった。
俺の机は元の位置へ戻っていた。
椅子を引いて座ると、ようやく学校へ来た気がした。
「悠真」
田端が教室へ入ってきた。
いつもの調子で片手を上げたあと、俺の前まで来る。何か言いそうな口をしていたのに、出てきたのは短い言葉だった。
「無事だったな」
「メールしただろ」
「顔で見るのは別だろ」
「まあな」
田端は頷き、自分の席へ鞄を置いた。
続いて杉浦が来る。俺と田端の肩を順番に軽く叩き、近くの椅子へ座った。
「部活、ずっと休み?」
「校庭の点検が終わるまで休み。各自家の近所で走れって言われたけど、父親に今はやめろって止められた」
「そりゃ止めるだろ」
「田端に言われると納得いかないな」
教室の入口から、女子の声が聞こえた。
白石、小野、久住の三人が一緒に入ってくる。昇降口で会ったらしい。
「おはよう」
小野が俺たちへ声をかけ、久住も片手を上げた。
「おはよう」
「久しぶり」
「おはよう。三人とも無事だった?」
「だからメールしたって、田端くんにも言われそう」
小野が言うと、田端が少し得意そうな顔をした。
「ほら、やっぱり顔で見るのは別なんだよ」
「田端くんの言葉みたいにしないで」
小野の返しを聞いて、杉浦が小さく笑った。
白石は二人の後ろからこちらを見ていた。目が合うと鞄の肩紐を握り直し、一度だけ頷く。
「おはよう、白石」
「うん。おはよう、佐伯くん」
それだけ言うと、白石は自分の席へ鞄を置いた。
もう少し何か話すつもりだったのか、筆箱を出したあとも机の横に立っている。俺も聞きたいことはいくつかあったのに、顔を見て無事だと分かったら、どれから口にすればいいのか分からなくなった。
ホワイトデーのことまで頭に浮かび、余計に言葉が出てこない。
今朝も手帳の文字は見た。見ただけで、鞄の中には何も入っていない。
「白石さんの家、停電した?」
田端が先に聞いた。
「昨日はしなかったよ。予定には入ってたけど」
「俺んちも。風呂まで早く入ったのに」
「お風呂に入ったなら、別に損はしてないと思う」
久住の言うとおりである。
白石が口元を押さえて笑い、そのまま小野と久住も近くの席へ集まった。
杉浦が小野を見て、少し声を落とす。
「昨日のメール、ちゃんと届いた?」
「届いたよ。杉浦くんのところは?」
「来た。返事遅くなってごめん」
「ううん。届いたから大丈夫」
二人とも、それ以上は言わなかった。
近くにいるのに、普段より互いの顔をよく確かめている。田端も気づいたらしく口を開きかけたので、俺は黙って肘をつついた。
「そういえば、今日って弁当いる?」
田端の口から出たのは、まったく別の話だった。
「午前中で終わりって連絡あったでしょ」
「でも母ちゃんが作ってたから持ってきた」
「何で止めなかったの?」
「作り終わってから気づいた」
「じゃあ、帰って食べればいいんじゃない」
久住に言われ、田端は鞄の中を確かめた。
「卒業式って、腹減るかな」
「式の途中では食べないでね」
小野が笑い、杉浦も今度は声を出して笑った。
数日前までと同じやり取りだった。俺も肩の力が抜けたが、田端はなぜ笑われたのか分かっていない顔をしている。
高村先生が教室へ入ってきた。
全員が席へ戻り、最初に点呼を取る。欠席者は何人かいた。家の事情で来られない生徒や、まだ親戚の家にいる生徒もいるらしい。
「今日は予定をかなり短くしています。卒業式は全校で参加しますが、来賓の挨拶と一部の進行は省略します」
高村先生は黒板へ、式の流れと避難経路を書いた。
「余震が起きた場合、揺れている間は勝手に外へ出ないこと。先生たちが扉を開けます。体育館では椅子の下に頭を入れるのが難しければ、座席の間で低くなって頭を守ってください」
卒業式の説明より、避難方法の方が長かった。
以前の練習では礼の角度や椅子を引く音まで注意されたのに、今日は多少揃わなくても構わないと言われる。
あれだけ繰り返した練習は何だったのかと思うが、文句を言える話でもない。
俺たちは体育館へ移動した。
紅白の幕は張られていたものの、来賓席の椅子は前より少ない。壁際の扉はすぐ開けられるよう固定され、先生が何人も近くに立っていた。
暖房は入っていなかった。節電なのか、停電に備えているのかは分からない。上履きの底から冷えてくる感じだけは、練習の時と変わらなかった。
「田端、お前の弁当を足元に置いたら少し暖かくならないか」
「潰れるだろ」
「静かに」
前の列から久住に注意された。
まだ式は始まっていないのに、田端は口を閉じる。地震の前より素直になった気がするが、たぶん長くは続かない。
三年生が入場し、卒業式が始まった。
卒業証書は一人ずつ手渡されたが、祝辞はいくつか省かれた。練習で何度も確認した礼の順番も減っている。
それでも全員分の名前が呼ばれるには時間がかかった。
校長先生の話が始まって間もなく、床が小さく揺れた。
天井から下がる照明がゆっくり動き、体育館のあちこちで椅子が鳴る。先生が片手を上げ、全員を座らせた。
誰も大きな声は出さなかったが、隣の田端が膝の上で拳を握っている。俺も同じだった。
揺れが収まってからも、すぐには再開しなかった。
先生たちが扉と天井を確かめ、数分後、校長先生がマイクの前へ戻る。
「では、続けます」
話は途中から再開された。
何を話していたのか忘れた生徒も多いと思う。俺も覚えていなかった。
最後に、全校で「旅立ちの日に」を歌う。
一、二年生が立ち上がり、三年生もこちらを向いた。楽譜はない。練習で覚えたとおり、壇上脇に立つ音楽の先生を見る。
ピアノの前奏が始まった。
女子の列にいる白石は、両手を身体の横へ下ろしていた。指先がスカートの布を一度つまみ、すぐに離れる。
音楽の先生が腕を上げた。
白石は最初から顔を上げ、口を開いた。
何百人もいる中から、一人の声だけを聞き分けることはできない。それでも白石の口が止まらず動いているのは見えた。余震のあとで、周りにはまだ強張った顔の生徒もいる。白石だって平気なはずはないのに、先生の手を見たまま歌っていた。
少し見すぎて、自分の入るところが一拍遅れた。
隣から田端に見られる。よりによって、こいつに気づかれた。
俺は何もなかった顔で歌へ戻った。
田端は口元を少し動かしたが、今は話せない。あとで何か言われたら、余震のせいにすることにした。
曲が終わる。
白石は口を閉じ、胸の前で小さく息を吐いた。それから隣の小野と顔を見合わせる。小野が笑うと、白石も少し遅れて笑った。
音楽の先生が着席の合図を出した。
俺も椅子へ座りながら、冷えた手を膝の間に挟む。田端が横からこちらを見ていたが、正面だけを見てやり過ごした。
◇ ◇ ◇
式が終わり、教室へ戻った。
帰りの会も連絡事項だけで終わる。次の登校日は連絡網で知らせること、寄り道をせず帰ること、余震に気をつけること。同じ注意を聞いてから、高村先生が教室を出た。
田端は早速、俺の机へ来た。
「悠真、歌うところ遅れただろ」
「……余震のあとだったからな」
「白石さんの方を見てたからじゃないの?」
「弁当、早く帰って食わないと傷むぞ」
「この時期なら大丈夫だって」
話を逸らしたのに、戻ってきそうだった。
そこへ杉浦が田端の肩へ腕を回し、教室の外へ向ける。
「帰るぞ。先生、廊下にいる」
「ちょっと待て。まだ悠真が答えてない」
「何の話?」
小野が近づいてきた途端、田端は黙った。
詳しく話せば、白石本人にも聞こえる。そこまで考えられるなら、最初から言わないでほしい。
久住は鞄を肩へかけ、窓の外を見た。
「父が迎えに来るまで時間がかかったから、あの日は学校に長く残ってた。でも、今日は昼には帰れそう」
「お父さん、無事だった?」
「うん。遅くなったけど来た。帰ってから何度も謝られた」
小野が何か言いかけたが、久住は先に小さく笑った。
「仕事だったんだから、仕方ないのにね」
それ以上は話さず、久住は田端たちと一緒に教室を出た。
小野も杉浦の隣へ追いつく。二人の間には鞄一つ分くらいの隙間があったが、廊下の角を曲がるまで、その距離は変わらなかった。
俺も帰ろうと鞄を持ち上げる。
「佐伯くん」
白石が自分の席の横に立っていた。
鞄を開き、中から緑色の学校案内を取り出す。
「これ、まだ持ってるよ」
「ずっと鞄に入れてたの?」
「家では出してた。でも、今日なら見られるかもしれないと思って」
白石は学校案内の角をこちらへ向けた。
表紙の右上が少し折れ、指で伸ばした跡が残っている。
「今朝、鞄に入れた時に折れちゃったみたい」
「中は読めるんだろ?」
「うん。でも、借りた物だから」
「返す時に話せばいいだろ。黙って返すより、その方がいい」
「怒られないかな……」
「角が少しくらいなら、多分大丈夫だろ」
「多分?」
「そこは俺にも断言できない」
白石は折れた角を指で挟み、もう一度そっと伸ばした。
「今日は、もう帰らないと駄目だよね」
「先生が廊下にいるからな。残ってたらすぐ戻ってくる」
「じゃあ、次に学校へ来る日に見る?」
「そうしよう。今度は途中で何も起きないといいけど」
言ってから、余計なことを口にした気がした。
白石は一度だけ窓の方を見たあと、学校案内を閉じる。
「何かあっても……その時は、また別の日にすればいいよ」
白石はそう言って、学校案内を鞄へ入れた。教科書の間へ挟み、折れた角が当たらないよう位置を何度か直している。
俺は返事をしようとしたが、教室の前扉から高村先生が顔を出した。
「二人とも、今日はすぐ下校してね」
「はい」
「すみません、今帰ります」
白石が慌てて鞄を閉じる。
俺も肩へかけ、二人で教室を出た。
廊下の先では、田端が弁当の入った鞄を振りながら待っていた。
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▼登場人物まとめ(内容更新しました)
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