第七十九話「未来の記憶に、印をつける」
三月十二日、土曜日。
学校は休みのままで、部活動もすべて中止になった。
朝からテレビには地震の情報が流れ続けている。
父は昨日より顔色が戻っていたが、会社から連絡が来るたびに携帯電話を持って別の部屋へ移った。母も必要な物がない限り外へ出ないと決め、冷蔵庫の中身を紙へ書き出している。
俺は自分の部屋で、机の上へノートを並べた。
会社ノート、防災メモ、戻ってきた直後から使っている古いメモ帳。その横に、パソコンを置く。
防災メモには、二つの日付が残っている。
『前の記憶 三月十一日』
『今回 三月十日』
昨日はニュース記事を何度更新しても、三月十日の文字は変わらなかった。
日付が一日ずれたことも怖いが、それより気持ち悪いのは、揺れが来るまで地震の名前すら出てこなかったことだった。
俺は未来のことを書いてきた古いメモ帳を開いた。
ビットコイン、NVIDIA、スマートフォン、ゲーム。覚えていたことは、思いつくたびに書き足してある。
書いていない出来事は、起きない未来ではない。俺が思い出せていないだけかもしれない。
最初のページの上に、シャーペンを置いた。
『ここにあるのは、俺が覚えていたことだけ。書いていない未来もある。何が抜けているかは分からない』
書き終えてから読み返す。
ずいぶん嫌な注意書きになった。
だが、これを忘れると、また自分の頭の中だけで話を進める。俺は最後の一文へ二本線を引いた。
次に、ページの余白へ三つの記号を書く。
『丸 かなり覚えている大きな流れ』
『三角 起きたことは覚えているが、時期や会社が曖昧』
『横線 すでに違ったもの』
まず、スマートフォンの普及へ丸をつけた。
前の人生では、電車でも会社でも、誰もが画面を指で触っていた。これは大きく外れにくいと思う。
ただ、丸を書いたあとで少し迷った。
地震が一日ずれた世界で、普及の時期まで同じとは限らない。丸の横へ、小さく「時期は別」と書き足した。
スマートフォン向けゲームの拡大と、半導体や電子部品の需要にも丸をつける。
パズドラ、モンスト、ポケモンGOの名前には三角をつけた。流行ったことは覚えているが、配信された年月を正確には言えない。
ガンホー、ミクシィ、任天堂。
村田製作所、TDK、東京エレクトロン、ソニー。
会社名の横にも三角が増えた。
前なら、調べれば丸へ近づけられると思っていた。今も調べる必要はある。ただし、過去の業績や現在の記事を読んでも、未来の値上がりまで保証されるわけではない。
「面倒になったな……」
自分で記号を増やしておいて、思わず声が出た。
丸が多ければ安心できると思ったのに、実際には三角ばかりである。将来伸びた会社の名前を知っているだけで勝てるほど、話は簡単ではなかったらしい。
ビットコインには、丸と三角の両方をつけた。
大きく値上がりしたことは覚えている。いつ手に入れ、どう保管し、どの時点で換金できるのかは怪しい。Mt.Goxのこともある。
一個の記号で済まない時点で、この分類も早くも雑だった。
NVIDIAにも三角をつける。
伸びたことは覚えているが、海外株で為替も絡む。今の俺がすぐ触る物ではない。
最後に、防災メモの日付へ定規を当てた。
『三月十一日』へ横線を引き、隣へ『三月十日に発生』と書く。
線を引く手が途中で止まりそうになった。
日付だけが違ったのか、その後の出来事まで変わるのかは、まだ分からない。かといって、違っていたものへ丸を残す方がまずい。
俺は一息で線を引いた。
文字は消えず、黒い線の下に三月十一日が透けて見えた。
◇ ◇ ◇
パソコンで企業のニュースを見直していると、株式市場の記事が表示された。
地震を受けて売られた会社や、週明けの相場を警戒する内容が並んでいる。以前調べた会社の名前も、いくつか記事に出ていた。
値段が下がっているなら、今のうちに買えば――。
そこまで考えたところで、マウスから手を離した。
今の俺には証券口座がないので、実際には買えない。
それでも、口座があったら買っていたのかと考えた途端、胃のあたりが重くなった。ついさっきまで被害の記事を読んでいた同じ画面で、安くなった会社を探し始めていた。
俺は記事を閉じた。
短期の底値を当てる記憶もない。地震の日付すら外れたのに、株価だけ予定どおり動くと思う方がおかしい。
会社ノートの新しいページを開き、今後の方針を書き直す。
『特定の日にまとめて買わない』
『一社だけにしない』
『少額で長く持つ』
『今の決算とニュースを確認する』
信用取引はしない。借金もしない。
そこは以前から変わらないので、今回は書き足さなかった。
ノートの上で、白石がつけた赤い丸が目に入った。
父へ見せるなら、良い話より危ないところを先に書いた方がいい。前にそう言われたことを思い出す。
新しく書いた内容を白石にも見てもらいたいと思ったが、今頼む話ではない。学校案内さえ、まだ一緒に開けていない。
俺は赤い丸へ触れず、次の行を空けた。
「何をしてるんだ」
部屋の入口から父の声がした。
振り返ると、父が開いた扉へ手をかけている。
「ノートの書き直し」
「見てもいいか」
「うん」
会社ノートを父へ渡した。
古いメモ帳と防災メモは、机の端へ置いたままにする。隠したわけではないが、今見せると説明できないことが多すぎる。
父は椅子を借りず、立ったままページをめくった。
「丸と三角が増えたな」
「予想が外れる前提で分けてみた。スマートフォンが広がると思ってるのは変わらないけど、いつ、どの会社が上がるかは別だから」
「前より弱気になったか」
「普通になったんだと思う」
父は俺を見た。
「今まで普通じゃなかったのか」
「ちょっと自信がありすぎた」
「中学生が株の先を読めると思ってたなら、だいぶだな」
「そこまで言わなくてもいいだろ」
否定はできない。
俺が口元を曲げると、父はまたノートへ視線を戻した。
「今、株が下がったという記事も見た」
「買いたいのか」
「一瞬は思った。でも、買わない。口座もないし、地震のあとに急いで決めるのは違う気がする」
父の指が、新しく書いた四行の上で止まった。
「少額で長く持つ。一社だけにしない、か」
「今の会社の状態も調べる。名前だけ知ってる会社へ入れるのはやめる」
「最初からそうしろと言った気がするけどな」
「今、ちゃんと分かったんだよ」
父は小さく息を吐いた。
呆れられたようにも見えたが、ノートは閉じず、もう一度最初から見ている。
「口座を作らせるとは、まだ言わないぞ」
「分かってる」
「春休みに、未成年口座の仕組みだけ一緒に調べる。親がどこまで管理するのか、必要な書類は何か、いくらまで扱うのか」
俺はすぐに返事ができなかった。
父がノートから顔を上げる。
「聞いてるのか」
「聞いてる。いいの?」
「調べるところまでだ。震災の直後に買わせろと言い出したら、そこで終わりだった」
「言わないよ」
「本当か?」
「……一瞬考えただけ」
父の眉が上がった。
「でも閉じた。記事も」
「なら、そのまましばらく閉じておけ」
そこは父らしい。
俺は会社ノートを受け取り、机へ戻した。
「証券会社ごとに条件も違うだろうから、先に比較しておけ」
「それも俺がやるの?」
「自分で使いたいんだろ」
「そうだけど」
会社ノートの次は、証券会社の比較まで増えた。
高校調査もまだ途中で、ホワイトデーの菓子も買えていない。机の上だけ見ると、三十二歳の頃より仕事を抱えている気がする。
父が部屋を出ようとして、もう一度振り返った。
「比較するなら、二社以上だぞ」
「分かってるよ」
扉が閉まる。
俺は新しいページへ『未成年口座』と書き、その下に二本の線を引いた。
比較する会社の名前はまだ一つも出てこなかった。




