第七十八話「無事です、だけでよかった」
三月十一日、金曜日。
携帯電話が震える音で目を覚ました。
カーテンの隙間から朝の光が入っている。机の上では、防災メモが開いたままになっていた。
前の記憶は三月十一日。昨日は三月十日。
二つの日付の間には、折れたシャープペンの芯がまだ残っている。
ベッドの脇から携帯電話を取り、開いた。
『無事でよかったです。返事をありがとう』
白石からだった。
俺が送ったメールも、朝になってようやく届いたらしい。
短い文をもう一度読んでから、返信欄を開く。
『そっちも無事でよかった』と打ちかけて、手を止めた。白石が無事なのは、昨日のメールですでに分かっている。同じ内容を送り合って回線を使う必要はない。
文字を消し、携帯電話を閉じた。
返事をしないのも落ち着かなかったが、学校で会えた時に言えばいい。
そう思ってから、今日会えるとは限らないことに気づいた。
廊下へ出ると、居間のテレビがついていた。
母は音量を小さくし、画面の前で携帯電話を持っている。電話の向こうへ何度も同じ内容を伝えていた。
「はい。悠真は無事です。学校から引き渡しで帰りました。……はい、分かりました」
電話を切った母が、テーブルに置かれた紙へ何か書き込む。
「学校?」
「連絡網。今日は休校ですって。校舎の安全確認もあるから、次にいつ登校するかはまだ分からないみたい」
「高村先生から?」
「前の人から回ってきたの。次のお家に私から電話しないと」
母は名簿の番号を見て、また電話をかけた。
携帯電話やメールがこれだけ不安定でも、紙の連絡網は一軒ずつ進んでいる。前の人生では面倒だと思っていた仕組みだが、今日は文句を言う気になれなかった。
テレビでは、夜の間に分かった被害が繰り返し伝えられていた。
津波、火災、止まった交通機関。それに、原子力発電所でも異常が起きているらしい。聞き覚えのある話が増えるたびに、昨夜閉じた会社ノートのことまで思い出した。
俺はテレビから目を離し、携帯電話をもう一度開いた。
新着メールが三件に増えている。
最初は田端だった。
『家ついた。家族も無事。杉浦からも来た。小野さんも無事らしい。みんな無事でよかった』
普段なら文章の途中に余計な一言が二つくらい入る男なのに、今日はそれだけだった。
送信時刻は昨夜になっている。
次は久住だった。
『父と家にいます。家の中は少し散らかっていますが、二人とも怪我はありません。佐伯くんも無事ですか』
俺は一通だけ返信した。
『こっちも家族も無事。父さんは会社にいるけど、怪我はない』
最後の一件は小野からだった。
『家族は無事です。杉浦くんも家に着いたと、近所の子から聞きました。本人のメールはまだ届いていません』
体育館で隣にいた相手のメールが、家へ帰った途端に届かなくなる。
それでも、別の友人を挟んで無事だと分かったらしい。
少しして、今度は杉浦から直接メールが届いた。
『帰ってる。家族も無事。小野さんからのメールも今届いた』
送信時刻は、やはり昨夜だった。
田端、久住、小野、杉浦。昨日の夜に届いた白石も含め、六人全員が家へ帰っている。
メールの順番は滅茶苦茶だったが、どれにも無事という言葉が入っていた。
俺は田端にも短く返し、携帯電話をテーブルへ置いた。
全員が無事だと分かって、ようやく息を吐く。
「友達?」
「うん。みんな家に着いてた」
「よかったわね」
「うん」
父も会社にいる。
母も隣にいる。
俺の手が届く範囲は、ひとまず全員無事だった。
テレビ画面が沿岸部の映像へ切り替わる。
俺はテーブルの端に置かれていたリモコンを取り、音量をもう一つ下げた。
◇ ◇ ◇
昼前、玄関の鍵が開く音がした。
母が立ち上がり、俺もそのあとを追う。
父が帰ってきた。
スーツの上着は皺になり、鞄を持つ手もいつもより下がっている。靴には乾いた泥がついていた。
「ただいま」
「おかえりなさい。怪我、本当にない?」
「ない。会社の床で寝たせいで腰が痛いくらいだ」
「途中で無理して歩いてきたんじゃないでしょうね」
「朝になってからだ。動き始めた電車で行けるところまで来て、残りを歩いた。夜中には出てない」
父は先に言い訳を済ませた。
母が何を聞くか、会社にいる間から分かっていたらしい。
「帰る時に連絡は?」
「送った。届いてないのか?」
「来てないわよ」
「また止まってるのか」
父が携帯電話を開く。送信済みにはなっているらしいが、母の携帯には何も来ていなかった。
「まあいいわ。帰ってきたなら。手を洗って、座ってて」
「悠真は?」
「いるよ」
俺が答えると、父はそこで初めて少し笑った。
「学校、大変だったな」
「父さんも」
「父さんは会社にいただけだ。お前の方が揺れた時は怖かっただろ」
返事に詰まった。
怖かった。だが、揺れそのものより、その最中に戻ってきた記憶の方が今も頭に残っている。
父は俺の肩へ手を置き、軽く押した。
「話は飯を食ってからだ。朝から何か食べたか?」
「少し」
「少しって何だ」
母に聞かれ、答えないまま居間へ戻った。
母は父に温かい味噌汁とご飯を出した。俺の分も一緒に置かれる。
父は最初の一口を飲み、ようやく肩から力を抜いた。
「会社は?」
「建物は大丈夫だった。棚は倒れたし、電車は止まったから、帰れない人間は残った。会議室と休憩室に分かれて寝たよ」
「ちゃんと寝られた?」
「寝られるわけないだろ。余震もあったし、床は硬い」
「じゃあ、食べたら寝て」
「そうする」
母と父の会話を聞きながら、俺は味噌汁へ箸を入れた。
具を一つつまんだところで、昨夜の防災メモが浮かぶ。
「俺、防災のこと調べてたのに」
口から出ていた。
父が箸を止める。
「急にどうした」
「何か大きなことを忘れてる気がするって、前に言っただろ」
「ああ」
「春先かもしれないって、そこまで書いた。なのに昨日まで、地震のことは出てこなかった」
話しながら、自分でもおかしいと思った。
これから起きる地震を思い出せなかったと言えば、父には意味が分からない。
「なんだ、地震を知ってたみたいな言い方だな」
「……そうじゃなくて」
すぐに否定したが、その先が続かなかった。
前の人生で知っていた。起きる日も、時刻も、後から何と呼ばれるかも知っていたはずなのに、昨日まで名前すら出てこなかった。
そんなことは言えない。
「自分が知ってることは、もう少し当てになると思ってたんだ。昔見たニュースとか、聞いたこととか。でも、何を忘れてるのかも自分じゃ分からない」
父はすぐには答えなかった。
俺の顔を見たあと、味噌汁の椀をテーブルへ置く。
「お前が何を思い出せなかったのかは、父さんには分からん」
「うん」
「ただ、地震を当てるために防災を調べたわけじゃないだろ」
父は台所の方を顎で示した。
「水はあった。ラジオもすぐ出せた。電話がつながらなくても、お前は学校で待って、母さんは道を確認してから迎えに行った。俺も会社に残った」
全部、数日前に三人で確認したことだった。
「でも、もっと早く分かってたら」
「分かってたら、どうした?」
父に聞かれ、言葉が止まった。
「海の近くの人に……」
「誰に、どうやって伝える」
答えられない。
警察へ電話する自分は、昨日の校庭でも想像した。未来から来たので信じてくださいと言うしかない中学生を、誰が相手にするのか。
父は俺を責めるようには言わなかった。ただ、返事を待っていた。
俺は箸を置いた。
「分からない」
「そうか」
父はそれ以上聞かなかった。
母も何も言わず、俺の前へ湯気の立つ味噌汁を少し近づけた。
「今は食え。昨日から、まともに食べてない顔をしてるぞ」
父は自分のご飯へ戻った。
俺はしばらく味噌汁の椀を持っていた。水、ラジオ、学校で待つこと。実際に役立ったものを思い返しても、昨夜閉じた会社ノートが頭から消えない。
俺は味噌汁の具を口へ入れた。
何度か噛んで、飲み込む。味はした。
◇ ◇ ◇
父が寝室で休み始めたあと、母と近所の店へ行った。
家には水も電池もあるが、普段の食料まで十分というわけではない。今のうちに店の様子と、足りない物を見ておきたかった。
店の入口から、すでに列ができていた。
買い物籠を持った人たちは皆、いつもより静かだった。店員が水や電池について聞かれるたび、入荷は分からないと同じ説明を繰り返している。
飲料水の棚は空だった。
乾電池も、単一や単二はほとんど残っていない。缶詰やカップ麺の棚にも広い隙間ができていた。
「水は家にあるから、いいわね」
「うん。電池も確認した」
「じゃあ、今日と明日の食事にいる物だけにしましょう」
母は持ってきたメモを見て、籠へ食パンと野菜を入れた。缶詰の前では一度止まったが、家に残っている数を思い出したのか、そのまま通り過ぎる。
俺は空になった棚を見た。
この光景には覚えがあった。
前の人生でも、地震のあとに水や電池がなくなったというニュースを見た。そこだけは戻ってきた頃から引っかかっていたのに、何が起きた時の映像なのかを思い出せなかった。
母が少し先から俺を呼ぶ。
「悠真、持てる?」
「持てる」
小さな籠を受け取った。
レジに並び、必要な分だけ会計を済ませる。帰り道では、食パンの袋が潰れないよう上へ置き直した。
◇ ◇ ◇
家へ戻ると、父はまだ眠っていた。
母はテレビの音を小さくし、買ってきた物を台所へしまう。俺は荷物を置いたあと、自分の部屋へ戻った。
机の上には、昨夜の防災メモが開いたまま残っている。
俺はパソコンの電源を入れた。
起動にはいつもどおり時間がかかった。画面が立ち上がるまでの間、何度か余震があり、そのたびに本棚を見て手を止めた。
ブラウザを開く。
最初に表示されたニュースページは、ほとんどが地震の記事で埋まっていた。
いくつか記事を開き、発生日時を確かめる。
『二〇一一年三月十日 午後二時四十六分頃』
別の新聞社の記事も、テレビ局のページも同じだった。
木曜日、三月十日、午後二時四十六分。
防災メモには、昨夜書いた文字がある。
『前の記憶 三月十一日』
『今日 三月十日』
前の人生では金曜日だった。
三月十一日、午後二時四十六分。三・一一と呼ばれ、十年以上経っても日付だけで通じる出来事だった。
俺が日付を一日勘違いしていたのかと考えてみる。
けれど、曜日まで違う。会社で何度も聞いた「あの金曜日」の話も覚えている。
ページを更新した。
読み込み直された記事には、さっきと同じ日時が表示された。
俺はもう一度更新した。
それでも、三月十日の文字は変わるわけがなかった。




