閑話十「白石澪は、届かない返事を待っている」
最初の揺れが大きくなった時、私は机の下で両腕を頭に乗せていた。
机の脚が床を擦り、椅子が何度もぶつかる。窓の近くでは、ガラスが割れてしまいそうな音が続いていた。
「動かないで! そのまま!」
高村先生の声に、出しかけていた顔を引っ込める。
少し前に見た時、佐伯くんはこちらへ来ようとしていたように見えた。机の下から片膝を出し、私の方を見ていたから、たぶんそうだと思う。
けれど、すぐに大きな揺れが来て、佐伯くんの身体は机の下へ戻された。
私は大丈夫だと伝えたかった。
口を動かしてみたけれど、机や窓の音が大きくて、自分の声さえ聞こえなかった。
揺れが少し弱くなったあと、もう一度だけ顔を上げる。
佐伯くんは私ではなく、黒板の方を見ていた。
正確には、黒板の横に書かれた日付を見ていた。
三月十日。
そこに何か変なものでもあるみたいに、ずっと目をそらさない。
呼びかけようとしたところで、高村先生からその場を動かないよう言われた。
私はもう一度机の下へ戻った。
床はまだ揺れていたのに、佐伯くんの顔だけが頭から離れなかった。
◇ ◇ ◇
校庭へ避難してからも、佐伯くんは何度も日付を確かめているように見えた。
先生たちが持ってきたラジオから、大きな地震や津波の話が聞こえる。周りの人たちは泣いたり、友達の名前を呼んだりしていた。
私も怖かった。
足の下がまた動くたびに息が詰まり、校舎の窓が鳴ると肩に力が入った。
それでも、佐伯くんは少し違って見えた。
地震が怖いだけなら、私と同じように校舎や先生を見ると思う。でも、佐伯くんはラジオから聞こえてくる言葉に反応して、何かを思い出そうとしているようだった。
高村先生に顔色が悪いと言われても、大丈夫だと答えていた。
膝の上では、手を強く握っている。
開こうとしても指が動かないのか、握ったまま小さく震えていた。
声をかけたかったけれど、男子と女子の列は離れていた。
今ここで名前を呼んだら、先生の指示を聞いていないと思われるかもしれない。それに、何を聞けばいいのかも分からなかった。
怖いの、と聞くのは違う気がした。
大丈夫、と私が言えるほど、私も大丈夫ではなかった。
体育館へ移ってから、私は小野さんと久住さんの近くに座った。
携帯電話を開いて母へ電話をかけてみたけれど、つながらない。メールも送れず、画面には同じ表示ばかりが出た。
「澪、家は?」
「まだ連絡つかない」
「私も。たぶん、みんな同じだよね」
小野さんの声も、いつもより小さかった。
久住さんは携帯電話を膝へ置き、何も言わず画面を見ている。田端くんも、少し離れた場所で携帯電話を上へ掲げ、久住さんに電池が減ると言われていた。
そのやり取りを聞いても、誰も笑わなかった。
佐伯くんは鞄の持ち手を握り、俯いていた。
周りには人がいるのに、一人だけ別の場所へ考えに行ってしまったように見えた。
私は立ち上がりかけて、やめた。
今行っても、何もできない。
迷惑かもしれない。
佐伯くんは一人で考えたいのかもしれない。
理由はいくつも浮かんだ。
でも、そのまま座っていると、今度は行かなかったことばかり考えてしまいそうだった。
「ちょっと、あっちに行ってくるね」
小野さんに言うと、私の視線の先を見てから頷いた。
「うん」
それだけだった。
何も聞かれなかったことに少し助けられて、私は鞄を持って立ち上がった。
佐伯くんのそばまで行く。
空いている場所はあったのに、勝手に座る勇気が出なかった。
「ここにいてもいい?」
「……俺の隣?」
「うん」
鞄の肩紐を握り直す。
手が震えているのを見られたくなかったけれど、隠せるほど落ち着いてもいなかった。
「今、一人で座っているより、その……いいかなって。嫌だったら戻るけど」
「嫌じゃないよ」
その答えを聞いて、少しだけ息を吐いた。
私は隣へ座り、鞄を膝の上へ置いた。
「白石も怖いだろ」
「……うん。まだ揺れてる気がする」
「俺もする」
佐伯くんも怖いのだと、初めてはっきり分かった。
教室で何が起きても落ち着いていて、私が言葉を出せない時には待ってくれる。大人より先に先生へ話し、父親に見せるノートまで作ってしまう。
そんな佐伯くんの手に、鞄の持ち手の跡が赤く残っていた。
「肩、痛い?」
「肩は大丈夫」
「じゃあ、どこか気持ち悪い?」
「そういうのでもない。ちょっと考えてただけ」
本当のことを全部言っていないのは、私にも分かった。
でも、私だって何を考えているのか聞かれたら、うまく答えられない。
だから、それ以上は聞かなかった。
隣に座っていても、何かを助けられた感じはしなかった。
私の手もまだ震えていたし、母からの連絡もない。余震が来れば、二人とも同じように身を固くした。
それでも、元の場所へ戻ろうとは思わなかった。
友達が一人ずつ保護者と帰り、最後に佐伯くんのお母さんが来た。
自分の家も心配なはずなのに、私の母が来るまで一緒に待つと言ってくれた。
申し訳なくて断ろうとしたけれど、佐伯くんも帰ろうとせず、お母さんの隣へ座った。私は何度も頭を下げることしかできなかった。
母の姿が体育館の入口に見えた時、立ち上がるより先に身体の力が抜けた。
近くまで来た母に両肩を抱かれ、大丈夫と答える。そう言いながら、私は母の袖を掴んでいた。
離した方がいいと思っても、指がなかなか動かなかった。
帰る前に、佐伯くんを見る。
「佐伯くん、帰ったら連絡するね」
「今はメールも遅れると思うぞ」
「うん。それでも、送る」
「……分かった。俺も送る」
またね、と言って体育館を出た。
廊下を曲がる前に一度振り返ると、佐伯くんはまだこちらを見ていた。
◇ ◇ ◇
学校の外は、もう暗くなり始めていた。
信号も街灯も消えている。母は片手に懐中電灯を持ち、もう片方の手で私の手を握った。
「足元、気をつけてね」
「うん」
「学校で怪我はなかった?」
「大丈夫。お母さんは?」
「私も大丈夫。家も棚から少し落ちたくらいよ」
母はそう言ってから、懐中電灯を見た。
「電池、替えておいてよかったわ。前に澪が聞いてくれたでしょ」
「……うん」
あれは、佐伯くんから急に来たメールがきっかけだった。
懐中電灯や水を確認したことがあるかと聞かれ、その時は少し不思議に思った。佐伯くんらしいとも返した。
まさか、こんなに早く使うとは思わなかった。
「どうしたの?」
「何でもない。佐伯くん、大丈夫かなって」
「お母さんが迎えに来てたから、きっと大丈夫よ」
「うん」
そうだと思う。
それでも、無事に家へ着いたという一言を、自分の携帯電話で読みたかった。
家の中も停電していた。
本棚から落ちた本が廊下へ出ていて、台所では調味料の瓶がいくつか倒れている。母と一緒に危ない物だけ片づけてから、自分の部屋へ入った。
机の上に置いていた物は床へ落ちていたが、大きく壊れた物はなかった。
鞄を椅子へ置き、中から学校案内を出す。
緑色の表紙に傷はついていない。角も折れていなかった。
今日、佐伯くんと一緒に見るはずだった。
朝には、放課後の約束を忘れないよう何度も確かめた。田端くんが購買の話をして、みんなで少し笑った。
私は学校案内を開こうとして、やめた。
今は高校の名前を読んでも、頭に入らないと思う。
学校案内を机の上へ置き、携帯電話を開いた。
新しいメールを作る。
『家に着きました。先ほどは隣にいてくれて、ありがとうございました。佐伯くんも、お母さんと無事に帰ることができましたか』
最後まで打ってから、読み直す。
長いし、学校から帰ったという連絡には少し硬すぎる。
それに、隣にいたかったのは私の方だった。
一度全部消して、短く打ち直した。
『家に着きました。佐伯くんも、無事に帰れましたか』
送信ボタンを押す。
しばらく待ったあと、送信できなかったという表示が出た。
「……届かない」
もう一度押そうとした時、廊下から母の声がした。
「澪、携帯は何度も使わないでね。電池がなくなると困るから」
「うん」
私は送信画面を閉じられず、そのまま机へ置いた。
少し待つつもりだった。
けれど、何分待てばいいのか分からない。時計を見て、携帯電話を見て、また時計を見る。
十分ほど経ってから、もう一度だけ送信ボタンを押した。
今度は送信済みになった。
ほっとしてから、すぐに別のことが気になった。
送信できたことと、佐伯くんへ届いたことは同じなのだろうか。
送信済みの画面を閉じ、待受画面に戻す。
机の上に置く。
少ししてから、また開く。
何も届いていない。
携帯電話を学校案内の横へ置いた。
離れたところに置けば何度も見なくなると思ったのに、今度は机の方ばかり気になった。
◇ ◇ ◇
電気が戻ってから、母と遅い夕食を食べながらテレビを見た。
大きな地震だったことは分かっていたけれど、画面に映るものは、学校で想像していたよりずっとひどかった。
母が何度かチャンネルを替えても、どこも同じ地震の話をしている。
私は箸を持っているだけで、ほとんど食べられなかった。
私は携帯電話を膝の上へ置いた。
小野さんたちも無事に家へ着いただろうか。久住さんのお父さんは一緒に帰れただろうか。杉浦くんと田端くんも、暗い道で怪我をしていないだろうか。
みんなの顔を順番に思い出す。
最後には、やっぱり佐伯くんのところで止まった。
肩をぶつけたと言っていた。
お父さんとは連絡がつかないとも聞いた。
それに、地震が起きてからの佐伯くんは、私の知らない何かを怖がっていた。
理由を聞かなかったことが、急に気になった。
隣に座っただけでよかったのだろうか。もっと話した方がよかったのか。それとも、あれ以上聞いたら困らせたのか。
考えても分からない。
携帯電話は震えなかった。
「澪、今日はもう寝なさい」
「でも、まだ返事が……」
「メールは遅れてるんでしょ。朝になったら届いているかもしれないわ」
「うん」
部屋へ戻り、携帯電話を枕元へ置いた。
学校案内は机の上に残っている。
鞄へしまおうかと思ったけれど、立ち上がる気になれなかった。
布団へ入ってからも、何度か携帯電話を開いた。
画面には時刻と電池残量が表示されるだけだった。
返事を急かすメールは送らない。電話もかけない。そう決めても、確認する回数までは減らなかった。
佐伯くんは、帰れただろうか。
お母さんも、お父さんも無事だろうか。
私が最後に時刻を見たあと、どれくらい起きていたのかは分からなかった。
◇ ◇ ◇
携帯電話の振動で目が覚めた。
外はもう明るくなっている。枕元から携帯電話を取り、開くまでに一度手が滑った。
佐伯くんからだった。
『こっちも帰った。母さんも無事。父さんは会社にいるけど、怪我はない』
送信時刻は昨夜になっていた。
何度も読まなくても内容は分かる。それでも、私は最初からもう一度読んだ。
佐伯くんは家にいる。
お母さんも、お父さんも無事だった。
息を吐くと、肩が少し痛かった。ずっと力を入れていたらしい。
私は返信欄を開いた。
『無事でよかったです。返事をありがとう』
少し迷い、一度だけ送信する。
送信済みの表示を確認してから、携帯電話を閉じた。
「澪、起きてる? 朝ご飯にするよ」
廊下から母に呼ばれた。
「うん。今行く」
返事をした途端、お腹が鳴った。
昨日の夜はほとんど食べられなかったことを思い出し、私はお腹へ手を当てた。
ベッドから下り、携帯電話を机へ置く。
その隣には、緑色の学校案内がある。
いつ学校へ行けるのかも、佐伯くんといつ一緒に見られるのかも、まだ分からない。
私は学校案内の位置を少しだけ直した。
鞄へは戻さず、机の上に置いたまま、朝食を食べに部屋を出た。




