第七十七話「ラジオしか聞こえない夜」
玄関の鍵を開けると、母が先に懐中電灯を差し入れた。
白い光が、倒れた傘立てと床に落ちた写真立てを照らす。ガラスは割れていなかったが、廊下の奥には本や小物がまだ散らばっていた。
「靴、すぐ脱がないで。床に何か落ちてるかもしれないから」
「分かった」
母が先に廊下を照らし、危ない物がないと確かめた場所から進む。地震直後に一度片づけたらしいが、学校へ迎えに出るまでに全部を見る余裕はなかったようだ。
台所では、棚の扉が一つ開いたままになっていた。床に落ちた皿は二枚だけで、割れた破片は新聞紙の上へまとめられている。冷蔵庫の横には、避難場所と連絡先を書いた紙が残っていた。テープも剥がれていない。
「ガスは止めてある。変な匂いもしなかったわ。ブレーカーも落ちてないから、町の停電みたい」
「水は出る?」
「今は出てる。止まる前に、お風呂へためておきましょう」
母と一緒に浴室へ行き、空になっていた浴槽の栓をした。蛇口をひねると、少し頼りない音のあとに水が出る。
浴槽の水は手洗いやトイレ用にして、飲み水には買っておいた物を使う。水がたまるまで、蛇口の音が止まっていないか何度も確かめた。
押し入れの手前には、水の箱と、ラジオを入れた袋が並んでいた。
つい五日前に埃を払い、父と動作を確かめた物だ。袋の中には外しておいた電池と予備の乾電池もある。暗い押し入れを奥まで探らずに取り出せた。
「お父さん、ここに動かしておいてくれたのね」
「この前、三人で確認した時にね」
「そうだったわね。まだ一週間も経ってないのに、ずいぶん前みたい」
母が袋を押さえ、俺がラジオへ電池を入れた。
手元が暗く、向きを一度間違える。母に懐中電灯を近づけてもらい、入れ直してから電源を回した。
大きな雑音が鳴る。
「音、下げて」
「ごめん」
慌ててつまみを戻した。
アンテナを伸ばして周波数を合わせると、聞き覚えのある放送局の声が入ってきた。音は時々途切れたが、太平洋沿岸へ大津波警報が出ていること、鉄道が止まっていること、各地で停電が起きていることは聞き取れた。
母は自分の携帯電話を開いた。
「お父さんに、もう一度だけ送るね」
「短い方がいいと思う」
「分かってる」
『悠真と家に戻りました。二人とも怪我はありません。無理に帰らず、安全な場所にいてください』
母は文面を俺にも見せてから送信した。
しばらく画面を見ていたが、返事は来ない。電話をかけようとはしなかった。
「会社にいるよね」
「いるはずよ。この前、無理に帰らないって約束したでしょ」
「父さん、自分だけは帰ろうとしそうだけど」
「そうなのよね」
母は少しだけ眉を寄せた。
冗談として笑うには、父からの連絡が足りなかった。
俺はラジオを居間の中央へ運び、音が聞こえるぎりぎりまで小さくした。
部屋の明かりは、懐中電灯が二本だけだった。母は台所の引き出しからろうそくも出したが、余震が続いているからと火はつけなかった。
懐中電灯だけで過ごす居間はなんだか狭く感じた。
窓の外を見ても、向かいの家にも街灯にも明かりがない。時々、道路を通る車のヘッドライトが天井を横切り、そのたびに棚の影が大きく動いた。
余震が来ると、母がすぐラジオを押さえた。
俺もテーブルから離れ、倒れてくる物がない場所へ移る。揺れは短かったが、止まったあともしばらく二人とも動けなかった。
「学校では、ちゃんと机の下に入った?」
「入った。先生がすぐ言ってくれたから」
「白石さんたちも?」
「みんな無事。迎えが来るまで体育館にいた」
「そう。よかった」
母は息を吐き、ラジオから手を離した。
俺も無事だった。白石も、小野も、杉浦も、久住も、田端も、目の前にいた範囲では怪我をしていない。母もここにいる。
そこまで確認しても、ラジオから流れてくる声を聞くと胃のあたりが縮んだ。
沿岸部では、まだ安否すら分からない人が大勢いる。
俺はそれを知っていた。
——いや、知っていたはずだった。
「悠真?」
「……何?」
「顔色悪いわよ。横になったら?」
「大丈夫。寝ても余震が来たら起きるし」
「横になるだけでも違うでしょ」
母に言われ、ソファへ座った。
横になる気にはなれず、携帯電話を開く。学校で母へ送ろうとしたメールは、いつの間にか送信済みへ移っていた。母の携帯には届いていないらしい。
白石からのメールもない。
家には着いたはずだ。母親と一緒に出たのだから、帰り道も一人ではない。それでも、連絡すると言った声が何度も頭に残った。
◇ ◇ ◇
夕食は、冷蔵庫を長く開けずに出せる物で済ませた。
昼に炊いた米と、作り置きの煮物、缶詰。母が携帯電話の明かりで中身を確かめ、俺が懐中電灯を持った。普段なら何でもない準備に、やたら時間がかかった。
ラジオをつけたまま、暗い食卓へ向かい合って座る。
母は何度も携帯電話を見た。俺も自分の携帯をテーブルの端へ置き、ランプが光っていないか確かめる。
箸で煮物をつまんだところで、ラジオから津波による被害が出ているという続報が流れた。
箸が止まった。
頭の中には、前の人生で何度も見た映像が勝手に出てくる。今ラジオで話している場所と同じなのか、もっと別の町なのかは分からない。分からないまま、濁った水と流される車だけが浮かんだ。
「食べられない?」
「……あとで食べる」
「少しでも食べておきなさい。今日は昼から何も食べてないでしょ」
母に言われ、冷えた米を口へ入れた。
噛んでもなかなか飲み込めず、水で流し込む。こんなところで体調を崩せば、母の仕事を増やすだけだ。分かっているのに、二口目は一口目より時間がかかった。
食事を半分ほど残した頃、母の携帯電話が鳴った。
母は箸を置き、すぐに開く。
『会社にいる。怪我はない。今夜は帰らない。そっちも無事でよかった』
短いメールだった。
送信時刻は一時間近く前になっている。
「お父さん、会社にいるって」
「怪我は?」
「ないって。今日は帰らないって」
母は同じ文面を二度読み、携帯電話を胸元へ持っていった。
「約束、守ったみたい」
「当たり前でしょ」
返事は少し震えていた。
母は目元を指で押さえたあと、父へ短い返信を送った。今度は送信できたのかどうか分からないまま、携帯電話を閉じる。
「悠真、もう少し食べられる?」
「うん」
俺は残っていた米を口へ運んだ。
父が無事だと分かっても味はよく分からなかったが、さっきよりは飲み込めた。
◇ ◇ ◇
夜も遅くなった頃、天井の照明が突然ついた。
眩しさに目を細める。冷蔵庫が動き始め、電子レンジの表示が点滅した。外からも、近所の家で声が上がるのが聞こえた。
「電気、戻った……」
母は立ち上がり、最初にラジオの電源を切った。
次にテレビをつける。
画面が映るまでの数秒がやけに長かった。
どの局も地震のニュースだった。
画面には広い範囲の地図と警報が表示され、別の映像へ切り替わると、沿岸部の町が暗闇の中で映されていた。駅で動けなくなった人たちや、止まった電車の情報も流れている。
母は口元へ手を当てたまま、立って見ていた。
画面の隅には、三月十日と出ていた。
番組が切り替わっても、速報が更新されても、そこだけは変わらない。
「悠真、少し離れて見なさい」
「うん」
返事をしても、身体が動かなかった。
前の人生で見たものに似ている。ニュースで使われる言葉も、映る場所も、停電した駅も覚えがある。
それなのに、一日早い。
携帯電話が震えた。
反射的に開くと、白石からのメールが届いていた。
『家に着きました。佐伯くんも、無事に帰れましたか』
送信時刻は、学校を出てからそれほど経っていない時間だった。
今までどこかで止まっていたらしい。
「白石さん?」
「うん。家に着いたって」
「よかったわね。返してあげなさい」
母に言われる前から、返信欄を開いていた。
『こっちも帰った。母さんも無事。父さんは会社にいるけど、怪我はない』
一度読み直し、送信する。
画面は送信済みに変わったが、白石の携帯電話へいつ届くのかは分からない。
『連絡ありがとう』
もう一文打ちかけて、消した。
何度も送れば回線にも電池にも余計な負担をかける。礼なら、学校で会えた時に言えばいい。次にいつ会えるのかは分からないが、今は一通でやめた。
母はテレビの前に座り、父から追加の連絡が来ていないか携帯電話を確かめていた。
「俺、部屋にいる」
「余震が来たら、すぐここへ来るのよ」
「分かってる」
自分の部屋も電気は戻っていた。
机の上には、地震により散らかっているものの朝のままノートが何冊も重なっている。高校調査、会社ノート、小遣い表、防災メモ。昨日までなら、どれから進めるか考えるところだった。
椅子へ座り、会社ノートを開いた。
最初の方には、iPhone4から考えたスマートフォン普及の仮説がある。電子部品、半導体、ゲーム。白石が赤ペンでつけた丸や、説明が足りないと書いた小さな文字も残っていた。
ページをめくると、調べたい会社の名前が出てくる。
ふと、会社ノートの下から、古いメモ帳の角が出ていることに気づいた。戻ってきたばかりの頃に書いた物だ。
『宝くじの番号は覚えていない』
『ビットコイン』
『NVIDIA』
『白石』
表紙の端が折れたメモ帳に、汚い字で書いてある。
白石の名前もあった。学校から消えたことを覚えていたから、あの嘘告白には間に合った。
そのすぐ上には金に関わる言葉が三つもあるのに、どのページをめくっても地震とは書いていなかった。
ビットコインが上がることは覚えていた。NVIDIAの株を買っておけばよかったことも、スマートフォンが普及して、ゲーム会社や半導体関連の会社が伸びたことも思い出せた。
細かい年や株価は抜けていても、大きな流れは残っている。そう思って、何か月も調べてきた。
俺は防災メモを開いた。
『まだ足りない気がする』
『春先?』
そこまで書いていた。
店から水が消えたことも、暗い駅に人があふれたことも、頭のどこかには残っていた。それでも、今日の揺れが来るまで、東日本大震災という名前すら出てこなかった。
「なんでだよ……」
声に出しても、何も戻ってこない。
宝くじの番号を覚えていないことは、最初から諦めていた。株価の細かい動きも、ゲームの配信日も分からない。それくらいなら、調べ直せばいいと思っていた。
だが、今回忘れていたのは数字一つでは済まない。
俺は会社ノートへ目を戻した。
将来儲かりそうな会社は、こんなに並べられた。父を説得する資料まで作り、白石にも見てもらった。自分の記憶は曖昧だから確認が必要だと、分かったような顔までしていた。
そのくせ、何万人もの生活を変えた災害を、俺は今日まで思い出せなかった。
胃の奥から何か上がってきた。
慌てて口元を押さえ、会社ノートを閉じる。勢いで筆立てに当たり、シャープペンと赤ペンが机の下へ落ちた。
拾おうとして椅子から腰を上げたが、足に力が入らず、すぐに座り直した。
未来の全部を覚えているつもりはなかった。
けれど、覚えていないのは細かい数字や、自分が興味を持たなかった出来事くらいだと、勝手に決めていた。
東日本大震災を知らなかったわけではない。前の人生で何度も見た。何度も聞いた。それでも抜けていた。
ほかにも何か抜けているのか。
考えようとしても、抜けているものの名前なんて出てくるはずがない。今までだって、地震の名前は出てこなかった。
考えた瞬間、また床が揺れた。
机の下へ入るほどではなかったが、俺は反射的に天板へ手をついた。居間から母が呼ぶ。
「悠真、大丈夫?」
「大丈夫!」
答えた声が裏返った。
揺れが止まっても、机へついた手は動かなかった。
しばらくしてから、床に落ちたシャープペンを拾った。
防災メモの空いているページを開き、一番上へ書く。
『東日本大震災』
その下へ、前の人生で覚えている日付を書いた。
『前の記憶 三月十一日』
『今日 三月十日』
続けて何を書けばいいのか分からなかった。
どうして一日早まったのか。俺が戻ってきたせいなのか。ほかの未来も変わるのか。その前に、なぜこんな大事なことを忘れていたのか。
どれから書いても、答えは出ない。
シャープペンの芯が紙へ当たったまま折れた。
小さな黒い欠片が二つの日付の間へ落ちた。拾おうとしたが、指がうまく動かない。結局、そのままシャープペンを机へ置いた。




