第七十五話「明日来るはずだった」
机の下で、俺は黒板の日付を見続けていた。
黒板に残った日付は三月十日で、何度見ても十一日にはならない。
「まだ出ないで! そのまま待って!」
高村先生の声で、握りしめていた机の脚へ視線を戻した。
強い揺れは弱まっている。それでも床は細かく動き、窓や机が時々思い出したように鳴った。教室の後ろでは、棚から落ちたらしいファイルが開き、中の紙が床いっぱいに散っている。
「怪我をした人はいる? 返事できる人は声を出して」
高村先生が教室を見渡しながら聞いた。
あちこちから「大丈夫です」と返事が上がる。泣いていて答えられない女子には、近くの生徒が代わりに声をかけた。
「佐伯くん」
白石に呼ばれた。
窓際の机の下から、こちらを見ている。
「怪我、してない?」
「してない。白石は?」
「大丈夫」
白石は答えたあとも、俺の顔を見ていた。
たぶん、何か言いたかったのだと思う。だが、高村先生がもう一度その場を動かないよう言ったので、白石は机の下へ頭を戻した。
俺も膝を抱えるようにして身体を収めた。
右肩が少し痛い。さっき机の脚へぶつけたせいだろう。腕は動くし、制服が破れているわけでもない。これくらいなら怪我に数えるほどでもなかった。
教室の外から、先生たちが名前を呼び合う声が聞こえた。
校内放送は入らない。蛍光灯もテレビも消えたままで、停電しているらしい。
「高村先生! 二年生は北階段を使って校庭へ!」
廊下を走ってきた男性教師が、開いた扉の外から叫んだ。
「分かりました!」
高村先生は教卓から出席簿を取り、教室を見回した。
「今から校庭へ避難します。鞄は置いたまま。出席番号順に廊下へ出て、走らないでください。頭の上に手を置いて、前の人を押さないこと」
生徒たちが机の下から出始めた。
田端も立ち上がったが、机の脚につまずき、隣の椅子へ手をつく。
「いてっ」
「大丈夫?」
「大丈夫。机が勝手に動いた」
「今は余計なこと言わなくていいから」
小野に言われ、田端は口を閉じた。
いつもならもう一言返すところだが、今日はそれもなかった。
廊下へ出ると、掲示物が何枚も床へ落ちていた。壁にかけられていた額は片側だけが外れ、斜めになっている。窓の近くには細かい破片が見えたため、先生が反対側へ寄るよう手で示していた。
前の生徒について北階段を下りる。
上履きのまま外へ出ることになるが、履き替えている場合ではない。途中でまた弱い揺れが来ると、列が止まり、誰かが息を呑んだ。
「手すりにつかまって。押さないで、ゆっくり下りて」
高村先生の声は少し上ずっていた。
それでも指示は止まらない。先頭と最後尾を何度も見比べ、遅れている生徒がいないか確かめている。
俺はその声に従って階段を下りた。
三十二歳の記憶があろうが、教師でも救助隊員でもない。ここで勝手なことをして列を乱せば、ただ邪魔になるだけだ。
分かっているが、頭の中では別の映像が動き続けていた。
海から離れようとする車の列。屋上へ逃げる人たち。画面の端には、見慣れないほど広い範囲の警報が表示されていた。
覚えていた災害は、もう始まっている。
だが、どこの海岸へ、何時に、どれほどの高さで来るのかまでは思い出せない。覚えているつもりだった映像も、いざ必要になると場所と順番が抜け落ちていた。
校庭へ出ると、冷たい風が制服の中へ入った。
全校生徒が学年ごとに集まり始めている。体育の授業中だった生徒はジャージ姿のままで、別のクラスは俺たちと同じように上履きだった。
教師たちは声を張り上げ、クラスごとに座らせている。
「二年三組、ここです! 出席番号順に並んで!」
高村先生が出席簿を掲げた。
俺たちは地面へ腰を下ろさず、低い姿勢で並ぶ。冷えた土が上履き越しに伝わり、さっきぶつけた肩より、今度は足先の冷たさが気になった。
男子と女子で列が分かれた。
杉浦は男子側から小野を探し、目が合うと小さく手を上げる。小野も頷いたが、すぐ高村先生の方へ向き直った。
田端は隣で、自分の制服についた白い埃を払っていた。
「昨日より、だいぶでかかったな」
「ああ」
「今日の授業、もう終わりかな」
田端は言ってから、周りを見た。
誰も笑わない。自分でもまずかったと思ったのか、口元を引き結び、膝の上へ手を置いた。
高村先生が出席番号を一人ずつ読み上げる。
返事が遅れるたびに顔を上げ、本人の姿を確かめた。最後まで読み終えた後、人数を数え直し、近くにいた教師へ全員いると報告する。
ほかのクラスでも点呼が続いていた。
泣き声と教師の声が混ざる。校舎のどこかで非常ベルが鳴り始めたが、途中で途切れた。
地面がまた動いた。
「頭を守って、姿勢を低くして!」
高村先生の声で、全員がその場にしゃがみ込む。
校舎の窓が一斉に鳴った。外にいるせいか、教室にいた時より揺れは小さく感じる。それでも目の前の地面まで動いているのを見ると、逃げる場所がどこにもないような気分になった。
白石は女子の列で両腕を頭の上へ置いていた。
揺れが弱まると、腕の隙間からこちらを見る。
また目が合った。
俺は大丈夫だと伝えるつもりで頷いたが、きちんと動けていたか自信がない。白石は眉を寄せたまま、しばらく目をそらさなかった。
◇ ◇ ◇
点呼が終わってからも、校庭での待機は続いた。
電気は戻らず、校舎の中から放送が流れる気配もない。先生たちは携帯電話を取り出していたが、耳へ当てては首を振っている。
体育の先生が、小さなラジオを持って職員の輪へ走ってきた。
音量を上げたままなのか、離れているこちらにも途切れ途切れに声が届く。
『……三陸沖を震源とする……』
聞こえた言葉に、背中が強張った。
周囲の先生たちもラジオへ顔を寄せる。雑音の合間に、非常に大きな地震、太平洋沿岸、大津波警報という言葉が続いた。
ラジオの言葉を聞いた瞬間、前の人生で何度も耳にした名前まで出てきた。
東日本大震災と呼ばれていた災害が、今日、始まっている。
俺は周囲を見回した。名前を思い出したところで、何をすればいいのかは分からなかった。
海の近くに住んでいる知り合いはいない。学校の電話は止まり、携帯電話は鞄の中だ。仮に手元にあったとして、どこへかけて何を言えばいい。沿岸部にはすでに警報が出ている。十四歳の中学生が、ニュースより詳しい話をできるはずもない。
警察へ電話する自分を想像し、すぐにやめた。
こんな時に回線を一本塞いで、未来から来たので信じてくださいとでも言うのか。相手にされないだけならまだしも、本当に必要な連絡の邪魔になる。
俺は膝の上で拳を握った。
爪が掌へ食い込んでも、さっき見た黒板の日付は変わらない。
「佐伯くん」
高村先生が列の前から俺を見ていた。
「顔色が悪いけど、気分が悪い?」
「……大丈夫です」
「本当に? 保健の先生に言う?」
「肩を少しぶつけただけです。動かせます」
腕を上げて見せると、高村先生はすぐには離れなかった。
「痛みが強くなったら必ず言って。今は全員、学校で待機します」
高村先生はクラス全体へ向き直った。
「停電で学校の電話が使えません。携帯電話もつながりにくくなっています。道路や家の安全も確認できていないので、自分たちだけで帰ることはできません」
何人かが不安そうに顔を上げた。
「保護者の方へ直接引き渡すまで、先生たちと学校にいます。荷物を取りに戻るのも、まだ待ってください」
小野が唇を噛み、杉浦は部活用の鞄を残してきた校舎を見た。久住は黙ったまま、制服の袖口を指でつまんでいる。
白石だけは校舎ではなく、こちらを見ていた。
俺は何か言われる前に手を開こうとしたが、指がうまくほどけない。膝の上で握り込んだ拳が、小刻みに震えていた。




