第七十四話「三月十日、午後二時四十六分」
本話以降、しばらく地震や災害、および東日本大震災を想起させる描写が含まれます。
被災経験のある方や、こうした描写が苦手な方は、ご自身の体調を優先のうえ、閲覧にご注意ください。
また、本作はフィクションであり、実際の出来事とは異なる部分があります。
朝、教室へ入ると、白石が小野と久住の間で鞄を開けていた。
俺に気づくと、中から緑色の冊子を取り出す。表紙には県内高校案内と書かれ、その横に図書館の管理番号が貼ってあった。
「佐伯くん、おはよう。これ、ちゃんと持ってきたよ」
「おはよう。思ったより厚いな」
「公立も私立も載ってるみたい。地図もあるよ」
白石は表紙をこちらへ向けてから、両手で抱え直した。
昨日わざわざメールを送ってきたくらいだから、忘れるとは思っていなかった。それでも実物を見せる時の顔が少し得意そうで、そこには触れない方がいいのか迷う。
「放課後、昨日の続きでいい?」
「ああ。俺もノートを持ってきた」
「うん。見せてね」
白石は冊子を机の中へ入れようとして、一度手を止めた。角が引っかからないよう教科書を横へずらし、それからゆっくり差し込んでいる。
図書館の物なので丁寧に扱っているだけだろうが、放課後まで厳重に保管されるらしい。
「購買のこと載ってる?」
いつの間にか、田端が俺の肩越しに表紙を覗いていた。
「まだ見てないよ」
「学食は?」
「高校を決める時、そこから見るの?」
久住に聞かれ、田端は少し考えた。
「毎日使う場所だし、大事じゃない?」
「通学時間より?」
「遠くても飯がうまければ頑張れるじゃん?」
「一か月で文句を言うと思う」
久住の判断が早い。
田端は俺へ同意を求めるように振り返ったが、前の人生で片道一時間近い通勤に疲れていた身としては、通うだけで体力を使う場所を勧める気にはなれない。購買のパン一個で埋まる差でもない。
「近い方が楽だぞ」
「悠真、そういうところだけ夢がないよな」
「朝の三十分は貴重なんだよ」
「佐伯、またおっさんみたいなこと言ってる」
前の席から杉浦まで振り返った。
反論しづらいので、俺は鞄を机の横へかける。朝の三十分がどれだけ大事かは、就職してから嫌でも分かる。こいつらには、しばらく分からないままでいてほしい。
杉浦の机には部活用の鞄も置かれていた。小野がそれを見て尋ねる。
「今日も走るって言ってた日?」
「うん、外周。昨日より早く終わると思うけど」
「寒そう」
「走り始めたら暑いよ?」
杉浦はそう答えてから、少し声を落とした。
「終わったら、またメールする」
「うん。でも、遅かったら帰ってからでいいよ」
二人の会話は、付き合い始める前と大して変わらない。
ただ、最後にわざわざ連絡の話が足されるようになった。田端も気づいたらしく口を開きかけたが、小野が先に見たので、そのまま何も言わずに自分の席へ戻った。
少しは学習しているらしい。
予鈴が鳴り、高村先生が教室へ入ってくる。
白石も自分の席へ戻りかけたが、その前に机の中の冊子をもう一度確かめた。
「放課後、忘れないようにするね」
「そこまで確認したら忘れないだろ」
「佐伯くんも、先に帰らないでね」
「帰らないよ」
白石は小さく笑い、窓際の席へ向かった。
俺は高校調査のノートが鞄に入っていることを、足元を探って確かめる。
人のことは言えなかった。
◇ ◇ ◇
六時間目の終わりまでは、あと二十分ほどだった。
高村先生は黒板へ年号を書き足しながら、教科書の次のページを開くよう言った。昼食後の教室は暖房が効いていて、前の方から欠伸を噛み殺す音が聞こえる。
俺も眠くないと言えば嘘になる。
前の人生なら、残業の途中で意識を失いかけていた時間だ。中学生は机に座って話を聞いていればいい。給料は出ないものの、上司から修正依頼が飛んでこないだけ授業の方がだいぶましだった。
田端が教科書の陰で時計を見た。
まだ終わらない、と口だけ動かしている。俺は前を向けと手で示し、自分もノートへ視線を戻した。
黒板にチョークが当たる音が続く。
窓の外では、校庭を使っていたクラスが片づけを始めていた。部活動の準備なのか、ジャージ姿の生徒が倉庫から白線を引く道具を運んでいる。
この授業が終われば、白石と学校案内を見る。
帰りに駅前へ寄る必要はない。ホワイトデーの菓子は土曜日に買えば間に合うし、今日は高校の候補を二つか三つに絞れれば十分だろう。
白石は窓際の席で、教科書の下へ何かを書き込んでいた。たぶん先生の説明をまとめている。昨日と同じ制服で、昨日と同じように小野が近くにいて、放課後の予定も決まっている。
俺は目の前の年号をノートへ写した。
机の上に置いていた鉛筆が、わずかに転がった。
昨日と同じだ、と思った。
後ろで椅子を引く音がして、黒板の上にある時計の針が細かく震える。
「また?」
誰かが面倒そうに言った。
高村先生はチョークを置き、昨日と同じように廊下側の扉へ向かう。
「念のため、騒がないで――」
言葉の途中で、床が横へ動いた。
机の脚が一斉に鳴り、俺の膝が机の裏へぶつかる。教室の後ろで何かが落ち、女子の短い悲鳴が上がった。
「机の下! 頭を守って!」
高村先生が扉を開けたまま叫んだ。
俺は身体を屈め、机の下へ潜り込む。次の揺れで机そのものが滑り、肩が金属の脚に当たった。
真っ先に白石の名前が浮かび、顔を上げる。
窓際の席は見えた。白石も机の下へ入り、両腕で頭を覆っている。小野も久住もそれぞれの机の下にいた。
そちらへ行こうとして、片膝を外へ出した。
すぐに床が持ち上がるような揺れが来て、身体ごと机へ押し戻される。
「動かないで! そのまま!」
高村先生の声が飛んだ。
分かっている。今動いたところで、誰かを助けるより先に自分が転ぶ。分かっているのに、じっとしているしかないことが腹立たしかった。
蛍光灯が二度、三度と明滅した。
天井でカバーを鳴らしていた灯りが、そのまま消える。テレビの赤い待機ランプも消え、動かなくなった暖房の音が途切れた。
教室には窓から入る午後の光だけが残った。
黒板の上に置かれていた教材が落ち、紙が床へ散る。掃除用具入れの扉が開いたり閉じたりして、奥で箒の柄が何度もぶつかった。窓ガラスは割れなかったが、外れそうなほど大きな音を立てている。
俺は机の脚を両手で握った。
揺れが長い。昨日のように、そろそろ弱くなるだろうと思ってからも終わらない。床に押しつけた上履きが何度もずれ、机の下に身体を収めているだけで腕に力が入った。
息がうまく吸えないまま机の脚へしがみついていると、この揺れを知っているという感覚だけが急に浮かんだ。
日曜日から掴めなかった映像が、順番もなく頭へ流れ込んでくる。
テレビ画面いっぱいに押し寄せる濁った水が、道路も車もまとめて流していた。駅の床へ座り込む人たちの頭上では電光掲示板が消え、店の棚から水と乾電池がなくなった。防護服を着た人間と、煙を上げる原子力発電所の建物も見た覚えがある。
何日も繰り返し流れた映像だった。
会社でも、あの日どこにいたかという話を何度か聞いた。年度末の忙しい時期で、金曜日だったから会社から帰れなかった。そんな話をした人が何人もいた。
震災が起きたのは、三月十一日の金曜日。時刻は午後二時四十六分だった。
そこまで思い出したところで、強い揺れが少しだけ弱まった。
俺は机の下から顔を上げる。向こうでも白石がこちらを見ていた。口が動いたように見えたが、まだ鳴っている窓と机の音に消され、何を言ったのか分からない。
視線を動かすと、黒板の右上に高村先生が朝書いた日付が残っていた。
そこには、三月十日、木曜日と書かれている。
揺れが弱くなっても、俺はその「十」から目を外せなかった。




