第七十三話「明日の放課後を、先に決める」
水曜日の朝、高村先生は卒業式準備の予定表を黒板へ貼った。
「来週の卒業式についてです。二年生は会場準備もあるので、委員と係の人は予定を確認しておいてください」
貼られた紙の端が、暖房の風で揺れている。
黒板の端には、明日の提出物と小テストの範囲が残っていた。卒業式が近くても、英単語は待ってくれないらしい。
「係って何だっけ」
田端が隣から聞いてくる。
「お前は椅子」
「また?」
「この前、三脚押しつけたからだろ」
「あれは悠真なら持てると思って」
「次は全部自分で持て」
前の席の杉浦が振り返った。
「田端、俺も椅子だったと思う」
「じゃあ一緒じゃん。安心した」
「杉浦は運ぶ。お前は押しつける」
「同じ椅子係なのに差別がある」
高村先生がこちらを見たので、田端は口を閉じた。
朝から元気で何よりである。俺はまだ一時間目すら始まっていないのに少し疲れた。
窓際では、小野が白石のプリントを指さしていた。
「澪、明日の英語ってここまで?」
「うん。先生、昨日一行増やしてたよ」
「危なかった。そこ見てなかった」
久住も自分の教科書を開き、範囲の最後へ印をつける。
白石はそのままこちらを見て、少しだけ笑った。俺も軽く手を上げたが、何に対する挨拶だったのかはよく分からない。
予鈴が鳴り、小野たちも教科書を開いた。
俺も机の中から英語の教科書を出す。田端はまだ、増えた一行を慌てて書き足していた。
◇ ◇ ◇
四時間目の終わりが近づいた頃、机がわずかに動いた。
最初は、後ろの誰かが椅子を引いたのかと思った。
だが、窓ガラスが細かく鳴り、黒板の上にある時計が左右へ揺れている。
「地震?」
教室のどこかで声が上がった。
高村先生は手にしていたチョークを置き、廊下側の扉を開けた。
「みんな、そのまま。机の下に入るほどではなさそうだけど、騒がないで」
揺れは長く感じたが、教室の物が落ちるほどではなかった。
俺は机の端を押さえながら、窓の外を見る。校庭にいた体育のクラスも、その場で動きを止めていた。
頭の奥がざらついた。
日曜日に見た海外のニュースと、防災メモへ書いた『春先?』が浮かぶ。
記憶を探ろうとしたが、時計の揺れを見ているうちに、また輪郭がぼやけた。
揺れが収まると、教室のあちこちから声が上がった。
「結構揺れなかった?」
「長かったよね」
「震源どこだろ」
田端がこちらを見る。
「悠真、こういうの調べてたよな」
「防災を調べただけだ。地震の場所まで分かるか」
「何か当ててよ」
「無茶言うな」
未来から戻ってきた人間へ言うこととしては、妙に痛い。
当てられるものなら当てたいが、今の俺の頭には疑問符しかない。
少しして校内放送が入り、校舎内に異常がないことと、授業を続けることが伝えられた。
高村先生はテレビをつけ、ニュースを確認する。東北の方で強く揺れ、沿岸部には注意が出ているらしい。
「帰宅後も、ニュースを確認してください。念のため、家の人とも連絡方法を話しておくように」
先生が言うと、俺は冷蔵庫に貼った連絡先の紙を思い出した。
父さんと母さんは、今日もそれぞれ会社と家にいる。今の揺れなら問題はないだろう。それでも、家に帰ったら一度確認しておいた方がいい。
そこまで考えたところで、昼休みの予鈴が鳴った。
授業の残りは次回へ持ち越しになり、田端だけが少し喜んでいた。
こいつの切り替えは、たまに羨ましい。
◇ ◇ ◇
机を寄せて弁当を広げても、最初は地震の話が続いた。
「家、大丈夫かな」
小野は教室の時計を見た。高村先生に聞いたところで、自分の家の様子までは分からない。
「帰ってから確認するしかないと思う」
久住が言った。
「七海さんは心配じゃないの?」
「心配だけど、今は何もできないから」
「それはそうだけど」
小野は弁当箱の蓋を開けながらも、まだ少し落ち着かない顔をしている。
杉浦が割り箸を割ってから口を開いた。
「小野さんの家、この辺だろ。たぶん揺れも同じくらいじゃない?」
「うん。そうだよね」
「帰ったらメールして」
「杉浦くんもね」
二人はそこまで普通に言い合い、田端に見られていることに気づいて同時に弁当へ視線を落とした。
「何も言ってないけど」
「田端くん、顔に出るから」
小野に先回りされ、田端が俺を見る。
俺へ助けを求めても無駄だ。最近、その顔を何度も見ている。
白石は少し迷ってから、俺の方を向いた。
「佐伯くん、この前のことなんだけど」
「懐中電灯?」
「うん。昨日、お母さんと電池を確認したよ。ちゃんとついた」
「そっか」
「水も少しあった。たくさんじゃないけど」
「それなら、ひとまず大丈夫そうだな」
白石は小さく頷いた。
メールを送った時は、少し口を出しすぎたかと思っていた。実際に確認してくれたと聞くと、ひとまず余計なお世話ではなかったらしい。
「それと、学校案内も見つけたの」
「図書館にあった?」
「うん。昨日、帰りに寄って借りてきた。今日は持ってきてないんだけど」
白石は箸を置き、指先を揃える。
「明日、持ってきてもいい?」
「もちろん」
「放課後、一緒に見る?」
「そうだな。教室に残れそうなら、ここで見よう」
「うん」
返事をした白石の口元が少し緩んだ。
それから小野の方を見て、慌てたように付け足す。
「小野さんたちも、見たかったら」
「私はもう少し候補を絞ってからにしようかな」
小野は笑いながら答えた。
白石の耳が少し赤くなったが、久住は何も言わずに弁当を食べている。たぶん気づいている。
「明日の放課後、俺たちも何かやろうぜ」
田端が急に言い出した。
「何かって?」
杉浦が聞く。
「まだ決めてない」
「明日の話?」
久住が確認した。
「そう。せっかく金曜だし」
「杉浦くんは部活でしょ」
「ある。終わるのは六時くらい」
杉浦が答えると、小野がすぐに反応した。
「明日も同じくらいなんだ」
「たぶん。終わったら連絡する」
「うん」
田端は指を折りながら予定を考え始めた。
「じゃあ、杉浦の部活が終わってから」
「六時から何するの」
「何か食う」
「家で夕飯食べなよ」
久住の一言で、田端の案はすぐに終わった。
何をするか決めてから誘え、と言いたい。だが、白石と俺の放課後の予定は、その横で先に決まっていた。
改めて考えると、二人で残ることになるのだろうか。
昼休みの真ん中で気づいたせいで、弁当の残りが少し食べづらくなった。
◇ ◇ ◇
放課後、白石は母親から頼まれた買い物があると言って先に帰った。
「じゃあ、学校案内は明日」
「忘れないようにするね」
「別に、忘れても次があるだろ」
「でも、明日見たいから」
白石は鞄の持ち手を握り直し、少しだけ笑った。
そのまま小野、久住と昇降口へ向かう。
杉浦は部活へ行き、田端は俺の横に残った。
「悠真、明日図書室?」
「教室かもしれない」
「白石さんと?」
「進路の資料を見るだけだ」
「俺も行こうかな」
「高校を調べるなら来い」
「パンフに購買載ってる?」
「たぶん載ってない」
「じゃあいいや」
こいつの進路は本当に大丈夫だろうか。
俺が心配することではないはずだが、同じ高校へ行く可能性を考えると、少しくらいは気にした方がいいのかもしれない。
帰り道、駅前の店の前を通った。
入口にはホワイトデー用の菓子が並んでいる。青や白の袋、クッキーの小箱、飴の詰め合わせ。値札を見ると、三百円で買える物もあれば、中学生の財布には重い物もあった。
足を止めかけたが、今日は母さんから地震のあとに寄り道をしないようメールが来ている。
買うなら土曜日でいい。次の月曜日までには間に合う。
俺は店へ入らず、そのまま家へ帰った。
◇ ◇ ◇
夕飯のあと、机に進路ノートと会社ノート、防災メモを出した。
昼前の地震については、夜のニュースでも流れていた。東北の沿岸部では、こちらよりずっと強く揺れたらしい。
父さんからは、学校でどうしていたか聞かれた。
先生の指示に従ったこと、校内放送があったこと、勝手に帰らなかったことを話すと、「それでいい」と言われた。
防災メモを開き、『春先?』の文字を見る。
今日の地震のことだったのだろうか。
そう考えてみても、何かが噛み合わなかった。
前の人生で見たはずの映像は、今日のニュースよりずっと騒がしかった。だからといって、何が違うのか説明しようとすると、また頭の中がぼやける。
これ以上メモを睨んでも、また同じところを回るだけだ。
俺は防災メモを閉じ、高校調査のノートを開いた。明日白石に見せるつもりのページには、黒く消した跡がまだ残っている。
机の端でガラケーが震えた。
白石からだった。
『明日、学校案内を持っていくね。放課後、よろしくお願いします』
昼休みに決めたことを、もう一度メールしてくるところが白石らしい。
俺は返信欄を開いた。
『分かった。放課後な』
短く返し、明日の時間割を見ながら教科書を鞄へ入れる。
英語、数学、理科、社会。最後に高校調査のノートも入れた。
防災メモだけは、机の端に残した。
寝る前にもう一度開こうと思い、結局そのまま忘れた。




