第七十二話「旅立ちの日に、また声を合わせる」
防災用品を見直した日曜日から、五日が過ぎた。
金曜の五時間目、俺たち二年生は廊下に並ばされていた。
このあと体育館で、卒業式の全校練習がある。教室を出る前、高村先生から「私語をしない」「列を崩さない」「歌う時はちゃんと歌う」と三つ続けて言われた。
全部、主に田端へ向けた注意だと思う。
「何で俺見るんだよ」
「心当たりがある顔してるから」
「杉浦までひどくない?」
「昨日、体育館で上履きをどこまで飛ばせるか試してただろ」
「廊下ではやってない」
「場所の問題じゃないと思う」
久住が前を向いたまま言った。
田端は反論しようとしたが、高村先生が教室から出てきたので口を閉じる。判断が少し遅い。
列が動き始めた。
男子と女子で二列になり、階段を下りる。窓から入る日差しは少し明るくなってきたのに、渡り廊下へ出ると風が冷たかった。
白石は女子の列で、小野の後ろを歩いている。
手には音楽のファイルを持っていた。秋の合唱祭で使ったものと同じで、中には今日配られた「旅立ちの日に」の楽譜が入っている。
前なら、こういう全校行事の日は歩きながらも周りを気にしていた。今日は小野に何か言われると普通に顔を上げ、隣を歩く久住にも短く返している。
見すぎたら俺の方が列を乱しそうなので、前を向いた。
「悠真、階段」
「分かってる」
田端に注意された。
かなり悔しい。
体育館には、すでに三年生が並んでいた。
中央に卒業生用の椅子が置かれ、俺たち一、二年生はその後ろと両側へ学年ごとに入る。壇上には校旗があり、壁には紅白の幕が途中まで張られていた。
合唱祭の時と同じ体育館なのに、椅子の並びが違うだけで妙に堅苦しく見える。
何より寒い。床から上履き越しに冷気が上がってくる。
「座るだけで足が冷えるんだけど」
田端が小声で言った。
「黙って座れ」
「悠真は寒くないの?」
「寒い」
「じゃあ共有しようぜ」
「何を」
「寒い気持ち」
いらない。
全員が入るまで、かなり待たされた。
先生たちは列の間隔を直し、椅子の位置を少しずつ動かしている。一組の先頭が右へ寄れば、後ろの列も全部ずれる。会社の席替えより人数が多い分、見ているだけで面倒だった。
ようやく教頭先生がマイクの前に立つ。
「それでは、卒業式の全校練習を始めます」
最初は礼の練習だった。
起立して、礼をして、座る。卒業生が入場する方向へ身体を向ける。来賓の紹介では座ったまま、祝辞では礼をする。
一度で終わるはずもなく、同じ動きを二回やった。
三回目に入りそうになった時は、体育館のあちこちから小さなため息が聞こえた。俺も出したかったが、前の三年生が振り返りそうなので我慢した。
次は歌の練習になる。
音楽の先生が前へ立ち、伴奏を担当する先生がピアノの椅子へ座った。まず一、二年生だけ起立するよう言われる。
椅子が一斉に鳴った。
俺はファイルを開き、楽譜を確かめる。練習なので見てもいいが、歌っている最中にずっと下を向くなとも言われた。
音取りをしてから、最初から合わせる。
ピアノの前奏が始まり、先生の手が上がった。
男子が入る場所より一つ前で、隣から田端の声が出た。
すぐ止まる。
ピアノも止まった。
数人が笑いをこらえ、田端は何事もなかったように楽譜を見ている。お前以外、まだ誰も歌っていなかったぞ。
「田端くん」
音楽の先生が名前を呼んだ。
「はい」
「そこは、もう少し待ってからね」
「はい」
返事だけは立派だった。
久住が女子の列から少しだけ振り返る。
「田端くん、一人で先に卒業しそうだったね」
「久住さんまで言う?」
「静かに」
小野に止められ、田端は今度こそ黙った。
最初からやり直す。
二度目は田端も待てた。俺も先生の手を見ながら声を出す。
合唱祭の時ほど練習していないせいか、男子の声は少しばらついていた。誰かが音を外し、別の誰かが遅れる。俺も高い音で少し怪しくなった。
三十二歳まで生きても、歌の音域は広がらないらしい。
女子の声が重なる。
小野の声と、久住の少し低い声。その中に白石もいる。
合唱祭の時は、白石の声が途中で細くなるたびに、俺まで気を取られていた。
今日は、最初の音から口が動いている。ファイルを胸の前まで上げたまま、顔は先生の方を向いていた。
声だけを聞き分けられるほど耳がいいわけではない。
それでも、女子の列の端にいる白石が、止まらず最後まで歌っているのは見えた。
前の人生では、この時期の白石がどこにいたのか、俺は知らない。
学校へ来なくなったあとだったのか、それともまだ教室のどこかで耐えていたのか。今さら考えても、確かめようがない。
先生の手から目が外れ、俺は一拍遅れかけた。
危ない。人の心配をして自分が止まったら、田端を笑えない。
楽譜へ視線を戻し、残りを歌う。
最後まで通したところで、音楽の先生が何か所か注意をした。男子は出だし、女子は声量、全体は言葉を揃えること。
「もう一度、途中から合わせます」
体育館の何人かが、分からない程度に肩を落とした。
卒業式の練習とは、だいたいこういうものだ。感動する前に足が冷える。
もう一度歌い、今度は田端も間違えなかった。
◇ ◇ ◇
全校練習が終わると、三年生から順に体育館を出ることになった。
俺たち二年生は、椅子を戻す係で少し残る。
「……腰痛い」
田端が立ち上がりながら言った。
「中学生が言うな」
「ずっと座ってたら痛くなるだろ」
「佐伯くんも、たまに似たようなこと言うよね」
久住がこちらを見た。
「俺は言ってない」
「肩が重いとか」
「それはきっと鞄が重かっただけだ」
鞄が重かったのは本当だ。
肩の年齢については、わざわざ説明しなくていいだろう。
男子は椅子を運び、女子は楽譜を集めることになった。
小野が列の端から紙を重ねていると、杉浦が男子側に残っていた一枚を持ってきた。
「小野さん、これも?」
「うん。ありがとう」
「端、少し折れたけど」
「練習用だから大丈夫だよ」
「そっか」
杉浦は渡したあとも一瞬そこに立っていたが、田端に椅子を運べと呼ばれて戻っていった。
小野は受け取った紙の角を伸ばし、ほかの楽譜の間へ挟む。顔を上げた時、杉浦の背中を少しだけ見ていた。
付き合い始めても、やっていることは楽譜一枚の受け渡しである。
まあ、中学生ならそれで十分忙しいのかもしれない。
俺が椅子を二脚重ねて運んでいると、白石と久住が近くを通った。
「白石さん、前より声出てたね」
久住が言った。
「本当?」
「うん。合唱祭の時より、最初から出てた」
「久住さんが隣にいなかったから、少し不安だったけど」
「離れてても聞こえたよ」
白石は抱えていたファイルの端を指でなぞった。
以前なら「そんなことない」と先に否定していた気がする。今日は少し俯いただけで、口元には笑いが残っている。
「ありがとう」
久住は短く頷き、女子の列へ戻った。
白石がこちらを見る。
俺は椅子を持ったままだったので、妙に身動きが取りづらい。
「佐伯くんも、聞こえた?」
「聞こえた」
「本当に?」
「歌ってるのは見えた。声も……たぶん」
正直に言うと、白石は少しだけ笑った。
「たぶんなんだ」
「全校で歌ってたからな。でも、前より顔を上げて歌ってたのは分かった」
「そっか」
白石はファイルを抱え直した。
「前より、少し歌いやすくなったかも」
「緊張しなかった?」
「少しはしたよ。でも、小野さんも久住さんもいるって分かってたから」
そこで一度言葉を止め、俺の持っている椅子を見る。
「佐伯くんもいたし」
付け足すような言い方だった。
俺が返事を探している間に、白石は「それ、重くない?」と椅子を指した。
「重くない」
「一つ持とうか?」
「俺たちが運ぶ係だから」
「でも、三つあるよ」
いつの間にか、田端が俺の腕へもう一脚載せていた。
「悠真、頼んだ」
「お前も持て」
田端の背中へ一脚返した。
せっかく何か言えそうだったのに、こいつは本当に間が悪い。
いや、何を言うつもりだったのかは決まっていない。田端が来なくても、たぶん困っていた。
◇ ◇ ◇
帰りの会が終わる頃には、窓の外の日差しが少し傾いていた。
金曜日なので、教室には普段より軽い空気がある。杉浦は部活の鞄を持ち、小野に帰りの時間を聞かれていた。
「今日は六時くらい」
「暗くなるね」
「終わったらメールする」
「うん」
そのやり取りを田端が見ていたが、小野に気づかれる前に俺が肩を押した。
「帰るぞ」
「まだ何も言ってない」
「顔がうるさい」
六人で昇降口へ向かう。
杉浦は途中で部室の方へ別れ、俺たちは校門へ向かった。
外へ出ると、体育館の中より日差しは暖かかった。ただ、風はまだ冷たい。
校庭の端にある木は枝ばかりで、春らしいものはどこにも見当たらない。
「昼は少し暖かかったのに」
小野がマフラーを直した。
「もうすぐ春なのにね」
白石が言った。
白石の口から春と聞いた途端、日曜日に防災メモへ書いた文字が浮かんだ。
『春先?』
結局、俺は何を忘れているのだろう。頭の中でまた問い直してみたが、やはり答えは出てこなかった。
「佐伯くん?」
白石が足を止めていた。
俺だけ少し遅れていることに気づく。
「悪い。ぼーっとしてた」
「疲れた?」
「体育館が寒かっただけ」
「それなら、早く帰ろう」
白石が少しだけ歩く速さを緩める。
今度は俺がその横へ追いついた。
前では、田端が小野と久住に歌の入りを間違えた理由を説明していた。練習だから試しただけ、という無理のある言い訳が聞こえる。
「絶対違うと思う」
白石が小さく言い、笑った。
俺も笑いかけたが、ポケットの中で握っていた右手を開くと、爪の跡が浅く残っていた。
白石に見つかる前に手を外へ出し、冷えた指を何度か曲げた。




