第七十一話「防災メモの空欄が、少しうるさい」
小野と杉浦が付き合い始めてから、一週間以上が過ぎた日曜日。
俺は朝から机の上へノートを並べていた。
机の中央には、進路希望調査と高校調査のノートを置いた。その横に会社ノートと小遣い表を重ね、端には夏休み以来ほとんど開いていなかった防災メモも出してある。
まず小遣い表を開き、正月にもらった五千円から初詣で使った分を引く。来年度も毎月二千円なら、一年で二万四千円。数字だけ見れば増えるが、参考書や文房具、友達と出かける金まで全部ここから出る。
それに、今はホワイトデーのお返しも考えないといけない。
『お返し 金額未定』
支出予定に書き足してから、俺はシャーペンを置いた。
金額より先に、何を返すかが決まっていない。白石からもらった包みとカードを思い出すと、安く済ませればいいとも思えなかった。
中学生の資金計画に、恋愛らしきものが割り込んでくる。
前の人生でも覚えのない事態なので、予算の立て方が分からない。
「……あとで考えるか」
声に出して先送りを決め、パソコンの電源を入れた。
起動を待つ間に高校調査のノートを開く。前のページには、黒い線で何度も消した跡が残っていた。ページを替えるか迷ったまま、結局そのままである。
ようやく画面が立ち上がり、学校見学の日程を調べようとブラウザを開いた。
最初に表示されたニュースページには、海外で起きた地震の続報が載っていた。崩れた建物の写真と、救助活動が続いているという見出しが、小さな画面の上に出ている。
マウスを持った手が止まった。
海外の地震そのものは、前の人生でもニュースで見た覚えがある。だが、画面を見て引っかかったのは、その出来事ではなかった。
もっと近くで、これより大きな何かが起きたはずだ。
そこまで浮かんだところで、また先が消えた。
何度思い出そうとしても、店の棚から水がなくなった映像や、暗い駅で足止めされた人の姿ばかりが出てくる。ニュースを見た順番も、その時に住んでいた場所も思い返してみたが、肝心な部分へ近づくと急に曖昧になった。
それがいつで、何が起きた時のものなのかが分からない。
「くそ……」
俺はブラウザの検索欄に、市の名前と防災という言葉を入れた。
市役所のページには、避難場所や非常時の連絡方法が並んでいる。夏に自由研究で調べた内容と大きくは変わらない。
防災メモを開く。
家にあったもの、買ったもの、確認したもの。白石に手伝ってもらって表にしたページは、今見ても分かりやすかった。
その次のページに、俺の字で一文だけ残っている。
『まだ足りない気がする』
半年近く前に書いたくせに、相変わらず役に立たない。
俺は椅子から立ち上がり、部屋を出た。
◇ ◇ ◇
押し入れの下段には、水の箱が残っていた。
箱の上に薄く埃が積もっている。買ったまま安心して、誰も触っていなかったらしい。
一本取り出して期限を見る。まだ余裕はある。
次に玄関へ行き、棚から懐中電灯を出した。スイッチを入れると明かりはついたが、昼間なので強さがよく分からない。手で先を覆ってみると、掌の中が白くなった。
「何してるの?」
台所から母さんが顔を出した。
「懐中電灯の確認」
「また自由研究?」
「いや。海外の地震のニュースを見たから、気になって」
「ああ……ニュースでやってるわね」
母さんは手を拭きながら、俺の持っている懐中電灯を見た。
「電池、夏に替えたやつよね」
「そう。水も残ってた」
「賞味期限は?」
「まだ大丈夫」
「ちゃんと見た?」
「見たよ」
十四歳の確認は、母親の再確認を通らないと完了にならないらしい。
俺は水の期限をもう一度読み上げた。
「ラジオも見ておきたい」
「ラジオは……上の段に戻したと思うけど。お父さんに取ってもらいなさい」
「いや、これくらいなら届く」
「落としたら危ないでしょ」
椅子を持ってこようとしたところで止められた。
三十二歳の記憶があっても、押し入れの上段へ手を伸ばす時の身長は十四歳である。こういうところだけ、身体の都合がとても悪い。
居間で新聞を読んでいた父さんを呼ぶと、案の定、少し怪しまれた。
「急にどうした」
「海外の地震のニュースを見た。夏に確認してから、そのままだったから」
「なるほどな。春先は天気も荒れることがあるし、停電くらいは考えておいてもいいか」
「うん」
父さんは押し入れから古いラジオを下ろした。
アンテナを伸ばして電源を入れると、雑音のあとに男の声が聞こえた。周波数を少し動かせば、地元の放送局も入る。
「動くな」
「電池は?」
「入れっぱなしはよくないが、今のところ漏れてはいない。予備と一緒にしておくか」
父さんは電源を切り、電池を抜いた。ラジオと同じ袋に入れて、押し入れの手前へ置き直す。
夏には奥へ戻しただけだった。使う時に取り出しにくければ意味がない。そこまで考えていなかった。
「冷蔵庫の紙も見よう」
母さんに言われ、三人で台所へ移動した。
冷蔵庫の横には、避難場所と連絡先を書いた紙がまだ貼ってある。端が少し丸まり、上から貼っていた磁石もずれていた。
「避難場所は中学校で合ってるな」
父さんが市役所のページを印刷した紙と見比べる。
「学校にいる時に何かあったら、勝手に帰るなよ。先生の指示に従え」
「分かってる」
「電話がつながらなかったら?」
「避難場所に行く」
「父さんは会社からすぐ戻れるとは限らない。母さんも、無理に迎えに行くな」
「あなたが一番無理して帰ってきそうだけど」
「俺の話は今してない」
「してるでしょ」
母さんに言われ、父さんが黙った。
こういう時だけ、自分を例外にしようとするところは父さんらしい。
「じゃあ、お父さんも無理に帰らない。連絡が取れなければ、それぞれ安全な場所にいる。これでいい?」
「分かった」
「ああ」
母さんが紙の端を新しいテープで貼り直した。
水の期限と懐中電灯、ラジオの動作を確かめ、連絡先と避難場所についても三人で話した。
夏よりは少し具体的になったはずなのに、俺の頭の奥に残る引っかかりは消えなかった。
父さんが俺を見る。
「まだ何か気になるのか」
「……分からない」
「分からない?」
「何か忘れてる気がする。でも、何を忘れてるのか出てこない」
父さんは眉を寄せた。
さすがに、この説明では困るだろう。俺だって同じことを言われたら困る。
「……最近、寝てるか?」
「寝てる」
「パソコンを遅くまで触ってないだろうな」
「そこに戻すのやめてよ」
母さんが横で笑った。
「備えを見直せたんだから、今日はそれでいいじゃない。思い出すことなら、急に出てくるかもしれないし」
急に出てくれば苦労はしない。
そう言いかけたが、母さんに答えを求めても仕方がないので飲み込んだ。
俺は水の箱を押し入れの手前へ移し、自分の部屋へ戻った。
◇ ◇ ◇
机の上で、ガラケーのランプが点滅していた。
白石からメールが来ている。
『この前の学校のこと、少し調べてみました。図書館にも学校案内があるか、今度見てみようと思います』
続けて、もう一通届いていた。
『佐伯くんも見るなら、一緒に探したいです』
俺は二通目を読み直し、返信欄を開いた。
『一緒に見よう。俺も見学の日程を調べておく』
そこまで打って、指が止まった。
進路の話に混ぜる内容ではないと思いながら、追伸を書き足す。
『あと、家の懐中電灯とか水って確認したことある?』
我ながら唐突だった。
一度消そうとしたが、ニュースの写真が頭に残っていて、そのまま送った。
返事は少し遅れて届いた。
『夏休みの自由研究では見たけど、自分の家はちゃんと確認してなかったです。お母さんに聞いてみるね』
さらに少しして、もう一通来る。
『懐中電灯はあったけど、電池が使えるか分からないみたい。今度確認するって。心配してくれてありがとう』
ありがとう、と言われるほどのことをしたつもりはない。
電池は怪しいらしいが、家で確認するなら、俺がこれ以上口を出す必要もないだろう。
『急に変なこと聞いて悪かった』
送ると、すぐに返事が来た。
『変じゃないよ。佐伯くんらしいと思っただけ』
それは褒められているのだろうか。
白石から見た俺は、突然家の懐中電灯を心配し始める男子らしい。否定はできないが、あまり格好よくもない。
俺はガラケーを閉じ、防災メモを開いた。
『まだ足りない気がする』の下には、白い行が残っている。
何度考えても、具体的な名前は出てこなかった。
俺は迷った末、空欄に『春先?』と書いた。
疑問符の丸が妙に潰れたので書き直すと、そこだけ余計に黒くなった。




