第八話「消えなかった彼女」
「大丈夫。関わった人間は、全員分けて話そう」
俺がそう言うと、榊原は言葉を失った。
泣きそうな顔のまま、こちらを睨んでいる。
責任を一つの塊にすると、強いやつが逃げる。
弱いやつが押しつけられる。
被害者は、いつの間にか「場を荒らした人」になる。
だから、分ける。
呼び出した人。
嘘告白をさせた人。
撮ろうとした人。
紙を入れようとした人。
メールで広げた人。
大人の世界なら、それぞれの担当者と承認者を確認するようなものだ。
中学生の悪ふざけにその考え方を持ち込むのは、正直かなり嫌な感じがする。
だが、嫌な感じだからこそ効く。
「榊原さん」
学年主任の先生が静かに言った。
「今の話を、一つずつ確認します。白石さんを体育館裏に呼び出す話は、誰が始めましたか」
「……分かんないです」
「分からない?」
「みんなで話してて、そういう感じになって」
榊原は俯いたまま答えた。
その言葉に、紙を入れようとした女子が小さく首を振る。
「違う。莉奈が、森下くんなら白石さんも来るって」
「言ってない」
「言ったよ」
その一言で、空気がまた崩れた。
昨日までなら、たぶん誰も榊原に逆らわなかった。
でも今は先生がいる。
田端がいる。
俺のノートと録音がある。
安全な場所がなくなると、仲間内の沈黙は驚くほど簡単にほどける。
森下もぽつぽつと話し始めた。
放課後に榊原たちから声をかけられたこと。
「ちょっと告るふりして」と言われたこと。
ガラケーで撮って、後で仲間内に回すつもりだったこと。
ただし、実際には俺が割って入ったせいで撮れなかったこと。
榊原は何度も「そんなつもりじゃない」と言った。
紙を入れようとした女子は「莉奈に言われた」と泣いた。
森下は「俺も悪かったけど、俺だけじゃない」と繰り返した。
聞いていて気持ちのいいものではない。
小さな責任の押しつけ合いだ。
でも、その小ささこそが大事だった。
くだらない理由で人を傷つけたなら、くだらない責任から逃げられないと知る必要がある。
「分かりました」
高村先生がメモを閉じた。
声はまだ少し震えている。
けれど、最初に職員室で聞いたときより、ずっと先生の声だった。
「この件は、白石さんへの嫌がらせとして学校で対応します。関係した人には、それぞれ改めて話を聞きます。保護者にも連絡します」
榊原の顔がはっきり青ざめた。
「保護者って、お母さんに言うんですか」
「必要があります」
「でも、こんなの」
「こんなの、では済ませません」
高村先生が遮った。
その瞬間、俺は少しだけ目を見開いた。
高村先生は事なかれ主義の人だと思っていた。
未来の記憶でも、彼女は問題を大きくするのが苦手だった。
でも、証拠を前にして、それでも止まるほど弱い人ではなかったらしい。
俺が知らなかっただけだ。
いや、当時の俺が見ようとしなかっただけかもしれない。
「白石さんには、私から謝ります」
高村先生はそう言って立ち上がった。
その姿を見て、榊原は唇を噛む。
森下はうつむいたまま何も言わない。
紙を入れようとした女子は、鼻をすすっていた。
完全な解決ではない。
むしろ、ここからが面倒だ。
クラスの空気はすぐには戻らない。
榊原が俺を恨むのも間違いない。
森下だって、反省と保身の間をふらふらするだろう。
それでも、少なくとも今日、白石が一人で耐えるだけの状況ではなくなった。
◇ ◇ ◇
白石は隣の相談室で待っていた。
椅子に浅く座り、膝の上で両手を握っている。
俺たちが入ると、彼女はびくりと肩を揺らした。
「白石さん」
高村先生が、ゆっくりと白石の前に立つ。
「昨日と今朝のこと、先生が早く気づけなくてごめんなさい」
白石は目を見開いた。
謝られると思っていなかったのだろう。
「いえ、そんな」
「そんなこと、じゃないです。嫌だったよね」
白石の喉が小さく動いた。
「……はい」
その一言は、ほとんど息みたいだった。
でも、確かに声だった。
高村先生はうなずく。
「学校として対応します。白石さんが全員の前で無理に話す必要はありません。必要なことは、先生が個別に聞きます」
「……はい」
「今日の午後は、保健室で休んでもいいし、教室に戻ってもいい。どちらでも大丈夫」
白石は少し迷ってから、俺のほうを見た。
なぜ俺を見る。
いや、見るなと言うほうが無理か。
俺は小さく首を横に振った。
どっちが正解、という意味ではない。
自分で選んでいい、というつもりだった。
伝わったかどうかは分からない。
でも、白石は視線を落とし、ゆっくりと言った。
「教室に、戻ります」
高村先生の表情が少しだけ和らぐ。
「分かった。無理はしないでね」
教室へ戻る廊下は、やけに長く感じた。
田端は途中から何度も口を開きかけ、結局何も言わなかった。
こいつが黙っているのは珍しい。
たぶん、軽い言葉で触っていい話ではないと分かっているのだろう。
教室に戻ると、ざわめきが一瞬で薄くなった。
全員が見ている。
見ていないふりをしながら、見ている。
白石は少しだけ足を止めた。
俺は前を向いたまま歩く。
田端も、ぎこちない顔で自分の席へ向かった。
白石は机まで行き、鞄を置いた。
それだけのことだった。
でも、昨日までの未来を知っている俺には、とんでもなく大きなことに見えた。
彼女が教室に戻った。
消えずに、自分の席へ戻った。
それだけで、胸の奥が少し痛いくらいだった。
その日の午後、榊原たちは教室に戻ってこなかった。
森下も体育の時間まで姿を見せなかった。
クラスの空気は気まずいままだったが、少なくとも白石の机に紙が入ることはなかった。
田端は休み時間に俺の席へ来て、小声で言った。
「なあ、俺、今日ちょっと寿命縮んだ気がする」
「俺もだ」
「お前、よくあんな普通にしゃべれるな」
「普通にしゃべってるふりをしてるだけだ」
「ふりがうますぎんだよ」
田端はそこで白石のほうをちらっと見た。
「でもまあ、よかったな」
「何が」
「白石さん、帰らなかった」
俺は返事に詰まった。
田端が、照れたように頭をかく。
「いや、なんかさ。昨日の感じだと、今日もう来ないんじゃないかって思ったから」
軽いようで、見ているところは見ている。
田端和也という男は、思っていたよりずっと信用できるのかもしれない。
「そうだな」
俺は短く答えた。
よかった。
本当に。
◇ ◇ ◇
放課後、帰り支度をしていると、教室の出口で白石に呼び止められた。
「佐伯くん」
声はまだ小さい。
でも、昨日より少しだけまっすぐだった。
「どうした」
「少し、いい?」
俺はうなずき、廊下に出た。
田端がこちらを見て、にやっとした顔をする。
あとでジュース一本を請求される気配がした。
廊下の端、階段へ続く窓際で、白石は立ち止まった。
夕方の光が、窓の向こうの校庭を薄く照らしている。
部活の声が遠くから聞こえた。
「今日は、ありがとう」
白石は両手で鞄の持ち手を握ったまま言った。
「昨日も言われた」
「今日の分」
「そっか」
変な会話だった。
でも、白石は少しだけ笑った。
「佐伯くんは、どうして気づいたの?」
予想していた質問だった。
それでも、胸の奥が小さく跳ねる。
未来で君が消えたから。
大人になってから、あのとき何かできたんじゃないかと思ったから。
二回目だから、今度は見落としたくなかったから。
言えるわけがない。
「見てたら分かる」
俺はそう答えた。
かなり雑だ。
だが、嘘ではない。
「私、そんなに分かりやすかった?」
「白石というより、周りが分かりやすかった」
「そっか」
白石は少しだけうつむいた。
その横顔には、まだ疲れが残っている。
「私、大げさなのかなって思ってた」
ぽつりと、彼女が言った。
「みんな笑ってたし。森下くんも、たぶん本気で悪いと思ってなかったし。私だけが嫌がって、空気悪くしてるのかなって」
「大げさじゃない」
俺は即答した。
白石が顔を上げる。
「嫌だったなら、それは嫌だったでいい」
「でも」
「周りが笑ってても、嫌なものは嫌でいい。された側が笑えないなら、冗談じゃない」
昨日と似たことを言っている。
でも、何度でも言ったほうがいい気がした。
たぶん白石は、自分の中の嫌だという感覚を、ずっと疑ってきた。
だったら、疑わなくていいと誰かが言う必要がある。
「佐伯くんって」
白石が小さく息を吐いた。
「たまに、大人みたいなこと言うね」
「たまにじゃない。わりと常に大人びてる」
「自分で言うんだ」
「そこは中学生っぽさだと思ってほしい」
白石が、ほんの少し笑った。
今度は、息が緩んだだけではない。
ちゃんと笑った。
その笑顔を見た瞬間、俺はどうしようもなく戸惑った。
助けたかった。
それは本当だ。
未来を変えたかった。
それも本当だ。
でも、その結果として目の前の白石が笑うことまでは、うまく想像できていなかった。
未来の記憶は、未来で消えた彼女しか知らない。
今ここにいる白石が、これからどんな顔で笑い、何を選ぶのかは知らない。
俺の知っている未来が、少しだけ使い物にならなくなった。
そのことが、怖かった。
でも、悪くない怖さだった。
「明日も、来るよ」
白石が言った。
俺は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「学校に?」
「うん。まだ、ちょっと怖いけど」
「怖いなら無理するな」
「無理は、少しだけする」
白石はそう言って、鞄を持ち直した。
「消えたくないから」
その言葉に、喉の奥が詰まった。
未来で彼女が本当に何を思っていたのか、俺は知らない。
ただ、教室からいなくなった事実だけを覚えている。
でも今、目の前の白石は、自分の口で「消えたくない」と言った。
それだけで、二回目の人生は少しだけ意味を持った気がした。
「じゃあ、明日」
俺はそう言った。
「うん。明日」
白石は小さく手を振って、階段を下りていった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
教室はまだ、いつも通りではなかった。
榊原の席は空いたままで、森下は机に突っ伏していた。
何人かは俺を見るとすぐに目をそらす。
田端だけが、いつも通り眠そうな顔であくびをしていた。
全部が解決したわけではない。
むしろ、変えたせいで新しい問題が出てくるかもしれない。
榊原は俺を許さないだろうし、噂も完全には消えないだろう。
それでも、教室の扉が開いた。
白石が入ってくる。
昨日より少しだけ背筋を伸ばして。
少しだけ緊張した顔で。
それでも、自分の足で、教室に入ってくる。
俺は机に肘をつきながら、その姿を見た。
未来で消えた彼女が、今日はここにいる。
その事実だけで、昨日までの世界とは違って見えた。




