第七話「そんなつもりじゃ済まない」
翌朝、教室に入った瞬間、空気が少しざらついているのが分かった。
昨日の件が、もう動いている。
「悠真」
田端が俺の席まで寄ってきた。
いつもの軽さはあるが、目だけは落ち着かない。
「おはよう」
「おはようじゃねえよ。昨日のやつ、ちょっとまずいかも」
「どのくらい」
「俺が聞いた範囲だと、男子の何人かにメール回ってる。『白石が森下に告られかけた』みたいな感じ」
「写真は?」
「ないっぽい。動画もたぶんない。でも、話だけ先に広がってる」
まだ間に合う。
写真や動画がないなら、被害はまだ言葉の範囲に収まっている。
だが、中学生の言葉は軽いくせに、広がると厄介だ。
メールを転送するだけで、誰かの一日が壊れる。
「誰から来た?」
「森下と同じ部活のやつ。俺には直接じゃなくて、隣のクラスから回ってきたっぽい」
「文面、見られるか」
「見るだけな。転送はしないぞ」
「しない。ありがたい」
田端はガラケーを開き、周囲に見えないよう机の下で画面を見せた。
白石、昨日、体育館裏。
森下、ガチ告白。
でも白石が空気読めなくて微妙。
榊原たち爆笑。
たったそれだけの短い文だった。
だが、最悪だった。
事実が少しずつ曲げられている。
森下が白石を呼び出したのではなく、森下が告白した話になっている。
白石が被害を受けたのではなく、白石が空気を壊した話になっている。
榊原たちの存在は、笑っていた観客に薄められている。
こうやって、被害者が悪い形に変わっていく。
「これ、誰が最初に送ったか分かる?」
「分かんねえ。たぶん女子のほうじゃないかって」
「了解」
俺は自分の席に鞄を置き、教室の後ろを見る。
白石はまだ来ていなかった。
榊原たちはすでに集まっている。
笑顔で話しているが、こちらをちらちら見ていた。
昨日で懲りたわけではないらしい。
むしろ、俺が割って入ったせいで、白石に向いていた矛先の一部が俺にも向いた。
それはそれで構わない。
耐久力だけは社会人時代に鍛えられている。
問題は白石だ。
彼女は、少し遅れて教室に入ってきた。
昨日より顔色が悪い。
それでも、ちゃんと登校してきた。
未来では消えた彼女が、今日はここにいる。
だが、安心するには早かった。
榊原の隣にいた女子が、白石の机へ近づいた。
手には小さく折った紙。
机の横を通るふりをして、引き出しへ滑り込ませようとする。
俺は立ち上がった。
「それ、何?」
女子の手が止まる。
白石も、榊原たちも、一斉にこちらを見た。
「何って、別に」
「じゃあ見せて」
「なんで佐伯くんに見せなきゃいけないの」
「白石の机に入れようとしてたから」
女子は紙を握りつぶそうとした。
その前に、田端が横から声を上げる。
「俺も見た。今、机に入れようとしてた」
いい仕事だ。
昨日のジュース二本は、思ったより利いている。
女子の顔が赤くなる。
榊原がすっと前に出た。
「何それ。朝から感じ悪いんだけど」
「感じ悪いのは自覚してる」
「じゃあやめれば?」
「紙を出したらやめる」
榊原の目が細くなる。
教室のざわめきが少し大きくなった。
それでいい。
見ている人間を増やす。
「いいよ、出せば」
榊原が短く言った。
女子は泣きそうな顔で紙を机の上に置く。
俺は触らなかった。
「白石、自分で見られるか」
白石は少し震えながら、紙を開いた。
目が文字を追った瞬間、唇が白くなる。
「読まなくていい。見えた範囲だけで十分」
俺は紙を横から見た。
昨日のこと、調子に乗ってんじゃねえよ。
男子にかばわれてうれしい?
胸の奥が、すっと冷たくなった。
くだらない。
そして、完全にアウトだ。
「田端」
「おう」
「この紙を白石の机に入れようとしてたところ、見たよな」
「見た」
「今、白石が読んで顔色変えたのも」
「見た」
白石が小さく息を吸う。
俺は彼女のほうを向いた。
「白石、これから先生に話す」
「え……」
「嫌なら、無理に前へ出なくていい。でも、これはもう白石だけが我慢して済む話じゃない」
白石は紙を握ったまま、俺を見た。
迷っている。
怖いに決まっている。
それでも、彼女は小さくうなずいた。
「……うん」
その一音だけで十分だった。
俺は紙を白石から預からず、彼女に持ってもらった。
証拠を俺が奪った形にしたくなかった。
田端を連れ、白石と一緒に教室を出る。
背中で、榊原の声が聞こえた。
「大げさすぎ」
俺は振り返らなかった。
◇ ◇ ◇
職員室は、朝から妙にせわしなかった。
プリントの束を抱えた先生が行き交い、電話が鳴っている。
「高村先生」
俺が声をかけると、高村由香先生は机から顔を上げた。
未来の記憶より、ずっと若い。
まだ教師という仕事に慣れようとしている途中の顔だ。
「佐伯くん? どうしたの。白石さんも、田端くんも」
「昨日と今朝の件で、相談があります」
「昨日と今朝?」
高村先生の表情に、かすかな困惑が浮かぶ。
俺は英語ノートを開いた。
昨日の夜に書いた時系列メモ。
それを見せる。
「まず、時系列です。昨日の放課後、白石の机に森下の名前で呼び出しの紙が入っていました。場所は体育館裏。そこに森下と榊原たちがいました。倉庫の影でガラケーを構えていた女子もいます。田端も見ています」
「ちょ、ちょっと待って」
高村先生は慌てて手を上げた。
「えっと、落ち着いて。森下くんと榊原さんたちが、白石さんを呼び出したってこと?」
「その可能性が高いです。少なくとも、本人たちは『ただの冗談』と言っていました」
「冗談……」
「今朝は、この紙を白石の机に入れようとしていました」
白石が震える手で紙を差し出した。
高村先生が受け取り、読んだ。
顔つきが変わる。
それでも、最初に出てきた言葉は弱かった。
「まずは、本人たちに話を聞いてみないと」
分かる。
片方の話だけで決めつけられない。
だが、それだけでは遅い。
「はい。聞くのは必要だと思います。ただ、その前に確認してほしいことがあります」
「確認?」
「この件、もうメールで回っています」
高村先生の手が止まった。
「メール?」
「男子の間に、『白石が森下に告られかけた』という形で広がっています。実際は、呼び出し、嘘告白、撮影未遂の可能性があります。今ここで止めないと、今日中に別のクラスまで広がります」
「佐伯くん、どうしてそんなことまで」
「昨日見ていたからです。あと、今朝、田端がメールの文面を確認しています」
田端がびくっとした。
「俺、転送はしてないです」
「それは分かってる」
高村先生は眉を寄せた。
昨日、榊原が言った通りだ。
先生は困る。
だから、困る方向を変える。
「先生」
俺はできるだけ静かに言った。
「これがメールで広がったら、学校が放置したことになりますよ」
高村先生が俺を見る。
中学生を見る目ではなかった。
「……佐伯くん、それは」
「脅しているつもりはありません。俺も、白石も、大事にしたいわけじゃないです。でも、もう本人たちだけの話じゃなくなっています」
俺はノートのページを指で押さえた。
「日時、場所、関係者、発言、今朝の紙、メールの文面。今ならまだ、拡散前に止められると思います」
高村先生はしばらく黙っていた。
それから、深く息を吸う。
「分かった。学年主任の先生にも話します。佐伯くんたちは、いったん隣の相談室で待っていて」
「白石は、無理に全員の前で話さなくてもいいですか」
「……そうね。白石さんには、後で私が個別に聞く」
白石の肩が少し下がった。
俺も小さくうなずく。
まずは一つ、動いた。
◇ ◇ ◇
高村先生は学年主任を呼び、田端からメールの文面を確認した。
俺のガラケーに残っている録音も、冒頭だけ聞かせた。
音質は悪い。
だが、「ただの冗談」や「莉奈たちに言われただけ」という声は、かろうじて拾えていた。
大人が動かざるを得ない程度には、十分だった。
榊原、森下、そして紙を入れようとした女子が呼ばれた。
場所は相談室ではなく、職員室の奥にある小さな会議スペースだった。
白石は隣の部屋で待つことになった。
加害者の言い訳を、被害者に浴びせる必要はない。
森下は入ってきた時点で顔色が悪かった。
榊原は泣きそうな顔を作っている。
紙を入れようとした女子は、もう半分泣いていた。
「まず確認します」
高村先生の声は、朝より硬かった。
「昨日の放課後、白石さんを体育館裏へ呼び出した人は誰ですか」
沈黙。
森下がうつむく。
榊原は黙っている。
俺は口を出さなかった。
ここから先は、先生が聞くべきだ。
「森下くん」
学年主任の低い声がした。
森下の肩が跳ねる。
「……俺です」
「一人で考えたの?」
「違います」
榊原が森下を見た。
「直人」
「だって、もう無理だろ」
森下の声は震えていた。
「莉奈たちが、白石を呼び出して、俺が告るふりするって」
「ふり?」
「本気じゃないです。冗談で」
榊原がすぐに言った。
「本当に、そんなつもりじゃなかったんです」
出た。
昨日も聞いた。
大人になってからも、何度も聞いた。
高村先生が何か言いかける。
その前に、俺は静かに口を開いた。
「何のつもりだったか、分けて話したほうがいいと思います」
全員が俺を見る。
もう引っ込む場面ではない。
「呼び出しの紙を書いた人。森下に告白のふりをさせようとした人。ガラケーで撮ろうとした人。今朝、白石の机に紙を入れようとした人。メールで回した人。全部同じじゃないですよね」
榊原の顔色が変わった。
「何それ」
「一緒にすると、誰も責任を取らないから」
「私だけが悪いって言いたいの?」
「違う」
俺は首を振った。
「誰が何をしたか、分けたいだけ」
高村先生が俺の言葉を引き取る。
「そうね。そこは確認しましょう」
榊原の視線が刺さる。
敵認定されたのが分かった。
紙を入れようとした女子が、泣きながら口を開いた。
「今朝の紙は、私が入れようとしました。でも、書いたのは……」
視線が榊原に向く。
榊原は唇を噛んだ。
「私は、ちょっと言っただけで」
「ちょっとって、何を」
学年主任が聞く。
榊原は答えない。
森下がぼそりと言った。
「昨日のこと、白石が調子乗らないようにしたほうがいいって」
「直人!」
榊原の声が裏返った。
空気が崩れていく。
大人の前で、記録と目撃者がある場所では、同じやり方は通じない。
「メールは」
俺は田端のほうを見る。
田端は青い顔で首を振った。
「俺に見せてきたやつは、森下の部活の先輩から来たって言ってた」
「先輩?」
「いや、先輩っていっても三年じゃなくて、同じ部の目立つやつ」
高村先生がメモを取る。
手は少し震えているが、もう止まってはいない。
「森下くん、誰に話したの」
「……部活のやつに」
「どういうふうに」
「白石に告るふりしたら、佐伯が邪魔してきたって」
俺の名前が出た瞬間、周囲の目がこちらに向く。
「それで、白石さんが悪いような内容のメールになったの?」
「そこまでは、俺じゃないです」
森下は必死に首を振った。
たぶん本当だろう。
責任は一人に押しつければ済む話ではない。
だからこそ、分ける。
「白石は、悪くないです」
気づけば、俺はそう言っていた。
会議スペースが静かになる。
高村先生が俺を見る。
「昨日も今日も、呼び出された側で、紙を入れられた側です。嫌だと思って当然です」
榊原が泣きそうな顔で俺を睨んだ。
「私だって、そんな大ごとになると思わなかった」
「そうだろうな」
「じゃあ」
「でも、大ごとになると思わなかったことと、やっていいことかどうかは別だ」
榊原の目に涙がたまる。
「私だけが悪いみたいに言わないでよ」
小さな会議スペースに、その声が落ちた。
俺は少しだけ息を吐いた。
たぶん榊原はここに逃げると思っていた。
私は悪くない。
私だけじゃない。
みんなもやっていた。
その言葉の中に、ほんの少しだけ本当が混じっているから厄介だ。
俺は榊原の目を見て、静かに言った。
「大丈夫。関わった人間は、全員分けて話そう」




