閑話「小野美咲は、付き合うの意味をまだ知らない」
家に帰って自分の部屋へ入ったところで、私は鞄を持ったまま立ち止まった。
今日、杉浦くんと付き合うことになった。
……たぶん。
教室でも二人でそう確認したし、帰り道では田端くんに何度も聞かれた。澪からも「よかったね」と言われた。
だから間違いではないと思う。
それでも、家へ帰って一人になると、誰かの話を思い出しているような感じがした。
鞄を机の横へ置き、制服のポケットから携帯を出す。
新着メールはなかった。
杉浦くんは部活中だから、来るはずがない。分かっているのに、念のため受信箱を開いてから閉じた。
「付き合うって、何すればいいんだろ……」
口に出しても、部屋には私しかいない。
ベッドへ腰を下ろし、携帯のアドレス帳を開いた。
『杉浦くん』
登録名は今までと同じだった。
急に健太くんへ変えるのはおかしい。そもそも、本人を名前で呼んだこともない。
恋人になったら呼び方を変える、という決まりがあるのだろうか。田端くんなら知ったような顔で何か言いそうだけれど、あまり信用できない。
私はメールの新規作成画面を開いた。
『今日はありがとう』
そこまで打って、指が止まる。
何に対するお礼なのかが分からない。付き合ってくれてありがとう、では少し変な気がする。話してくれてありがとうなら合っているけれど、教室でもう言った。
全部消した。
『これからよろしくね』
今度は転校してきた時の挨拶みたいだった。
また消す。
『部活、頑張ってね』
これなら普通に送れる。
普通すぎて、今日わざわざ送る意味がない気もする。
送信ボタンの上へ親指を置いたまま迷い、結局その文も消した。
杉浦くんは、部活が終わったらメールすると言っていた。
それなら、待っていればいい。
でも、付き合い始めたのに最初のメールまで相手任せなのはどうなのだろう。
考えるほど分からなくなった。
私は携帯を閉じ、机へ置いた。すぐに気になって、画面が見える向きへ置き直す。
澪に相談しようかと思った。
ただ、澪は最初から最後まで教室にいた。私が教科書で顔を隠していたところも、杉浦くんに「たぶん」と答えたところも、全部知っている。
今さら何を報告すればいいのだろう。
久住さんは、言うまでもない。
あの人はチョコを買いに行った日から気づいていたらしい。たぶん私より先に、私が杉浦くんを気にしていると分かっていた。
相談したら、必要なことだけ短く答えてくれそうではある。
その代わり、私が聞かれたくないことまで一つくらい聞いてきそうだった。
携帯が震えた。
反射的に手を伸ばす。
画面に出ていたのは、澪の名前だった。
少しだけ肩の力が抜けたような、残念なような、自分でもよく分からない気持ちでメールを開く。
『家、着いた?』
いつもの短い文だった。
『着いたよ。澪も?』
送ると、少しして返事が来た。
『私も着いたよ。今日はお疲れさま』
お疲れさま、と言われるようなことをしただろうか。
教室で話しただけなのに、部活を終えた後より疲れた気はする。
『ありがとう。澪、今日は待っててくれてありがとう』
私は送信した。
すぐに澪から返ってくる。
『私は何もしてないよ。でも、よかったね』
教室でも聞いた言葉なのに、画面で見るとまた顔が熱くなった。
『うん』
それだけ返し、携帯を閉じる。
澪は、それ以上何も聞いてこなかった。
あの場にいたのだから、改めて説明することもない。久住さんも、たぶん同じだろう。
ふと、佐伯くんの顔が浮かんだ。
教室の前で鞄を何度も開け閉めしながら、こちらを見ないふりをしていた。あれで気を使っているつもりだったのだと思う。
澪と佐伯くんは付き合っていない。
でも、二人は隣にいる時の方が自然に見えることがある。今日の帰りも、田端くんと別れたあと、きっと二人で歩いたのだろう。
前なら、あとで澪へ聞いていたかもしれない。
今日は無理だった。
人のことを聞く前に、自分が明日どうやって杉浦くんへ挨拶するかも決まっていない。
机の上の携帯は、まだ静かなままだった。
◇ ◇ ◇
夕飯を食べ、お風呂から上がっても、杉浦くんからのメールは来ていなかった。
部活が長引いているのかもしれない。
それとも、杉浦くんも何を書けばいいのか分からないのだろうか。
髪を乾かしている途中で携帯が震えた。
慌てて手に取ると、今度は杉浦くんの名前が表示されていた。
すぐに開くのは待っていたみたいで恥ずかしい。
そう思い、携帯を机へ戻した。
五秒くらい待った。
それ以上は無理だった。
『部活終わった。今日はありがとう』
文はそれだけだった。
私は昼から何度も考えたわりに、杉浦くんも最初のメールは同じところへ戻ったらしい。
『部活お疲れさま。私もありがとう』
今度は消さずに送れた。
返事はすぐに来た。
『明日、普通に話せる?』
思わず笑ってしまった。
私もずっと同じことを考えていた。
『たぶん』
送信してから、教室での返事と同じだと気づいた。
直せないまま、杉浦くんからもう一通届く。
『俺もたぶん』
私は携帯を持ったまま、しばらく画面を見ていた。
付き合う前と大して変わらない、短くて少し困ったメールだった。
それなのに、受信箱を閉じる前にもう一度読み返した。
◇ ◇ ◇
翌朝、教室へ入ると、杉浦くんは田端くんと話していた。
いつもと同じ光景なのに、足が少しだけ遅くなる。
杉浦くんがこちらに気づいた。
目が合う。
「お、おはよう」
「おはよう」
それだけだった。
昨日までだって何度も挨拶しているのに、二人とも声が硬い。
「何か、距離できてない?」
田端くんが私たちを見比べた。
「できてない」
「昨日、付き合ったんだよな?」
「確認しないで」
「いや、付き合う前の方が普通に話してた気がして」
「田端、朝からうるさい」
杉浦くんが止めてくれた。
止め方もいつもと同じで、少し安心する。
「でもさ、呼び方とか変えないの?」
「呼び方?」
「お互い下の名前で呼んだり」
「呼ばない!」
「呼ばないから!」
杉浦くんと声が重なった。
二人で顔を見合わせ、すぐに逸らす。
「そこまで同じにしなくても」
田端くんが笑う。
私は鞄を机へ置き、田端くんを睨んだ。
「田端くんが変なこと言うからでしょ」
「普通の疑問だろ」
「朝から聞かなくていい疑問なの」
「田端くん、聞きすぎ」
後ろから久住さんの声がした。
助かったと思って振り返ると、久住さんは私と杉浦くんを交互に見た。
「でも、昨日より話せてないのは本当だね」
「久住さんまで言うの?」
「見たまま」
やっぱり、全部分かっている。
その少し後に、澪と佐伯くんが教室へ入ってきた。
二人は一緒に登校したわけではないらしく、入口では少し離れている。
佐伯くんが席へ着き、鞄から一冊のノートを出すと、澪がすぐに気づいた。
「それ、進路のノート?」
「うん。見せるって言っただろ」
「持ってきてくれたんだ」
「変なところあったら言って」
佐伯くんが差し出したノートを、澪は普通に受け取った。
そのやり取りに、変に慌てたところはない。
私と杉浦くんは、挨拶だけであんなに固くなった。
あの二人の方が、よほど付き合っているように見える。
そう思ってから、私はすぐに自分の席へ顔を向けた。
今の私が澪をからかっても、たぶん全部返ってくる。
「小野さん」
澪が私の席まで来た。
「昨日、ちゃんと眠れた?」
「どういう心配?」
「その……いろいろ考えてそうだったから」
「澪に言われると、ちょっと複雑」
「え?」
「何でもない」
澪は不思議そうに首を傾げた。
その向こうでは、佐伯くんが受け取ったノートをもう開いている。
「でも、昨日はありがとう」
「ううん」
澪は少し迷ってから、声を小さくした。
「よかったね、小野さん」
また同じ言葉だった。
今度は教科書で隠れることもできない。
「……うん。ありがとう」
そう返したら、また顔が熱くなった。
昨日よりは、ちゃんと返事ができたと思う。
予鈴が鳴り、澪は自分の席へ戻っていく。
途中で佐伯くんの机に寄り、進路ノートの開いている場所を指で示していた。
佐伯くんが何か聞き、澪が頷く。
あとで澪へ、佐伯くんのことを少し聞いてみたい。
そう思ったけれど、今朝の挨拶を見られたばかりだった。こちらまで何か聞かれたら困る。
私は何も言わず、自分の席で一時間目の教科書を出した。
◇ ◇ ◇
その日の夜、布団へ入ってから携帯を開いた。
杉浦くんとは何通かメールをしたけれど、学校では結局ほとんど話せなかった。
受信箱の一番上に、新しいメールがある。
『今日は昨日より話せなかった気がする。明日は普通に話そう。おやすみ』
普通に話そう、と二日続けて言っている。
付き合う前は、そんな約束をしなくても普通に話せていたのに。
私は布団を鼻の辺りまで引き上げ、携帯の画面をもう一度見た。
『うん。明日は普通に話そうね。おやすみ、杉浦くん』
送信する。
携帯を閉じた時の音が、布団の中で思ったより大きく聞こえた。
おかしくなって、私は声を出さないように少しだけ笑った。




