第六十九話「付き合うって、何をすればいいんだろう」
小野は教科書を持ったまま、杉浦を見ていた。
杉浦も次の言葉が出てこないらしく、鞄の持ち手を握ったり緩めたりしている。
帰りの会が終わってから少し時間が経ち、教室に残っているのは俺たち六人だけになっていた。廊下を部活へ向かう生徒が通り過ぎていくが、こちらを気にする様子はない。
「先に行ってるぞ」
俺は田端の背中を押した。
久住も何も言わず、教室の出口へ向かう。白石は小野を気にして一度振り返ったが、そのまま俺たちについてきた。
「待って」
小野の声で、全員の足が止まった。
「どうしたの?」
白石が聞く。
小野は教科書で口元を隠すようにして、少しだけ俯いた。
「その……急に二人だけになる方が、ちょっと無理」
「無理って」
「だって、何を話すのか分からないし」
杉浦が「俺もまだ決めてない」と言った。
決めてから声をかけろ、と言いたいところだが、決められなかったから今こうなっている。
「じゃあ、教室の端にいるね」
白石が窓際を指した。
「それも見られてるみたいで恥ずかしい」
「小野さん、結構難しいこと言ってるよ?」
久住の指摘に、小野はますます顔を隠した。
「分かってる。ごめん」
「謝らなくていいけど」
結局、俺たちは教室の前へ移動した。
田端は黒板に残っていた日直の名前を眺め、久住は廊下側の壁に寄りかかる。白石は小野を見ないようにしているつもりなのか、掲示板の進路だよりをやけに真剣に読んでいた。
俺も鞄の中身を確認するふりをした。
教科書、筆箱、連絡帳。全部入っている。確認する必要はない。
教室の中は静かだった。
少し離れたところで話しても、聞こえるものは聞こえる。
「それで、話って何?」
小野が先に聞いた。
「カードのこと」
「うん」
「あれ、どういう意味だったのかなって」
「どういうって、そのままだよ」
「そのままが分からないんだよ」
杉浦は困ったように頭をかいた。
「『合唱祭の時、ありがとう。最近、杉浦くんと話すのが前より楽しいです』って」
「読まなくていいから」
「いや、だって、これがどういう意味なのか聞きたいんだし」
「分かった。分かったから、もう読まないで」
小野の声がだんだん小さくなる。
田端がこちらを見たので、俺は首を横へ振った。口を挟むなという意味は伝わったらしい。
「それ、俺にだけ書いた?」
杉浦が聞く。
小野はすぐに答えなかった。
手元の角を親指で何度も押している。
「……杉浦くんにだけ」
教室の前で、白石の肩がほんの少し動いた。
小野の返事は聞こえたらしい。白石は進路だよりへ顔を向けたまま、両手で鞄の持ち手を握っている。
「チョコは、みんなと同じなんだけど」
小野が続けた。
「うん」
「友チョコなのも本当。でも、杉浦くんのは……少しだけ違った」
「少しだけ?」
「そこ、聞き返す?」
「ごめん」
杉浦はすぐに謝った。
小野は口元まで上げていた教科書を少し下ろした。
「杉浦くんは、どうなの」
「俺?」
「私ばっかり言うの、ずるい」
言われて、杉浦が黙った。
視線が窓の方へ逃げ、時計へ移り、最後に小野へ戻る。
「俺も、小野さんからもらったのが一番嬉しかった」
「一番って、他の人からももらったでしょ」
「そこ気にする?」
「だって今、一番って」
「久住さんと白石さんからも友チョコもらったけど、そういう意味じゃなくて」
「分かってるけど」
二人とも大事なところへ近づいた途端、どうでもよさそうなところで止まっている。
見ている方は落ち着かないが、田端まで口を閉じているので、俺も黙って鞄のファスナーを開け閉めした。
「合唱祭の日」
杉浦が言った。
「小野さんに、もう部活行くのって聞かれたの、ちょっと嬉しかった」
「そんな前のこと、覚えてたの?」
「小野さんだって、カードに合唱祭のこと書いてただろ」
「それは……そうだけど」
小野がやっと顔を上げた。
顔は赤いが、さっきより杉浦を見ている。
「初詣の時も、小野さんが隣にいると気になったし、最近、教室でも何か話してないかなって聞いてる」
「それ、私も杉浦くんの声を聞いてる」
「声?」
「……今のは忘れて」
「無理だろ」
「忘れてよ」
小野はまた手にした教科書で顔を隠そうとした。
杉浦が笑い、小野も隠しきれずに少しだけ笑った。
「俺、小野さんのこと、気になってるんだと思う」
杉浦の声は、思っていたより普通だった。
もっと言い淀むかと思ったが、口に出してしまった本人の方が驚いたらしい。言ったあとで目を逸らし、首の後ろをかいている。
「思う、なんだ」
「こういうの初めてだから、よく分からない」
「私も分からないよ」
「じゃあ……同じ?」
「たぶん……」
小野の返事に、杉浦はしばらく黙った。
小野も次に何を言えばいいのか分からないらしく、両腕を胸の前で固くしている。
廊下を運動部の男子が走っていった。
杉浦の名前を呼ぶ声も聞こえたが、本人は返事をしなかった。
「じゃあさ」
杉浦が一度だけ息を吐いた。
「俺たち、付き合う……ってことでいいのか?」
疑問形だった。
告白というより、授業で分からないところを確かめる時の聞き方に近い。
小野は一瞬だけ目を丸くし、それから困ったように眉を下げた。
「私に聞くの?」
「小野さんに聞かないと分からないだろ」
「そうだけど……」
小野は視線を落とした。
胸元で固くしていた腕から、少し力が抜ける。
「たぶん、そういうことだと思う」
杉浦は「そっか」と答えた。
小野も「うん」と返す。
それで会話が止まった。
付き合うことになった二人が、次に何をすればいいのか分からず向かい合っている。
俺にも分からない。拍手をする場面ではないだろうし、田端を連れて静かに出ていくにはもう遅い。
「え」
田端が耐えきれずに声を出した。
「今ので、付き合ったの?」
小野が肩を跳ねさせ、杉浦はこちらを振り返った。
「聞いてたのかよ」
「聞こえるって。っていうか、え、本当に?」
「たぶん」
「杉浦までたぶんなの?」
久住が小さく息を吐いた。
「二人とも、さっきそう言ってたでしょ」
「そうだけど、もっとこう、好きですとか、よろしくお願いしますとか」
「田端くんが期待しすぎ」
「俺が悪いの?」
小野は教科書で顔を半分隠したまま、白石を見た。
白石は迷いながら近づき、小野の前で足を止める。
「小野さん」
「澪、今はあんまり顔見ないで」
「う、うん」
白石は言われた通り、小野の顔から少し視線を外した。
それでも、その場を離れず、小野が抱えている教科書の端へそっと指を添える。
「よかったね」
小野は返事をしなかった。
隠しきれなかった口元が、少し上がっている。
「……うん」
聞こえるかどうかくらいの声だった。
「小野さん、チョコ買いに行った時から分かりやすかったけどね」
久住が言う。
「久住さん、それ今言う?」
「今なら言ってもいいかと思って」
「よくないよ」
小野の返事には、さっきまでより少しだけ元気が戻っていた。
そこで、廊下からもう一度杉浦を呼ぶ声がした。
杉浦が時計を見る。
「やばい」
「部活、行かないと」
「うん。小野さん、その……あとでメールしていい?」
「いいよ」
「部活終わったら送る」
「遅くなりすぎたら、明日でいいからね」
「分かった」
杉浦は鞄を肩へかけ、教室の出口へ向かった。
二歩進んでから振り返る。
「じゃあ、またあとで」
「うん。またあとで」
小野が返すと、杉浦は今度こそ廊下へ走っていった。
田端がその背中を見送り、もう一度小野を見る。
「本当に付き合ったんだ」
「田端くん、何回確認するの」
「だって、昨日まで何もなかったじゃん」
「昨日までにもあったんだと思う」
白石が言った。
自分で言ってから少し恥ずかしくなったのか、小野の手元から指を離し、鞄を持ち直す。
小野は白石を見て、今度は隠れずに笑った。
◇ ◇ ◇
帰り道でも、田端はまだ納得しきれていなかった。
「付き合うって、明日から何か変わるの?」
「私に聞かないでよ」
「本人だろ」
「私だって今決まったばかりだから、分からないの」
「一緒に帰ったり?」
「杉浦くん、部活あるでしょ」
「メール増えたり?」
「田端くんには教えない」
小野は怒ったように言っているが、歩く速さはいつもより少し軽かった。
久住は隣で時々短く笑い、白石も小野の話を聞きながら何度も笑っている。
途中の交差点で、小野と久住が別の道へ曲がった。
小野は別れ際にも携帯を気にしていたが、まだ部活が始まったばかりだろう。メールが来るには早すぎる。
田端も少し先で別れ、俺と白石だけが残った。
冬の夕方は暗くなるのが早い。白石はマフラーへ顎を少し埋め、しばらく前を向いて歩いていた。
「小野さん、嬉しそうだったね」
「うん。杉浦も、たぶん同じだな」
「二人とも、ちゃんと話せてよかった」
「途中で帰りたくなったけど」
「実は私も。見てる方も恥ずかしかった」
白石が笑った。
吐いた息が白くなり、すぐに消える。
「でも、少しいいなって思った」
「付き合うのが?」
「ち、違うよ」
白石はマフラーから顔を出し、慌ててこちらを見た。
「違うというか、その……ちゃんと言えたことが」
「ああ」
「言わないと、分からないこともあるから」
白石はそこまで言って、またマフラーへ口元を隠した。
俺の頭には、引き出しの小箱へしまったカードが浮かんだ。
白石はどんな顔で、あれを書いたのだろう。
今ここで聞けるわけもないし、聞いたところで俺の方が先に詰まりそうだ。
考えているうちに返事が遅れた。
白石が横からこちらを見上げる。
「佐伯くん?」
「いや、何でもない」
「そう?」
白石は少し不思議そうにしてから、前を向いた。
俺も歩き出そうとして、白石より二歩ほど遅れていることに気づく。
慌てて追いつくと、白石は何も聞かず、俺が隣に並ぶまで少しだけ歩幅を小さくしていた。




