第六十八話「杉浦は、返事の仕方を間違えかける」
バレンタインから二日が過ぎた昼休み、杉浦は弁当箱を開ける前に俺の机へ身を寄せた。
女子三人はまだこちらへ来ていない。小野と白石は教室の前で話していて、久住は自分の席で教科書を鞄へしまっている。
「佐伯、ちょっと聞いていい?」
「内容によるぞ」
「お返しって、何が普通なんだ」
声が小さい。
隣にいた田端だけは、こういう単語を聞き逃さなかった。
「三倍返しじゃないの?」
「お前には聞いてない」
「なんでだよ。俺も昨日調べたぞ」
「何を」
「ホワイトデー」
田端は妙に得意そうだった。
勉強の予習もそれくらい熱心にやってくれ。
「もらった物の三倍くらいのを返すんだろ?」
「それ、どこで調べた」
「姉ちゃんに聞いた」
「たぶん田端を困らせようとしてるぞ」
「……姉ちゃん、笑ってたけど」
「ほぼ確定だな」
中学生の財布で三倍返しなんて始めたら、来月の小遣いが受け取ったチョコに全部食われてしまう。
俺も白石へのお返しで頭を抱えている最中なので、偉そうに助言できる立場ではない。昨夜も小遣いの残りを数えて、結局何も決められなかった。
「普通に菓子でいいんじゃないか。もらったのも市販のチョコだったし」
「やっぱり、みんな同じでいいと思う?」
「友チョコなら、その方が変に見えないだろ」
「そうなんだけどさ……」
杉浦は自分の席へ目を向けた。
机の横にかかった鞄を見たまま、首の後ろをかく。
「小野さんのだけ、少し違う物にしたら変かな」
そこまで言うと、田端が口を開けたまま止まった。
「なんで小野さんだけ?」
「お前は少し黙っててくれ」
「え、俺、何か見落としてる?」
「かなり見落としてる」
田端は納得していない顔で俺と杉浦を見比べている。
杉浦は首の後ろをかき、もう一度声を落とした。
「みんなと同じって言われたんだけど、カードがさ」
「何て書いてあったんだ」
「それは言わない」
「じゃあ分からん」
「俺も分からないから聞いてるんだ」
杉浦にしては珍しく、言い方が少し荒い。
田端も今度は茶化さず、弁当箱の蓋を触っていた。
「小野さんのだけ、ちょっといい物を返せば、こっちも同じって伝わるかなと思って」
「同じって?」
「だから……」
杉浦が言葉に詰まる。
何を同じにしたいのか、たぶん本人の中でもまだ決まっていない。
小野のチョコが特別だったなら、自分も特別に返したい。そのくらいは俺にも分かる。
ただ、少し高い物を渡して、あとは小野に察してもらう。俺も人のことを言えないが、さすがにそれでは楽をしすぎだろう。
「高いのを急に渡したら、小野が困るかもしれないぞ」
「高いって言っても、千円くらい」
「中学生には十分高い」
「じゃあ、八百円」
「値下げの話じゃない」
思わず会社で見た予算会議を思い出した。
内容が決まっていないのに金額だけ削っても、だいたい後で困る。まさか中学生のホワイトデーで同じ流れを見るとは思わなかった。
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
「俺に聞くな。昨日、自分の分で頭抱えたばかりだ」
「佐伯も?」
杉浦が少しだけ笑った。
「白石さんの、やっぱり違った?」
「それは言わない」
「さっきの俺と同じじゃん」
「だから、聞く相手を間違えてる」
田端が「あれ、悠真のも特別だったの?」と遅れて反応した。
面倒になってきたところで、小野たちがこちらへ来た。
「何の話?」
小野が弁当袋を机へ置く。
「ホワイトデーについての重要会議」
「また田端くん?」
「今回は杉浦」
「田端、言うなよ」
杉浦の声が少し大きくなった。
小野の手が止まり、すぐに弁当袋の紐をほどき始める。
「別に、普通でいいから」
「え?」
「お返し。そんなに気を使わなくていいよ」
「あ……うん」
二人とも、そのあと何も言わなかった。
杉浦は弁当箱を開け、小野は箸箱を取り出す。いつもなら田端が何か言えば二人のどちらかが突っ込むのに、今日は二人とも卵焼きの位置でも確かめるように下を見ていた。
久住は席へ着くと、杉浦、小野の順に見た。
口には出さない。
白石も何となく気づいたのか、小野の隣へ座りながら、そっと顔を覗き込んでいる。
「小野さん、チョコありがとう。美味しかった」
俺が言うと、小野は少し遅れて顔を上げた。
「うん。よかった」
「俺も美味かった。量もちょっと多かった気がする」
「同じだって言ったでしょ」
「気持ちの分かもしれない」
「田端くんのだけ減らせばよかったかな?」
いつもの調子に戻った小野に、田端が抗議する。
杉浦も笑ったが、すぐに口を閉じた。
「澪のも美味しかったよ」
小野が言うと、白石はほっとしたように笑った。
「ありがとう」
そのあと、白石はこちらを見た。
弁当箱の蓋を両手で持ち、縁を親指でなぞっている。
「佐伯くんも……食べた?」
「うん。美味しかった」
「そっか」
白石は蓋を置き、今度は箸袋の端を整え始めた。
「変じゃ、なかった?」
「全然。嬉しかった」
「……うん」
返事は小さかったが、箸袋を触る手が止まった。
少ししてから、白石は顔を上げずに口元だけで笑った。
俺はそれ以上言わず、弁当を開ける。
杉浦の相談に乗っている場合ではない気もしてきた。自分の方も、かなり手に余っている。
その杉浦は、俺と白石の会話を聞いていた。
目が合うと、何か納得したように一度だけうなずく。
何を納得した。俺は何も解決していないぞ。
「小野さん」
杉浦が呼んだ。
「何?」
「チョコ、美味しかった。ありがとう」
「……うん」
「……カードも」
小野の箸が止まった。
「読んだんだ」
「入ってたから」
「まあそうだよね……入れたからね」
「それで、あの」
杉浦は続けようとして、田端が見ていることに気づいた。
田端は口にご飯を入れたまま、二人を交互に見ている。
「何だよ」
「いや、聞いてる」
「聞くなよ」
「机寄せてるんだから無理だろ」
小野が俯き、久住が田端の弁当箱を指した。
「田端くん、食べないと昼休み終わるよ」
「食べてる」
「止まってる」
田端が慌ててご飯をかき込む。
杉浦は結局、その先を言わなかった。
昼休みの終わりを知らせる予鈴が鳴る。
机を戻す間、小野と杉浦は一度も目を合わせなかった。
ただ、離して置かれた二人の机が、元の列へ戻る途中で一度だけぶつかった。
「ごめん」
「ううん」
たったそれだけで、二人とも妙に慌てていた。
見ている方まで落ち着かない。三十二歳の俺なら何か言えるかと考えたが、出てきたのは「落ち着け」くらいだった。
役に立たないので、俺は自分の机を戻して社会の教科書を開いた。
◇ ◇ ◇
帰りの会が終わっても、杉浦はすぐに席を立たなかった。
いつもなら部活へ急ぐ時間だ。田端に「先行くぞ」と言われても、鞄へ教科書を入れながら「ああ」と返すだけで、動こうとしない。
小野は白石と話しながら、帰り支度をしていた。
朝配られたプリントを二つ折りにして、連絡帳へ挟む。いつもなら迷わない作業なのに、角を揃えるのに時間がかかっている。
昼休みのことを気にしているのは、杉浦だけではなさそうだ。
「杉浦くん」
久住が自分の鞄を肩へかけた。
「今日、部活あるんだよね」
「ある。もう行かないとまずい」
「じゃあ、話した方が早いと思う」
「何を」
「小野さんに聞きたいこと」
杉浦が久住を見る。
久住は相変わらず普通の顔をしていた。
「別に、聞きたいことなんて」
「昼休みから何回も見てたけど」
「数えてたの?」
「数えてない。分かるくらい見てた」
田端が小さく「そんなに?」と聞く。
俺と久住が同時に田端を見た。
「何」
「お前は先に昇降口へ行こう」
「なんで俺だけ」
「俺たちも行くから」
鞄を持って立ち上がる。
白石も話の流れを察したらしく、小野の机から少し離れた。
「昇降口で待ってるね」
白石が言うと、小野は目を丸くした。
「え、何で?」
「その……杉浦くんが、話したいみたいだから」
今度は杉浦が固まった。
まだ本人は声をかけていない。白石に先を越されている。
「白石さん、今言う?」
「ご、ごめん」
「いや、助かったけど」
杉浦は鞄を持ち上げ、また下ろした。
小野は連絡帳を閉じたまま、杉浦を見ている。
もう逃げる方が目立つ状況になった。
「お返しのことなんだけど」
杉浦が言いかけ、首を振った。
「いや、違う。それだけじゃなくて」
小野の指が、連絡帳の端を強く押さえる。
「小野さん。ちょっと話せない?」
小野は返事をしようとしたらしい。
けれど声が出ず、鞄へ入れかけていた教科書を持ったまま動かなくなった。




