第六十七話「バレンタイン当日、甘さの扱いに困る」
朝、教室へ入ると、田端が自分の机の中を覗き込んでいた。
忘れ物を探しているにしては、ずいぶん念入りだ。教科書を一冊ずつ持ち上げ、最後には机の下まで確認している。
「何してるんだ……」
「別に」
「杉浦、こいつは何してるんだ」
「何も入ってなかったんだろ」
「まだ朝だから」
田端は机の中を閉じ、何事もなかったように席へ座った。
何事もなかった顔が全然できていない。杉浦が笑いをこらえながら鞄を置く。
教室の男子は、だいたい似たようなものだった。
いつもより早く来たやつ。机の中へ手を入れてから、シャーペンを探しただけだという顔をするやつ。女子が鞄から何か出すたび、前を見たまま耳だけそちらへ向けているやつ。
見ているだけで落ち着かない。お前ら、せめてもう少し隠せ。
たぶん俺も、似たような顔をしている。
俺は自分の席に座り、英語の教科書を机へ入れた。
何もなかった。
当然である。まだ白石たちも来ていない。
そこまで考えてから、俺も田端と大差ないことに気づいた。
嫌な朝だ。
「おはよー」
小野の声がして、教室の何人かが一瞬だけそちらを見た。
小野は白石、久住と一緒に入ってきた。三人とも普段と同じ鞄を持っているが、小野だけ、持ち手を握る手に少し力が入っている。
杉浦は窓の外を見た。
そっちは曇っているだけだぞ。
「おはよう」
田端と杉浦が挨拶を返し、俺も軽く手を上げた。
「三人一緒だったんだ」
「昇降口で会ったの」
小野が答える横で、白石も俺たちへ小さく頭を下げた。
それから自分の席へ向かいかけ、俺の机の横で足を緩める。鞄を胸の前へ少し引き寄せてから、こちらを見た。
「おはよう、佐伯くん」
「おはよう」
白石はそれだけ言うと、今度こそ自分の席へ向かった。
歩き出すのがいつもより少し早かった気がする。気のせいということにして、俺は教科書を開いた。
まだ一時間目も始まっていない。
今日一日、やけに長くなりそうだった。
◇ ◇ ◇
昼休みになり、いつものように机を寄せると、田端は弁当箱を出すより先に姿勢を正した。
「田端くん、何その座り方」
背筋をピンと張った田端を見て、小野が呆れた顔をする。
「今日は礼儀が大事かと思って」
「普段からそうしてればいいのに」
「小野さん、今日ちょっと厳しくない?」
「朝からずっと落ち着きがないからでしょ」
田端は反論しようとして、久住が鞄から小さな紙袋を出した途端に口を閉じた。
目だけは正直だった。
「はい。友チョコ」
久住は女子二人へ渡したあと、男子三人の机にも小さな包みを置いた。
色も大きさも同じで、扱いに迷う余地がまったくない。
「久住さん、ありがとう」
「どういたしまして」
「俺、今年もう満足かもしれない」
「まだ食べてないのに?」
「もらったという事実が大事なんだよ」
「じゃあ、中身は返して」
「それは嫌」
久住が田端の包みへ手を伸ばすと、田端は慌てて胸元へ抱え込んだ。
杉浦が吹き出し、白石も肩を揺らしている。
続いて、小野が鞄から包みを取り出した。
白石と久住へ渡し、田端、俺の順に置いていく。
「いつものみんなに。市販のを分けただけだから、期待しないでね」
「ありがとう」
「小野さんまで……今年の俺、何か来てる?」
「何も来てないから落ち着いて」
最後に、杉浦の分が残った。
小野は包みを持ったまま、ほんの少しだけ指先を動かした。杉浦も気づいているくせに、弁当箱の蓋をきっちり重ねようとしている。
一回で重なっている。もう触らなくていい。
「杉浦くんも」
「あ、うん。ありがとう」
「みんなと同じだから」
「分かってる」
「ならいいけど」
杉浦が受け取ると、小野はすぐに弁当箱を開いた。
耳が少し赤い。杉浦も包みを鞄へしまうのに妙に手間取っている。
田端は何も気づかず、自分の包みと俺の包みを見比べていた。
「なあ、俺の方がちょっと多くない?」
「同じだよ」
「袋の膨らみが」
「田端くん、面倒くさい」
小野の声が低くなったので、田端はようやく弁当箱を開けた。
こいつの鈍さは、こういう時だけ少し助かる。
白石は膝の上に置いた鞄を開き、中から透明な袋を取り出した。
淡い水色の線が入っている。
まず小野と久住へ渡し、それから田端、杉浦へと順番に手渡した。
「私も、みんなに」
「白石さん、ありがとう!」
「田端くん、声大きいよ」
「ごめん。でもありがとう」
「うん」
田端に笑って答えたあと、白石の手がもう一度鞄へ入った。
残った一つを持ち上げ、こちらへ向ける。
「佐伯くんも」
「ありがとう」
受け取ろうと手を出す。
白石は袋を俺の手の上へ置いたが、すぐには指を離さなかった。
水色の細いリボンは、他の包みより結び目がきれいに揃っている。
俺が顔を上げると、白石は袋ではなく、俺の手元を見ていた。
「その……」
「うん」
「中に、カードも入ってるから」
「分かった」
「あとで、見てね」
そこまで言って、白石はようやく手を引いた。
引っ込めた手を膝の上で重ね、人差し指で反対側の親指を押している。
「ちゃんと見る。ありがとう」
白石は小さくうなずき、弁当箱の包みをほどき始めた。
端をつまむ指が一度滑った。本人は何もなかった顔をしているが、耳のあたりが少し赤い。
ここまで目の前で渡されると、結び目なんか見ていないとは言えない。
だからといって、その場で確かめるのも違うだろう。俺にできるのは、変な顔をしないように受け取るくらいだった。
とりあえず包みを鞄の一番上へ入れた。教科書の下に押し込む気にはなれなかった。
「悠真」
田端が小声で呼ぶ。
「何」
「白石さん、俺にもカード入れてくれたかな」
「本人に聞け」
「なんかお前のだけ、リボンきれいじゃない?」
「田端、お前は弁当食え」
杉浦が唐揚げを口に入れようとする。
「待て、それ俺の唐揚げだろ!」
「うるさい、いいから貸せ」
「貸したら返ってこないやつだろ!」
騒ぎの向こうで、白石が一度だけこちらを見た。
俺の鞄から水色の包みが少し見えているのを確認すると、ほっとしたように肩を下ろす。
そのまま目が合ってしまい、白石は慌てて小野の方を向いた。
小野はたぶん全部見ていた。
何も言わずにお茶を飲んでいるが、口元だけが少し緩んでいる。
久住も気づいていそうだったが、こちらは普通に卵焼きを食べていた。あえて触れないでくれているなら助かる。
教室の前の方で、榊原が友人から包みを受け取っていた。
笑いながら礼を言ったあと、視線がこちらへ動く。
白石の手元、俺の鞄、小野と杉浦の包みを順に見て、榊原はほんの一瞬だけ口を閉じた。
白石もそれに気づいたらしい。
箸を持つ手が止まりかける。
「澪、卵焼き一個交換しない?」
小野が自分の弁当箱を差し出した。
「え?」
「澪の、甘いやつでしょ。私のはしょっぱいから」
「うん。いいよ」
白石は自分の卵焼きを箸で取り、小野の弁当箱へ入れた。
交換した卵焼きを見て、少し笑う。
「本当にしょっぱいね」
「だから言ったでしょ」
榊原はもうこちらを見ていなかった。
俺も何も言わず、弁当を食べる。間に入る必要がないなら、その方がいい。
白石は小野と卵焼きの味つけを話しながら、さっきより普通に箸を動かしていた。
俺は鞄の口を少しだけ閉じた。
水色の包みが見えなくなる。
田端にまた数を比べられても困るし、何より、午後の授業中ずっと目に入るのはたぶんよくない。
◇ ◇ ◇
帰宅して手だけ洗うと、俺は制服のまま自分の部屋へ入り、机に座った。
本来なら先に着替え、鞄の中身を出す。最近は母に言われる前にやるようにしていた。
今日は順番が崩れた。
机の端には、昨夜まで書いていた進路ノートが開いたままになっている。
候補にした高校の通学時間、学費、部活、進学実績。父に言われて調べ始めたら、思ったより項目が増えた。会社選びの比較表みたいになりかけているので、白石に見せる前に少し減らした方がいいかもしれない。
その上へ、水色の包みを置く。
結び目がきれいだった。
やっぱり、俺の気のせいだけではないと思う。
リボンをほどき、袋を開けた。
中には小さなチョコがいくつか入っている。田端が気にしていた数については、たぶん全員同じだ。
その下に、小さなカードがあった。
『佐伯くんへ』
自分の名前を見ただけで、手が止まる。
誰も見ていないのに、一度部屋の扉を確認した。
父の目視チェックはパソコンの使い方を見るためで、息子がもらったチョコまで確認するとは思えない。母は分からない。あの人は妙なところで勘がいい。
カードを机の下へ隠すように持って、続きを読んだ。
『いつもありがとう。佐伯くんが待ってくれたから、楽しいことが増えました。これからもよろしくね』
一度読んだ。
カードを置き、チョコを一つ食べた。
甘かった。
もう一度読んだ。
「……これは、困るだろ」
声に出してから、自分でも何が困るのかよく分からなくなった。
嫌なわけがない。むしろ、かなり嬉しい。
白石が学校で笑うようになったことも、小野たちと買い物へ行ったことも、こうして誰かへチョコを渡そうと思ったことも、全部よかったと思っている。
その中に俺の名前が入っている。
しかも、たぶん少しだけ扱いが違う。
三十二歳まで生きて、これを全部ただの友チョコだと思えるほど鈍くはない。
いや、そう思いたいだけの可能性もある。白石はまだ十四歳で、助けてもらったことへの感謝を、本人もどう扱えばいいのか迷っているのかもしれない。
そこまで考えて、カードを机へ戻した。
分析を始めると、また仕事みたいになる。
バレンタインのカードを前に、会議資料でも作るつもりか。俺は。
机には進路ノートと、会社を調べたノート、それから小遣いの残りを書いた紙がある。
高校までの通学時間なら調べられる。必要な金額も、だいたいは出せる。将来買いたい会社も、今のうちに候補を増やせる。
白石へ何を返せば困らせずに喜んでもらえるかは、検索欄へ入れてもろくな答えが出る気がしなかった。
前の人生では、面倒な連絡も予定も「仕事が落ち着いたら」で後回しにした。
仕事は落ち着かなかったし、そのうち誘いの方が来なくなった。思い出して、少し嫌な気分になる。
同じことを繰り返すのは馬鹿らしいが、だからといって正解が急に出てくるわけでもない。人生をやり直しても、中学生のバレンタインまで経験済みになるわけではなかった。
俺は机の引き出しを開け、使っていない文房具の小箱を一つ空けた。
カードを底へ置き、ほどいた水色のリボンも隣に収める。蓋を閉めたあと、上に物が乗らないよう引き出しの中を少し片づけ、奥へしまった。
次は、一か月後のホワイトデーだ。
田端には「お返しは必要だろ」と言った。自分だけ知らない顔をするわけにもいかない。
小遣いの残りを数えれば、何か買えるくらいはある。金の方はどうにかなりそうだ。
じゃあ何を選んで、白石の前でどうやって渡すのか。そこまで小遣いの表へ書きかけて、やめた。さすがに気持ち悪い。
俺は進路ノートを閉じ、机に肘をついて頭を抱えた。




