閑話「白石澪は、感謝の言葉を包みたい」
放課後の廊下は、帰る人と部活へ行く人の声で少し騒がしかった。
昇降口へ向かう途中で、小野さんが私の袖をそっと引いた。
「澪、ちょっとだけ相談していい?」
「うん」
「チョコのこと」
小野さんは声を小さくした。
その言い方が真剣だったので、私も少し背筋を伸ばす。
久住さんは隣で鞄の紐を持ち直し、さらっと言った。
「さっきからずっと考えてたよね」
「な、七海さん」
「顔に出てた」
「そんなに?」
「うん」
小野さんが困ったように笑った。
久住さんの言葉はきつく聞こえない。事実をそのまま置くみたいな言い方だから、慌てても、変に傷つかない。
「このメンバーには渡すとして、どんなのがいいかなって」
「高いのは無理だよね」
「うん。そこは無理」
私もすぐにうなずいた。
お小遣いの中で買うなら、できることは限られている。
手作りにしたら安く済むかもしれないけれど、失敗した時のことを考えると少し怖い。料理は嫌いではないけれど、誰かに渡すものを作るとなると、急に手元が怪しくなりそうだった。
「市販の小さいチョコを買って、袋を分けるとか?」
私が言うと、小野さんはぱっと顔を上げた。
「それが一番よさそう」
「包装だけ少し可愛くすれば、ちゃんと見えると思う」
「澪、そういうの得意そう」
「得意、かな?」
「ノートきれいだし」
ノートと包装は少し違う気がした。
でも、そう言われると嬉しい。
私は鞄の持ち手を握り直した。
「じゃあ、今日見に行く?」
久住さんが言った。
「え、今日?」
「話してるだけだと決まらなさそうだから」
「それはそうかも」
小野さんは少し考えてから、携帯を出した。
「お母さんにメールする。少し寄り道するって」
「私も送るね」
私も携帯を開いた。
母に、友達と少しだけ買い物をして帰る、と打つ。
友達、という言葉を自然に打てることが、少しだけ嬉しかった。
送信して携帯を閉じると、小野さんが私の画面を見ないように少し横を向いていた。
そういうところが、小野さんらしい。
「駅前の百円ショップでいい?」
「うん」
「お菓子もあるし、包装もあるし」
「田端くんがいたら、お菓子の方に行きそう」
私が言うと、小野さんが笑った。
「絶対行くね」
「杉浦くんは止めると思う」
「……そうかな」
小野さんの返事が、ほんの少し小さくなった。
久住さんが横から見ている。
私は見ていないふりをした。
たぶん、佐伯くんがよくしている顔は、こういう時の顔なのだと思う。
◇ ◇ ◇
駅前の百円ショップは、学校帰りの中学生にはちょうどいい場所だった。
お菓子の棚の近くには、赤やピンクの包装袋が並んでいる。小さなリボン、透明な袋、メッセージカード。見ているだけで、少しそわそわした。
「こういうの、思ったより種類あるね」
小野さんが包装袋を手に取る。
「多すぎると、逆に迷う」
「うん」
私は棚の前で、透明な袋を二種類見比べた。
どちらも可愛い。
片方は小さなハート柄で、もう片方は淡い水色の線が入っている。
ハート柄は少し分かりやすすぎる気がした。
水色の方なら、落ち着いている。
そう思って手に取ったあと、私はすぐに棚へ戻した。
佐伯くんの顔が浮かんだからだ。
違う。
別に佐伯くん用を選んでいるわけではない。
みんなに渡すものだ。
田端くんにも、杉浦くんにも、佐伯くんにも。小野さんと久住さんにも。
だから、特別に考える必要はない。
そう思ったのに、手はまた水色の袋へ伸びた。
自分でも少し困る。
「澪、それ可愛い」
小野さんに言われて、肩が少し跳ねた。
「え、あ、うん。派手すぎなくていいかなって」
「分かる。男子に渡しても変じゃなさそう」
「うん」
男子。
その言葉に、また佐伯くんが浮かんだ。
田端くんや杉浦くんも男子なのに、最初に浮かぶのは別の人で、私は袋の端を指で撫でた。
久住さんは隣で、小さなメッセージカードを見ていた。
「カードも入れるなら、このくらいがいいかも」
「カード、入れる?」
小野さんが少し慌てた。
「入れないと駄目ってことはないと思う」
「でも、入れるなら短い方がいいよね」
「長いと重いかも」
久住さんは淡々と言う。
その言葉で、佐伯くんの進路ノートの話を思い出した。
佐伯くんは、自分の言葉が重いことを少し気にしていた。私は「少し、見たいかも」と言ったけれど、本当は見たいだけではなかった。
変だったら直したい。
佐伯くんが一人で遠くへ考えすぎるなら、少し引き戻したい。
「澪?」
小野さんに呼ばれて、私は顔を上げた。
「ごめん、ちょっと考えてた」
「カード、どうする?」
「私は、入れたいかも」
言ってから、自分で少し驚いた。
小野さんはにこっと笑う。
「じゃあ、私も入れようかな」
「美咲、杉浦くんにも?」
久住さんが聞いた。
小野さんはカードの束を落としそうになった。
「な、なんでそこで杉浦くん」
「気になったから」
「七海さん、たまにまっすぐすぎる」
「遠回りした方がよかった?」
「どっちも困る」
小野さんは頬を赤くしながら、カードの束を棚へ戻したり、また取ったりしている。
その様子が可愛くて、私は少し笑ってしまった。
「澪まで笑わないでよ」
「ごめん。でも、小野さん、楽しそう」
「楽しい、のかな。よく分からない」
小野さんの声が少し柔らかくなった。
その顔を見て、私は胸の奥がきゅっとした。
楽しいのか、困っているのか、分からない。
その感じは、少し分かる。
「分からないけど……選びたいなら、選んでいいんじゃないかな」
私が言うと、小野さんは目を丸くした。
「澪、今すごくそれっぽいこと言った」
「それっぽい?」
「なんか、ちゃんとしてた」
「そうかな」
ちゃんとしているかは分からない。
分からないけど、選びたい。
みんなと同じにしたい。
でも、一つだけ少し丁寧にしたい。
その二つが、同じ場所で並んでしまう。
結局、私たちは小さなチョコの詰め合わせと、透明な袋、それから短いメッセージカードを買った。
会計を済ませると、財布の中が少し軽くなった。
でも、嫌な軽さではなかった。
◇ ◇ ◇
家に帰って夕飯を済ませてから、私は机の上に買ったものを並べた。
チョコの袋を開けると、甘い匂いが少しだけ広がる。
母に見つかるとからかわれそうで、部屋の扉はきちんと閉めた。
透明な袋を何枚か出す。
小野さん、久住さん、田端くん、杉浦くん、佐伯くん。
自分の分まで出してしまってから気づいた。
余った一枚は予備にすればいい。
そう思って、机の端へ置く。
同じ数になるように、チョコを分けていく。
最初は簡単だった。
袋の中へ入れて、リボンをかける。
田端くんの分は、少し多く見えるように並べた方が喜びそうだと思って、横に広げて入れた。
杉浦くんの分は、小野さんが渡す時に困らないよう、あまり目立たない色のリボンにした。私が気にすることではないかもしれないけれど、つい考えてしまう。
久住さんと小野さんの分を作ったあと、私は残った袋を見た。
佐伯くんの分。
そう思った瞬間、手が止まる。
みんなと同じにする。
そう決めて、チョコの数も袋もリボンも揃えたはずだった。
でも、結び目だけが少し気になった。
曲がっている気がして、ほどいて結び直す。
今度は右が長い。
また直す。
何をしているのだろう。
やっと結べた袋を机に置くと、他のものより少しだけ丁寧に見えた。
でも、私はその袋をすぐには戻せなかった。
次はカードだった。
小野さんには、いつもありがとう、と書いた。
久住さんには、合唱の時に声を褒めてくれて嬉しかった、と書いた。
田端くんには、いつも楽しい空気にしてくれてありがとう、と書いたあと、少し迷って「騒ぎすぎないでね」と小さく足した。
杉浦くんには、いつもみんなを見てくれてありがとう、と書いた。これを小野さんが読んだら少し照れるかもしれない。
最後に、佐伯くんのカードが残った。
シャーペンではなく、黒いペンを持つ。
でも、最初の一文字がなかなか書けなかった。
好き。
そんな言葉は書けない。
書くつもりもない。
ただ頭に浮かんでしまっただけなのに、私は慌ててカードを裏返した。
誰も見ていないのに、見られたみたいで恥ずかしかった。
ありがとう、だけなら書ける。
でも、それだけでは足りない。
佐伯くんには、何度も待ってもらった。
教室で言葉が出ない時も、図書館で迷った時も、夏祭りの帰り道も、進路の話をするときも。
急かさないで、でも一人にもしないで、少し横にいてくれた。
この気持ちを外に出したら、今の距離が変わってしまうかもしれない。
それでも、何も書かないのは嫌だった。
私はペン先をカードに置いた。
『佐伯くんへ』
そこまで書いて、一度手を止める。
字が少しだけ硬い。
深呼吸をして、続きを書いた。
『いつもありがとう。佐伯くんが待ってくれたから、楽しいことが増えました。これからもよろしくね』
書き終えた瞬間、顔が熱くなった。
変ではないと思う。
たぶん、感謝の言葉だ。
でも、ただの感謝より少しだけ外へ出てしまった気がする。
私はカードを持ったまま、しばらく机の前で固まっていた。
もう少し短くした方がいいかもしれない。
「楽しいことが増えました」は、重いだろうか。
佐伯くんは、変に気を使うだろうか。
迷っていると、携帯が震えた。
小野さんからだった。
『カード書けた? 私はまだ杉浦くんのところで止まってる』
私は思わず笑ってしまった。
少し考えて、返事を打つ。
『私も少し迷ったよ。でも、ありがとうなら書けると思う』
送信してから、カードをもう一度見た。
ありがとうなら書ける。
そう送ったばかりなのに、私のカードには、ありがとう以外のものも少し混じっている気がした。
でも、もう消したくなかった。
私はカードを小さな袋の下に入れた。
見えすぎないように、でも取り出した時には気づいてもらえるように。
何度も位置を直して、最後に机の引き出しへしまう。
引き出しを閉めてから、また開けた。
袋の向きを確認する。
閉める。
また開ける。
自分でも少しおかしくなって、声を出さずに笑った。
明日になったら、もっと落ち着いているだろうか。
たぶん、あまり変わらない気がする。
私は引き出しをそっと閉め、両手で押さえた。
中にしまったのはチョコとカードだけのはずなのに、胸の中まで一緒に閉めたみたいで、しばらく手を離せなかった。




