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三十代社畜の俺、中二に戻って人生無双を始める 〜なお宝くじの番号は覚えていない〜  作者: らいお


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第六十六話「バレンタインの話を、聞こえないふりした」

 二月が近づくと、教室の空気が少しだけ落ち着かなくなった。

 受験生になるだとか、進路希望調査だとか、そういう重めの話をされたばかりなのに、中学生は切り替えが早い。

 黒板の端には次の小テストの範囲が書かれている。その横で、女子の何人かが小声で「チョコどうする?」と話していた。


 聞こえないふりをした。

 男子中学生として反応すると面倒なことになると、経験則で分かっていたからだ。


「悠真」


 田端が、やけに神妙な顔でこちらへ寄ってきた。

 こいつがこの顔をする時は、だいたいくだらない。


「何」

「今年、どう思う」

「主語どこいった」

「バレンタインだよ」

「ああ」

「ああ、じゃないだろ。重大イベントだぞ」


 田端は声をひそめているつもりらしいが、普通に聞こえる。

 隣の席の男子がちらっと見た。まあ、気持ちは分からなくもない。


 前の人生でのバレンタインは、会社の給湯室に置かれた箱入りのチョコを一つ取って、誰にお礼を言えばいいのか分からないまま「ありがとうございます」と空中へ向かって呟く行事だった。

 あれはあれで気を使うが、中学生のバレンタインはもっと直接的に胃に悪そうだ。


「田端、期待しすぎると当日しんどいぞ」

「なんでそんな大人みたいなこと言うんだよ」

「俺にも分からん」


 杉浦が鞄を机にかけながら、呆れたように笑った。


「田端、朝からうるさいぞ」

「杉浦は気にならないのか」

「別に」

「出た、別に」

「本当に別に」


 杉浦はそう言いながら、教室の前の方を一瞬だけ見た。

 小野が白石と話しているあたりだ。

 本人は自然にやったつもりだろうが、視線というのはわりと正直だ。田端は気づいていない。俺は気づいたが、言わない。


「杉浦くん、何か見てた?」


 背後から久住の声がした。

 杉浦の肩がほんの少し動いた。


「いや、別に」

「今日、別にって二回目」

「数えないでくれる?」

「気になっただけ」


 久住は淡々としている。

 その淡々さが、時々一番刺さる。田端は「久住さん、朝から鋭いな」と言っていたが、お前が鈍いだけだ。


 白石と小野もこちらへ来た。

 白石はいつものように教科書を抱えている。進路のことを話した翌日だからか、少しだけこちらを見てから、小さく会釈した。

 俺も軽く返す。

 田端が横でにやっとした。やめろ。


「何の話?」


 小野が聞くと、田端は待ってましたとばかりに背筋を伸ばした。


「バレンタインについての重要会議」

「田端くん、朝からそれ?」

「朝だからだよ。早めの準備が大事だろ」

「もらう側が何を準備するの」

「心」

「大きく出たね」


 小野が笑い、白石も口元を押さえた。

 白石がこうやって男子のくだらない会話で普通に笑うようになったのを見ると、少し安心する。

 前は、笑う前に周りを見ていた。

 今も完全に気にしないわけではないだろうが、それでも反応が先に出るようになった。いいことだ。たぶん。


「友チョコなら、別に普通じゃない?」


 小野が言った。

 言ってから、自分で少しだけ言葉を選び直すように視線を落とす。


「ほら、女子同士とか、いつものメンバーとか」

「いつものメンバー」


 田端がその言葉を噛みしめるように繰り返した。

 やめておけ。期待を口の中で転がすな。顔に出る。


「田端くん、そういうところがもらえなくなる原因だと思う」

「小野さん、厳しい」

「普通のこと言っただけ」


 杉浦が横で笑っていた。

 小野がそちらを見ると、杉浦はすぐに窓の外を見た。

 露骨ではない。露骨ではないが、見ているこっちは胃がむずがゆい。

 俺は机の中から英語のノートを出した。授業前に単語を見ているふりをする。大人になってから身につけた、面倒そうな場面で資料を見るふりの中学生版だ。


「佐伯くん」


 白石に呼ばれて、俺は顔を上げた。


「進路のノート、昨日少し書けた?」

「少しだけ。通学時間とか、費用とか」

「もう書いたんだ」

「父さんに書けって言われたから」

「佐伯くんのお父さん、ちゃんとしてるよね」

「俺からすると、ちゃんとしすぎて困る」


 白石は小さく笑った。

 その笑い方が、朝の教室のざわざわした音に紛れて、少しだけ近く感じた。


「今度、見せてね」

「うん。変だったら言って」

「変って」

「中学生が書くには重すぎるとか」

「それは……少し、見たいかも」


 白石は真面目な顔で言った。

 そこは否定してほしかった。いや、否定されても困る。実際、俺はたまに重い。


 チャイムが鳴り、話はいったん終わった。

 先生が入ってきて、教室はいつもの授業の顔になる。

 ただ、休み時間になるたびに、どこかでチョコだの包装だのという単語が聞こえた。

 黒板の小テスト範囲より、そっちの方がずっと強い。


◇ ◇ ◇


 昼休み、俺たちはいつものように机を寄せて弁当を食べていた。

 田端は午前中からバレンタインの話をしすぎて、小野に二回注意されている。二回で済んでいるのは、小野が優しいからだ。


「だからさ、友チョコって何個くらい用意するものなの?」


 田端が懲りずに聞いた。


「田端くん、それ聞いてどうするの」

「世の中の仕組みを知りたい」

「急に何言ってるのよ……」


 小野が箸で卵焼きをつまみながら言う。

 久住はお茶を飲んでから、あっさり口を開いた。


「人数によるんじゃない」

「久住さんは用意するの?」

「少し。女子同士と、部活でお世話になってる人くらい」

「部活かあ」


 田端が勝手に感心している横で、杉浦は黙って弁当を食べていた。

 小野がちらっと杉浦を見る。

 杉浦は気づいていないふりをしている。

 お前ら、もう少し隠すか、いっそ隠さないかのどちらかにしてくれ。半端が一番見ている側に悪い。


「澪は?」

「私は、まだ考えてる」

「このメンバーには?」

「うん。渡すなら、みんなにかなって」


 田端の箸が止まった。

 分かりやすすぎる。

 杉浦が肘で田端を軽くつついた。


「顔」

「分かってる」

「分かってない顔してる」


 白石は少し困ったように笑った。

 それでも、「やっぱりやめる」とは言わなかった。

 その小さな踏ん張りに気づいて、俺は少しだけ箸を止めた。


「みんなに、なら変じゃないよね」


 小野が言った。

 白石はうなずく。


「うん。そうかなって」

「そうだと思う」


 小野の声はいつもより少し強かった。

 たぶん、自分にも言っている。

 杉浦への分をどうするかで、頭の中が忙しいのだろう。分かる。いや、分かりたくない。中学生の恋愛未満を三十二歳が読みすぎるのは、なんかよくない。


「でも、予算は大事」


 久住が言った。


「それな」


 思わず俺も同意した。

 全員がこちらを見る。

 しまった。中身の生活感が出た。


「……いや、何でもない」

「佐伯くん、急に現実的」


 小野が笑う。


「中学生の財布は有限だからな」

「それはそうだね」


 白石も笑った。

 その笑顔につられて、俺も少しだけ肩の力が抜けた。


 昼休みの教室は、どこか浮ついていた。

 男子は聞いていないふりをしながら女子の会話を気にしているし、女子は男子が聞いているのを分かった上で、少し声を落としたり上げたりしている。

 面倒だが、嫌な面倒くささではない。

 会社の義理チョコより、ずっと不器用で、財布にも優しくなくて、見ている方が落ち着かない。


 弁当を片づけていると、榊原が近くを通った。

 その後ろには、いつもの女子が二人いる。

 榊原は白石の机の横で足を止めた。


「白石さんも、誰かに渡すの?」


 声は明るい。

 明るいが、余計なものが混じっている。

 俺はノートをしまう手を止めかけて、動かし続けた。ここで先に反応すると、また俺が前に出た形になる。


 白石は一度だけ指先を重ねた。

 そのあと、顔を上げる。


「うん。みんなに」


 短い返事だった。

 でも、声はちゃんと教室に残った。


「へえ。みんなに、なんだ」


 榊原は笑った。


「佐伯くんにも?」

「いつものメンバーには、渡そうかなって思ってる」


 白石はそこまで言って、小さく息を吸った。


「まだ、考えてるところだけど」


 逃げる感じではなかった。

 自分で決めようとしている声だった。


 小野が白石の隣で、何も言わずに弁当袋の紐を結んでいる。

 久住は榊原を見ていた。睨むわけではない。ただ、話を聞いている人の顔だ。

 田端は空気を読もうとして固まっている。杉浦は田端の袖を軽くつかんでいた。たぶん、余計なことを言うなという合図だ。


「……そっか。楽しそうだね」


 榊原はそれだけ言って、歩いていった。

 後ろの女子二人も続く。

 教室のざわめきはすぐに戻ったが、俺の耳には少しだけ白石の声が残っていた。


「大丈夫?」


 小野が小さく聞いた。


「うん」


 白石はうなずいた。


「ちょっとびっくりしたけど」

「澪、ちゃんと言えてたよ」

「ありがとう」


 白石は照れたように笑った。

 俺はその横顔を見て、すぐに視線を自分の机へ戻した。

 ここでじっと見るのはよくない。たぶん顔に出る。


「佐伯」


 杉浦が小声で呼んだ。


「何」

「田端がさっきから息止めてる」

「止めるな」

「いや、タイミングが分かんなくて」


 田端が情けない声を出した。

 久住が少しだけ笑う。


「田端くんは、黙ってる方が助かる時もあるね」

「今それ言う?」

「今だから」


 小野がこらえきれずに笑った。

 白石もつられて笑う。

 さっきの小さな棘が、そこで少しだけ丸くなった気がした。


◇ ◇ ◇


 放課後、昇降口へ向かう途中で、女子三人が廊下の端に集まっていた。

 小野が何かを言い、白石が真面目にうなずき、久住が「カードも見た方がいいかも」と言っている。

 聞こえないふりをした。

 今度は本当に、聞こえないふりをした方がいいやつだ。


「悠真、帰ろうぜ」


 田端に肩を叩かれる。


「ああ」

「なあ、友チョコってお返し必要?」

「必要だろ」

「やっぱり?」

「もらってから考えろ」


 田端は「それもそうか」と妙に納得した。

 俺は靴を履き替えながら、廊下の方を一度だけ見た。

 白石は小野と久住に挟まれて、少し困ったように、それでも楽しそうに話していた。

 その顔を見て、俺は鞄の紐を持ち直す。


 最近、聞こえないふりと見ていないふりばかり上手くなっている気がする。

 中学生の俺に必要な技能なのかは、かなり怪しい。


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▼登場人物まとめ

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