第六十五話「進路とお金は、家で話すと急に重くなる」
夕飯のあと、俺は進路希望調査の紙を食卓に出した。
風呂に入る前に済ませておいた方がいい。そう思ったのだが、いざ父さんの前へ置くと、紙一枚のくせに妙な存在感があった。
母さんは食器を流しへ運びながら、こちらをちらっと見た。
「それ、学校の?」
「進路希望調査」
「ああ、もうそんな時期なのね」
母さんの声は軽かったが、父さんは湯呑みを置いて紙を手に取った。
名前欄、第一希望、第二希望、第三希望。保護者記入欄のあたりで、父さんの眉が少し動く。
「進路か」
「うん。まだ提出は先だけど」
「株より先に進路だな」
出た。
予想通りすぎて、こっちが先にため息をつきそうになった。
父さんの中で、最近の俺はたぶん「株をやりたい中学生」に分類されている。まあ、間違ってはいない。間違ってはいないのだが、その箱に入れられると少しだけ居心地が悪い。
「分かってるよ」
「本当に分かってるか?」
「一応」
「一応、が一番あやしいな」
父さんは紙をテーブルに戻し、腕を組んだ。
怒っている顔ではない。面倒な話を、逃げずにする時の顔だった。
俺は椅子に座り直した。中学生の身体だと、こういう時に背筋だけよく見せてもあまり迫力がない。せいぜい、宿題を忘れていない生徒くらいだ。
「高校は、何となくで書くものじゃないぞ」
「うん」
「成績で行けそうだから、とか、近いから、とか。それも大事だけどな」
「近いのは大事だと思う」
「大事だ。毎日通うんだからな。でも、それだけで決めるなら、この紙をわざわざ家に持って帰る意味がない」
正論だった。
こういう時の父さんは、やたら面倒くさい。普段はテレビを見ながら煎餅を食べている普通の父親なのに、急に逃げ道をふさいでくる。
母さんが台所から戻ってきて、麦茶を置いた。
「こら、お父さん。急に重くしないの」
「軽く考えたら困るだろ」
「それはそうだけど。悠真も、ちゃんと見せに来たんだから」
母さんの助け船はありがたい。
ありがたいが、父さんの視線は紙から動かなかった。
「お前、最近はパソコンも使ってる。小遣い表もつけてる。会社のこともノートに書いている」
「うん」
「そこまではいい。父さんも、調べることまでは止めてない」
「分かってる」
「でも、進路も成績も生活もぐちゃぐちゃで、金の勉強だけしたいと言われたら、父さんは許可できない」
父さんは湯呑みを少し指で回した。
中身はほとんど残っていないのに、すぐには飲み切らない。
「順番の問題だ」
言い返す材料がない。
こういうのが一番嫌だ。怒鳴られるより、淡々と正しいことを言われる方が逃げにくい。
前の人生で、俺は順番をだいぶ間違えた。
会社に入ってから、自分がどんな働き方をしたいのか考えた。残業が続いてから、生活を守る金の大事さを思い知った。辞めたいと思ってから、辞めるにも貯金と信用がいると気づいた。
遅い。全部、遅い。
帰って飯を食って、風呂に入って、寝て、また会社へ行く。あの頃の俺は、考える時間すら仕事に削られていた気がする。今思うと、そこまでいく前に手を打てよと自分に言いたくなる。
言ったところで、過去の俺はたぶん聞かない。疲れている人間は、正論より布団がほしい。
「悠真?」
母さんに呼ばれて、俺は顔を上げた。
少し黙り込んでいたらしい。
「いや。なんでもない」
「……なんでもない顔じゃなかったぞ」
父さんに言われ、俺は頭をかいた。
未来の話はできない。前の人生で会社員としてすり減った話もできない。
中学生の息子が急にそんなことを言い出したら、進路より先に病院の話になる。
「将来、仕事で困らないようにしたいんだよ」
口に出すと、思ったよりも地味な言葉になった。
もっと格好よく言えるかと思ったが、俺の中身が社畜なので仕方ない。夢とか希望とか、そういう眩しい単語は少し口の中で滑る。
「困らないように?」
「うん。働くところを選べるようにしたいというか。何も考えずに進んで、あとで後悔するのは嫌だなって」
父さんはすぐには返事をしなかった。
母さんも口を挟まなかった。
食卓の上で、進路希望調査の紙だけがやけに白い。
「それなら……進路は大事だな」
父さんはそう言って、紙の第一希望欄を指で軽く叩いた。
「高校は三年間通う場所だ。大学へ行くのか、専門へ行くのか、就職を考えるのか。まだ決めきれなくても、先へつながる場所ではある」
「うん」
「それに、金もかかる」
「そこも?」
「当たり前だろ。公立か私立か。電車を使うのか。部活でどれくらい必要か。参考書だってただじゃない」
言われてみればそうだ。
中学生の感覚だと、進路は偏差値や校風に寄りがちだが、親からすれば金の話も当然入る。
高校に行くのは俺でも、財布を開くのは親だ。
ここを忘れると、いくら会社ノートを綺麗に作ってもただの背伸びになる。
「高校も、調べてノートにしたらどうだ。会社のことを書いてるだろ。あれと同じでいい」
「なるほど、高校版の会社ノートか」
「変な言い方をするな。通学時間、費用、校風、部活、進学先。分かる範囲で書く。分からないところは分からないと書く」
父さんはそこで少しだけ口元を緩めた。
「買いたい会社を調べる前に、行きたい高校を調べる方が中学生らしい」
「それはまあ、そうだけど」
「不満か?」
「いや、正しすぎて嫌なだけ」
母さんが小さく笑った。
父さんも少しだけ笑ったが、すぐに真面目な顔へ戻った。
「白石さんには見てもらうのか」
麦茶を飲もうとしていた俺は、少しむせかけた。
「なんでそこで白石が出るんだよ」
「この前の会社のノートも、白石さんに見てもらったんだろ」
「それは、説明が分かりやすいか見てもらっただけで」
「今回も見てもらえばいい。お前は一人で考えると、たまに妙なところで背伸びする」
否定したかったが、思い当たる節が多すぎた。
未来知識を持っているせいで、俺は時々、中学生が言うには重すぎる言葉を選んでしまう。白石はそこを、責めずにそっと直してくれる。
父さんにまで見抜かれているのは、ちょっと嫌だ。
「白石さん、しっかりしてるものね」
母さんまで参戦してきた。
やめてほしい。家族に友達の評価をされるのは、どうにもむずがゆい。
「まあ、しっかりはしてる」
「悠真より?」
「比べるなよ」
「でも、そういう友達がいるのはいいことよ」
母さんはそれだけ言って、食器を片づけに戻った。
父さんは進路希望調査の紙を俺の方へ滑らせる。
「まずは高校を三つくらい調べてみろ。第一希望を書けるほどじゃなくていい」
「三つ」
「近いところ、少し上を目指すところ、現実的なところ。そういう分け方でもいい」
「分かった」
「それから、成績が落ちたらパソコンは没収だからな」
「そこに戻るのか」
「戻る。大事だからな」
父さんは普通の顔で言った。
この人はこういうところを絶対に忘れない。
会社なら、週次会議で毎回同じ注意事項を言うタイプだ。部下だったら面倒だが、親としてはたぶん正しい。いや、やっぱり少し面倒だ。
「……株のことも、完全にやめろとは言わない」
父さんはそこで声を少し落とした。
「ただ、焦るな。お前はまだ中学生だ。今すぐ買えなくても、調べたことは無駄にならない」
「うん」
「親に隠れてやらない。それだけは守れ」
「分かってる」
父さんの言葉は、リーマンショックのあとを知っている親の言葉だった。
儲かるかもしれない話より、失うかもしれない話が先に来る。
前なら、うるさいと思ったかもしれない。
今は、まあ、うるさいと思いつつも分かる。俺も三十二歳まで生きて、金の怖さは少し見た。給料日までの残高を確認する時のあの嫌な感じは、中学生に戻っても身体のどこかに残っている。
俺は進路希望調査の紙をクリアファイルに戻した。
「高校、調べるよ」
「そうしろ」
「白石にも、見てもらう」
「その方がいい」
父さんはそこで、妙に納得した顔をした。
俺は何か言い返そうとして、やめた。
白石に見てもらった方がいいのは、俺も分かっている。
父親にまでそれを言われると、素直にうなずきにくいだけだ。
◇ ◇ ◇
部屋に戻ってから、俺は机の上を少し片づけた。
会社ノートを左に置き、小遣い表をその横へ出す。進路希望調査は、折れないようにクリアファイルごと置いた。
中古のパソコンは机の奥にある。起動すれば高校のホームページを調べられる。電車の時間も、学費の目安も、たぶん出てくる。
でも、父さんに言われた通り、まずは手で書くことにした。
人に見せるためのノートは、綺麗さよりも、自分がどこで迷っているかが残っている方がいい。仕事で作った資料だって、最初のメモはだいたい汚かった。上司に見せる直前だけ整える。今思うと、その直前が一番しんどい。
新しいページに「高校調査」と書いたところで、机の端に置いたガラケーが震えた。
白石からだった。
『進路のこと、少し考えてみた?』
短いメールなのに、画面を見た瞬間、食卓で父さんに言われたことが戻ってきた。
白石に見てもらえばいい。
その方が背伸びが減る。
父さんの声で再生されるのが、なんか腹立つ。
俺は返信画面を開いた。
『今、父さんと話してた。高校のこともノートにまとめてみる。よかったら、今度見てほしい』
そこまで打って、少しだけ迷った。
よかったら、が固い。いや、中学生男子がここで急に砕けすぎるのも変だ。
結局、そのまま送った。
数分後、返事が来た。
『うん。私でよければ』
画面の文字はそれだけだった。
それだけなのに、机の上の紙が少しだけ見やすくなった気がした。
俺はシャーペンを持ち直し、まず「通学時間」と書いた。
その下に「家から無理なく通えるか」と続ける。
やることがまた増えた。
正直、面倒だ。
けれど、前の人生で後回しにしたものを、今さら一つずつ拾っているのだと思えば、まあ仕方ない。
俺は小さく息を吐いて、二つ目の項目を書き始めた。
進路の話は、親にはしにくいですよね。
作者はマジで嫌でした




