第六十四話「進路希望調査は、人生設計の一枚目だった」
進路希望調査の紙は、昼休みになっても机の端に置いたままだった。
提出はまだ先だ。高村先生も、今日中に書けとは言っていない。
名前を書く欄の下に、第一希望、第二希望、第三希望、そして保護者記入欄が並んでいる。
薄いし、軽い。鞄の奥に入れたら、田端の数学プリントみたいに曲がる程度の紙だ。
それでも、そこに書く高校名ひとつで、この先の時間の使い方が変わる。
前の人生で、俺はそのあたりをかなり雑にやった。
成績で行けそうで、家から通えて、親や先生に反対されにくいところ。そんな感じで流されて、気づいたら三十二歳で残業続きの会社員になっていた。高校を一つ選び間違えただけで人生全部がそうなった、なんて単純な話ではない。
ただ、最初から何も考えずに流れる癖は、たぶんあの頃からずっとあった。
「悠真、見すぎじゃね?」
田端が弁当箱を開けながら言った。
「何を」
「進路の紙」
「見てたか?」
「めっちゃ見てた。にらめっこして勝てる紙じゃないぞ」
「お前はまず曲げずに持って帰れ」
田端の進路希望調査は、すでに端が少し折れていた。
早い。まだ配られてから数時間しか経っていない。
小野が弁当を持ってこちらへ来る。
白石と久住も一緒だった。最近はこの流れがずいぶん自然になった。誰が誰を呼んだのか分からないまま、昼休みになると机が寄る。
「田端くん、もう折ったの?」
「事故だ」
「鞄に入れただけでしょ」
「それを事故と言う」
「言わないと思う」
小野が呆れ、久住が田端の紙を一瞥した。
「進路より先に、紙の保管方法を考えた方がいいかも」
「久住さん、そこから?」
「大事だと思う」
田端は何か言い返そうとして、折れた角を見て黙った。
勝てないと判断したらしい。そういう見切りは早い。
杉浦も少し遅れて椅子を持ってきた。
部活の予定表を鞄にしまいながら、進路希望調査を机に置く。
「これ、何書けばいいんだろうな」
「杉浦も分かんない?」
「全然。部活続けられるところがいいな、くらい」
その言葉に、小野が少しだけ顔を上げた。
「サッカー、続けたいんだ」
「まあ、今のところは」
「高校でも?」
「行けるなら。強すぎるところだと無理だけど」
杉浦は照れたように笑って、弁当のふたを開けた。
小野は「そっか」とだけ言ったが、声が少しやわらかかった。
田端は気づいていない。久住はたぶん気づいている。俺は気づかないふりをした。
この前から、気づかないふりをする案件が増えている。役に立つ場面が地味に多くて嫌になる。
「田端くんは?」
白石が聞いた。
「俺?」
「うん。どんな高校がいいとか」
「近いところ」
「近さは大事だけど」
「あと購買がうまそうなところ」
「田端くん」
小野の声が少し低くなった。
「いや、毎日行くんだぞ。購買は大事だろ」
「でも第一希望に『購買がうまい』って書けないよ」
「書いたら先生、どうするかな」
「呼び出されると思う」
白石が小さく笑った。
久住も、口元だけ少し動かした。
田端の雑さは、たまに本当に助かる。重い話に余計なところから穴を開けてくれる。
ただ、田端の言っていることが全部間違いかと言えば、そうでもない。
近さは大事だ。
通学に時間を取られれば、勉強も、部活も、家で調べ物をする時間も削られる。俺の場合は、会社ノートや小遣い表、パソコンの使用時間まで絡んでくる。
前の人生では、通勤時間の長さだけで気力が削れていくことを知った。会社に着く前から疲れている毎日は、控えめに言ってしんどい。
中学生の進路で、いきなり通勤の話を思い出すなとは思う。
「白石さんは?」
杉浦が聞いた。
白石は箸を止めて、進路希望調査の紙を見た。
「まだ、全然」
「意外」
田端が言うと、白石は少し困ったように笑った。
「意外かな」
「白石さん、ちゃんと考えてそうじゃん」
「考えなきゃとは思うんだけど、どこに行きたいかって言われると、よく分からなくて」
その声は、いつもより少し小さかった。
白石は紙の端を指で押さえている。強く握っているわけではない。けれど、離したくないものを確かめるような手つきだった。
白石にとって、今の教室はようやく息ができる場所になったばかりだ。
小野がいて、久住がいて、田端が騒いで、杉浦が横から軽口を入れる。俺もいる。その輪ができてから、まだそんなに時間は経っていない。
なのに、次の場所を考えろと言われるのだから、そりゃ怖いだろ、と思った。
「別に、今日決めなくていいんじゃない?」
小野が言った。
「先生も、まだ先って言ってたし」
「うん」
「でも、調べるのはした方がいいかも」
久住が弁当の卵焼きを箸で切りながら言った。
「書けないなら、調べるしかないし」
「久住さんはもう調べるの?」
「少しだけ。近いところと、電車で行けるところくらい」
「ちゃんとしてる」
「紙に何も書けない方が落ち着かないだけ」
久住らしい。
感情を大きく見せないが、足元を確認するのは早い。
書けないなら、調べるしかない。
その言葉で、会社ノートのことを思い出した。
曖昧な未来知識を父さんに説明できる形にするために、俺は会社名や根拠をノートに書いた。
高校も同じなのかもしれない。偏差値だけではなく、通学時間、校風、部活、進学実績、費用くらいは見ておいた方がいい。
金を増やしたいし、白石が安心して学校にいられる未来も守りたい。親には信用されたいし、前みたいに帰って寝るだけの大人にもなりたくない。
頭の中ではいろいろ浮かぶのに、進路希望調査の紙には何も書けない。
情けないが、これが現実だ。未来を知っているつもりでも、志望校欄は勝手に埋まらない。
「佐伯くんは?」
白石がこちらを見た。
「俺?」
「うん。佐伯くんは、先のことを考えるの得意そう」
得意そう。
その言葉に、思わず変な笑いが出そうになった。
得意なら、前の人生であんなに疲れていない。机に突っ伏して、そのまま中学時代に戻るなんて訳の分からないことにもなっていない。
俺は先のことを考えるのが得意だったわけじゃない。
考えなかった結果を、一度食らっているだけだ。
「得意じゃないよ」
俺が言うと、白石は少し意外そうにした。
「そうなの?」
「たぶん、失敗したくないだけ」
「失敗?」
「いや、ほら。適当に選ぶと、あとで面倒になりそうだろ」
ごまかし方が雑だった。
でも、嘘ではない。
田端が唐揚げを口に入れながらうなずく。
「分かる。遠い高校とか朝つらい」
「田端くん、そこに戻るんだ」
「朝は大事だぞ、小野さん」
「それは分かるけど」
小野が笑い、杉浦も「朝練あると地獄だしな」と言った。
話題が少し軽くなる。
白石はまだ紙を見ていた。
分からない、と言えるようになっただけでも、たぶん前進なのだろう。
「白石さん、家の人とは話す?」
小野が聞いた。
「うん。話すと思う。でも、何を聞けばいいか分からないかも」
「それこそ、通える場所とかじゃない?」
「あと、校風とか」
杉浦が言うと、田端が首をかしげた。
「校風って何」
「学校の雰囲気とか、厳しいとか、自由とか」
「なるほど。購買がうまいとか」
「田端、それは校風じゃない」
杉浦のツッコミに、久住が小さく笑った。
「でも、毎日いる場所の雰囲気は大事だと思う」
白石がぽつりと言った。
その一言で、少しだけ空気が落ち着いた。
毎日いる場所。
白石がそれを言うと、重みが少し変わる。
榊原の件があった教室で、それでも白石はここに残った。けれど、次の学校でも同じようにうまくいく保証はない。
俺はふと、進路希望調査の紙を見た。
高校選びは、俺一人の点数や通学時間だけの話ではない。誰とどこで過ごすか、どんな場所なら白石が自分の声をしまい込まずに済むのか。
でも、軽く扱って前と同じになるのはもっと嫌だ。
「じゃあ、まず調べるか」
俺が言うと、田端が箸を止めた。
「何を?」
「高校」
「全部?」
「全部は無理だろ。近いところから」
「佐伯、やる気だ」
杉浦が少し笑った。
「会社ノートみたいにするの?」
白石が聞いた。
俺は一瞬だけ詰まった。
会社ノートのことを白石が覚えているのは当然だ。むしろ、あれを見てもらったから父さんにも通った。
「そこまで大げさじゃなくていいと思うけど」
「でも、書いた方が分かりやすいかも」
「白石さん、佐伯をさらに真面目にする気?」
田端が言う。
白石は少し慌てた。
「そういうつもりじゃ」
「田端くんが真面目にしなさすぎるだけだと思う」
小野がさらっと刺した。
田端は「俺もやる時はやる」と言ったが、説得力はあまりなかった。
俺は進路希望調査の紙を折らないように、ノートの間へ挟んだ。
会社ノート、小遣い表、パソコンの使用記録。そこに高校調査まで増える。中学生の鞄に入れるには、やたら現実が重い。
午後の授業は、進路希望調査のせいで少し落ち着かなかった。
数学の板書を写しながら高校名をいくつか思い浮かべたが、偏差値も校風もうろ覚えだ。未来知識は、こういうところで急に役に立たない。
宝くじの番号を覚えていない男が、地元高校の細かい情報を覚えているわけがない。
放課後、帰り支度をしていると、白石が机の横に来た。
手には進路希望調査の紙がある。折れないように、クリアファイルに入れていた。
田端に見せてやりたい。いや、見せても田端はたぶん次の日には折る。
「佐伯くん」
「ん?」
白石は少し迷ってから、紙の端を指で押さえた。
「また少し、一緒に考えてもいい?」
声は小さかったが、逃げるような小ささではなかった。
「私、自分だけだと、何から考えればいいか分からなくなりそうで」
軽く「いいよ」と返そうとして、昼休みに考えたことが戻ってきた。
白石がどこで過ごすか。俺はどこへ進むか。
今すぐ決まるわけではないし、そんな話を白石にするつもりもない。
でも、この紙はただの学校プリントではないのだと、もう気づいてしまった。
「いいよ」
少し遅れて、俺は答えた。
「俺も、一人だと変な方向に考えすぎるし」
「変な方向?」
「購買のうまさを評価項目に入れるとか」
白石は一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。
「それは田端くんだと思う」
「俺も疲れるとそっちへ行くかもしれない」
「じゃあ、止めるね」
その言い方が、妙に自然だった。
進路希望調査の紙を鞄に入れる。
薄いのに、重い。
面倒な紙だ。
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▼登場人物まとめ
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